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マルチヌーの「カンタータ花束 KYTICE 」 H.260 (1/2)

花束

モラヴィア、ボヘミア民俗詩による“独唱、混声と児童合唱、小オーケストラのための”このカンタータは、1937年6月21日までに7曲までがパリで書かれ、夏休みは珍しく帰郷せず、8曲目は独立したものとして9月26日に完成されたこれはプラハ放送の委嘱作品で、画家ズルザヴィー(1890~19777)から贈られた「よきサマリアびと」(ルカ伝 10章35~37)⇒への返礼として、彼に献呈された。1938年4月5日、イェレミアーシ指揮する放送交響楽団、独奏者J・ヴィルドヴァー、M・ツィテラ-コヴァー、Bブラフト、J・ヘロルト、チェコ合唱団、キューン児童合唱団によりラジオ放送され、公開演奏は1955年3月13日、アンチェアル指揮チェコ・フィルが行った。

全8曲は、間奏をはさみ2曲づつ対をなす小カンタータの連鎖で、ソプラノ、アルト、テノール、バス独唱、合唱、児童合唱。
楽器編成は2320-2210、イングリッシュ・ホルン、ハルモニウム、2台ピアノ、弦10も含め、25~29名という小規模なもので、ストラヴィーンスキイの『結婚』を意識している。

第1部:
1.前奏曲:
モデラート、ニ短調、3/2~2/2拍子。中間部に2台ピアノついで弦のみの上向パッセージをはさむ三部形式。

2.毒を盛る姉:
アレグロ、変ロ短調~ニ長調、2/4拍子。スシル収集モラヴィア民謡集(以下S.)354番による。槍騎兵に“いっしょに来ないか”と誘われた娘ウリアナ(ソプラノ・ソロ)が、芝刈から帰ってきた弟を毒殺するが、弟の葬式の日に逮捕される。
オーケストラ、合唱、ソロまたは複数ソロが交代で現れ、ホルン持続音の上でオーボエ・ソロ(モデラート)が入る。独唱、合唱のメノ・モッソ、ピウ・ヴィヴォを経て、テンポ1で冒頭部分がくり返される(姉弟関係は、若妻・夫とも解釈できる)。

3.牧歌:
アンダンテ・ポコ・モデラート、ハ長調、3/4拍子。トリオ(ポコ・アレグレット、ヘ長調、6/8拍子)をはさむ、ダ・カーポ三部形式のきわめて叙情的な曲で、シャブリエの「牧歌」やフォーレの「ドリー」の雰囲気を感じさせる。

4.牛飼(追)い娘の呼びかけ声:
モデラート~アレグレット・モデラート、5/8~3/4~2/4拍子。牛飼い娘(ソプラノとアルト独唱)が、谷をはさんで、ア・カペラで「エイ、ホヤ!」とヨーデル調で呼びかけ合い、合唱がこだまを返す。時折入る伴奏ではヴィオラが目立つ。

5.間奏曲Intráda:
モルト・モデラート、変ホ長調、3/4拍子。3拍目にアクセントのある管楽器主体の短い行進曲。

6.家族に勝る恋人:
モデラート~ポコ・アレグロ、ト短調~ハ長調、3/4拍子。合唱がナレーション役。3年以上もトルコの牢獄に捕われている若者(テノール)が、父(バス)、母(アルト)、兄や姉(合唱)に“身代金を払って助けてくれ”と願うが、彼らにはその金がない。若者が恋人に頼む(奔馬調伴奏)と、彼女(ソプラノ)は獄舎の窓の外から絹の紐を垂らし彼を救う。S.829番の歌詞により、イングリシュ・ホルンが嘆きの調べを奏でる。最後は二人を祝福するかのように、第5曲の行進曲が高らかに鳴り響く。

第2部:
7.コレダ(クリスマス・キャロル):
モデラート~ポコ・ヴィーヴァーチェ、ト長調の前奏についで、ポコ・アレグロ、ト短調~イ長調、2/4拍子の児童合唱がはじまる。作り物の蛇(悪魔)を手に子供たちが家々を回りお布施をもらう。歌詞はエルベン民謡集621番「神様が天国に向かう」と、S.80~82番「アダムとイヴ」をつなげたもの。ボヘミアでは結婚式に、スロヴァキアではクリスマスから新年にかけ歌われる。児童合唱に終始し、木管がクリスマスの雰囲気を醸し出している。

8.男と死:
歌詞はS.22~24番「死」による。
1)アダージョ、ロ短調~イ短調、4/4拍子:ティンパニが轟き、ピアノの16分音符とともにリズムを刻む。イングリシュ・ホルンの悲歌から、2台ピアノ・ユニゾンとなる。
2)アンダンテ・ポコ・モデラート:変イ長調、4/4~3/4拍子。ほぼア・カペラのアルト独唱「一人の男がいた・・」を合唱が後づける。
3)ポコ・モデラート:変ロ長調~へ長調、3/2~2/2拍子。男(バス)が満足げに自分の畑を見まわし、合唱が後づける。
4)レント:ピアノの刻む不協和音進行を背景に、アルト、バス独唱(のちにソプラノ、テノール独唱も加わる)と合唱がユニゾンで、「彼は死神に出会った・・」と歌う。
5)バス独唱のポコ・モデラート、変ロ短調、5/4の短いパッセージから、モデラート、嬰ハ短調、3/4拍子の合奏部分を経て、ヘ長調(ニ短調)、4/4~3/4拍子で、死神(ソプラノ、アルト独唱)と、男(バス)の対話が続く。
6)ポコ・アレグロ:ピアノを主体とし器楽パッセ-ジについで、ポコ・ヴィヴォ:男声のみの独唱と合唱がユニゾンで、女声のみの独唱と合唱が、美田や若い妻や息子を残してゆかねばならぬ、と訴える男を彼岸へ誘う。
7)アンダンテ:死神の放った矢が男に当たる。ヴィオラ独奏につい独唱と合唱がで、人は死を免れないと歌い、オーケストラは半音づつ下降する和音進行ののち、ハ長調主和音に終止する。


[ 2014/06/22 12:53 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)

「聖夜=きよしこの夜 Stille Nacht, heilige Nacht」

1818年12月24日、ザルツブルク北西の村オーベルンドルフOberndorf bei Salzburgの聖ニコラス教会に着任ほどないモール司祭は、隣村アンスドルフにグルーバーを訪ね、2年前マリアファル村(ザルツブルク東南約80km)教区で書いておいた“聖夜Stille Nacht”の詞を渡し、独唱2声と合唱用讃美歌の作曲を依頼した。数日前に教会のオルガンが故障し、修理が間に合わなかったのでギター伴奏にしてもらった。グルーバーは即座に曲づけし、当日深夜のミサで、モールがギターを弾きながらテノールを、グルーバーがバスを歌い、教会附合唱団が混声4部で最終数小節をくり返した。

ここのオルガン修理をまかされていたのは、チロル地方フューゲン南隣、カフィング村のカール・マウラハーで、この歌を筆写して持ち帰り、故郷で歌い広めたから、のちにはチロル民謡として近隣で有名になった。彼は1824年にオーベルンドルフの古いオルガンを新品に取り換えた。同じくチロル地方の歌手ライナー一家は、1822年にヒューゲン城で、皇帝フランツII世と、ロシア皇帝アレキサンドルI世の御前で、この歌を披露し、1839年にはニューヨークの三位一体教会で歌った。チロルの手袋職人シュトラッサーも、兄弟一家と毎年ドイツの歳の市に出かけ、1826年には民謡で屋台に人々を惹きつけ、プライセンブルクのザクセン宮廷にも登場し、1932年12月15日ライプツィヒの演奏会では「聖夜」も歌った。1830年代には歌詞を変えた様々な歌集が出版され、1833年頃ドレスデンとライプツィッヒで、4巻のチロル民謡集(独唱、ピアノまたはギター伴奏)が出た。

1854年暮「聖夜」の作者を、ミハエル・ハイドンと思っていたベルリン宮廷楽団は、本当の作曲者がグルーバーだと確認した。こうしてこの歌は、チロル、ドイツ、アメリカへと伝わり、その後さまざまに編曲、翻訳され(英訳は1861年)世界中に広まった。

オーベルンドルフの聖ニコラス教会は、1899年の洪水で破損し、1906/ 13年の間にとり壊され(新しい聖ニコラス教会が別の場所に建つのは1906年になってから)、その跡には1924/ 37年の間に「モール・グルーバー記念礼拝堂」が建てられた。

「聖夜」冒頭の旋律は、グル―バー生地の民謡「Geh i hinaus zu an schen Hausここから美しい家へ行け」と同じと言われている。この歌はニ長調、6/ 8拍子で6番まであるが、ふつう1, 2, 6番だけが歌われる。自筆譜は残っていないが、1836年12月12日の写譜は変ホ長調となっており、1845年にはヴァイオリン2、チェロ、ニ調ホルン、オルガン、ソプラノ、テノール用に編曲され、ザルツブルクのCarolino Augusteum博物館所蔵の楽譜は、ニ長調、6/8拍子となっている。

この歌はその後ドラマ化され、ジングシュピールとしても上演された。1950年代には戦闘や雪崩の場面も入れ、自由に翻案した映画「Das unsterbliche Lied不滅の歌」が作られ、1988年にはチェコとスコットランドのEdinburgh Film and Video Production共作のテレビ番組「静かなネズミTychá myš」が、チェコとオーストリアで放映された。

*****

グルーバー Conrad Franz Xaver Gruber(1787~1863):
教師、ヴァイオリニスト、チェンバロ奏者、オルガニスト、合唱長、作曲家のグルーバーは、1787年11月25日、ウンターワイツベルクUnterweitzbergに、6人兄弟の第3子として生まれた。母アンナ・ダンナー(1747~95)は農家の娘で、麻布業者の父ヨゼフ(1739~1815)は、フランツ少年を、貧しいながら安定した職業の織物業者にしたかった。だが少年は音楽に走り、ひそかに地元の教師・オルガニストのアンドレアス・ペーターレヒナーに、ヴァイオリン、オルガンと作曲を学んでいた。12歳の時、両親も列席しているミサで、急病の先生の代役を務め、父も軟化し音楽の道を許してくれた。彼は18歳まで家業を手伝い、1805年にブルクハウゼンの教区教会オルガニスト・ゲオルグ・ハルトドブラーのもとへ赴き、ミサの折のオルガン演奏で腕を磨いたが、滞在はわずか3ヶ月だった。

1806年から07年までアルンスドルフ村で、教師、オルガニストを務め、7月6日にラムプレヒツハウゼン村の、13歳年上の未亡人エリーザベト・フィッシンガー(1774~1825)と結婚、生まれた二人の娘は夭折した。彼女の死後グルーバーは2回結婚し、最初の再婚相手マリエ・ブライトフスとの間に12人の子をもうけた。1816/ 29年の間オーベルンドルフで、教師、聖ニコラス教会オルガニストを務めた。1835年に教職を辞し、ハラインHalleinの教区教会合唱長、オルガニストとなり、そこで余生を送り1863年6月7日に歿した。当時楽才豊かな4人の子供が存命しており、とくにフランツ・グザヴェル(1826~71)とフェリックス(1840~84)が秀でていた。ハライン市立博物館には遺品の家具やピアノ、モールのギターなどが収められており、ミサ曲など聖俗合わせ約100曲の手稿は、当地Stille-Heiligeアーカイヴに、「聖夜」に関する資料はオーベルンドルフの郷土史館Heimatmuseumに展示されている。

モール Josef Franz Matthias Mohr(1792~1848):
神父、詩人、音楽家、ギター奏者のモールは、1792年12月11日ザルツブルクに生れた。父ヨゼフはマリアファル近村シュトラナッハ出の農夫だったが、軍隊に志願して司教付銃兵となり、ザルツブルク出の貧しいお針子アンナ・ショイバーと結婚したが、遠い戦地に赴いた後、姿を消してしまった。残された一家の暮しは苦しく、フランツ少年の面倒をみたのは聖堂助祭のJ・N・ヒールンレだった。モールは彼の援助で、ザルツブルクのギムナジウムや、上オーストリアはクレムスミュンスターのベネディクト修道院学校、最後にはザルツブルクの司教神学校で学ぶことができ、その間に音楽とくに歌や種々の楽器、中でもギター演奏を習得した。

