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マルチヌーの「カンタータ花束 KYTICE 」 H.260 (1/2)

花束

モラヴィア、ボヘミア民俗詩による“独唱、混声と児童合唱、小オーケストラのための”このカンタータは、1937年6月21日までに7曲までがパリで書かれ、夏休みは珍しく帰郷せず、8曲目は独立したものとして9月26日に完成されたこれはプラハ放送の委嘱作品で、画家ズルザヴィー(1890~19777)から贈られた「よきサマリアびと」(ルカ伝 10章35~37)⇒への返礼として、彼に献呈された。1938年4月5日、イェレミアーシ指揮する放送交響楽団、独奏者J・ヴィルドヴァー、M・ツィテラ-コヴァー、Bブラフト、J・ヘロルト、チェコ合唱団、キューン児童合唱団によりラジオ放送され、公開演奏は1955年3月13日、アンチェアル指揮チェコ・フィルが行った。

全8曲は、間奏をはさみ2曲づつ対をなす小カンタータの連鎖で、ソプラノ、アルト、テノール、バス独唱、合唱、児童合唱。
楽器編成は2320-2210、イングリッシュ・ホルン、ハルモニウム、2台ピアノ、弦10も含め、25~29名という小規模なもので、ストラヴィーンスキイの『結婚』を意識している。

第1部:
1.前奏曲:
モデラート、ニ短調、3/2~2/2拍子。中間部に2台ピアノついで弦のみの上向パッセージをはさむ三部形式。

2.毒を盛る姉:
アレグロ、変ロ短調~ニ長調、2/4拍子。スシル収集モラヴィア民謡集(以下S.)354番による。槍騎兵に“いっしょに来ないか”と誘われた娘ウリアナ(ソプラノ・ソロ)が、芝刈から帰ってきた弟を毒殺するが、弟の葬式の日に逮捕される。
オーケストラ、合唱、ソロまたは複数ソロが交代で現れ、ホルン持続音の上でオーボエ・ソロ(モデラート)が入る。独唱、合唱のメノ・モッソ、ピウ・ヴィヴォを経て、テンポ1で冒頭部分がくり返される(姉弟関係は、若妻・夫とも解釈できる)。

3.牧歌:
アンダンテ・ポコ・モデラート、ハ長調、3/4拍子。トリオ(ポコ・アレグレット、ヘ長調、6/8拍子)をはさむ、ダ・カーポ三部形式のきわめて叙情的な曲で、シャブリエの「牧歌」やフォーレの「ドリー」の雰囲気を感じさせる。

4.牛飼(追)い娘の呼びかけ声:
モデラート~アレグレット・モデラート、5/8~3/4~2/4拍子。牛飼い娘(ソプラノとアルト独唱)が、谷をはさんで、ア・カペラで「エイ、ホヤ!」とヨーデル調で呼びかけ合い、合唱がこだまを返す。時折入る伴奏ではヴィオラが目立つ。

5.間奏曲Intráda:
モルト・モデラート、変ホ長調、3/4拍子。3拍目にアクセントのある管楽器主体の短い行進曲。

6.家族に勝る恋人:
モデラート~ポコ・アレグロ、ト短調~ハ長調、3/4拍子。合唱がナレーション役。3年以上もトルコの牢獄に捕われている若者(テノール)が、父(バス)、母(アルト)、兄や姉(合唱)に“身代金を払って助けてくれ”と願うが、彼らにはその金がない。若者が恋人に頼む(奔馬調伴奏)と、彼女(ソプラノ)は獄舎の窓の外から絹の紐を垂らし彼を救う。S.829番の歌詞により、イングリシュ・ホルンが嘆きの調べを奏でる。最後は二人を祝福するかのように、第5曲の行進曲が高らかに鳴り響く。

第2部:
7.コレダ(クリスマス・キャロル):
モデラート~ポコ・ヴィーヴァーチェ、ト長調の前奏についで、ポコ・アレグロ、ト短調~イ長調、2/4拍子の児童合唱がはじまる。作り物の蛇(悪魔)を手に子供たちが家々を回りお布施をもらう。歌詞はエルベン民謡集621番「神様が天国に向かう」と、S.80~82番「アダムとイヴ」をつなげたもの。ボヘミアでは結婚式に、スロヴァキアではクリスマスから新年にかけ歌われる。児童合唱に終始し、木管がクリスマスの雰囲気を醸し出している。

8.男と死:
歌詞はS.22~24番「死」による。
1)アダージョ、ロ短調~イ短調、4/4拍子:ティンパニが轟き、ピアノの16分音符とともにリズムを刻む。イングリシュ・ホルンの悲歌から、2台ピアノ・ユニゾンとなる。
2)アンダンテ・ポコ・モデラート:変イ長調、4/4~3/4拍子。ほぼア・カペラのアルト独唱「一人の男がいた・・」を合唱が後づける。
3)ポコ・モデラート:変ロ長調~へ長調、3/2~2/2拍子。男(バス)が満足げに自分の畑を見まわし、合唱が後づける。
4)レント:ピアノの刻む不協和音進行を背景に、アルト、バス独唱(のちにソプラノ、テノール独唱も加わる)と合唱がユニゾンで、「彼は死神に出会った・・」と歌う。
5)バス独唱のポコ・モデラート、変ロ短調、5/4の短いパッセージから、モデラート、嬰ハ短調、3/4拍子の合奏部分を経て、ヘ長調(ニ短調)、4/4~3/4拍子で、死神(ソプラノ、アルト独唱)と、男(バス)の対話が続く。
6)ポコ・アレグロ:ピアノを主体とし器楽パッセ-ジについで、ポコ・ヴィヴォ:男声のみの独唱と合唱がユニゾンで、女声のみの独唱と合唱が、美田や若い妻や息子を残してゆかねばならぬ、と訴える男を彼岸へ誘う。
7)アンダンテ:死神の放った矢が男に当たる。ヴィオラ独奏につい独唱と合唱がで、人は死を免れないと歌い、オーケストラは半音づつ下降する和音進行ののち、ハ長調主和音に終止する。


