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大指揮者ターリヒ晩年の悲劇

第二次世界大戦が終結した直後の1945年5月9日、ターリヒは隠遁先のベロウン(プラハ西45km)から、娘のヴィータ・デイメロヴァーと徒歩で、国民劇場で上演すべき祝典オペラ『リブシェ』のスコアと指揮棒を抱えプラハへ向かった。しかし彼は国民劇場で門前払いを食らった。さらに3日後の12日(スメタナの命日)、プラハ南区ヴィシェフラト国民墓地に墓参したターリヒは、偶然、ネイェドリィー*文化大臣と出くわし、彼に大戦中ナチスに協力したと難癖をつけられた。つまりナチス宣伝相ゲッベルスの命で、1941年2月11~12日、ドレスデンでチェコ・フィルを率い、「エグモンド序曲」と『わが祖国』全曲を指揮したからだった。こうして9日後の5月21日にターリヒは、モスクワ帰りで当時、権勢を誇っていたネイェドリーの差し金で、悪名高いパンクラーツ刑務所に投獄された。しかし37日後ベネシュ大統領の介入で釈放された。1942年の国民劇場を率いての『イェヌーファ』ベルリン公演は、病気を理由に断り、ヴィノフラディ病院で手術を受け、同劇場指揮者の地位を退いた。後任はクベリーク(48年まで)。

1946年以降:指揮活動をほとんど禁じられ、音楽院生を集めたチェコ室内管弦楽団を創設。1947:7月7日、国民劇場総裁に復帰。マルチヌー作品「交響曲5番」「二重協奏曲」
「チェロ協奏曲1番」「シンフォニエッタ・ジョコーザ」(独奏ルルー)を指揮。
1948:チェコ・フィル指揮者に復帰するも、2月末の共産主義政権樹立で、1953年2月25日(スターリン死去の直前)まで、独裁者ネイェドリィーがチェコ楽界を支配。
1949:ブラチスラヴァ室内オーケストラ創設(1952年まで)。
1951:指揮者なしプラハ室内オーケストラを創設。
1951~52:スロヴァキア・フィルの首席指揮者を務め、高等音楽院で教えていた。
1954:1月14日、ふたたびチェコ・フィルの首席指揮者・音楽監督に返り咲き(翌年11月19日まで)、”プラハの春音楽祭“で『わが祖国』を指揮。その後は1955年までは録音のみに従事、
1956年ベロウンに隠棲、この地で1961年没。

*ネイェドリーZdeněk Nejedlý(1878リトミシュル~1962プラハ):
音楽学者、評論家、文筆家。1896年プラハのカレル大学に入り、スメタナの擁護者ホスチンスキーの音楽美学を受講、師の友人フィビヒに音楽学を学ぶ。彼はドヴォジャークの娘オティリエをスークに奪われたため、ドヴォジャーク、スーク、ヤナーチェクに対し敵意を抱くようになった(1912年)。オストロチル指揮V・ノヴァークのオペラ・チクルスにつき、指揮者、作曲者と論争(1930年)。音楽の社会的特性につき作曲家ヴァチカーシュ(1881~1954)と論争(1936年)。
大戦中はソ連に亡命、モスクワ大学で音楽学を教えていた。戦後、共産党が政権を奪ってからは、文化大臣(1945~51)として権勢を振るい、マルチヌーのプラハ音楽院教授就任を妨害するなど反対派を弾圧。大戦末期に病死した音楽家の息子ヴィート(1912~45)の名を、国軍オーケストラに冠して英雄に祭り上げ、輩下のイェレミアーシュ(1892~62)を1945年プラハ国民劇場総裁に就任させた。

Talich1
プラハ国民劇場でゲッペルスの訪問を受けるターリヒ


Talich2
スロヴァキア・フィル指揮者ライテル(1906~2000)、コンサートマスター、ガシュパレク(1913~)と

ターリヒ1940年までの軌跡
父Jan (1851~1915)東南ボヘミアのフヴォイノフChvojnov生、クロアチアのPetrinka没。プラハ・オルガン学校卒(1880/ 82)。クロムニェジーシュ(1882/ 83)、ロジュノフ(1883/ 87)を経て、クラトヴィ(1887/ 97)で私立音楽学校を経営。1902年クロアチアに移住。
姉Marie(1879~1930)ピアニスト。
兄Jan(1881~1953)チェリスト。1903年から生涯プルゼニュに住み、当地のフィルハーモニーに所属(1919/ 47)、室内楽奏者としても活躍していた。