1815年8月21日,助祭に任じられ、ベルヒテスガーデン近在のラムザウで短期間務め、1815-17の間マリアファルで助手をしていた。しかし.健康を害してザルツブルクに戻り、1817/ 19年の間オーベルンドルフで、J・ケスラーとG・H・ネストラー司祭の助手を務め、グルーバーと知り合う。その後ザルツブルク管区のクフル、ゴリング、ヴィガウン、アドネト、アンテリングなど、10ヶ村で任にあたった。1827年にはじめて独りで任された、ヒンターゼー教区で10年過ごし、その後、転任したワグラインで、1848年12月8日に肺炎で歿した。モール・グルーバー共作の「テ・デウム」も当地Waggerl博物館で聴ける。

世界的に名声を馳せた「聖夜」から二人は、金銭的な報酬も名誉も受けることなく、生涯、慈善事業に尽くしたモールの生活はつましく、グルーバーが自分の家を持てたのは最晩年だった。

文献:
1)Karl Weimmann:Stille Nacht, Heilige Nacht! Řezno, 1918, 1920.
2)Josef Gassner :Franz Xaver Grubers Autographen von Stille Nacht, heilig Nacht, mit der Geschichte des Lirders, Oberndorf an der Salzach 1968
3)Max Gehmacher:Stille Nacht, Heilige Nacht!
Das Weihnachtslied – wie es entstand und wie es wirklich ist, Salzburk 1937/ 1968

Stille Nacht.info

[ 2013/12/11 20:33 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)

1.大オーケストラ作品

1.大オーケストラ作品

オペラ、バレエ組曲は別として、M.のオーケストラ曲は40を数える。『収穫祭』(1907年)に始り、『過ぎ行く夜半』(20~22)に終る第1期の9曲は、フランス近代音楽の影響の強いものである。

1940年までの第2期、フランス時代の20年代には、『ハーフ・タイム』(24年)に代表されるように、ストラヴィーンスキイやジャズの手法を駆使した、モダニズムの傾向が強く、30年代に入ると新古典様式と、チェコのンフォークロアを用い、代表作「コンチェルト・グロッソ」(37年)や『二重協奏曲』(38年)をはじめ、室内楽の編曲も含め16曲を書いている。

第3期のアメリカ時代(41~53年春)の10作品は、6曲の交響曲に見られるように、精巧なオーケストレーションによる、重厚で円熟したものであるが、頭部外傷後の後半の作品には、ハイドン風の軽妙さも出ている。
それ以後の6年間の第4期の5曲は、幻想的な新印象派的作風で、望郷の念に満ちた心温まるものである。なお交響曲中3,5,6番は3楽章形式で書かれており、『フランチェスカのフレスコ画』(55年)、『寓話』『版画』を、第7,8,9交響曲とみなすこともできる。

交響曲第1番 H.289, 1942(4楽章)
交響曲第2番 H.295, 1943(3楽章)
交響曲第3番 H.299, 1944(3楽章)
交響曲第4番 H.305, 1945(4楽章)
交響曲第5番 H.310, 1946(3楽章)
交響曲第6番 H.343, 1953(3楽章)
1楽章の交響曲H.45, 1913/ 14
バラッド「海辺の館」H.97, 1915(交響的舞曲第4番)
過去への夢Sen o minulosti H.124, 1920
過ぎ行く夜半Míjející půlnoc H.131, 1922(3つの交響詩)
ハーフ・タイムH.142, 1924(ロンド)
ラ・バガール(アレグロ)La Bagarre H.155, 1926
ジャズH.168, 1928(1楽章、アレグロ・モデラート)
狂詩曲 H.171, 1929(アレグロ)
シンフォニア・コンチェルタンテ(2 orch.)H.219, 1932
インヴェンション H.234, 1934(3部)
リヂツェ追悼曲Památník Lidicím H.296, 1943
戦闘機サンダーボルト H.309, 1945(スケルツォ)
インテルメッゾH.330, 1950
序曲H.345, 1953
フランチェスカのフレス画H.352, 1955(3楽章)
岩Skála H.363, 1957
寓話Paraboly H.367, 1957/ 58(3楽章)
版画Rytiny H.369, 1958(3楽章)

1.交響曲
Mは1913年から14年にかけ故郷のポリチカで、後期ロマン風の「1楽章の交響曲」H.90(約9分)を書いているが、実際に交響曲といえる作品に手を染めたのは、50歳になってからだった。それらは1942年から46年まで、毎年1曲づつのペースで第5番まで書かれていったが、46年夏の事故で中断してしまう。したがって第6番の完成はづっと後の1953年に持ち越された。

ハルプライヒは各交響曲を、1番:叙事詩的、2番:牧歌的、3番:悲劇的、4番:叙情的、5番:明暗交錯、6番:幻想的と特徴づけており、「楽章数」は、1, 2, 4番は4楽章, 3, 5, 6番は3楽章からなっている。
第4番は楽しげな音色、色彩豊かのオーケストレーション、バランスのとれた形式ゆえに、演奏される機会がもっとも多い。各曲の随所にドヴォルジャークの「レクイエム」冒頭主題が引用されているのも特徴の一つである。
「楽器編成」は、木管は2, 3番で3332、 1, 5番で3333、6番で4333、4番で4432。金管はすべて4331、打楽器は全6曲にティンパニ、バス・ドラム、サイド・ドラム、シンバル、トライアングル、タムタム、1番と6番にタンバリンが加わる。ピアノは6番以外にあり、ハープは4番以降には含まれない。他に弦。

「演奏時間」は、最長が約35分の1番、最短は約25分の2番で、それ以外は30分前後となっている。
「本邦初演」は以下の順で行われてきた。
5番:1953年10月 8日、上田仁、東京SO
4番:1975年 5月14日、サワリッシ、NHK.SO
6番:1975年12月10日、ビエロフラーヴェク、日本フィル
1番:1979年 5月25日、ビエロフラーヴェク、日本フィル
3番:1984年7月17日、イーレク、読売SO
2番:1998年11月21日、ヤルヴィ、デトロイトSO(豊田市)


第1交響曲 H.280

1941年9月半ばからロング・アイランドのジャマイカに滞在していたマルチヌーのもとに、翌42年初頭、「コンチェルト・グロッソ」など、彼の作品をしばしば演奏していたクーセヴィツキーから、作曲の依頼が舞いこんだ。これは夫人ナターリアの死を悼んでの、ボストン・クーセヴィツキー音楽財団の企画だった。依頼は単に“大オーケストラのための作品”だったが、マルチヌーは交響曲の作曲を思い立った。ボストン交響楽団員の中には顔見知りのパリ音楽院出身のフランス人が40人もいて、渡米直後の4月初めにマルチヌーは、カーネギー・ホールで彼らの演奏する「プラハ交響曲」と「ダフニスとクロエ」第2組曲を聴いて、大いに感激していた。また以前にもミュンシュに、交響曲もしくはオーケストラ用のスラヴ舞曲集の作曲を勧められていた。

ブラームス(43歳)、ヒンデミット(45歳)、ストラヴィーンスキイ(58歳)のように、晩年になってこの交響曲を書くにあたり、Mはアンダスン著の「オーケストレーションの手引」や、チャイコフスキーの交響曲のスコアを調べていたが、ニューヨーク近郊では落ち着いて作曲できず、冒頭部分が作曲されただけだった。

42年5月になって自信がつき、21日までに第1楽章が完成。6月半ばにブーランジェら友人のいる、ヴァーモント州ミドルパリに移って26日までに、第2楽章を書き上げた。さらにマサチューセツ州マー・キー・ナク湖畔で、7月14日に第3楽章を完成させた。終楽章は8月半ばまでのタングルウッド夏季講習後の9月1日に、マサチューセツ州マノメトで脱稿した。この時は海辺の小さな別荘に滞在していた。

従来のものとは一線を画するこの交響曲は、1942年11月13日、クーセヴィツキー指揮するボストン交響楽団により初演され、故ナターリア夫人に献呈された。チェコでの初演は1946年の第1回「プラハの春音楽祭」で、ミュンシュ指揮チェコ・フィルにより行われた。

第1楽章:モデラート、ソナタ形式。
ロ短調和音が半音階的上昇を3度くり返してロ長調和音に達すると、ヴァイオリンに下降主題が提示される。これは中世ボヘミアの聖歌「聖ヴァーツラフのコラール」を暗示しており、この交響曲全体に頻用されている。副主題は高音木管とピアノのユニゾンで静かに奏でられる。弦楽合奏部分を経て、副主題を中心とした展開部に入り、管と弦のかけ合いが長く続く。低弦の半音階的うねりと、木管およびハープ上下動の対比。やがて木管の奏でる主題の変形である、優美な変ロ長調の下降音型が示される。
主題の再現はなく、弦楽八重奏の部分を経て打楽器も加わり、主題変形が高らかに奏でられ展開が続く。コーダでは冒頭の半音階的上昇が何度かくり返され、ロ長調主和音に終止する。

第2楽章:スケルツォ。
アレグロ、変ロ長調、3/4拍子の主題は、ベルリオーズの「妖精の踊り」を連想させる。優美な副主題は、オーボエ、後半にヴァイオリンで示され、スケルツォ自体が3部構成になっている。

ポーコ・モデラート、6/8拍子のトリオ主題は、歌うようなオーボエによって示される。ハープ、ピアノを交えた繊細な半音階上昇やトリルの間に、トランペットが響く。

第3楽章:ラールゴ、変ホ~ホ短調、3/2拍子。哀歌。
チェロとコントラバスのユニゾンによる、変ホ短調上向音型の前奏のあと、ピアノが低い変ロ音で弔鐘を静かに連打する上で、弦楽七重奏が悲痛な調べを奏でてゆく。これに他の楽器が加わりクライマックスに達する。曲は静まりヴァイオリンの旋律が下降し、イングリシ・ホルンの挿句についで、トランペットが弔歌を吹奏する。冒頭部分が戻りトゥッティとなって高揚し、ティンパニが運命の動機を連打する。最後は半音階上昇音型をくり返し、静かに曲を閉じる。

第4楽章:ロンド・ソナタ形式。
アレグロ・ノン・トロポ、2/4拍子の冒頭部分は、変ホ長調A主題~ヘ短調B主題~A主題という経過をたどる。わずか2小節ドヴォルジャークの「レクイエム」主題をハープとヴィオラが引用してから、静かなカンタービレ部分に入る。イングリシ・ホルンが変ロ長調のC主題を奏で、ハープとピアノが合いの手を入れる。

各楽器の32 分音符による上向音型のパッセージを経て、曲は2/4拍子の奔馬調となり、ティンパニ、トライアングル、シンバルなどを従え、A主題のあとホルンにのびやかな旋律が出る。これが静まりC主題についで、さらに優美な変ホ長調D主題を、ピッコロ、フルートのハープハーモニックスがユニゾンで奏でる。これはモデラートの経過部分をはさんで、もう一度フルート・ソロでくり返され、A主題を主体としたコーダで全曲がしめくくられる。


第2交響曲 H.295
この交響曲の楽想は、第1番作曲中の1942年初頭、ジャマイカ島を散歩していて浮かんだという。しかしこれをもとに第2番を書き始めたのは、1943年5月29日になってからで、緑の木々に覆われた木造家屋が点在する、閑静なコネチカット州ダーリエンで7月24日に完成した。この作品はクリーヴランド在住のチェコ人に依頼され、彼らに捧げられた。形式は第1番よりやや伝統的で単純明快、チェコ的で叙情性に富んでおり、1930年代に多用していたコンチェルト・グロッソの作風を踏襲している。

初演は1943年10月28日、ラインスドルフ指揮クリーヴランド交響楽団により行われた。この時マルチヌーは生まれてはじめて飛行機に乗った。演奏後、チェコの民族衣裳をまとった3人の乙女が、舞台に大きな花を捧げ、作曲者を感激させたという。当日はチェコスロヴァキア共和国独立25周年にあたり、「リヂツェ追悼曲」*注も、カーネギー・ホールで、ロヂンスキー指揮ニューヨーク・フィルにより初演されている。楽器編成は大規模だが、小楽器群が交代で現われる室内楽的スタイルによっている。

第1楽章:アレグロ・モデラート、6/8拍子、簡潔なソナタ形式。
ヘ長調~ニ短調主題は弦で示され、半音階的に下降する副主題が16小節目に現われ、3拍子のリズムで進んでゆく。展開部ではフルートのパッセージ、弦のトレモロ、ハープとピアノのアルペッジオとグリッサンドが目をひく。主部が再現し短いコーダのあと、変ロ長調主和音に終止する。