[ 2014/06/22 12:53 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)

カレル・アンチェルについて

アンチェル1908年4月11日(カラヤンの生誕に遅れること6日)、南ボヘミアはターボル南南東、約20キロの小村トゥチャピに生れた。父親は醸造酒業者で、母親は北スロヴァキアのジリナ生、1911年には妹のハナも生れた(1931年病死)。カレル少年は犬や馬や車が大好きで、村に1台しかない蓄音機で聴く、とくに「二人の敵弾兵」と「カルメン」に夢中になった。一家でプラハへ旅行したとき、新ドイツ劇場(元スメタナ劇場、現プラハ国立オペラ劇場)で生の「カルメン」を観た時には、オーケストラ・ボックスまで走っていった。少年は地元でヴァイオリンやピアノを習っていた。その後プラハの叔母の家に下宿して小中学校へ入り、サッカーにも興じていた。さらにヘーゲル・ピアノ塾へ妹といっしょに入り、1921年にはシェフチークの弟子シルハヴィーの音楽塾に通い、オーケストラではヴィオラを弾いていた。

1926年プラハ音楽院(学校はエマウズ修道院、のちにルドルフィヌム)に入学、クシチカ(作曲)、ヂエデチェク(指揮)、ヘロルト(室内楽)、ショウレク打楽器)に学び、ストゥプカから個人教授も受けた。1930年6月24日、作曲では「シンフォニエッタ」、指揮はベートーヴェンの第6交響曲で卒業した。

1931年5月17日、ミュンヘンのAm Gärtnerplatz劇場で、シェルヘンの指導のもと、ハーバの四分音オペラ「母」を世界初演した。その後、ヴァーツラフ広場の路地ヴォヂチカ通りで、イェジェク(1906~42)が主催する“解放劇場Osvobozené divadlo”へ、ヴァイオリニスト・指揮者として迎えられた。結婚したのはこの頃である。1933年アムステルダムでの国際現代音楽祭で、コンツェルトヘボウ楽団を指揮、シェルヘンが主催するストラスブールのセミナーでは、マルケヴィチのバレエ「イカロス」を指揮した。この年の11月半ばに解放劇場を辞職した。

1934年プラハ放送SOに入り(1938年まで)、まずはプロコフィエフの第3交響曲と、ピアノ協奏曲第1番(ソリストは作曲者)を指揮、シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」のプラハ初演も行った。1935年1月にはチェコ・フィルに客演、グルック、プロコフィエフ、ハーバの作品を指揮した。

チェコスロヴァキアは1918年に独立を果たしたが、20年後の1938年3月には、ナチス・ドイツの支配下におかれる。ユダヤ人狩りが強行され、音楽院時代の師ドレジルに、テヘランに新設された音楽院で職を得るよう薦められたが、受諾しなかった。故郷のトゥチャピ村へ帰ったが、家はナチスの没収され、森や畑の仕事をするかたわら、近在の村の城へロハン伯の8歳の息子にヴァイオリンを教えに週4回、自転車で通っていた。ゲシュタポに逮捕されターボルの町に収監されてから、1942年11月12日テレジーン収容所へ送られた。1943年2月28日、息子のヤンがここで生れた。

1944年10月15日、一家はアウシュヴィツへ送られ、アンチェルは労働班に入れられたが、両親と妻や息子は翌々17日ガス室から煙となって昇天した。収容所では主に炊事係を担当していた。その後アンチェルはグルス・ローゼン収容所の支部、シレジアのフリードランドへ送られた。ある日ここで兵士に左耳を殴られ血を流したが、同囚のスロヴァキア人耳鼻咽喉科医の適切な治療で、事なきを得た。終戦間際、囚人たちは武器まで奪い反乱を起こした時、この医者は先頭に立っていた。アンチェルは仲間二人とプラハへの帰路についた。

第二次世界大戦終結後の1946年、アンチェルは“五月五日大劇場(共産政権下はスメタナ劇場)の指揮者となり、1947年までのシーズンに「スペードの女王」「ホフマン物語」「売られた花嫁」「ボエーム」「母」「ドン・ジョヴァンニ」を指揮した。

1947年にはふたたび放送SOへ戻たが、翌48年2月クーデターで共産党が権力の座につき、1950年代半ばまでは、反スターリン分子粛清の嵐が吹きまくる。こうした厳しい時代に、指揮者クーベリックらは亡命し、在米中の作曲家マルティヌーは帰国をあきらめ、弟子のヤン・ノヴァークもアメリカへ1年留学しただけで、公的活動の場を奪われた。

ターリヒの後任指揮者クベリークが亡命したため、当座ノイマンが代行していた。その後シェイナが常任、ノイマンが副指揮者となった。一時期アンチェルは芸術アカダミーで、コシュラーやトゥルノフスキーらに指揮を教えていた。当時、楽団員にはシェイナを支持する派と、アンチェルおよびスメターチェクを支持する派の2つがあった。後者の方が優勢で、この二人のコンクールという話もあったが、実現しなかった。こうした折、オイストラフが文化大臣ネイェドリーを動かし、1950年チェコ・フィル常任指揮者にアンチェルが就任させた。

