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「聖夜=きよしこの夜 Stille Nacht, heilige Nacht」

1818年12月24日、ザルツブルク北西の村オーベルンドルフOberndorf bei Salzburgの聖ニコラス教会に着任ほどないモール司祭は、隣村アンスドルフにグルーバーを訪ね、2年前マリアファル村(ザルツブルク東南約80km)教区で書いておいた“聖夜Stille Nacht”の詞を渡し、独唱2声と合唱用讃美歌の作曲を依頼した。数日前に教会のオルガンが故障し、修理が間に合わなかったのでギター伴奏にしてもらった。グルーバーは即座に曲づけし、当日深夜のミサで、モールがギターを弾きながらテノールを、グルーバーがバスを歌い、教会附合唱団が混声4部で最終数小節をくり返した。

ここのオルガン修理をまかされていたのは、チロル地方フューゲン南隣、カフィング村のカール・マウラハーで、この歌を筆写して持ち帰り、故郷で歌い広めたから、のちにはチロル民謡として近隣で有名になった。彼は1824年にオーベルンドルフの古いオルガンを新品に取り換えた。同じくチロル地方の歌手ライナー一家は、1822年にヒューゲン城で、皇帝フランツII世と、ロシア皇帝アレキサンドルI世の御前で、この歌を披露し、1839年にはニューヨークの三位一体教会で歌った。チロルの手袋職人シュトラッサーも、兄弟一家と毎年ドイツの歳の市に出かけ、1826年には民謡で屋台に人々を惹きつけ、プライセンブルクのザクセン宮廷にも登場し、1932年12月15日ライプツィヒの演奏会では「聖夜」も歌った。1830年代には歌詞を変えた様々な歌集が出版され、1833年頃ドレスデンとライプツィッヒで、4巻のチロル民謡集(独唱、ピアノまたはギター伴奏)が出た。

1854年暮「聖夜」の作者を、ミハエル・ハイドンと思っていたベルリン宮廷楽団は、本当の作曲者がグルーバーだと確認した。こうしてこの歌は、チロル、ドイツ、アメリカへと伝わり、その後さまざまに編曲、翻訳され(英訳は1861年)世界中に広まった。

オーベルンドルフの聖ニコラス教会は、1899年の洪水で破損し、1906/ 13年の間にとり壊され(新しい聖ニコラス教会が別の場所に建つのは1906年になってから)、その跡には1924/ 37年の間に「モール・グルーバー記念礼拝堂」が建てられた。

「聖夜」冒頭の旋律は、グル―バー生地の民謡「Geh i hinaus zu an schen Hausここから美しい家へ行け」と同じと言われている。この歌はニ長調、6/ 8拍子で6番まであるが、ふつう1, 2, 6番だけが歌われる。自筆譜は残っていないが、1836年12月12日の写譜は変ホ長調となっており、1845年にはヴァイオリン2、チェロ、ニ調ホルン、オルガン、ソプラノ、テノール用に編曲され、ザルツブルクのCarolino Augusteum博物館所蔵の楽譜は、ニ長調、6/8拍子となっている。

この歌はその後ドラマ化され、ジングシュピールとしても上演された。1950年代には戦闘や雪崩の場面も入れ、自由に翻案した映画「Das unsterbliche Lied不滅の歌」が作られ、1988年にはチェコとスコットランドのEdinburgh Film and Video Production共作のテレビ番組「静かなネズミTychá myš」が、チェコとオーストリアで放映された。