第2楽章:アンダンテ・モデラート、9/8拍子。
ヴィオラのハ音持続の上で、オーボエとクラリネットが変ホ長調~ハ短調旋律を優しく奏でる。ついで静けさをたたえた民謡風の派生主題を弦楽合奏が、管楽器のうごめきを間に挟み、転調をくりかえしながら延々と奏でてゆく。ポーコ・アニマートからは弦の持続音と、ピアノの変ホ音連打に支えられ、木管の下降音型が何度もくり返される。ポーコ・ピウ・アニマートでこの音型は、木管と弦で同時にフォルテで奏でられ、弦の細かい刻みを背景にピアノが、変ホ、変ニ、ハの3音を4回強く響かす。弦楽合奏を経て最後は、フルートが冒頭主題の変形を静かに回想する。

第3楽章:ポーコ・アレグロ、2/4拍子。
プロコフィエフを思わせるスケルツォ風行進曲。1小節のトゥッティ上向音型についで、トランペットなどの軍楽風リズムに乗って、フルート、オーボエ、ハープにおどけた音型が提示され、ついで第1ヴァイオリンに軽快な変ロ長調主題が出る。これがトゥッティで華やかに展開され、木管の高音から低音へと下降する音型が、何度も反復されたあと、弱音器つきトランペットが「ラ・マルセイエーズ」の断片を奏でる。打楽器の活躍するモトリックなトッカータを経て、主題が再現しハ長調主和音に終止する。

第4楽章:スケルツォ風ロンド。
アレグロ、4/4拍子のイ長調下降主題が楽しげに提示され、シンコペーションをきかせた経過句となる。叙情的な変イ長調副主題が、ソロ・オーボエとソロ・ファゴットのユニゾンで現われ、これに木管四重奏が続く。叙情主題はチェロに受けつがれ、せわしないパッセージが続く。ついで変ホ・変ニ・ハ・ニ・ハ5音のオスティナート音型を中心とした展開が行われる。副主題がフルートに現われ、クラリネット、ハープ、ピアノが半音階上向音型でこれを彩る。5音オスティナートが再現して高揚し、下降主題の変形を第1ヴァイオリンが奏で、ニ長調主和音に終止する。


第3交響曲 H.299
1943年から44年にかけ、マルチヌーの気分は勝れなかった。戦争の見通しは立たず故国からの音信は不通だったから。44年5月1日、夫妻はコネチカット州リッジフィールドのチェリストL・ラポルトの別荘に移り住み、マルチヌーは翌日から、クーセヴィツキーのボストン交響楽団指揮活動20周年を記念する、この作品にとりかかった。26日までに完成した2楽章には、悲痛な気持ちがこめられている。ここは閑静な所で、広い庭には大きな蛇やネズミがいっぱいいたが、日本人コックがおいしいスッポン料理を作ってくれた。
6月6日カナダ放送は、連合軍のノルマンディー上陸を告げた。夫妻はラジオにかじりつきシャンパンを開けた。マルチヌーの憂鬱は霧散したが、嬉しくてしばらく仕事が手につかなかった。しかし6月14日には全曲を書き上げた。

初演は被献呈指揮者と楽団により1945年10月12日に行われた。プラハではカレル・シェイナ指揮チェコ・フィルにより、1949年10月13日に初演された。
ここには故国の悲劇と郷愁が投影されており、「2群の弦、ピアノ、ティンパニのための二重協奏曲」H.271(38年作)、「戦場のミサ」H.279(39年作)、「「リジツェ追悼曲」H.296(43年作)とともに、戦争チクルスをなす作品である。

第1楽章:ソナタ形式。アレグロ・ポーコ・モデラート、3/4拍子。
全曲の核となる冒頭の運命的な、変ホ・変ト・ヘ3音による動機が、ヴァイオリンで奏でられ、これにすぐ木管の動機が続く。ハープとピアノの和音進行が音階的に下降する音型を交えて曲は展開し、中間部にはファゴット・ソロの旋律が顔をのぞかせる。

第2楽章:ラールゴ、3/4拍子、ハ短調~ハ長調。
複合二部形式のバロック風幻想曲。弦楽器のみによる下降音型の導入についで、ヴァイオリンにチャイコフスキーの第5交響曲の冒頭主題が引用され、フルート・ソロが高音でホ短調の優美な旋律を奏でる。ついで、ほとんど全楽器の32分音符を主体とした、細かいトレモロ、アルペッジオの部分が続き、ヴァイオリンが最初の主題を2オクターヴ上で奏で、第2部がくり返され、ハ長調主和音に終止する。

第3楽章:自由なソナタ形式で。
「二重協奏曲」H.271を髣髴とさせる劇的な自由賛歌。トランペットとトロンボーンのユニゾンによる、荒々しい2度の上向4音前奏ではじまり、高音ヴァイオリンに変ロ短調の主題が出る。ハープのアルペッジオ和音進行、弦と管のトリル、トレモロの交替があり、ポーコ・メーノからトランペット、ファゴット、ホルン独奏部分となる。テンポが元に戻るとオーボエに主題変形が出て展開し、冒頭主題がくり返される。アンダンテからはヴィオラ・ソロが延々と続き、ファゴットが対旋律を奏でる。オーボエの優美な旋律についで、高音ヴァイオリンが息の長い旋律を奏でる。

アンダンテ・ポーコ・モデラートの長大なコーダでは、前打音を伴うピッコロ、フルート、ハープ、ピアノのアルペッジオ和音を背景に、オーボエがホ長調の旋律を奏で、金管に冒頭の3音が再現され、ホルンとトロンボーンが交互にドヴォジャークの『レクイエム』冒頭主題を奏で、全曲を閉じる。


第4交響曲 H.305
1945年2月末に、半世紀前のドヴォルジャーク同様「望郷の歌」であるチェロ協奏曲第2番を完成させたマルチヌーは、4月はじめから第4交響曲の作曲にとりかかり、3楽章までを5月下旬までにニューヨーク58番街で書き上げた。それからマサチューセツ州ケイプ・コッドに出かけ、海辺にある数学者A・スヴォボダ博士の木造別荘に滞在し、6月14日に最終楽章を仕上げた。この曲には第2次世界大戦終結と帰郷できる喜びに満ちている。

この作品は依頼主であるジーグラー夫妻に捧げられ、1945年11月30日、オーマンディ指揮フィラデルフィア交響楽団により初演された。

第1楽章:ポーコ・モデラート、6/8拍子、変ロ長調。
賑やかな前奏の中に、長3度和音で主題の萌芽が見られ、短3度下降音型があって、楽しげな主題がヴァイオリンで提示され、弦の下降音型、木管の高音での囀りが続く。これが展開されホルンに渡される。以上がくり返され、上向音型によるエコーのような短いコーダとなる。

第2楽章:スケルツォ、アレグロ・ヴィーヴォ、6/8拍子、ト短調。
スタッカート弦の刻むオスティナートの上で、スケルツォ主題がファゴットに出て、トランペット、高音木管、イングリシ・ホルンと渡され、華やかなトゥッティとなって小休止する。トリオ(モデラート)はヴァイオリンの奏でる、アメリカ民謡を思わす叙情的な下降主題である。

第3楽章:ラールゴ、3/4拍子、変ロ長調。
弦楽合奏による半音階的に下降する、息の長い主題にはじまり、ピアノが弔鐘を鳴らし、弦三重奏によるカンタービレの部分が続く。これが高揚してシンバルが鳴り、次第に楽器の数を増して、管楽器、ピアノは上向アルペッジオをくり返す。ティンパニが轟いて冒頭部分がわずかに顔を出す。弦の上下動、クラリネット、ピアノのトレモロの刻みの上で、オーボエとフルートが天国的な音楽を奏でる。

第4楽章:変形したソナタ形式。
ファゴット、ホルン、金管の沈鬱なハ短調和音の上で管楽器がうごめき、ホルンが短3度で上昇する3音を鳴らし、これをもとにした主題が弦に受けつがれる。これは高揚してフルートとヴァイオリンの奏でる主題となり、音価をのばしてゆく。ついで弦楽合奏でドヴォジャークの「レクイエム」主題の変形を奏でる。これはモトリックな経過句を含んで3度くり返され、タムタムが鳴って冒頭部分が再現され、圧倒的な迫力のうちに全曲を閉じる。


第5交響曲 H.310
これは1946年2月から5月半ばにかけニューヨークで作曲され、翌1947年の「第2回プラハの春音楽祭」期間中の5月28日、クベリーク指揮チェコ・フィルにより初演された。これには作曲者の代理として夫人が出席した。彼女はエスプラナーデ・ホテルに滞在してミュンシュ、バーンスタイン、ズルザヴィーらと会い、画家ムハの息子イジーの住まう西ボヘミアの芸術家村ズビロフに、帰国後の住まいを下検分し、東北ボヘミアのサナトリウムに入所中の義姉マリエを見舞った。この作品は最初は国際赤十字に捧げるつもりだったが、のちに献呈先はチェコ・フィルに変更された。

第1楽章:アダージオとアレグロの緩急テンポが交代する複合2部形式。
導入部アダージオ、4/4拍子では、ホ/ヘ音と変ロ/ロ音の短2度を重ねた不安な和音から、短3度3音による木管とピアノのきらびやかな高音と、トレモロの波が次々と押し寄せる。このパターンはアレグロに入り主題がオーボエで提示されても続く。トランペットが長短3度を4回吹き、ピアノの和音下降進行を経て、ピッコロとヴァイオリンが高音ユニゾンで副主題を奏でる。
アダージオで冒頭部分が再現するが、新たに音価を長くした3音型をファゴットが吹く。アレグロに入り主題は5度上で示され、管と弦ががかけ合ううちにフルートに息の長い優美な旋律が出る。ヴァイオリンに主題が現われ、打楽器が鳴ってコーダ(アダージオ)となり、ホルンと金管が高らかにコラールを奏し、変ロ長調主和音に終止する。

第2楽章:自由なロンド形式、ラルゲット。
ヘ長調3/4拍子の軽快なリズムにはじまり、シンバルとピアノ打音を合図に、低音から高音へと波状的にモトリックなオスティナート音型をくり返してゆくと、プロコフィエフを思わす主題がフルート・ソロに現われる。その後テインパニの刻む音の上に、フルートとヴァイオリンに優美な下降旋律が出て一段落すると、トランペットが鳴り弦が対旋律で応える。打楽器がリズムを刻む後半に入ると、主題がヴァイオリン・ソロで再現され、トランペットについでチェロが叙情的な旋律を奏で、ヘ長調主和音に終わる。

第3楽章:
レント、3/4拍子の導入部は、弦5部がヘ・変ト・変ホ音をもとにカノンで、
チャイコフスキーの「悲愴交響曲」終楽章、5小節目からと同じ音型を延々と重ねてゆく。ホルンなど他楽器も加わりアレグロに入ると、主題断片の予告についで、喜ばしげな下降主題がヴァイオリンで提示され展開される。メーノ・モッソ(ポーコ・アンダンテ)では導入動機が変形して再現するが、やがてピアノの32分音符オスティナートや、弦と木管のトレモロの中に埋没してゆく。アレグロではオーボエにシンコペーションをきかせた副主題が、ピアノやトライアングルのトレモロを伴って現われ、奔馬調のリズムに乗って展開される。やがて主題が再現して高揚し、低音弦に音価をのばした導入部3音型が現われ、ポーコ・ヴィーヴォのコーダとなる。


第6交響曲 H.343
1953年ボストン交響楽団は創立75周年を3年後に控え、ブリテン、ミヨー、ペトラッシ、ヴィラ=ロボス、コープランド、バーンスタインらとともに、マルチヌーにも作曲を依頼した。そもそも「3つの交響的幻想曲」の第1楽章は、51年4月に出来あがっており、本来は「新幻想交響曲」となるはずだったが、ベルリオーズに敬意を表しこの名称を撤回した。マルチヌーは53年春に作曲を再開し4月23日に書き上げた。その直後の5月5日に永年住み慣れたアメリカを離れ、ヨーロッパに帰ってから第1楽章を整理し、オーケストレーションからピアノを除き、5月26日パリで完成した。従来の交響曲に比べ、形式が自由でシンメトリーでなく、モチーフの変容、テンポの交替が著しい。

「第6番」という呼称は外部からもたらされたもので、56年11月7日の故郷への手紙の中で“・・ゆうべプラハからの放送を聴きました。サードロがチェロ協奏曲を弾き、アンチェルは「幻想」をやってましたね、「第6番」といって。すばらしい演奏でしたよ・・・” この伝でゆけば「3つのフレスコ画」(55年作)、「3つの寓話」「3つの版画」(ともに58年作)は、第7, 8, 9番ということになる。