日本とチェコスロヴァキアが国交を回復した翌1959年、かの国から文化使節として、スメタナ弦楽四重奏団、スーク・トリオ、ヤーセク(ヴァイオリン)、ポコルナー(ピアノ)、チェコ・フィルなどが相ついで来日した。その頃“Musica nova Bohemica & Slovenicaチェコとスロヴァキアの新音楽”というLPシーズが30点ほど出ており、アンチェル指揮チェコ・フィル盤には、注目すべきものとして、ハヌシュの「協奏交響曲」(3枚目)や、マルティヌーの「3つの寓話」H.367(11枚目)が入っていた。

1959年アンチェル指揮チェコ・フィル初来日演奏会は盛況で、当時スプラフォン社から出版された冊子には、10人ほどの男女中学生に囲まれ、笑顔でサインしたり、寝台車でくつろぐ浴衣姿のアンチェルの写真がのっている。その表情には、ナチス強制収容所での苦難の跡など微塵もない。彼は1930年代前半、俳優ヴォスコヴェツ+ヴェリヒ+作曲家イェジェク・トリオの解放劇場で、ファシズムを揶揄するレヴューを指揮していたから、ナチスのブラックリストに載っていたらしい。テレジーン収容所で、彼が室内オーケストラを指揮している映像は、今もこの収容所跡記念館で観ることができる。

Ancerl_in_Japan1

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[ 2013/07/03 20:49 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)

大指揮者ターリヒ晩年の悲劇

第二次世界大戦が終結した直後の1945年5月9日、ターリヒは隠遁先のベロウン(プラハ西45km)から、娘のヴィータ・デイメロヴァーと徒歩で、国民劇場で上演すべき祝典オペラ『リブシェ』のスコアと指揮棒を抱えプラハへ向かった。しかし彼は国民劇場で門前払いを食らった。さらに3日後の12日(スメタナの命日)、プラハ南区ヴィシェフラト国民墓地に墓参したターリヒは、偶然、ネイェドリィー*文化大臣と出くわし、彼に大戦中ナチスに協力したと難癖をつけられた。つまりナチス宣伝相ゲッベルスの命で、1941年2月11~12日、ドレスデンでチェコ・フィルを率い、「エグモンド序曲」と『わが祖国』全曲を指揮したからだった。こうして9日後の5月21日にターリヒは、モスクワ帰りで当時、権勢を誇っていたネイェドリーの差し金で、悪名高いパンクラーツ刑務所に投獄された。しかし37日後ベネシュ大統領の介入で釈放された。1942年の国民劇場を率いての『イェヌーファ』ベルリン公演は、病気を理由に断り、ヴィノフラディ病院で手術を受け、同劇場指揮者の地位を退いた。後任はクベリーク(48年まで)。

1946年以降:指揮活動をほとんど禁じられ、音楽院生を集めたチェコ室内管弦楽団を創設。1947:7月7日、国民劇場総裁に復帰。マルチヌー作品「交響曲5番」「二重協奏曲」
「チェロ協奏曲1番」「シンフォニエッタ・ジョコーザ」(独奏ルルー)を指揮。
1948:チェコ・フィル指揮者に復帰するも、2月末の共産主義政権樹立で、1953年2月25日(スターリン死去の直前)まで、独裁者ネイェドリィーがチェコ楽界を支配。
1949:ブラチスラヴァ室内オーケストラ創設(1952年まで)。
1951:指揮者なしプラハ室内オーケストラを創設。
1951~52:スロヴァキア・フィルの首席指揮者を務め、高等音楽院で教えていた。
1954:1月14日、ふたたびチェコ・フィルの首席指揮者・音楽監督に返り咲き(翌年11月19日まで)、”プラハの春音楽祭“で『わが祖国』を指揮。その後は1955年までは録音のみに従事、
1956年ベロウンに隠棲、この地で1961年没。

*ネイェドリーZdeněk Nejedlý(1878リトミシュル~1962プラハ):
音楽学者、評論家、文筆家。1896年プラハのカレル大学に入り、スメタナの擁護者ホスチンスキーの音楽美学を受講、師の友人フィビヒに音楽学を学ぶ。彼はドヴォジャークの娘オティリエをスークに奪われたため、ドヴォジャーク、スーク、ヤナーチェクに対し敵意を抱くようになった(1912年)。オストロチル指揮V・ノヴァークのオペラ・チクルスにつき、指揮者、作曲者と論争(1930年)。音楽の社会的特性につき作曲家ヴァチカーシュ(1881~1954)と論争(1936年)。
大戦中はソ連に亡命、モスクワ大学で音楽学を教えていた。戦後、共産党が政権を奪ってからは、文化大臣(1945~51)として権勢を振るい、マルチヌーのプラハ音楽院教授就任を妨害するなど反対派を弾圧。大戦末期に病死した音楽家の息子ヴィート(1912~45)の名を、国軍オーケストラに冠して英雄に祭り上げ、輩下のイェレミアーシュ(1892~62)を1945年プラハ国民劇場総裁に就任させた。

