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ムハの“スラヴ叙事詩”プラハ展示

以前ブログに掲載した「ムハの生涯」に誤記があるので訂正し、2012年10月5日~13年9月末、見本市会館Veletržní palác 内、現代美術館で「スラヴ叙事詩」が公開中なので、再度、掲載します。

ムハ通称ミュシャAlphonse Maria Mucha(1860~1939)の先祖は、南モラヴィアの小村イヴァンチツェ*で代々ワイン作りを生業としており、父オンジェイは仕立屋の修行をしたのち、地方裁判所の書記となった。1859年35歳で寡夫となった彼は、裕福な粉屋の娘で、ウィーンで貴族の家庭教師をしていた37歳のアマーリエ・マラーと、持参金目当ての再婚をし、3人の子供アルフォンス、アンナ、アンジェラをもうけた。2度目の妻はやがて亡くなるが、オンジェイは残された子供たちを立派に育て、二人の娘は中学校へ通った。アルフォンスは11歳の時クシーシコフスキーが教え、ヤナーチェクが助手を勤めているブルノ・アウグスティノ修道院の給費生になろうとしたが果たせなかった。

1872/ 77年の間:ブルノ*のスラヴ・ギムナジウムで学んだが、健康を害し自宅で勉学に励んだ。しかし病弱というのは表向きの理由で“平気で嘘をつき礼拝をサボったため” 放校されたらしい。ただスケッチと歌は群を抜いており、ペトロフ教会で歌っていた。

1877年:イヴァンチツェの地方裁判所の書記となる。

1878年:プラハ工芸アカデミー入学を試みたが、ルホタ教授に“まったく才能がない”と言われ失敗した。

1879年:ウィーンのカウツキ=ブリオスキ&ブルクハルト工房に入り、劇場の書割制作に加わったが、

1881年:リング劇場が焼失したため解雇され、しばらくウィーンで細々と暮らしていた。

1882年:父のつてでモラヴィア東南端の町ミクロフ*で、劇場の演出、似顔絵描き、寄木細工のデザイン、室内装飾などの仕事をしていた。

1883年:ミクロフの西約20キロの小村フルショヴァニ*や、近くのエンマホフにある、クエンEduard Khuen- Belasi伯爵の城を飾る。

1884年:チロルにある伯爵の弟エゴンが所有するガンデグ城を装飾し、そこで伯爵夫人の肖像を描く幸運に恵まれた。ここでムハは伯爵のために数多の絵を描き、ともに北イタリアへ旅し、彼の作品を見たウィーンの画家クライWilhelm Kray教授(1828~89)の助言で、伯爵はムハのパトロンとなる。

1885年:ムハはミュンヘン芸術アカデミーの3年級に入り、K・V・マシェクらチェコ人画学生と交友。

1886年:アメリカ北ダコタ州ニュー・ピーセクのチェコ移民部落のために、ネポムツキー教会祭壇画「キュリロスとメトデオス」や、フルショヴァニ城付属病院のための「キリストの慈悲Charitas」なる大作を描いた。

1887年秋:パリに出たムハはここで17年間過ごすことになる。まずはアカデミー・ジュリアンに入り、流行のコートと帽子を買い、スラヴ出身者と交流。「炎上するローマを眺めるネロ」を描く。

1888年秋:さらに優れた教授陣のいるコラロッシ・アカデミーに移り、水彩画「Vyhlášení války u starých Slovanů古代スラヴ人の宣戦布告」で古代スラヴへの関心を示す。

1889年早々:伯爵からの援助が打ち切られたため学業を停止し、困窮の末チェコの画報“Zlatá Praha黄金のプラハ*1”や“ Světozor世界展望*2”などへの寄稿で糊口をしのぐ。彼はパリ世界万博を訪れてエッフェル塔を賛美し、チェコ民族を代表して参加したソコル体育団体*3の見事な演技を見て、スラヴを主題とする最初の芸術プランを立てた。

1990年から翌年にかけ、雑誌“La Vie Populaire庶民生活”や、“Le Costume au Théatre舞台衣裳“に(サラ・ベルナールのデッサンを含む)挿絵を載せるようになっていた。シャヴァンヌ(1824~1998)と知り合い、ゴーガンとの交友はじまる。

1891年:コランArmand Collin出版社と契約を結ぶ。

1892年:優れた歴史家セニョボスSeignobos(1854~1942)の「ドイツ史」に、有名な画家ロシュグロスRochegrosse(1859~1938)と共に挿絵を描いた。ムハが主題としたのは、スラヴやチェコ関連のもの(カレル四世、フスの焚刑、ルドルフ二世、ワルドシュタイン将軍の暗殺など)だったが、これらは後のスラヴ叙事詩(以下“SE”)には活かされなかった。