ターリヒVáclav Talich,(1883~1961)
1883:モラヴィアのクロムニェジーシュに生まれたが、ほどなく西ボヘミアのクラトヴィに移住し、父にヴァイオリンを学び、教会所属オーケストラでは最初テンパニを叩いていた。
1892:4月、9歳のヴァーツラフ少年は、渡米前の演奏旅行で当地を訪れたドヴォジャークの弾く、ピアノ三重奏曲「ドゥムキ」(ヴァイオリン=ラフネル、チェロ=ウィハン)を聴いて大いに感銘。
1897-1903:ドヴォジャークの支援を得て、プラハ音楽院でマジャークとシュフチークにヴァイオリンを学ぶ。この間に短期間アカデミー合唱団を指揮。シェフチークの薦めでベルリン・フィルに入団、コンサートマスターとなり、指揮者ニキシュの影響で指揮者を志すも、肺結核を患い帰国。
1904:オデッサ市立オーケストラのコンサートマスターとなり、ストゥプカ(1879~1954)と出会う。
1905:革命でトビリシへ移り1年間、指揮者を務めた。
1906~07:帰国。プラハのM・ランゴヴァー(1865~1905)歌唱学校でコレペティトゥールと、歌唱コースの指導者。
1907~08:プラハ・オーケストラ協会Pražské orch. sdruženíの指揮者。チェコ・フィルには野外コンサートに初登場。
1908~12:スークの勧めでスロヴェニア・フィルを指揮、同時にルブリャナ・オペラで『売られた花嫁』と『ルサルカ』を指揮。その間ライプツィヒでレーガーに作曲を、ハンス・シット(1850~1922)に指揮を学び、ニキシュの助手を務めた。また短期間ミラノでもヴィニャA.Vignaに指揮を学んだ。
1912-15:ふたたびスークの勧めでピルゼン・オペラの指揮者となったが、第一次世界大戦で劇場が閉鎖、プラハの出てフリーの指揮者、教師、ボヘミア弦楽四重奏団と共演。
1917:12月12日、コヴァジョヴィツの薦めで、はじめてチェコ・フィルを指揮(ドヴォジャークとノヴァークの作品)。
1918:4月3日、チェコ・フィル主席指揮者チェランスキーのもと、ドヴォジャークの「チェコ組曲」、交響変奏曲、3つの「スラヴ狂詩曲」を指揮。10月30日(祖国独立2日後)、市公会堂内スメタナ・ホールでスークの「実り」(ソヴァの詩)を初演。
1919:チェコ・フィル指揮者となり、スークの「実り」「ラドゥスとマフレナ」「幻想曲」(ホフマン独奏)を指揮。ドビュッシーの「放蕩児」プラハ初演。10月27日(独立1周年前夜)『わが祖国』をはじめて指揮プラハ音楽院で教鞭を執る。。副指揮者はストゥプカ(1879~1965)。
1920:ストラヴィンスキーの「花火」、シェーンベルクの「室内交響曲」、ルーセルの第1交響曲と「クモの饗宴」のプラハ初演指揮。4月ブラチスラヴァを含む国内巡演。
1921:チェコ・フィルの首席指揮者。この間(1913/ 27)プラハ音楽院で教える。
1922:チェコ・フィルを率いウィーンでの『わが祖国』演奏を手始めに、この年からトリノ(26, 31年も)、ルブリャナ、ウィーン(1928)、パリ(35)、ブリュッセル、イギリスとスコットランド(24~28)、スウェーデン(27, 36, 39, 46)ノルウェイ、フィンランド、ポーランド、ルーマニア、ソ連と国外公演を行う。7月25日:コントラ・バス奏者シェイナ(1896~1982)も指揮に当たる (28年以降しばしば)。
1923:プラハでベートーヴェン・チクルス、マーラーの1~5,9番を指揮。
23~24:シーズン(スメタナ生誕100周年)で『わが祖国』を全国で30回演奏。
1924:スークの交響詩「勝利に斃れし者の伝説」、第2回ISCM(国際現代音楽祭)でマルチヌーの「ハーフ・タイム」、シェーンベルクの「期待」世界初演指揮。
1925:5月11日、スメタナ・ホールから『わが祖国』を含む初放送。第3回ISCM.
1926:2月24日「売られた花嫁」序曲、スークの「セレナーデ」緩徐楽章、ノヴァークの「タトラ山にて」、マルチヌーの「ピアノ協奏曲1番」(独奏ヘシュマン)、「新世界交響曲」。放送ではチェコ・フィルに放送交響楽団のメンバーを加え、第1ヴァイオリン16、第2ヴァイオリン14、ヴィオラ10、チェロ9、コントラバス9とした。
スウェーデンへ行く前、彼はチェコ・フィルを率い、国外公演をイタリア、ユーゴスラヴィア、グラスゴウ、エディンバラで行った。