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プラハ国民劇場でゲッペルスの訪問を受けるターリヒ


Talich2
スロヴァキア・フィル指揮者ライテル(1906~2000)、コンサートマスター、ガシュパレク(1913~)と

ターリヒ1940年までの軌跡
父Jan (1851~1915)東南ボヘミアのフヴォイノフChvojnov生、クロアチアのPetrinka没。プラハ・オルガン学校卒(1880/ 82)。クロムニェジーシュ(1882/ 83)、ロジュノフ(1883/ 87)を経て、クラトヴィ(1887/ 97)で私立音楽学校を経営。1902年クロアチアに移住。
姉Marie(1879~1930)ピアニスト。
兄Jan(1881~1953)チェリスト。1903年から生涯プルゼニュに住み、当地のフィルハーモニーに所属(1919/ 47)、室内楽奏者としても活躍していた。

ターリヒVáclav Talich,(1883~1961)
1883:モラヴィアのクロムニェジーシュに生まれたが、ほどなく西ボヘミアのクラトヴィに移住し、父にヴァイオリンを学び、教会所属オーケストラでは最初テンパニを叩いていた。
1892:4月、9歳のヴァーツラフ少年は、渡米前の演奏旅行で当地を訪れたドヴォジャークの弾く、ピアノ三重奏曲「ドゥムキ」(ヴァイオリン=ラフネル、チェロ=ウィハン)を聴いて大いに感銘。
1897-1903:ドヴォジャークの支援を得て、プラハ音楽院でマジャークとシュフチークにヴァイオリンを学ぶ。この間に短期間アカデミー合唱団を指揮。シェフチークの薦めでベルリン・フィルに入団、コンサートマスターとなり、指揮者ニキシュの影響で指揮者を志すも、肺結核を患い帰国。
1904:オデッサ市立オーケストラのコンサートマスターとなり、ストゥプカ(1879~1954)と出会う。
1905:革命でトビリシへ移り1年間、指揮者を務めた。
1906~07:帰国。プラハのM・ランゴヴァー(1865~1905)歌唱学校でコレペティトゥールと、歌唱コースの指導者。
1907~08:プラハ・オーケストラ協会Pražské orch. sdruženíの指揮者。チェコ・フィルには野外コンサートに初登場。
1908~12:スークの勧めでスロヴェニア・フィルを指揮、同時にルブリャナ・オペラで『売られた花嫁』と『ルサルカ』を指揮。その間ライプツィヒでレーガーに作曲を、ハンス・シット(1850~1922)に指揮を学び、ニキシュの助手を務めた。また短期間ミラノでもヴィニャA.Vignaに指揮を学んだ。
1912-15:ふたたびスークの勧めでピルゼン・オペラの指揮者となったが、第一次世界大戦で劇場が閉鎖、プラハの出てフリーの指揮者、教師、ボヘミア弦楽四重奏団と共演。
1917:12月12日、コヴァジョヴィツの薦めで、はじめてチェコ・フィルを指揮(ドヴォジャークとノヴァークの作品)。
1918:4月3日、チェコ・フィル主席指揮者チェランスキーのもと、ドヴォジャークの「チェコ組曲」、交響変奏曲、3つの「スラヴ狂詩曲」を指揮。10月30日(祖国独立2日後)、市公会堂内スメタナ・ホールでスークの「実り」(ソヴァの詩)を初演。
1919:チェコ・フィル指揮者となり、スークの「実り」「ラドゥスとマフレナ」「幻想曲」(ホフマン独奏)を指揮。ドビュッシーの「放蕩児」プラハ初演。10月27日(独立1周年前夜)『わが祖国』をはじめて指揮プラハ音楽院で教鞭を執る。。副指揮者はストゥプカ(1879~1965)。
1920:ストラヴィンスキーの「花火」、シェーンベルクの「室内交響曲」、ルーセルの第1交響曲と「クモの饗宴」のプラハ初演指揮。4月ブラチスラヴァを含む国内巡演。
1921:チェコ・フィルの首席指揮者。この間(1913/ 27)プラハ音楽院で教える。
1922:チェコ・フィルを率いウィーンでの『わが祖国』演奏を手始めに、この年からトリノ(26, 31年も)、ルブリャナ、ウィーン(1928)、パリ(35)、ブリュッセル、イギリスとスコットランド(24~28)、スウェーデン(27, 36, 39, 46)ノルウェイ、フィンランド、ポーランド、ルーマニア、ソ連と国外公演を行う。7月25日:コントラ・バス奏者シェイナ(1896~1982)も指揮に当たる (28年以降しばしば)。
1923:プラハでベートーヴェン・チクルス、マーラーの1~5,9番を指揮。
23~24:シーズン(スメタナ生誕100周年)で『わが祖国』を全国で30回演奏。
1924:スークの交響詩「勝利に斃れし者の伝説」、第2回ISCM(国際現代音楽祭)でマルチヌーの「ハーフ・タイム」、シェーンベルクの「期待」世界初演指揮。
1925:5月11日、スメタナ・ホールから『わが祖国』を含む初放送。第3回ISCM.
1926:2月24日「売られた花嫁」序曲、スークの「セレナーデ」緩徐楽章、ノヴァークの「タトラ山にて」、マルチヌーの「ピアノ協奏曲1番」(独奏ヘシュマン)、「新世界交響曲」。放送ではチェコ・フィルに放送交響楽団のメンバーを加え、第1ヴァイオリン16、第2ヴァイオリン14、ヴィオラ10、チェロ9、コントラバス9とした。
スウェーデンへ行く前、彼はチェコ・フィルを率い、国外公演をイタリア、ユーゴスラヴィア、グラスゴウ、エディンバラで行った。
「新世界」でストックホルム・デビュー。ベートーヴェン・チクルス、8番以外のマーラーの交響曲を指揮。その翌々日、ベルリンへ指揮者探しに出かけたメンバー二人が、不首尾に終って帰ってきたため、ターリヒへの指揮者依頼が具体化した。
彼は指揮活動を(1)10~11月、(2)1月、(3)3~4月の3段階に分けた。こうして1926~36年間に248回指揮し、1939年と1946年にも3回客演し、1930~33年間にはイェーテボリでも演奏した。最初のシーズン(1926/ 27)には、スウェーデンの作曲家ステンハンマー(1871~1927)の作品を取り上げた。
1927:オストルチルの交響詩「夏」、イェジェクのピアノ協奏曲、ノヴァーク作品特集(翌年にかけ)を指揮。
1929:9月3~6日、『わが祖国』をイギリスHMVで録音。
1930:2月、ストラヴィンスキーのカプリッチョ(ピアノ作曲者)、オネガーの「ラグビー」。
1931:3回目のイタリア公演。この年から3年間:ストックホルムに客演、後任はストゥプカ。
1932:レニングラードで指揮、ムラヴィンスキーに感銘を与える。プラハ音楽院専攻科教授。
1933:スークの「エピローグ」、国民劇場でマルチヌーのバレエ「シュパリーチェク」初演。
1934:ノヴァークの「秋の交響曲」初演。マルチヌーの「ピアノ協奏曲2番」(独奏フィルクシュニー)、『ルル』組曲。
1935:スークが心臓発作で急死したため、カルロヴィ・ヴァリで神経症療養中のターリヒは、急遽プラハ国民劇場音楽監督を申し渡された。11月にはチェコ・フィルを率い、ロンドン、ブリュッセル、パリに巡演し、ドヴォジャーク作品をHMVに録音。
1937:初代大統領マサリクの死を悼み『わが祖国』演奏。
1938:第10回”ソコル体育祭“、祖国独立20周年を記念し『わが祖国』演奏。マルチヌーのオペラ『ジュリエッタ』国民劇場で初演。
1939:3月15日から祖国はナチス・ドイツのボヘミア・モラヴィア保護領となる。5月2~25日の間『わが祖国』に始まり「第9」で終る、念願の“プラハ五月音楽祭”(“プラハの春音楽祭”の前身)を、7回のコンサートで実現させた。いくつかの演目は6月にもくり返され、これらはプラハ、オストラヴァ、ブルノ、フランス、ノルウェーでも聴取され、そのうちの2回はノルウェー・ラジオで録音された。皮肉にも「スラヴ舞曲」第2集はナチス侵攻後、ドイツ軍通信網で流され、パリ、トロント、ブリュッセル、ベルグラード、ザグレブ、リュブリャナ、オスロ、コペンハーゲンでも傍受された。シェイナ指揮者となる。
1940:5月には検閲の結果、『わが祖国』の最終2曲「ターボル」と「ブラニーク」は、チェコ人の愛国心を煽るとして、スメタナの「チェコの歌」に差し替えさせられた。チェコ・フィルに対抗し、北ボヘミア・リベレツのズデーテン交響楽団(カイルベルト指揮)が、ドイツ・フィルの名称でプラハに乗りこんだが、成果はあがらなかった(戦後バンベルク交響楽団の母体)。