初演は1955年1月7日、ミュンシュ指揮ボストン交響楽団により行われ、ミュンシュに献呈された。この曲は55年中に演奏された最優秀作として、ニューヨーク批評家クラブ賞を得ている。プラハでは56年2月8日、アンチェル指揮チェコ・フィルにより初演された。

第1楽章:ソナタ形式。
レント、3/4拍子の導入部では、フルートと弦の奏でる虫の羽音のような動きを背景に、2本のトランペットの断続音についで、ゆったりした弦の上行形が続きヘ長調で休止すると、独奏チェロがアンダンテの主題を奏し、すぐフルートに受け継がれる。これはドヴォルジャークの「レクイエム」冒頭主題の引用で、全曲の核をなしている。弦がアジタートしたのち、フルートがイ・変イ・ヘ・ニの下降音型を反復して、アレグロの経過句に入る。マルチヌー特有の3度音程反復が随所にみられ、ポーコ・メーノで弦楽合奏がペンタトニックの副主題を奏でる。管も加わって「レクイエム」主題を奏で、オーボエがこれを長く吹き続ける。

アレグロ・ヴィーヴォでの弦が刻みを入れた、管と弦のめまぐるしい交替は、次第にトゥッティへと高揚する。これがおさまり下降して、ピッコロの3度音程反復のうちに、打楽器のリズムにのって独奏ヴァイオリンがカデンツァ風の狂詩曲を弾く。メーノで弦だけが残り副主題、ついで冒頭のレント部分が再帰し、フルートの下降音型のあとヘ長調主和音で静かに終止する。

第2楽章:スケルツォ。ポーコ・アレグロ。
3度音程の間を埋める弦のトレモロの上で、フルートが2度音程で飛び跳ねた後、木管が3連音で上昇をくり返すと、ヴィオラに叙情主題が現われる。やがて3度、2度反復音型がヴァイオリンに出る。トロンボーンのコラールをのせて、弦が低音ピツィカートで上行3連音を刻み、オーボエに変ロ短調の旋律が出る。トランペットが下行音型を鳴らし、トゥッティでせわしなく進んでゆくが、次第に崩れて弦、管のトレモロが交互にくり返されるうちに、ファゴットにおどけた経過句が出る。弦の刻みは次第にトゥッティの波立ちへと増幅され、打楽器を伴う管楽器の咆哮により三たび中断されたのち、叙情主題とこれに続くパッセージが再帰し、タンバリンのサミングを伴う低音のうごめきがあって、曲は変ロ長調主和音のピツィカートで終る。

第3楽章:
短いレントの導入についで、チェロに「レクイエム」主題の反転形が現れ、弦のみによる夜想曲に途中から木管が加わり、フルートが天上の音楽を奏でる。ポーコ・ヴィーヴォ~アダージオに入り、細分音の刻みの中でトランペットが高鳴り、ピウ・モッソで荒々しき経過をたどる。これが静まりアンダンテでは、クラリネットが「レクイエム」主題の反転形を奏し、木管楽五重奏(Cl.2, Fag.2, Hr.1)の「望郷の歌」が続く。

アレグロ~モデラートで、低音に発した半音階上向形はしだいに厚みを増し、全楽器に波及して泡立ち、やがて金管だけとなって、わずかに休止する。次の125~138小節は、オペラ「ジュリエッタ」第2幕5場の45~58小節の引用で、全楽器がふたたびピアニッシモで上行と波立ちを反復する間に、ホルンの重音のうちにトランペットが「レクイエム」主題反転形を吹く。アレグロ・ヴィヴァーチェでトランペットの吹奏がしばらく続き、タム・タムが鳴ってレントとなり、弦のユニゾンのうちにヴァイオリンにまた「レクイエム」主題の反転形が現われ、木管、ホルン、弦が静かなコラールを変ホ長調で奏でるうちに全曲の幕が下りる。


2.交響曲以外の大オーケストラ作品

1楽章の交響曲(大オーケストラのための作品)H.45
1913/ 14年頃ポリチカで作曲された3部構成の作品。全音階的に1音づつ下降するリズムの上で、木管が半音階的に上昇する東洋的な旋律を奏でる4拍子のパッセージの間に、3拍子のゆったりした中間部をはさみ、最後はチェレスタの響きに終る。「ニッポナリ」などと同じオーケストレーションでドビュッシーの影響が色濃く表れている。

バラッド「海辺の館」Villa na moři H.97(交響的舞曲第4番)
1915年ポリチカで作曲。ベックリンの絵による。一番有名な「死の島」の複製はボロヴァー村司祭館にも懸かっていたという。M.は「海辺の館」を原画が収蔵されているソフィア博物館の絵葉書で知っていたという。もとはバレエ三部作の3番目にしようとしていたが、その計画は実現せず、この作品だけが残った。楽器編成:2332- 4031、ティンパニ、大太鼓、ピアノ、弦。ハ短調~ハ長調、4/4拍子。

全曲はゆったりした4拍子に終始する。オーケストラ3音についで、鐘のようなピアノ和音が11回鳴らされ、上弦のトレモロのもとで下弦がうごめき、ピアノが時々入りトゥッティとなって高揚する。これが治まるとオーボエ・ソロを経て、音階的に4度上下動する低音オスティナート(ミレドシ/ ラシドレ)を背景に、「未完成交響曲」類似の5度下降にはじまる主題がヴィオラ、ホルンなどに出て静かに展開する。ついで低音域で上昇する副主題(ラーシドレ/ ミソファミ)が現われ、弦のトレモロ、5度音程の反復音型、時折ピアノが加わり、やや静まる。ティンパニの轟音で主題~副主題が順に再現され、最後は長いピアノ・ソロを経て弦のトレモロに終る。

過去への夢Sen o minulosti H.124
1920年プラハで作曲。チェコ・フィル楽員として、ヴィノフラディ区に住んでいたM.は、同郷の友人に薦められたシマーネクJosef Šimánekの作品に触発され、この曲を書いた。それはサチュロスやニンフが住む前史時代の物語で、「サチュロスたちの茂み」第2部である。

調性はF. G. a. B. D. などと変化し、拍子は3/4(3回)と4/4(2回)が交代、
速度記号もレント~アンダンテ~モデラート~モデラート~アダージョ~ポコ・メノ~メノ・モッソ~アダージョ~グラーヴェ~モデラート~アレグロ~グラーヴェからレントに戻る。
 冒頭フルートの奏でる旋律はまさに「牧神の午後への前奏曲」の引き写しで、木管がナイチンゲールの鳴き声を模し、弦は16分音符の分散和音上下動に、ハープの上向グレッサンドを交え、海鳴りのような森のざわめきを描き出してゆく。その間にホルンの響きについでオーボエが抒情音型を奏で、高音木管が小鳥に囀り、打楽器が加わり高揚する。これが一段落すると:
 狭い音程内で上下する弦楽のみの合奏となり、これはソロも交え最大15部に分かれる。次第に他楽器も加わり頂点に達すると、イングリシュ・ホルン+ホルン+弦楽合奏のみのパッセージを経て、ふたたび弦楽合奏からトゥッティへと発展し、フルート+弦楽合奏となる。ついで:
 ハープの和音進行と弦のトリルを伴い、オーボエに異教的な旋律が出て、テンポを速めるが、テンポが落とすと、弦のトリルを伴うイングリシュ・ホルンのパッセージが来る。次第に高揚するトゥッティが治まると、冒頭のレント部分が再帰し、ト長調主和音ghd+e音に終る。

過ぎ行く夜半Míjející půlnoc H.131
1920年チェコ・フィル楽員としてプラハに出たマルチヌーは、知人の紹介でヴィノフラディ区に住まった。近くには同郷の学生カレル・ソンメルが住んでおり、ある日、彼からJ・シマーネクの「林の中のサチュロス」を借り、これに触発され1922年までに、ルーセルの影響が見られる「3つの交響詩」を作った。第2曲のみを1923年2月18日に、ターリヒがチェコ・フィルを指揮し初演。
1,Satyři v háji cypřišů 糸杉林のサチュルスたち。ニンフたちが結婚を祝う月の夜。
2,Modrá hodina青い時。アンダンテ、ホ短調、6/8拍子~モデラート3/4拍子、アレグロ;。楽器編成は3232- 4331, ティンパニ、大小太鼓、トライアングル、シンバル、タムタム、ハープ、弦。
3、Stíny影。

ハーフ・タイムH.142
1923年秋パリに遊学したMは、翌24年夏休みに帰郷し、1週間でこの作品をしあげた。同年12月7日ターリヒ指揮チェコ・フィルによるスメタナ・ホールでの初演は、賛否両論に沸き、ストラヴィンスキイの剽窃と非難もされたが、翌25年5月17日プラハでの第3回国際現代音楽祭では、“これぞ現代作品!”と激賞された。この作品と、オネゲルの「パシフィク231」(1923年作)および「ラグビー」(1928年作)とは、互いに影響しあっているといえる。
曲は序奏と7つの変奏からなるロンドで、管、打楽器、ピアノが活躍し、
打楽器のトッカータ部分に見られるように、旋律よりもリズムが優先している。冒頭ソロ・トランペットのオクターヴ上昇音型(全曲の核として重要)は、サッカーのホイッスルを暗示し、さまざまな音域を1音程づつ上下する各種音型が出没する。印象的なのはVlの刻むト音の連続と、2度音程の反復、ピアノの先導される「ペトルーシュカ」風音型(82小節)、4度を加工するチューバ、打楽器のトッカータ、小休止後のアンダンテ(173小節)での低音のうごめき、2度と4度の交代音型、全音階で4度を上下するトゥッティのトレモロ(298小節)、弦の刻む「春の祭典」様の変拍子(326小節)などで、最後は速度をあげ、圧倒的迫力のうちにハ長調に終止する(全480小節)。

ラ・バガールH.155 Mが1926年5月パリで仕上げたこの作品で表現したかったのは、「・・興奮、争い、喜び、驚きのルツボ、共通の感情、すべてを前に押しやる目に見えない絆、大衆を予期せざる抑えがたい出来事に満ちた唯一の要素へと駆り立てるカオス・・・」だった。彼はこの作品のスコアをパリの大通りのカフェで、クーセヴィツキーに手渡し、演奏してくれるよう頼んだ。作曲者は翌27年5月末のリンドバーグの大西洋横断飛行を讃え、この作品を献呈した。同年10月18日のボストンSOによる初演は大成功をおさめ、Mの名前をアメリカに知らしめた。
 曲は下降三連音の早いリスム・オスティナート部分と、表情豊かな歌謡的旋律が巧みに交替するアレグロで、ピアノが輪郭とリズミを支える。歌謡主題は50小節目から出るが、ここでは4/4, 3/4, 6/8拍子が同時に進行し、この主題の後半では行進曲風に扱われ、勝利のハ長調に終止する。
 なおK・ワイル(1929年作のカンタータ)はじめ、2,3の作曲家がリンドバーグを讃える作品を書いている。「バガール」とは“騒ぎ”とか“混乱”の意。

ジャズLe jazz H.168
1928年1月パリで作曲された、アレグロ・モデラートの1楽章4分ほどの小品だが、ベル・エポック時代のジャズバンドの雰囲気を十分に漂わせた名曲といえる。後半にヴォカリーズを入れるなど、1927年秋から28年春までパリに滞在し、同年夏ポリチカにM.を訪問した、解放劇場の作曲家イェジェクの影響がみられる。
初演は1962年になってからブルノ放送で行われた。楽器編成:サキソフォン3(アルト2、テナー1)、0220.、ティンパニ、大小太鼓、シンバル、バンジョー、ピアノ、弦、ヴォカリーズ(女声1、男声2)。

オーケストラのための狂詩曲 H.171
1918年6月29日、フランス政府はチェコスロヴァキア民族の独立を宣言し(実際の独立は10月28日)、翌日ヴォージュ県のダルネ演習地でチェコスロヴァキア第1連隊に軍旗が授与された。その10周年を記念し、28年5月14日にパリで書きあげられたのがこの曲で、7ヶ月後にクーセヴィツキー指揮ボストンSOにより、La Symphonieとして初演された。30年3月12日のセル指揮チェコ・フィルによるヨーロッパ初演時のタイトルはLa Rhapsodieで、翌年パリでストララムが演奏した折にはAllegro symphoniqueとなっていた。29年にはブルノでスメタナ賞第2席を得ている。
3管編成の火曜部形式で、ドシラソ/ ドーという主題と、副主題提示後、小太鼓ソロ部分を経て、2つの主題が展開され、テンポを落とし高音ソロ・ヴァイオリンについで、イングリッシュ・ホルンが副主題の変形を優美に奏で、最後のフガートの中には”聖ヴァーツラのフコラール“が引用されている。