「新世界」でストックホルム・デビュー。ベートーヴェン・チクルス、8番以外のマーラーの交響曲を指揮。その翌々日、ベルリンへ指揮者探しに出かけたメンバー二人が、不首尾に終って帰ってきたため、ターリヒへの指揮者依頼が具体化した。
彼は指揮活動を(1)10~11月、(2)1月、(3)3~4月の3段階に分けた。こうして1926~36年間に248回指揮し、1939年と1946年にも3回客演し、1930~33年間にはイェーテボリでも演奏した。最初のシーズン(1926/ 27)には、スウェーデンの作曲家ステンハンマー(1871~1927)の作品を取り上げた。
1927:オストルチルの交響詩「夏」、イェジェクのピアノ協奏曲、ノヴァーク作品特集(翌年にかけ)を指揮。
1929:9月3~6日、『わが祖国』をイギリスHMVで録音。
1930:2月、ストラヴィンスキーのカプリッチョ(ピアノ作曲者)、オネガーの「ラグビー」。
1931:3回目のイタリア公演。この年から3年間:ストックホルムに客演、後任はストゥプカ。
1932:レニングラードで指揮、ムラヴィンスキーに感銘を与える。プラハ音楽院専攻科教授。
1933:スークの「エピローグ」、国民劇場でマルチヌーのバレエ「シュパリーチェク」初演。
1934:ノヴァークの「秋の交響曲」初演。マルチヌーの「ピアノ協奏曲2番」(独奏フィルクシュニー)、『ルル』組曲。
1935:スークが心臓発作で急死したため、カルロヴィ・ヴァリで神経症療養中のターリヒは、急遽プラハ国民劇場音楽監督を申し渡された。11月にはチェコ・フィルを率い、ロンドン、ブリュッセル、パリに巡演し、ドヴォジャーク作品をHMVに録音。
1937:初代大統領マサリクの死を悼み『わが祖国』演奏。
1938:第10回”ソコル体育祭“、祖国独立20周年を記念し『わが祖国』演奏。マルチヌーのオペラ『ジュリエッタ』国民劇場で初演。
1939:3月15日から祖国はナチス・ドイツのボヘミア・モラヴィア保護領となる。5月2~25日の間『わが祖国』に始まり「第9」で終る、念願の“プラハ五月音楽祭”(“プラハの春音楽祭”の前身)を、7回のコンサートで実現させた。いくつかの演目は6月にもくり返され、これらはプラハ、オストラヴァ、ブルノ、フランス、ノルウェーでも聴取され、そのうちの2回はノルウェー・ラジオで録音された。皮肉にも「スラヴ舞曲」第2集はナチス侵攻後、ドイツ軍通信網で流され、パリ、トロント、ブリュッセル、ベルグラード、ザグレブ、リュブリャナ、オスロ、コペンハーゲンでも傍受された。シェイナ指揮者となる。
1940:5月には検閲の結果、『わが祖国』の最終2曲「ターボル」と「ブラニーク」は、チェコ人の愛国心を煽るとして、スメタナの「チェコの歌」に差し替えさせられた。チェコ・フィルに対抗し、北ボヘミア・リベレツのズデーテン交響楽団(カイルベルト指揮)が、ドイツ・フィルの名称でプラハに乗りこんだが、成果はあがらなかった(戦後バンベルク交響楽団の母体)。

チェコ・オペラでは:スメタナの『売られた花嫁』(1936, 43)、『リブシェ』(1938)、『ダリボル』(1942)、ドヴォジャークの『ルサルカ』(1936)、『秘密』(1938, 44, 47)、『二人の若後家』(1939)、『ジャコバン党員』(1940)、『アルミーダ』(1941)、ヤナーチェクの『利口な女狐』(1937)、『カーチャ・カバノヴァー』(1938, 47)、『イェヌーファ』(1941)、フィビヒの『メッシーナの花嫁』(1938)、V・ノヴァークの『ルツェルナ』(1940)、フェルステルの『エヴァ』(1939)、マルチヌーの『ジュリエッタ』(1938)を舞台にかけていた。
「スラヴ舞曲」全曲(1935, 50,55年)と、「わが祖国」(1929, 41, 54年)のスタジオ録音が残されている。
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[ 2013/04/24 05:54 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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