チェコ・オペラでは:スメタナの『売られた花嫁』(1936, 43)、『リブシェ』(1938)、『ダリボル』(1942)、ドヴォジャークの『ルサルカ』(1936)、『秘密』(1938, 44, 47)、『二人の若後家』(1939)、『ジャコバン党員』(1940)、『アルミーダ』(1941)、ヤナーチェクの『利口な女狐』(1937)、『カーチャ・カバノヴァー』(1938, 47)、『イェヌーファ』(1941)、フィビヒの『メッシーナの花嫁』(1938)、V・ノヴァークの『ルツェルナ』(1940)、フェルステルの『エヴァ』(1939)、マルチヌーの『ジュリエッタ』(1938)を舞台にかけていた。
「スラヴ舞曲」全曲(1935, 50,55年)と、「わが祖国」(1929, 41, 54年)のスタジオ録音が残されている。
[ 2013/04/24 05:54 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)

カレル橋彫像解説 3/3

21.聖アウグステヌス

作者:コールJan Bedřich Kohl(1681~1736)
1708年作のコピー(1974年)。司教の衣をまとい、右手に燃えさかる心臓をかざしている。

碑銘(右足下):

【台座】
Doctorum princpi.
教会教師へ。

【額面】
Doctorum principi mango religionum patriarchae divo patri Augustino pietas filialis erexit.
偉大なる教会教師、総主教たる聖アウグスティヌスを讃え。

献呈:プラハ聖トマス教会付属アウグスティノ修道院。

聖アウグスティヌス(354~430年8月28日):北アフリカ、タガステ(現チュニジア)生。父はローマ帝国地方官吏の異教徒、母モニアはキリスト教徒。カルタゴで淫らな生活にふけっていたが、キケロを読んで目覚め、383年からローマ、ミラノに学ぶ。373~82年間マニ教に熱中。384年ミラノで修辞学を講じ、アンブロジスの説教に感動。388年帰郷、修道院で共同生活。391年司祭、396年司教、ギリシャ哲学とキリスト教を統合した独自の神学を打ち立てる。
ana・上なる, astris ・都、 augeo・治める者