シンフォニア・コンチェルタンテ第1番H.219
4曲の室内楽セレナーデにつぐこの作品は、1932年4~5月にパリで完成されたが、その後、草稿が行方不明になり、54年にようやくショット社から出版され、翌年ハンス・ミュンシュ指揮バーゼル・オーケストラ協会により初演された。なお第2番H.322は、49年にニューヨークで作曲された。
 編成は第1オーケストラ:Ob3, Fg, Hr2,弦、第2オーケストラ:Fl2, Cl2, Fg, Hr2, Trp2, Trb3, Tb. Timp.シンバル、トライアングル、大太鼓、弦で、他調的な対位法を駆使したコンチェルト・グロッソである。
第1楽章:アレグロ・ノン・トロッポ、4/4拍子、ト長調、ソナタ形式。
●/ ●●●●/ ●というリズム主題と、プロコフィエフ風の叙情的副主題を核とし、両オーケストラ群がたえず応答をくり返し、トゥッティ三連音下降で終止する。
第2楽章:ヴィヴァーチェ、2/4拍子。弱音器をつけたTrpのa音に始り、前奏がしばらく続いたあと、変ニ長調のスケルツォ主題が出、これが次々とOb、Trp、Vl、Hrに渡されてゆく。打楽器が大いに活躍し、悪魔的に躍動する無窮動で、最後に前奏部分が回想される。
第3楽章:アンダンテ3/4拍子、ハ長調。弦楽合奏主題にはじまり、2つの弦楽器群および管が応答しながら、この主題を変奏してゆく。中間部でややアッチェレランドして高揚するが、ふたたび弦楽合奏に戻りハ長調主和音に終る。
第3楽章:アレグレット、2/2拍子。モーツァルトの40番交響曲をわずかに連想させる、ト短調主題が弦楽合奏に出、Obの挿句を経てポコ・メノとなり、主題の変形副主題がト短調でOBに出る。多くの弦楽合奏のみの部分をはさみ、2つの主題がさまざまに変奏され、最後は副主題がト長調で高らかに奏でられ、弦の刻む八分音符ト長調主和音で終止する。

インヴェンション H.234
1934年1月後半、秋の第2回ヴェネツィア・ビエンナーレ国際音楽祭に提出すべくパリで作曲、同年9月8日、フェニーチェ劇場で、オレステ・ピッカルディの指揮で初演され、絶賛を博した。聴衆の中にはストラヴィーンスキイやカサドもいた。楽器編成:2222-4220、ティンパニ、シロフォン、大小太鼓、シンバル、トライアングル、ウッドブロック、ピアノ、弦。
第1楽章:アレグロ・モデラート、ハ長調、2/4~4/8拍子。冒頭フルート、ピアノの奏でる音型(ソ/ミ/ソ/ミ/ラ/ソ)を主体に、管、弦の音階的上向、トレモロなどで展開し、途中ピアノが32分音符ユニゾンで上下動するパッセージを、2度入れている。
第2楽章:アンダンテ・モデラート、ヘ長調~変ロ長調、6/4拍子。ピアノと弦のみ。第1ヴァイオリンが牧歌的な静かな旋律を奏で、ヴィオラが対旋律を入れる。中間と最後にピアノ・ソロが縦横に駆け巡る。
第3楽章:ポコ・アレグロ、ト短調~ハ長調、2/4拍子。木管の小刻みなスタッカート音型にはじまり、常動的でモトリックな16分音符の細かい動きに終止する。

リヂツェ追悼曲 Památník Lidicím H.296
1942年5月27日、ボヘミア・モラヴィア保護領(第2次世界大戦中ナチス・ドイツ占領下にあったチェコの呼称)副総督ハイドリヒが、ロンドンから飛来、降下した自由チェコ・パラシュート隊員により、プラハ北部の路上で爆殺された。
ナチス占領軍は報復として6月10日、隊員の1人の出身地であるプラハ西北20キロの小村リヂツェを焼き払い、男子約200人を虐殺、婦女子約300名を強制収容所やドイツ人家庭へ送り、この村を地図の上から抹殺した。*注
1943年アメリカ作曲家連盟から、渡米2年後のマルチヌーは17人の作曲家と共に、大戦中の事件を音楽で表わすよう依頼された。当時コネチカット州ダリエンで休暇をとっており、7月24日に第2交響曲を完成させたばかりの彼は、激情と安らぎの祈りをこめたこの作品を8月3日に書き上げた。
初演は同年10月28日(チェコスロヴァキア共和国独立25周年当日)、ロヂンスキー指揮ニューヨーク・フィルによりカーネギー・ホールで行われ絶賛を博した。プラハ初演は1946年3月14日、R・クベリーク指揮チェコ・フィルが行い、本邦初演は1982年11年19日、ノイマン指揮チェコ・フィルにより上野文化会館で行われた。
楽器編成:Fl, Ob3, Cl3, Fg2, Hr4, Trp2, Trb3, Tuba,Timp,大太鼓、シンバル、タムタム、ハープ、ピアノ、弦5部。演奏時間:約9分。

アダージオ / アンダンテ・モデラート / アダージオの3つの部分から成る。
冒頭、高音楽器を除いてハ短調の和音が陰鬱に奏でられ、3拍目に嬰ハ短調の和音が重ねられて2小節目に入ると、ClとFgが静かなコラール主題を奏でる。これは「ディエス・イレ」の旋律だが、ボヘミアの古い「聖ヴァーツラフのコラール」末尾部分でもある。これが変形してくり返されてゆくと、イングリッシュ・ホルンとTrpの下降音型についで、Fl, Obに優美な旋律が出る。低弦と対話しながらTrpが悲歌を高らかに奏で、次第に高揚して打楽器の轟くトゥッティffと、木管pが交代で現われ、変ニ長調の弦五部のみとなってアッチェレランドし、スムースに中間部へ移行する。
ここでは二度音程を上下する音型を軸に、ffとppの対比、Timpの連打などがあり、弦に穏やかな変ロ長調旋律が出て変ホ長調に落ち着く。最後の三度音程が何回か繰り返されたのち、
冒頭のテンポに戻ると突然、弦を伴うHrがfで、長7度上向してハ音を吹き鳴らし、下降してヘ短調でベートーヴェンの「運命の動機」を響かせる(譜例)「運命の動機」は大戦中BBC放送の勝利のコールサインだった。しかし最後の変ホ音ではすでに転調して静かに進行し、全曲はハ長調主和音で終止する。
注:パラシュート隊員たちはプラハ市内のキュリロス・メトデオ教会の墓所に隠れていたが、20日後に見つかり処刑された。戦後リヂツェ村に戻れた16人の中には、幸運?にも殺人罪でプラハに入獄していた男がおり、彼の話をもとに作家ボフミル・フラバル(1914~97)は、「私はイギリス王のお世話をした」(1971作、2006年映画化予定) を書いている。1955年ここには記念館が設置され、「友情と平和のバラ園」には、全世界から送られた3万本のバラが植えられ、毎年6月第2日曜に記念式典が行われている。
同様の蛮行は2週間後の6月24日、東ボヘミアの町パルドゥビツェ近在の小集落レジャーキでも行われ、33人が銃殺、14人が連行され、生き残ったのは子供2人だけだった(現在、記念碑が建っている)。


サンダーボルトP-47 H.309
 敗戦直前の日本は、アメリカ軍のムスタングP51戦闘機の機銃掃射に悩まされたが、ヨーロッパ戦線で活躍していたのは、通称ジャグといわれたこの護衛戦闘機で、リパブリック社は1万5千機も作ったという。しかしアメリカ空軍のパイロットを讃えた曲名は、あとからつけたもの。
この作品もワシントン国立オーケストラの委嘱作品で、1945年9月前半にかかれ、パリ時代からの親友で指揮者兼チェリストのH・キンドラーに捧げられた。初演は同年12月10日。Mはこれをアメリカでの最後の作品にするつもりでいた。
これはチェロにやさしい主題が出るトリオを持つ、執拗な6分音符の連続するスピード感あふれるスケルツォで、「魔法使いの弟子」や「夏の夜の夢」のスケルツォを連想させる。


インテルメッゾH.330
1950年夏、Mは親友のリプカとキャンピング・カーでメーン州東北海岸へ夏休みに出かけたあと、9月にニューヨークへ戻り、ルイスヴィルSOの指揮者R・ウィトニーに依頼されていたこの作品を仕上げた。
これは健全な喜びに溢れるスケルツォで、三部形式をとり、冒頭にはドヴォジャークの“レクイエム”主題や、最後のオペラ『ギリシャ受難劇』の中の“愛の主題”などが現れる。きらびやかなピアノの分散和音のあと、打楽器が激しく鳴って、弦がせわしなく切分音で下降し中間部に入る。ここでは Trpの鳴らすペンタトニックなアメリカ的音型と、Hrの牧歌的音型が印象的。最後にTrpがひときわ高く響きわたる。


オーケストラのための序曲H.345
1953年5月半ば、13年にわたるアメリカ滞在をうち切り、ヨーロッパに戻ったMは、パリ、ブリュッセル、ハーグ、ブルターニュヴィュ・ムーランの各地を転々とし、9月はじめようやくニースに落ち着いた。ここで別荘を提供してくれたのは、親友の画家シーマだった。新しい環境に馴れないためか、10月に書きはじめたオペラ『見知らぬ人への告発』は未完のままで、ドストエフスキイの”悪霊“のオペラ化も構想だけに終った。唯一完成をみたのがこの『序曲』で、かつて教鞭をとっていたニューヨークのマンネス学校芸術学院父兄会のために作曲された。

この曲は2管編成でピアノを含まず、コンチェルティーノとしてフルート、オーボエ、ヴァイオリン3、ヴィオラ、チェロの7楽器が活躍するロンド形式で書かれている。主題は古典的で、短い中間部のアンダンテ・モルトではオーボエ、フルートの優美な旋律が聴かれ、コーダでは音価を十分にのばした主題が、トランペットで高らかに奏でられる。


ピエロ・デッラ・フランチェスカのフレスコ画 H.352
1953年アメリカからヨーロッパへ戻ったマルチヌーは、翌1954年春のイタリア旅行中に、トスカナ地方はアレッツォのサン・フランチェスコ聖堂内で、ピエロ・デルラ・フランチェスカ(1415頃~92)の描いた一連の十字架伝説画(1455~65年作)を見て感動し、翌55年2月から4月にかけニースでこの曲を書いた。初演は56年8月26日R・クベリーク指揮するヴィーン・フィルが、ザルツブルクで行った。オーケストレーションはピアノを除いてハープを入れ、8つの打楽器を駆使した4管編成である。

第1楽章:アンダンテ・ポーコ・モデラート,8分の6拍子,変ホ短調~変ロ長調叡智と富のソロモン王に貢物を捧げるシバの女王と従者たちの絵による。弦のトレモロを伴う短い前奏のあと、曖昧模糊としたフルート、ヴァイオリンの奏でる音型ではじまり、次第に他の楽器を加えて頂点に達し、R・シュトラウス風の甘美な旋律が、転調しながら延々と展開される。管が減七の和音でうごめく経過句をへて、イングリッシ・ホルンがハープのハーモニクスと弦のトレモロを背景に、アラビア風の旋律を怪しげに奏でる。独奏チェロの短い応答があり、ファゴット・ソロの下降型で再現部に入り、管とハープの分散和音でしめくくる。
第2楽章:アダージオ、4分の4拍子、変ロ短調~変ロ長調
天に描かれた十字架を夢に見て、宿敵マクセンティウスを倒したコンスタンチヌス1世(280頃~337)の絵による。弦のトレモロの上でクラリネットとファゴットが、ゆったりした上下に波打つ旋律を奏でる。夜のしじまを縫ってナイチンゲールや怪鳥が鳴き交わし、独奏ヴィオラが遠くの陣営のラッパを模
する。弦の刻む行進のリズムに乗って、オーボエが異教の旋律を、さらにフルートが天上の楽の音を奏でる。やがて穏やかな旋律が低音弦から高音弦へと受け継がれ、ティンパニが鳴って作曲家アメリカ時代の遺産であるペンタトニックの懐かしい旋律が弦に出て、他の楽器は上向グリッサンドの反復でこれを彩り、高らかなティンパニ・ソロの連打で終る。
第3楽章:ポーコ・アレグロ,8分の6拍子~4分の3拍子、変ホ長調~変ロ長調。特定の絵ではなくフレスコ画全体から得た印象を綴っている。弦のピチカート、ホルン、打楽器の上でクラリネットに始まる2度音程がくり返される。これが一段落すると、半音階的に上下するモチーフがチェロからヴァイオリンへと渡され、ホ長調の全音階的な郷愁をそそる優美な旋律となる。半音階モチーフがフルートに出たあと、トランペットはスクリアビンの「法悦の詩」を思わす音型を鳴らす。弦を主体とした部分を経て冒頭部分が再帰し、最後は変ロ長調の望郷の歌で静かに全曲をとじる。

