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カレル・アンチェルについて

アンチェル1908年4月11日(カラヤンの生誕に遅れること6日)、南ボヘミアはターボル南南東、約20キロの小村トゥチャピに生れた。父親は醸造酒業者で、母親は北スロヴァキアのジリナ生、1911年には妹のハナも生れた(1931年病死)。カレル少年は犬や馬や車が大好きで、村に1台しかない蓄音機で聴く、とくに「二人の敵弾兵」と「カルメン」に夢中になった。一家でプラハへ旅行したとき、新ドイツ劇場(元スメタナ劇場、現プラハ国立オペラ劇場)で生の「カルメン」を観た時には、オーケストラ・ボックスまで走っていった。少年は地元でヴァイオリンやピアノを習っていた。その後プラハの叔母の家に下宿して小中学校へ入り、サッカーにも興じていた。さらにヘーゲル・ピアノ塾へ妹といっしょに入り、1921年にはシェフチークの弟子シルハヴィーの音楽塾に通い、オーケストラではヴィオラを弾いていた。

1926年プラハ音楽院(学校はエマウズ修道院、のちにルドルフィヌム)に入学、クシチカ(作曲)、ヂエデチェク(指揮)、ヘロルト(室内楽)、ショウレク打楽器)に学び、ストゥプカから個人教授も受けた。1930年6月24日、作曲では「シンフォニエッタ」、指揮はベートーヴェンの第6交響曲で卒業した。

1931年5月17日、ミュンヘンのAm Gärtnerplatz劇場で、シェルヘンの指導のもと、ハーバの四分音オペラ「母」を世界初演した。その後、ヴァーツラフ広場の路地ヴォヂチカ通りで、イェジェク(1906~42)が主催する“解放劇場Osvobozené divadlo”へ、ヴァイオリニスト・指揮者として迎えられた。結婚したのはこの頃である。1933年アムステルダムでの国際現代音楽祭で、コンツェルトヘボウ楽団を指揮、シェルヘンが主催するストラスブールのセミナーでは、マルケヴィチのバレエ「イカロス」を指揮した。この年の11月半ばに解放劇場を辞職した。

1934年プラハ放送SOに入り(1938年まで)、まずはプロコフィエフの第3交響曲と、ピアノ協奏曲第1番(ソリストは作曲者)を指揮、シェーンベルクの「ピエロ・リュネール」のプラハ初演も行った。1935年1月にはチェコ・フィルに客演、グルック、プロコフィエフ、ハーバの作品を指揮した。

チェコスロヴァキアは1918年に独立を果たしたが、20年後の1938年3月には、ナチス・ドイツの支配下におかれる。ユダヤ人狩りが強行され、音楽院時代の師ドレジルに、テヘランに新設された音楽院で職を得るよう薦められたが、受諾しなかった。故郷のトゥチャピ村へ帰ったが、家はナチスの没収され、森や畑の仕事をするかたわら、近在の村の城へロハン伯の8歳の息子にヴァイオリンを教えに週4回、自転車で通っていた。ゲシュタポに逮捕されターボルの町に収監されてから、1942年11月12日テレジーン収容所へ送られた。1943年2月28日、息子のヤンがここで生れた。

1944年10月15日、一家はアウシュヴィツへ送られ、アンチェルは労働班に入れられたが、両親と妻や息子は翌々17日ガス室から煙となって昇天した。収容所では主に炊事係を担当していた。その後アンチェルはグルス・ローゼン収容所の支部、シレジアのフリードランドへ送られた。ある日ここで兵士に左耳を殴られ血を流したが、同囚のスロヴァキア人耳鼻咽喉科医の適切な治療で、事なきを得た。終戦間際、囚人たちは武器まで奪い反乱を起こした時、この医者は先頭に立っていた。アンチェルは仲間二人とプラハへの帰路についた。

第二次世界大戦終結後の1946年、アンチェルは“五月五日大劇場(共産政権下はスメタナ劇場)の指揮者となり、1947年までのシーズンに「スペードの女王」「ホフマン物語」「売られた花嫁」「ボエーム」「母」「ドン・ジョヴァンニ」を指揮した。

1947年にはふたたび放送SOへ戻たが、翌48年2月クーデターで共産党が権力の座につき、1950年代半ばまでは、反スターリン分子粛清の嵐が吹きまくる。こうした厳しい時代に、指揮者クーベリックらは亡命し、在米中の作曲家マルティヌーは帰国をあきらめ、弟子のヤン・ノヴァークもアメリカへ1年留学しただけで、公的活動の場を奪われた。

ターリヒの後任指揮者クベリークが亡命したため、当座ノイマンが代行していた。その後シェイナが常任、ノイマンが副指揮者となった。一時期アンチェルは芸術アカダミーで、コシュラーやトゥルノフスキーらに指揮を教えていた。当時、楽団員にはシェイナを支持する派と、アンチェルおよびスメターチェクを支持する派の2つがあった。後者の方が優勢で、この二人のコンクールという話もあったが、実現しなかった。こうした折、オイストラフが文化大臣ネイェドリーを動かし、1950年チェコ・フィル常任指揮者にアンチェルが就任させた。

日本とチェコスロヴァキアが国交を回復した翌1959年、かの国から文化使節として、スメタナ弦楽四重奏団、スーク・トリオ、ヤーセク(ヴァイオリン)、ポコルナー(ピアノ)、チェコ・フィルなどが相ついで来日した。その頃“Musica nova Bohemica & Slovenicaチェコとスロヴァキアの新音楽”というLPシーズが30点ほど出ており、アンチェル指揮チェコ・フィル盤には、注目すべきものとして、ハヌシュの「協奏交響曲」(3枚目)や、マルティヌーの「3つの寓話」H.367(11枚目)が入っていた。

1959年アンチェル指揮チェコ・フィル初来日演奏会は盛況で、当時スプラフォン社から出版された冊子には、10人ほどの男女中学生に囲まれ、笑顔でサインしたり、寝台車でくつろぐ浴衣姿のアンチェルの写真がのっている。その表情には、ナチス強制収容所での苦難の跡など微塵もない。彼は1930年代前半、俳優ヴォスコヴェツ+ヴェリヒ+作曲家イェジェク・トリオの解放劇場で、ファシズムを揶揄するレヴューを指揮していたから、ナチスのブラックリストに載っていたらしい。テレジーン収容所で、彼が室内オーケストラを指揮している映像は、今もこの収容所跡記念館で観ることができる。

Ancerl_in_Japan1

Ancerl_in_Japan2



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[ 2013/07/03 20:49 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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