カレル彫像21


22.トレンティーノの聖ニコラス作者

コール1706年作のコピー(1963)。

碑銘:
【台座】
Fidelium consolatori
信者の教師らに。

【額面】
Divo Nicolao de Tolentino prodigiosa sanguinis emanatione paneque miracula continua patranti (sacrum)
飛び散る血と祝福されしパンにより、たえず奇跡を行いしトレンティーノの聖ニコラスに。聖人の足下には、貧者の保護者たる小天使が、パンを入れた籠を抱えている。

献呈:
プラハ聖トマス教会付属アウグスティノ修道会。

聖ニコラス(1245~1304)はフェルモ近郊のサンタンジェロ生。アウグスティヌス会士、1271年に司祭、トレンティーノに赴く。祝日9月10日。カレル四世はニコラスを大いに崇拝していた。Nikos=勝利、Laus=賞賛。

カレル彫像22


23.聖カイェタヌス

作者:ブロコフ1709年。

碑銘:
【聖人に手にある書物】
Qvaerite primo regnum dei et iustitiam eius et haec omnia adjicentur vobis.Math.cap.6. v.33.
まず神の王国とその正しさに目を向ければ、すべての願は叶えられよう。
マタイ伝6章33節。

【台座上】
Sanctus Caietanus Thienaeus clericorum regularum fundator apostolicae vivendi formae imitator.
12使徒の生き方にのっとり、当修道会を設立せしティエネの聖カイェタヌス。

【ピラミッドの右下】
Ioan.Brokoff fecit et inventit.
ヤン・ブロコフ設計、製作。

献呈:プラハ3区(マラー・ストラナ)テアティノ修道会。

聖カイェタヌス(1480~1547)はテアティノ修道会創設(1524年)。ヴィンツェンツァ生、ナポリ没。パドゥアで法律を学び、教皇ユリウス二世の秘書となる。1516年司教、オラトリオ神愛会の一員として改革に尽力。1518年ヴィチェンツァに戻る。1520年ヴェネツィア、1523年ローマ、1527年ローマ追放。ヴェネツィア、ナポリで活躍。祝日は8月7日。

カレル彫像23


24.聖ルトガルディス

作者:ブラウン1710年。傷口に接吻しようとする聖女のために、十字架上のキリストが身をかがめている。

碑銘:
【台座】
s.Lutgardis ordinis cisterciensis
シートー会の聖ルトガルディスに。

【右手額】
Vivificum latus exugit cor mutuans corde. Ex brev. Cist. ad 15 Iunii
復活せる脇腹を心の代りに与う。6月15日シトー会祈祷書より。

【左手額】
Christi crucifixi constricta branchi
十字架にかかるキリストの腕に抱かる。

【台座後】D.honori s.Lutgardis posuit monasterium de plass ord. cisterc. Eugenio Tyttlabbate et praeposito s.m.magd.ad Boh. Lippam 1710
聖ルトガルディスを讃え、プラシのシトー会修道院1710年に建立、代表者チェスカー・リーパの聖マグダレーナ大修道院長エジュヴェン・ティトル。

献呈:刻印に。

聖ルトガルディス(1182~1246)は1200年頃トーングルの修道女となり、ベルギー中世の神秘家サン=トロンのベネディクト会修道院に寄宿。1205年院長、1209年ブリュッセル近くのシトー会へ、アルビ派に回心を求める。29歳で聖痕を受け、35歳で盲目となる。祝日6月16日。
 
この後下にカンパ島へ下る階段(1785年作、1844年再建)がある。現在のはヨゼフ・クラネルの作。
カレル彫像24


25.聖ベニーツィ・フィリッポ

作者:ザルツブルクのマンドル
Michael Bernard Mandl1714年作。

碑銘:
【台座上】
Phillippus Benitius ordinis servorum B.V.M.quintus generalis in humilitate placuit Deo
至高聖母マリア奉仕会第5代総長、聖ベニーツィ・フィリッポは敬虔なる神への信者。橋上、唯一の大理石像。

献呈:リヒテンシュタイン侯爵夫人。

フィリッポ(1233~85年8月23日)はフィレンツェに生れ、パリ、パドゥワに学び医師となる。59年司祭、62年イタリアの「マリアのしもべ会」第5代会長、ギベリン党とゲルフ党との抗争の調停役。
カレル彫像25


26.聖ヴェオイチェフ

作者:ブロコフ1709年作のコピー(1973)。

碑銘:
Marcus de Ioanelli, regiae antiquae vrbis pragenae consularis publico cultui exposui.
プラハ旧市街顧問官マルクス・イォアネッリ謹みて建立。

献呈:マルクス・バルナルト・イォアネッリ。

聖ヴォイチェフ(アダルベルト)は972/81年マグデブルクに学ぶ。983年プラハ第2代司教。キリスト教化に努め教会の改革1709年を推進。989年ローマでベネディクト会聖ボニファティウス修道院に入る。992年プラハに戻りブジェヴノフ修道院を設立。のちボヘミアを追われ、993年ハンガリーを経てローマへ。ポーランド王ボレスラフ一世の招きで、プロイセンに布教、ダンツィヒに没す。祝日は4月23日。
カレル彫像26