           
聖十字架伝説            
アダムの息子セツは、大天使ミカエルから小枝を1本授かり、これを亡父の墓の上に植えた。 これはのちに見事な大木となったので、ソロモン王(在位:前961~922)は、神殿付属の「レバノンの森の家」(武器庫)の建築に用いようとした。しかしどう切って寸法が合わないので、シアロムの池にかかる小橋の建材にしてしまった「アダムの死」。 
南アラビアはシバの女王が、ソロモンの叡智を試しに(実際は交易のため)訪れた「ソロモンとシバの女王の会見」。将来(受胎告知)キリストがこの木に架けられるのを予感した彼女は、この橋の前に跪き恭しく拝んだ。彼女の予言を信じた王は、この木を地中深く埋めさせた「聖木の運搬」。
後世その場所に養魚池が掘られ、キリスト受難が近づいた頃、その木がひとりでに浮かび上がってきた。ユダヤ人たちはこれを拾い上げ、主の(聖)十字架を作った。この十字架の木はその後、200年以上も地中に埋もれていた。 コンスタンティヌス(280頃~337)は、帝位継承戦争のさ中、敵のアクセンティウス(?~312戦死)を、ローマ郊外で迎え撃つ前夜、十字架が天に輝くのを目にし、天使に勝利を予言された「コンスタンティヌスの夢」。そこで彼は軍旗の代りに十字架を掲げて進撃し、勝利をおさめた「コンスタンティヌスの勝利」。 
326年頃コンスタンテヌス1世は、聖十字架を探しに、母君の聖女ヘレナ(255頃~330頃)をイェルサレムへ遣わした。彼女はその場所を知っているユダ・クィリアクスを1週間、涸れ井戸に閉じ込めて口を割らせ、ゴルゴダの丘に案内させた。{ユダの拷問:B2}そこに建っていたハドリアヌス帝建造になるヴェヌスの神殿を壊し地中を掘ると、キリストと2人の盗賊の処刑に用いられた3本の十字架が現れた。「十字架の発見と検証」。
615年ペルシャ王コスロエスはヘレナがイェルサレムに残した十字架の一部を盗んだ。その息子を皇帝ヘラクリウス(575頃~642)はドナウ河畔で破り、「ヘラクリウスとコロエスの戦い」、十字架遺物をイェルサレムに持ち帰った。「聖十字架の賞揚」。
(ヤコブス・デ・ヴォラギナ著「黄金伝説」)


ザ・ロック(岩)H.363 
これは1619年イングランドからの移民団がたどりついた、プリーマスに近いケープ・コッドも“岩”を題材にしたもので、レールモントフの詩によるラフマニノフの“岩”とは異なる。Mは1942年にここを訪れ、3世紀前をわが身に照らし、隔離された魂を音楽で表そうと思ったことがあった。
 1956年9月から1年間、彼はローマのアメリカ・アカデミーで作曲に専念していたが、56年クリーヴランドSO創立(1918年)40周年を記念して、G・セルに作曲を依頼された。そこで移民団の2代目総督ブラッドフォードのMemorial of the New Englandの引用に入った本を見つけ、57年3月から作曲にとりかかり、書痙に悩まされながら4月17日にほぼ、この瞑想的な交響前奏曲を完成した。
 弦のトレモロと木管の前奏のあと、晩年特有の甘美な音型が出、優しい主題が木管、弦で長く奏でられる。弦がせわしなく切分音を刻み、打楽器が鳴り響いてコーダでは、HrとFgが荘重なコラールを鳴らし、ペンタトニックなアメリカ的音型のうちに曲を閉じる。


オーケストラのための寓話H.367
これはミュンシュのために書かれた作品で、最初の2つの楽章は1957年6,7月にローマで、第3楽章は翌年1月から2月にかけ、シェーネンベルクで書き上げられた。題材ははじめ在米中に熟読していた11世紀中国の蘇東披(スー・トン・ホー)にするつもりだったが、のちに敬愛する友人サン・テクジュベリの遺作”城砦Citadelle“に変えた。
第1楽章:“城砦”第155節による“彫刻家の寓話”は、彫刻家の創った人の顔の前を通ると、人は少し変わり新しい方向に向かうという、過去を捨て去り未来に目を向ける思想である。
第2楽章:同186節による“庭園の寓話”は、庭に坐した人が、凋花、落葉を見て、来る年の開花に思いを致す、輪廻の思想である。
第3楽章:城砦の中の“荒野の最後の家で未来への扉が開かれる”を用いる予定だったが、G・ヌヴーの劇「テセウスのたび」(43年)に魅せられ、“迷路の寓話”となった。ここではミノタウロスを倒し、アリアドネに魅せられたテセウスが、町の人に結婚と弔いを告げる太鼓叩きに出会うくだりが、題材とされている。この曲を作っていた時の異常体験をMは以下のように記している:「ある夜、奇妙な音が近づいてきた。暗闇の中から太鼓を叩く二人の男が姿を現し、ゆっくりと幻のように消えていった」。これは有名なバーゼルの太鼓叩きが、カーニバルの練習をしていたのだろうが、作曲者はこの中にすでに、自分の死を予感していたのではないか。
第1楽章:アンダンテ。牧歌的なホルン主題がアジタート部分を挟んでくり返される。不安げで激しい中間部を経て主題が再現され、叙情的な旋律がオーボエとクラリネットに出て静かに終る。
第2楽章:ポコ・モデラート。木管とホルンの上下動する前奏ン、次第に他楽器が加わり、アレグロとなって弦が16音符三連音で下降する。ポコ・メーノでは“聖夜”の旋律が聞かれる。100小節を過ぎるとオーボエ・ソロが東洋的な旋律を奏で、アレグロが再現、コーダではハープの全音階的上向アルペッジョのくり返しのあと、クラリネットに優美な旋律が出て、変ロ長調主和音に終止する。
第3楽章:ポコ・アレグロ。弦のトリルと管楽器のせわしない動きのうちに、高音ヴァイオリンのペンタトニック音型を経て、リズミカルで色彩豊かなオーケストラを伴う、打楽器のトッカータがはじまる。
“聖夜”の旋律がトランペットに出てポコ・メーノに入ると、クラリネットがエキゾチックな旋律を奏で、オーケストラはトゥッティで高揚する。
次のモデラートではハープの和音を背景に、ファゴット・ソロがスペイン狂詩曲を奏で、その旋律はオーボエ、さらにはカスタネットの活躍するオーケストラをバックに弦に渡され、ヴィオラ・ソロの静かな部分を経て、冒頭部分が再帰する。


オーケストラのための版画H.369
 1958年3月半ばから4月初めにかけ、シェーネンベルクで作曲されたこの作品は、献呈を受けたホイットニーとルイスヴィルSOにより、59年2月4日に初演された。タイトルをEstampeとしていることからも覗えるように、エレガントなフランス点描画を見るような新印象主義的作品で、2管編成ながら打楽器を駆使し、オーケストラ曲に6年間封印していたピアノを登場させ、ハープと重ね特殊効果を出している。
 第1楽章:アンダンテ。夜のしじまに低音クラリネットとファゴットが、けだるい音を響かせる。中間部の弦に旋律が見られる以外は、曖昧模糊として幻想的な描写に終始する。
第2楽章:アダージオ~アレグレット~アダージオ。弦楽合奏の前奏のあと、イングリッシュ・ホルンが望郷の牧歌を奏でる。心臓の鼓動のような小太鼓と弦の刻むリズムが加わり、慰めるような旋律が弦にひき継がれ高揚する。もう一つの優しい旋律がオーボエに出て、色彩豊かなオーケストレーションを背景に、この旋律は変形してフルート、ホルンに渡されて、ふたたびオーボエに戻り、冒頭の弦楽合奏が再帰する。
第3楽章:ポコ・アレグロ。はじめピアノとハープの分散和音が、東洋的雰囲気をかもし出し、ペンタトニック名断片旋律を中心に、ピアノ、ハープ、打楽器が織りなす中間部を挟み、3度音程の反復など様々な短い音型が次々と現れ、前2楽章の鬱積していた霧を払うかのように、明るいフォルティッシモで終止する。
[ 2013/09/03 21:36 ] マルチヌー 人と作品 | TB(-) | CM(-)

マーラーがモラヴィア、ボヘミアに残した足跡

kakeizu

マーラーの祖先は、南ボヘミアはブラニーク山麓の在に発し、ヤコブ(1680年 フメルナ生)を嚆矢とする。アブラハム・ヤコブ・マーラー(1720~1800フメルナ生没)は, 商人、シナゴーグ歌手で、アンナ(1731~1801 フメルナ没)と結婚。その息子ベルナルド・マーラー(1750~1812)とルドミラ(バルバラ)・ルスティグとの間に生まれた、アブラハム・シモン・マーラー(1793 ~1860年フメルナ生没)はマーラーの祖父で、彼もシナゴーグ歌手、食品店主だった。1793年にマリア・ブロンディと結婚しリプニツへ移住、

1827年カリシュトに移り、ここでマーラーの父ベルンハルト誕生。祖父はここで1835年から蒸留所を借りて営業(1980年代に取り払わる)、1848-49年のユダヤ人融和政策で繁盛する。ベルンハルトはイグラウやズナイム(ズノイモ)などを行商して巡る。

1857年にレデチの石鹸製造の豪商アブラハム・ヘルマンの娘マリア(1837~89)と結婚。資金提供を受け酒場と店を経営。皇帝のユダヤ人移住緩和策を受け、

1860年にシモン一家はドイチブロド(ニェメツキー・ブロト、現ハヴリーチクーフ・ブロト)へ移り、紡績工場の基礎を作る。一方ベルンハルト夫妻は7月7日に生まれた幼児グスタフを抱え、10月22日イグラウ(現イフラヴァ、モラヴィア第2の都市でドイツ人優位の人口17,000)へ移住。蒸留酒製造、販売、雑貨店を営む。カリシュトの家をまかされた弟ダヴィド(1838~1911)はじめ、親戚も順次イグラウへやって来る。近くには市役所とイグナチオ教会(1681/ 89年間建立、現マサリク広場上手、下手は市場)や、家庭医コップシュタインの家(現マサリク広場170)もあった。フランツ=ヨーゼフ一世のユダヤ人融和策で、イグラウには1863年にシナゴーグ(Neugasse,現ベネシュ通り、1939年ナチスが破壊) 、1869年にユダヤ人墓地(市の西端)などが作られた。

家はPirnitzergasse 265(現ズノイモ通 4、2000年改築)、ついで隣家264(現ズノイモ通 6)も買い取り、翌年に大改修してバーの開き、他人所有のものも借りうけ、そこで蒸留酒やブランディを売って財をなし、メイドや使用人も増えた。

1863年11月:本籍をカリシュトからイグラウへ移し、然るべき税金を払い市民となった。父は仕事熱心で意欲満々だったが、粗野で気性が激しく、生来心臓が弱く繊細で虚弱な母とは絶えず言い争っていた。そんな時グスタフ少年は通りの手回しオルガンの音や、乳母や奉公人がチェコ語で歌う民謡に憩いを求めていた。彼は4歳ですでに楽才を示し、級友フィッシャーTheodor Fischer(1859~1934、ウィーン大学でも席を並べ、イフラヴァのカトリック墓地に眠る)の父が合唱長をしている、聖ヤコブ教会(1243年建立)で歌い、ミサ曲の美しさに心打たれた。音楽の師はその外、市立劇場のJ・ジシカやFr・ヴィクトリン、ブルックナーに学んだV・プレスブルク、F・シュトゥルムらだった。