*****

グルーバー Conrad Franz Xaver Gruber(1787~1863):
教師、ヴァイオリニスト、チェンバロ奏者、オルガニスト、合唱長、作曲家のグルーバーは、1787年11月25日、ウンターワイツベルクUnterweitzbergに、6人兄弟の第3子として生まれた。母アンナ・ダンナー(1747~95)は農家の娘で、麻布業者の父ヨゼフ(1739~1815)は、フランツ少年を、貧しいながら安定した職業の織物業者にしたかった。だが少年は音楽に走り、ひそかに地元の教師・オルガニストのアンドレアス・ペーターレヒナーに、ヴァイオリン、オルガンと作曲を学んでいた。12歳の時、両親も列席しているミサで、急病の先生の代役を務め、父も軟化し音楽の道を許してくれた。彼は18歳まで家業を手伝い、1805年にブルクハウゼンの教区教会オルガニスト・ゲオルグ・ハルトドブラーのもとへ赴き、ミサの折のオルガン演奏で腕を磨いたが、滞在はわずか3ヶ月だった。

1806年から07年までアルンスドルフ村で、教師、オルガニストを務め、7月6日にラムプレヒツハウゼン村の、13歳年上の未亡人エリーザベト・フィッシンガー(1774~1825)と結婚、生まれた二人の娘は夭折した。彼女の死後グルーバーは2回結婚し、最初の再婚相手マリエ・ブライトフスとの間に12人の子をもうけた。1816/ 29年の間オーベルンドルフで、教師、聖ニコラス教会オルガニストを務めた。1835年に教職を辞し、ハラインHalleinの教区教会合唱長、オルガニストとなり、そこで余生を送り1863年6月7日に歿した。当時楽才豊かな4人の子供が存命しており、とくにフランツ・グザヴェル(1826~71)とフェリックス(1840~84)が秀でていた。ハライン市立博物館には遺品の家具やピアノ、モールのギターなどが収められており、ミサ曲など聖俗合わせ約100曲の手稿は、当地Stille-Heiligeアーカイヴに、「聖夜」に関する資料はオーベルンドルフの郷土史館Heimatmuseumに展示されている。

モール Josef Franz Matthias Mohr(1792~1848):
神父、詩人、音楽家、ギター奏者のモールは、1792年12月11日ザルツブルクに生れた。父ヨゼフはマリアファル近村シュトラナッハ出の農夫だったが、軍隊に志願して司教付銃兵となり、ザルツブルク出の貧しいお針子アンナ・ショイバーと結婚したが、遠い戦地に赴いた後、姿を消してしまった。残された一家の暮しは苦しく、フランツ少年の面倒をみたのは聖堂助祭のJ・N・ヒールンレだった。モールは彼の援助で、ザルツブルクのギムナジウムや、上オーストリアはクレムスミュンスターのベネディクト修道院学校、最後にはザルツブルクの司教神学校で学ぶことができ、その間に音楽とくに歌や種々の楽器、中でもギター演奏を習得した。

1815年8月21日,助祭に任じられ、ベルヒテスガーデン近在のラムザウで短期間務め、1815-17の間マリアファルで助手をしていた。しかし.健康を害してザルツブルクに戻り、1817/ 19年の間オーベルンドルフで、J・ケスラーとG・H・ネストラー司祭の助手を務め、グルーバーと知り合う。その後ザルツブルク管区のクフル、ゴリング、ヴィガウン、アドネト、アンテリングなど、10ヶ村で任にあたった。1827年にはじめて独りで任された、ヒンターゼー教区で10年過ごし、その後、転任したワグラインで、1848年12月8日に肺炎で歿した。モール・グルーバー共作の「テ・デウム」も当地Waggerl博物館で聴ける。

世界的に名声を馳せた「聖夜」から二人は、金銭的な報酬も名誉も受けることなく、生涯、慈善事業に尽くしたモールの生活はつましく、グルーバーが自分の家を持てたのは最晩年だった。

文献:
1)Karl Weimmann:Stille Nacht, Heilige Nacht! Řezno, 1918, 1920.
2)Josef Gassner :Franz Xaver Grubers Autographen von Stille Nacht, heilig Nacht, mit der Geschichte des Lirders, Oberndorf an der Salzach 1968
3)Max Gehmacher:Stille Nacht, Heilige Nacht!
Das Weihnachtslied – wie es entstand und wie es wirklich ist, Salzburk 1937/ 1968

Stille Nacht.info

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[ 2013/12/11 20:33 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)



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