27.聖ヴィート

作者:ブロコフ1714年。

碑銘:
【像の下】
s.Vitus
聖ヴィート

【岩の右】
opus Ioan Brokoff
ヤン・プロコフ作。

献呈:レーヴェンマハト家のマトウシュ・マハト(ヴィシェフラト僧院長)。

聖ヴィート:4世紀初頭ディオクレアティヌス帝の迫害の時期、12歳で殉教。シチリア生まれ、異教徒の父親に改宗をすすめられたが、家庭教師モデストゥス乳母レスケンティアとその夫とともに南イタリアに逃れて捕らえられ、皇太子の病いを治したりした。伝説によると彼の聖遺骨は6世紀、シチリア島から南イタリアを経て、8世紀にはパリ郊外のサン・ドニ修道院に移され、9世紀に中部ドイツはコルヴァイの修道院に寄贈されたという。10世紀にプラハは聖ヴィートの片腕をもらい受け、聖ヴィトゥス教会を建てた。チェコ名Svatý Vít の名前が、異教のSvantovítというスラヴの神に発音が似ているため、この聖人崇拝に拍車がかけられたらしい。14世紀にカレル四世はパヴィアにあったその他の聖遺骨も手に入れた。30年戦争の時、コルヴァイにあった物すべてがプラハに移されたという。ヴィトゥスは生命の意で祝日は6月15日。14世紀救難聖人の一人で癲癇の守護人。標章は鍋、足下に横たわるライオン、吊ランプ、鷲などである。
カレル彫像27


28.マタの聖ヨハネとヴァロワの聖フェリックスおよび聖イワン

作者:ブロコフ1714年。犬を連れたトルコ人が牢の中のキリスト教徒を見張り、その上に聖イワンと三位一体会創設者の二人が立っている。

碑銘:
【右台座】
Liberata a contagione patria et conclusa cum Gallis pace
ペスト終息、フランスとの平和条約締結の折に。
 
【さらに右】
Ioan. frsnc. Ios. E. comitibus de Thun F. F. J. Fr.J.
トゥン伯爵、幸運にも成せる。

【トルコ人背後の台座】
Opus Ioan. Brokoff
J. ブロコフの作。

【台座の右脇】
Die Brückenstatuen wurden in Jahre 1854 durch Bärgermeister dr. Wanka restauriert
橋上の像は1854年市長ワンカ博士の下で改修。

献呈:クラーシュテレツの支配者ヤン・フランチシェク・トゥン伯爵。

マタの聖ヨハネ(1160~1213):プロヴァンス生、パリで学び、ローマ没。遺体は1655年マドリードに移された。祝日は2月8日。

ヴァロワの聖フェリックス(1127~1212):エヌセルのフロア。フランスを中心に、イスラムに捕らえられていたキリスト教徒を買い戻し、救済することを使命とした。1197年に三位一体修道会を設立。祝日は11月20日

イヴァン(チェコのヤン):クロアチア公の息子だったが、裸足でボヘミアに来て長年、西ボヘミアの洞窟に住み、人との交流なく雌鹿から乳をもらって生きていた。ある日、ボジヴォイ公がその鹿を射とめ、鹿はイワンの足下で死に絶えた。かくて両者は親交を結ぶが、ほどなく882年頃に死んだ彼を、ボジヴォイ公は手厚く葬った。
カレル彫像28


29.救世主と双子の聖コスマスとダミアヌス

作者:マイヤー1709年。

碑銘:
【十字の肩】
In ista cruce nostri redemptio       
この十字架上に我らの購い。

【十字架の下】
Iesu Christo orbis medico
世の医師イエス・キリスト。

【左台座】
Inter divos Hippocrati Cosmae
聖人中のヒポクラト・コスマスに。

【台座】
Pique frateri coeli Galeno Damiano
敬虔な兄弟、天なるガレヌス・ダミアヌスに。

【コスマスが抱える容器】
Sic medicina posvit           
かく医術は確立された。

【ダミアヌスが抱える容器】 
Hic medicina vitae 
ここに生命の薬あり。

献呈:プラハ大学医学部。

聖コスマスとダミアヌス:彼らはキキリアのキュロスの双子の殉教者。医術の守護聖人(4世紀)。無償医療に従事し、銀貨を受け取らなかった故にOnaigyroiと言われた。ディオクレティアーヌ治世下の287年頃処刑された。イェルサレム、コンスタンチノープルはじめ、各地に彼らを祀る教会が建てられ、伝染病の流入に悩むハンザ同盟などで崇拝された。フラ・アンジェリコが名画を残しており、メヂチ家の当主もコスマスにちなみコズモを名乗った。図像は薬箱、医療器具などで、祝日は9月26日(東方では7月10日もしくは11月1日)。
cosmas=手本、cosmos=飾り、清らかな、damaダマ鹿、dogma=教え、
ana=上, damium=いけにえ, domini manus=主の手。
カレル彫像28


30.聖ヴァーツラフ

作者:1858年ベームJosef Kamil Böhm(J・フューリヒ原案)。

碑銘:
In memoriam festivitatis primae lustriquinti post fundationem
institute coecorum in Bohemia celebratae Prage 4 in octob. 1857。
1857年10月4日プラハで行われた、ボヘミアにおける若年者盲学校設立4半世紀を記念して。

献呈:クラール一家(クラール盲学校)。プラハ大学古典哲学の教授Alois Klár(1763~1833)は、1832年からカンパ島で盲学校を個人経営していた。この事業を息子のパヴェルPavel.Al.Klár(1801~60)が引き継ぎ、1844年にはブススカ(現クラ-ロフ)下に広い新校舎を造ったが、晩年には自身も失明してしまった。孫のルドルフRudolf Klár(1845~96)も盲人や子供たちに付くし、上記の建物に内部空間を上品に飾ったもう一棟を付け足した。