近くの兵舎(1794~1995、クシージョヴァー通2)からはラッパの音が響いて来たし、広場では軍隊パレードや野外コンサートが行われていた。小学校(ブルノ通29)へは1869年まで通っていた。レデチ村の母方の祖父宅(祖父母はグムポレツのユダヤ人墓地に眠る)の屋根裏で、埃をかぶったピアノに興味を示し、これを貰って即興演奏する。5歳のとき広場の市で、女たちにアコーデオンを弾いてきかせた。

1866年7月初旬:レオポルト大公とザクセン王ヨハンの相次いでの訪問、激励にも拘らずオーストリア軍は敗退、プロシャ軍が町中を勝利の歌を響かせながら行進、傷病兵の護送やコレラの流行を目にした。11月にはフランツ・ヨーゼフI世が戦後の視察に訪れた。この年イグラウの丘で、最後の2人の公開処刑があった。

7歳のときピアノ教師に最初の作品、序奏つき葬送行進曲「ポルカ」を見せた。

1869年ドイツ・ギムナジウム(現図書館、フルボカー通1)に通う(1875年まで)。
父親に2コルナの約束で「トルコ人」という歌曲を書いた。歌詞は“ハーレムに美女を囲っているトルコ人になりたいが、ワインが飲めないのが玉に瑕きず”という単純なものだった。12月20日、凍りついた道で財布を拾い駐在所に届けた。

1870年:10月13日、市立劇場(現ホラーツカー劇場、1994年再建)でピアノ公開演奏。
前年の善行が3日後、雑誌Vermittlerで公表された。

1871年プラハ新市街ナ・プシーコピェ16の、ギムナジウム(旧ピアリスト寄宿舎1760/ 65年創設)へ遊学するが、市中心ツェレトナー通29の下宿で、家主の息子でピアノ学生グリュンフェルトAlfréd Grünfeld(1852~1924のちの名ピアニスト)が毎晩、女中と愛を交わす激しさに恐れをなし、1年足らずで親元のイグラウへ逃げ帰った。

1872年:11月一家は広い家(現ズノイモ通, 265/ 6)を買い取り、ブルノ通3にも雑貨店を開いて繁盛、乳母や使用人も増えた(1889年まで)。11月11日校内行事の一環としてグスタフ少年は、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」(リスト編曲)を弾いた。

1873年:10月17日、チャプ・ホテル(ジシカ通18現労働会館)で『ノルマ』の主題による幻想曲(タルベルク編曲)を弾いた。当時すでにピアノを教えており,モーツァルトやヴェルディのオペラにも通じていた。

1875年:モラヴァン村とロノフ村を、年長の友人のスタイナーJosef Steiner(1857~1913)と訪れたマーラーは、貴族子女教育に熱心な城(18世紀末建立)主の執事G・シュワルツと知り合い、彼の支援でウィーン留学が決定した。マーラーは級友の台本をもとに『シュヴァーベンの豪族アルノシュト』なるオペラを書き、音楽院で試演した。休暇にゼラウ(ジェリフ)村を訪れフロインドの妹を知る。ヴラシム村の叔母と従姉妹を訪問。ここから郵便馬車に乗り、チェフチツェ村まで遠出し角笛を聞く(第3交響曲)。弟エルンストの死を悼み、オペラ『シュワーベンのエルンスト公』を書く。

1876年:最初の学年をシューベルトのソナタを弾いて一等賞で終え、7月31日市立劇場のコンサートで、自作のヴァイオリン・ソナタとピアノ四重奏曲を、同僚やウィーン宮廷オペラ団員と初演した。これは9月12日イグラウのチャプ・ホテルでも演奏された。

この年から1884年まで休暇を、叔母バルバラ(1847~11923)夫妻のフライシュベルガー(1842~1916)宅で過ごす。

1877年:父親の願いを入れイグラウ・ギムナジウムも卒業。

1877/ 79年:ウィーン大学でブルックナーの講義を受け、Rättig社の依頼で同級生のクシジャノフスキRudolf Krzyźanowski(1859~1911)と、ブルックナーの第3交響曲のピアノ譜を作った。卒業を待たず1879年ここを去る。

1878/ 83年:休暇をゼラウ(ジェリフŽeliv)で過ごした。この村はイグラウの西北35キロ、生地カリシュトの南8キロ、グムポルツ(フムポレツ)の西8キロにあり、そこには親友でのちに顧問弁護士となるフロイントEmil Freund(1859~1928、イグラウの家=現マサリク広場86)がいたせいもあるが、彼に好意を寄せる妹マリエがいたからだった。しかしこの愛は1880年の彼女の自殺で終った。ここでピアノ四重奏曲イ短調を演奏した。この楽譜は1973年にアメリカで発見されたが、これ以外の初期の作品は、破棄されたか所在不明になっている。

1870年代末:ヴラシムVlašim村の母方の叔母アンナ(1838~98)・イグナーツ・フライシュベルガー夫妻宅で、従兄弟のグスタフ・フランクやフィッシャーや、フロインドと過ごした。18世紀末建立のイギリス庭園内シナ・パヴィリオンは「大地の歌」作曲に刺激を与えた。この頃、電信局長ポイズル(旧フルボカー通50現存せず)の娘で、ピアノを教えていたヨゼファJozefa Poisl(1860~1928)に恋するが、彼女は年配の教師と結婚してしまう。彼女に捧げたMaitanz und Grünenは、のちにHans und Gretheとなる(1885年参照)、その音型が交響曲1番の2楽章冒頭に使われる。

1880年:5~6月、上部オーストリアはバード・ハルやライバッハで、保養客相手にオペレッタなどを指揮。「嘆きの歌」を作曲(推敲を重ね、初演は1901年にウィーンで)。

1881年:8月18日、ヴラシム村のカレル四世レストランで、プラハ国民劇場再建(翌年開場)支援コンサートを行った。9月から →

1882年:1月まで、ルブリャナ劇場に招かれ、ピアニストとしても登場した。

1883年:1月12日からオルミュツ(オロモウツ)のドイツ市立劇場(1830年建立)指揮者を務める(劇場経営不振のため3月18日まで)。2月24日、市民会館(リーゲル通,5/ 404)内カジノでの歌曲リサイタルで、ピアノ伴奏をする。春イタリア・オペラ団のカール劇場での公演に際し合唱指揮を手伝う。夏休に西ボヘミア国境エゲル(ヘプ)にある、友人クシジャノフスキの実家に泊る。この年はじめてバイロイトを訪れ『パルジファル』を観る。夏にイグラウでの最後のコンサートを行う。同年8月から1884年6月まで、カッセルのプロシャ劇場指揮者となるも満足せず。

1885年:8月からプラハ・スタヴォフスケー劇場指揮者となり、『ニーベルンゲンの指輪』から2部分、ベートーヴェンの第9などを指揮。4月18日にはBetty Frankの歌う自作歌曲3つと、5月7日ドイツ仮劇場(1897年以降のカルリーン劇場)での歌曲リサイタルでピアノ伴奏を受け持った。この時はホテル「青い星」「金の輪」「青いバラ」に泊まり、ナイトクラブ「ゴゴ」(現レストラン“赤いクジャク”)へピアノを弾きに通い、国民劇場でスメタナとドヴォジャークのオペラを知る。しかしスタヴォフスケー劇場支配人A・ノイマン(1838~1910)と対立し翌年7月ここを去る。

1886年:8月にはライプツィヒ市立劇場でニキシュのもと副指揮者となり、ニキシュの病気の時はワーグナー・オペラを代って指揮した。

1888年1月:遺族の依頼で補完したウェーバー未完のオペラ『ピントを名乗る3人の男』が初演され大成功を収めた。10月ブダペストのハンガリー王立オペラ(1884年新築)の楽長となり、ハンガリー語でワーグナーを歌わせた。エルケル(1810~93)のオペラも復活上演し、ウィーンから多くの歌手を招き水準を高め、1889年11月には自作、第1交響曲を指揮したが、劇場指導部と意見が合わず、1891年11月ここを去る。

1889年:不幸にも2月に父、9月に妹レオポルディーネ、10月に母が他界した。自身はミュンヘンで痔の手術、7月28日から3週間、マリエンバード(マリアーンスケー・ラーズニェ)などで静養。イグラウの2軒の家を売り払って借金を清算。両親のためにユダヤ人墓地に立派な墓碑を建てた(その後一家の多くは当地ユダヤ人墓地に葬られた)。弟のアロイスは当てにならず、ユスティーヌをブダペストに連れ帰り、オット、エマをウィーンの親友レールFritz Löhr(考古学者)のもとに預け、イグラウを去る。

1891年:3月から1897年まで、ハンブルク市立劇場主席指揮者となり、定期演奏会も開いた。支配人のBernard Polliniは立派な団員を揃えており、中には旧友のクシジャノフスキ、コレペティトゥールにブルノ・ワルターもおり、プラハからバス歌手ヘシュ(1860~1907)も招いた。1892年に入団したメッゾ歌手ミルデンブルクAnna Bahr-Mildenburg(1872~1947)に、マーラーは恋情を抱いていた。同年5~7月にかけてコヴェントガーデン、1897年にモスクワへ演奏旅行した。在任中の夏はザルツブルク近在のアッター湖畔で過ごし、Lieder und Gesänge aus der Jugendzeit(14曲)をまとめ、交響曲2番、3番などを作曲。カトリックに改宗した1897年2月ここでの任期を終える。

1897年:6月から10年間ウィーン宮廷オペラ指揮者となる。

1898年:9月ウィーン・フィル指揮者(団員はオペラと同じ)を以後3年間。ハンブルクから作曲家フェルステル夫人ラウテレロヴァー(1869~1936)など、有名な歌手を引き抜いてきた(在任は1907年まで)。
1899年:9月マイアニグに地所を購入して作曲。ウィーン・セセッション芸術家:ワーグナーO. Wagner, オルリークE. Orlik,モル K. Moll, クリムト, ココシカ, ロラーAlfred Roller(1864~1935、ブルノ出身、1883年からウィーンに住み、宮廷オペラを設計)らと接触。

1902年:アルマ・シンドラーと結婚。マリエ・アンナ誕生。クレフェルトで交響曲3番を初演。

1903年『フィデリオ』、1904年『ドン・ジョヴァンニ』をロラーの新演出で上演。
次女アンナ・ユスティナ誕生(彫刻家,1989年死去)。

1906年:11月11日、ブルノ・ドイツ会館(現モラヴィア広場)で、交響曲1番を指揮、1883年までここに家族が住んでいたロラーと再会

1907年:長女マリエがマイアニグでショウコウ熱に罹り死亡。12月17日一家でニューヨークに渡り、1911年までメトロポリタン・オペラの指揮者を務める。

1908年:元旦の『トリスタンとイゾルデ』を手始めに、ワーグナー、モーツァルト、ベートーヴェンのオペラの上演指揮。共演者にはカルーソー、シャリアピン、K・ブリアンらがおり、デスティノヴァーを主役に1909年には『売られた花嫁』をドイツ語上演した。ここでの1シーズンは3~4ヶ月だったから、余暇にはヨーロッパに演奏旅行しトルバッハで作曲に励んだ。夏カールスバード(カルロヴィ・ヴァリ)で静養、9月19日プラハ産業博覧会の折、チェコ・フィルを指揮し、自作の第7交響曲をプラハ北部の見本市会場(木造で現存せず)で世界初演、ホテル「青い星」(1935年、銀行に衣替え)に宿泊。

1909年からはライバルとしてトスカニーニが登場。この秋に私的ニューヨーク・フィル指揮者を依頼され、各都市で46回のコンサートを行った。9月工場主レドリヒFrotz Redlichに招かれたゲディング(ホドニーン)で、「大地の歌」を完成させたマーラーの言葉:
「友よ、この世が私を生んだのは、幸せになるためではなかった、私はこの地方を進んで行きたい。そこへ戻り決して外国とつくにに憧れない。この土地はそれほど美しく、見渡す限り遠くまで青く輝いているから、いつまでも、永遠に・・・」

1910年:かねてからの心臓神経症が悪化、秋にヨーロッパへ帰り、ミュンヘンで交響曲8番を指揮し、多くの知人が参加した。秋に再渡米し予定の65回のうち48回しか指揮できなかった。死の数ヶ月前に、モラヴィアはフライブルク(プシーボル)出身のフロイトの精神鑑定を受けた。

1911年:4月アメリカからパリに向かい、肺炎球菌感染症と診断され、家族にウィーンへ連れてゆかれ5月18日死去、グリンジングに葬られた。ニューヨーク・フィルの後継指揮者ストランスキーJosef Stransky(1872~1936)はグムポルツの出身。


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アルマ・マーラーの証言によれば、マーラーは毎日、死について考えていたという。13人兄弟姉妹のうち8人が夭逝していたからか、彼らの子供の遊びには、ロウソクに火を灯す弔いの儀式もあったという。ギムナジウムに入り、何になりたいかと訊ねられた時、殉教者と答えた。キリストを信じていたらしい。

ドストエフスキーの哲学に共感し、{どこかに苦しんでいる人がいるのに、どうして幸せでおれよう}が信条となった。交響曲「復活」では、人生の目指すところは死では?と問いかけている。〔魚に説教するパドゥアのアントニウス〕により「原光」が出来上がる。{私は神から来たのだから、神のもとに帰りたい}。

彼ははじめ造形芸術にほとんど無関心だったが、次第にウィーン・セセッションに近づいてゆき、ウィーン宮廷オペラの舞台装飾家のロラーの大胆な舞台装置を擁護した。セセッション芸術家の集まりに自分の別荘を提供していた画家モルCarl Mollは、のちにマ-ラーと結婚するアルマ・シンドラーの義父だった。この集いの寵児クリムトは、マーラーの音楽に共感し{幸福への憧れ}を象徴する長さ24メートルのタペスリー{ベートーヴェン}で彼を讃えた。

義父モルの別荘で当時20歳のアルマは、15歳年上のクリムトと恋に落ち、両親およびクリムトと一緒にイタリアへ旅した。たまたま娘の日記を見た母親は、二人の仲に驚いた。クリムトのウィーンでの風評(女性関係)が芳しくなかったから。彼との密会を禁ぜられたアルマは、ウィーンに帰ってから自殺まで考えたらしい。しかし作曲でこの苦しみを昇華させた。クリムト(1862~1918)の祖先はボヘミア出身で、シーレ(1862~1918)の母親も南ボヘミアはチェスキー・クルムロフの出身、二人とも1918年に亡くなったのは、スペイン風邪(インフルエンザ)のためと思われる。

夫の死後、多情なアルマは、建築家クロビウスと結婚(娘マノン)、さらにプラハ生まれの作家ヴェルフェル(1890~1945)と再婚、アメリカの彼女の音楽サロンには、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、コルンゴールドらが出入りしていた。

1932 年に高水準のDie Wiener Walzermädelnを設立、ヨーロッパ中を演奏旅行したが、強制収容所で演奏する羽目になる。

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1960年カリシチェとイフラヴァに記念額掲示。

1986年フムポレツにマーラー記念室

1990年マーラーの次女アンナ・ユスティーネ(彫刻家)は、モーツァルトを讃えるザルツブルクでの展覧会への途次、1889年に他界した。その一人娘マリナは1991年12月初旬、プラハの国際マーラー・センターや、カリシチェ、ジェリフ、フムポレツなどを歴訪した。

1992年7月1日フムポレツ博物館でコンサート。祝典はマーラーの第7交響曲がプラハ世界初演された9月19日に合わせ行われた。

1993年オロモウツの1931年設立銀行跡に、マーラー・カフェ開店(上手広場11)。

1994年イフラヴァにマーラー・ホテル開業(クシージョヴァー通4)、ヴィソチナ博物館に“若き日のマーラーとイフラヴァ”展示室が開場(コスマーク通9)。

1997/ 98年カリシチェの生家(1937年焼失)改修。

2006年カリシチェの生家が改装され、前夜祭には歌手Thomas Hampsonらが招かれ, Wolfgang Riegerの伴奏でG・ベニャチコヴァーが歌った。参加者にはイギリス・ブリテン協会会長Donald Michell、オランダ・マーラー協会会長Willem Smithおよび、G.M.Masonらがいた。マーラーの孫娘マリナも参加した洗礼者ヨハネ教会では、Musica Noster Amor代表フデチェク、ペツコヴァー「さすらう若者の歌」、ビェロフラーヴェク指揮プラハ室内フィルのコンサートがあった。マーラーの通った学校には例年のごとくバラが植えられ、この年はノイマンとコシュレルのために捧げられた。


あとがき
1990年5月26日フムポレツ在住のマーラー研究家リヘツキーJiří Rychetský氏(1926~2012)を訪ね、まずは当地のフルドリチカ記念館内のマーラー記念室を見せてもらった。フルドリチカAleš Hrdlička(1869~1943)は当地出身の有名な人類学者で、1903年から死ぬまでワシントン博物館の人類学部門の長を務めていた(プラハ・カレル大学人類学部内にも記念室がある)。その後カリシチェの生家や、若き日の恋を燃やした地ジェリフ村などを案内してもらった。イフラヴァにはマーラー記念館があり、誕生日の7月7日(最近は秋)を中心に毎年、音楽祭が催されている。


チェコ(ドイツ)都市名対比表イフラヴァ Jihlava (Iglau)
ヴラシム Vlašim (Wlaschim)
オロモウツ Olomouc (Olmütz)
カリシチェ Kaliště (Kalischt)
ジェリフ Želiv (Selau)
チェフチツェČechtice (Czechtitz)
フムポレツ Humpolec (Gumoplds)
フメルナー Chmelná(Chmelna)
プラハ Praha (Prag)
ブルノ Brno (Brünn)
ヘプ Cheb (Eger)
ホドニーン Hodonín (Göding)
モラヴァニ Moravany(Morawan)
マリアーンスケー・ラーズニェMaránské Lázně(Marienbad)
レデチ Ledeč nad Sázavou (Ledetsch an der Sasau)
リプニツェ Lipnice nad Sázavou(Lipnitz an der Sasau)サーザヴァ河畔
ロノフ Ronov nad Doubravou(Ronow)ドウブラヴァ河畔

map


参照文献:
Jiří Rychetský:Po stopách G.Mahlera v Čechách a na Moravě, Humpolec
手書き原稿(1995)
Milan Palák:Po stopách G.Mahlera v Čechách a na Moravě, Fr. Šalé (2003)
ISBN 80- 903362- 0- 5
Ludmila Klukanobvá:Jihlava a G.Mahlerovi, Parola (2010)
ISBN 978- 80- 903282- 7- 3


sekine
リヘツキー氏とマーラー生家にて

[ 2013/07/07 09:12 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)

カレル・アンチェルについて

アンチェル1908年4月11日(カラヤンの生誕に遅れること6日)、南ボヘミアはターボル南南東、約20キロの小村トゥチャピに生れた。父親は醸造酒業者で、母親は北スロヴァキアのジリナ生、1911年には妹のハナも生れた(1931年病死)。カレル少年は犬や馬や車が大好きで、村に1台しかない蓄音機で聴く、とくに「二人の敵弾兵」と「カルメン」に夢中になった。一家でプラハへ旅行したとき、新ドイツ劇場(元スメタナ劇場、現プラハ国立オペラ劇場)で生の「カルメン」を観た時には、オーケストラ・ボックスまで走っていった。少年は地元でヴァイオリンやピアノを習っていた。その後プラハの叔母の家に下宿して小中学校へ入り、サッカーにも興じていた。さらにヘーゲル・ピアノ塾へ妹といっしょに入り、1921年にはシェフチークの弟子シルハヴィーの音楽塾に通い、オーケストラではヴィオラを弾いていた。

1926年プラハ音楽院(学校はエマウズ修道院、のちにルドルフィヌム)に入学、クシチカ(作曲)、ヂエデチェク(指揮)、ヘロルト(室内楽)、ショウレク打楽器)に学び、ストゥプカから個人教授も受けた。1930年6月24日、作曲では「シンフォニエッタ」、指揮はベートーヴェンの第6交響曲で卒業した。

1931年5月17日、ミュンヘンのAm Gärtnerplatz劇場で、シェルヘンの指導のもと、ハーバの四分音オペラ「母」を世界初演した。その後、ヴァーツラフ広場の路地ヴォヂチカ通りで、イェジェク(1906~42)が主催する“解放劇場Osvobozené divadlo”へ、ヴァイオリニスト・指揮者として迎えられた。結婚したのはこの頃である。1933年アムステルダムでの国際現代音楽祭で、コンツェルトヘボウ楽団を指揮、シェルヘンが主催するストラスブールのセミナーでは、マルケヴィチのバレエ「イカロス」を指揮した。この年の11月半ばに解放劇場を辞職した。

1934年プラハ放送SOに入り(1938年まで)、まずはプロコフィエフの第3交響曲と、ピアノ協奏曲第1番(ソリストは作曲者)を指揮、シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」のプラハ初演も行った。1935年1月にはチェコ・フィルに客演、グルック、プロコフィエフ、ハーバの作品を指揮した。

チェコスロヴァキアは1918年に独立を果たしたが、20年後の1938年3月には、ナチス・ドイツの支配下におかれる。ユダヤ人狩りが強行され、音楽院時代の師ドレジルに、テヘランに新設された音楽院で職を得るよう薦められたが、受諾しなかった。故郷のトゥチャピ村へ帰ったが、家はナチスの没収され、森や畑の仕事をするかたわら、近在の村の城へロハン伯の8歳の息子にヴァイオリンを教えに週4回、自転車で通っていた。ゲシュタポに逮捕されターボルの町に収監されてから、1942年11月12日テレジーン収容所へ送られた。1943年2月28日、息子のヤンがここで生れた。

1944年10月15日、一家はアウシュヴィツへ送られ、アンチェルは労働班に入れられたが、両親と妻や息子は翌々17日ガス室から煙となって昇天した。収容所では主に炊事係を担当していた。その後アンチェルはグルス・ローゼン収容所の支部、シレジアのフリードランドへ送られた。ある日ここで兵士に左耳を殴られ血を流したが、同囚のスロヴァキア人耳鼻咽喉科医の適切な治療で、事なきを得た。終戦間際、囚人たちは武器まで奪い反乱を起こした時、この医者は先頭に立っていた。アンチェルは仲間二人とプラハへの帰路についた。

第二次世界大戦終結後の1946年、アンチェルは“五月五日大劇場(共産政権下はスメタナ劇場)の指揮者となり、1947年までのシーズンに「スペードの女王」「ホフマン物語」「売られた花嫁」「ボエーム」「母」「ドン・ジョヴァンニ」を指揮した。

1947年にはふたたび放送SOへ戻たが、翌48年2月クーデターで共産党が権力の座につき、1950年代半ばまでは、反スターリン分子粛清の嵐が吹きまくる。こうした厳しい時代に、指揮者クーベリックらは亡命し、在米中の作曲家マルティヌーは帰国をあきらめ、弟子のヤン・ノヴァークもアメリカへ1年留学しただけで、公的活動の場を奪われた。

ターリヒの後任指揮者クベリークが亡命したため、当座ノイマンが代行していた。その後シェイナが常任、ノイマンが副指揮者となった。一時期アンチェルは芸術アカダミーで、コシュラーやトゥルノフスキーらに指揮を教えていた。当時、楽団員にはシェイナを支持する派と、アンチェルおよびスメターチェクを支持する派の2つがあった。後者の方が優勢で、この二人のコンクールという話もあったが、実現しなかった。こうした折、オイストラフが文化大臣ネイェドリーを動かし、1950年チェコ・フィル常任指揮者にアンチェルが就任させた。

日本とチェコスロヴァキアが国交を回復した翌1959年、かの国から文化使節として、スメタナ弦楽四重奏団、スーク・トリオ、ヤーセク(ヴァイオリン)、ポコルナー(ピアノ)、チェコ・フィルなどが相ついで来日した。その頃“Musica nova Bohemica & Slovenicaチェコとスロヴァキアの新音楽”というLPシーズが30点ほど出ており、アンチェル指揮チェコ・フィル盤には、注目すべきものとして、ハヌシュの「協奏交響曲」(3枚目)や、マルティヌーの「3つの寓話」H.367(11枚目)が入っていた。

1959年アンチェル指揮チェコ・フィル初来日演奏会は盛況で、当時スプラフォン社から出版された冊子には、10人ほどの男女中学生に囲まれ、笑顔でサインしたり、寝台車でくつろぐ浴衣姿のアンチェルの写真がのっている。その表情には、ナチス強制収容所での苦難の跡など微塵もない。彼は1930年代前半、俳優ヴォスコヴェツ+ヴェリヒ+作曲家イェジェク・トリオの解放劇場で、ファシズムを揶揄するレヴューを指揮していたから、ナチスのブラックリストに載っていたらしい。テレジーン収容所で、彼が室内オーケストラを指揮している映像は、今もこの収容所跡記念館で観ることができる。

Ancerl_in_Japan1

Ancerl_in_Japan2



[ 2013/07/03 20:49 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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