聖ヴァーツラフ(907~35?)は、プシェミスル家のヴラチスラフとドラホミーラの息子で、920年父王の死後、政務についた母親は横暴で民衆に嫌われていた。彼は922年頃、それまで統一されてなかった西ボヘミアの支配者となり、レーゲンスブルク司教やザクセン王ハインリヒ一世と友好関係を結んだ。彼はラテン語を良くし、貧民、未亡人や孤児たちに心を配り、囚われ人たちを自由にしてやったという。しかし935年9月28日(祝日)、キリスト教に反対する弟のボレスラフ一世(~967)を、ムラダー・ボレスラフ城に訪れた折、彼の手にかかり殺された。後世ボヘミアの守護神に祀り上げられ、13世紀まで彼の絵姿はボヘミアの国章となっていたし、貨幣や盾や抜き身の剣を持つ姿が軍旗に印されていた。彼の伝説的剣や筋金入り胴衣や兜が知られている。カレル四世の洗礼名は元々ヴァーツラフで、この名前は息子にもつけられた。また「聖ヴァーツラフのコラール」も有名。

カレル彫像30

[ 2011/08/03 20:32 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)

スークの死を悼む

今年2011年7月7日、82歳の誕生日8月8日を目前に、ドヴォジャークの曾孫で、同名の作曲家の孫である、チェコ・ヴァイオリンの巨匠スークが亡くなった。

思い起こせば日本とチェコスロヴァキアが国交を回復した翌1959年、チェコ・フィルとともに来日して以降、彼がわが国に残したチェコ音楽の遺産ははかり知れない。

私がはじめて彼の演奏に接したのは1961年9月、スーク・トリオの一員として来日し、ドヴォジャークのピアノ三重奏曲「ドゥムキ」を弾いたときだったと思う。スーク、サードロ、パネンカの弾く25インチ盤LP(日本グラモフォン社)が、今もレコード棚に鎮座している。その後もソリストとして、小林仁、ルージチコヴァー、ハーラ、パネンカらと共演し、スーク・トリオやスーク室内オーケストラを率いて来日していた。とくに印象に残っているのは、ビロード革命の翌1990年“プラハの春音楽祭”の折、フラッチャニ城内“スペインの間ま”でパネンカと共演した、大統領ハヴェル夫人主催のリサイタルだった。

ここでスーク“節くれだった枝”の意の経歴を列記してみよう。彼は生涯J・コツィアン(1883~1950)を師と仰ぎ、文学や車に興味を抱いていたという。

1945/ 50:プラハ音楽院でN・クバート(1891~1966)と、K・シュネベルゲル(1918~?)に学ぶ。
1950/ 51:プラハ弦楽四重奏団の第1ヴァイオリン奏者。
1951/ 53:AMUでM・フロウニョヴァー(1912~2006)、A・プロツェク(1918~82)に学ぶ。
1952:スーク・トリオを結成。
1953/ 54:プラハ国民劇場演劇部オーケストラのコンサートマスター。
1954年から演奏活動をはじめる(伴奏者はマキシアーン、ハーラ、ホレチェク、パネンカ)。
1954/ 57:V. ネイェドリー記念国軍オーケストラのソリスト。
1961~:チェコ・フィルのソリスト。
1980/ 87、1993/ 2000:スーク室内オーケストラ(1974年発足)の指揮者。
1979/ 85:ウィーン高等音楽院教授。
晩年はプラハの春音楽祭総裁、ドヴォジャーク財団代表などを務めていた。

ヴァイオリンをスークが担当したスーク・トリオ構成の変遷:
ピアノ/チェロ
1952:J.・フビチカ(1922~95)/S・ヴェチトモフ(1930~)
1953:J.・ハーラ(1928~)/J・フッフロ(1931~2009)
1956:Fr・マキシアーン(1907~71)
1957:J.・パネンカ(1922~1999)/M.・サードロ(1912~2003)
「プラハの春」事件のあった1968年以降活動を一時停止。(録音はあり)
1982:J.・ハーラ、その後パネンカが復帰、最終公演は不明。

最近では2008年“プラハの春音楽祭”期間中の5月29日、ルドルフィルム内ドヴォジャーク・ホールで行われたコンサートで、アンブロシ(Vl.)、ウンテルミュレルVla.)、バールタ(Vc.)、シモン(P.)と共演し、ドヴォジャークのテルツェットop.74とop.75a、バガテルop.47、スークのピアノ四重奏曲op.1を演奏した。

昨2010年3月22日ドヴォジャーク・ホールで、プラハ市音楽学校とネルダ記念ギムナジウムの“若く才能ある”生徒8人がソリストとして、ロウジェンスキーPetr Louženský指揮プラハ室内フィルと共演した。“若く貧しいが才能ある”のモットーは、スークの曽祖父ドヴォジャークがウィーンから奨学金を貰い、世界に雄飛できた精神を受け継いだものである。

最初のヴィヴァルディの二重協奏曲イ短調op.5では、1楽章ごとに写真左からJao Won Seo、ヴァシロヴァー、ミハーレクの3人(1996/ 97年生)が、スークと共演した。この写真が私の手元にあるスークの最終活動を示すものである。

スークと若手演奏家


このあと20歳前後のソリストが登場し、ラルソンのトランペット小協奏曲、シューマンのピアノ協奏曲、ウェーバーのクラリネット協奏曲、メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲、コジェルフのピアノ協奏曲ヘ長調を演奏した。

ヤナーチェクのヴァイオリン協奏曲、ショスタコーヴィチのヴィオラ・ソナタや、ドルドラの「思い出Souvenir」などなど、心暖まりエロチシズムすら感じられる彼のCDを聴きながら、故人を偲ぶとしよう。


[ 2011/07/20 01:41 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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