1893年:タヒチから帰国したゴーガンとアトリエを共有、写真機を購入。プラハのシマーチェク社から、S・チェフ(1846~1908)の叙事詩「Adamitéアダム宗徒ら」への挿絵を依頼さる(4年後に出版)。

1894年のクリスマスに、ルネサンス座から印刷業者ルメルシエのもとへ、サラ・ベルナール(1844~1923)主演の「ジスモンダGismonda」のポスター制作依頼が舞いこんたが、デザイナーが全員不在だったため、ポスター制作経験のないムハがこれを引き受けた。

1895年からサラ・ベルナールとの間に6年間の契約が結ばれ、これを契機に注文が殺到し、展覧会、インタビュー、豪華なパーティが続き、室内装飾からタバコのデザインまで、あらゆる分野にアール・ヌヴォなる彼のデザインが用いられた。しかし彼はポスターで有名になったことには不満で、百万長者からの装飾作品を断ることもあった。

1896年から1900年にかけムハが創った装飾パネルでは、「四季」「花」「芸術」「一日」「星」「宝石」シリーズが名高く、劇場用ポスター、雑誌のカバー、「パリスの審判」「四季」などのカレンダー、挿絵、装身具など多岐にわたっている。

1896年:雑誌 La Plume(1889年創刊)との共同作業はじまる。

1897年:パリの美術館で個展を2回(2,6月)開く。La Plume主催の巡回展がウィーン、ミュンヘン、ブリュッセル、ロンドン、ニューヨーク、プラハ(出版社トピチのサロン)で催された。J・H・ピッザ社出版のR・フレール(1872~1927)作「トリポリの王女イルゼ」のために134枚の彩色リトグラフを創った。国際美術協会Société International de l‘ Art populaire 会員となる。

1898年:1月、パリのフリーメイソン会員となる。春にスペイン旅行、ウィーン・セセッション展覧会に初参加。東ボヘミアのフルヂム、フラデツ・クラーロヴェーと、ブダペストで個展。プラハの文芸誌“ルミール”創刊号に「伝説の歌手」を描く。

1899年:オーストリア政府から依頼された、翌年のパリ万博ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館デザイン準備のためバルカンへ旅行。12月ピアッツア社・シャムパノワ印刷所から、自ら文を書いた“Le Pater=Otčenáš わが父よ”を出版(プラハでの展示は1902年、出版は1906年)。

1900年:パリ万博では、上記パヴィリオン設計で銀賞とフランツ・ヨーゼフ一世勲章を拝受。この博覧会では日本の展示物に興味を示し、アカデミ・ジュリアン出身のカレラA. Gallen- Kallela (1865~1931)による、カレワラを主題としたフィンランド展示館を見て“SE”の構想を抱く。

1901年:パリの宝石商G・フーケ(1862~1957)店の内装をデザイン。チェコ人画家V・ブロジーク(1851~1901)のパリでの葬儀で弔辞を読む。チェコ・アカデミー会員となる。

1902年:ロダンのプラハとモラヴィア・スロヴァーツコ地方への旅に同行。プラハのオット出版社からJ・ヂェヂナとの共作「コンスタンツのフス師」を出版。

1903年:プラハ国民劇場での祝典オペラ『リブシェ』の舞台装置を担当。

1904年:莫大な借金を抱えていた彼は、経済的理由から3~5月の間はじめて渡米。日ロ戦争のさ中、ロシア支援パーティで大富豪にしてスラヴ愛好家のクレイン*4と知り合う。

1905年:1月再渡米、短期間の中断はあったが1909年まで滞在、そこでの仕事は、ニューヨークでの雑誌の表紙、宣伝、それに劇場のポスター制作だった。

1906年:6月プラハで、かつての弟子で24歳のマリエ・ヒチロヴァー(1882~1959)と結婚、ヤロスラヴァ(1909年生)とイジー(1915~91、後述)をもうける。

1908年:ニューヨーク・新ドイツ劇場の装飾絵画(“Harmonie”を含む)を仕上げる。ボストン・フィルの演奏する「ヴルタワ」を聴き、スラヴの過去と現在の宣伝に努める決心をする。クレインに二人の娘の肖像画を依頼される。

1909年:クレインから“SE” 制作に関する全面的経済支援を受ける契約を結び、夏にボヘミア・モラヴィアで過ごし”SE“のスケッチにかかる。建築家O・ポリーフカ(1859~1931)に、市公会堂(3年後完成予定)内市長室を飾る絵画の制作を薦められる。“SE“の制作と常設館建設には、マーネス造形芸術集団*5などからの反対があった。

1910年:帰国した彼は市長室絵画にかかる(エリシカ王妃、ジシカ将軍、フス師、コメンスキーなど)。J・コロレド=マンスフェルト(1866~1957)伯から西ボヘミアのズビロフ古城*6の一部を借り受け、右翼のかつての舞踏の間ま(長さ20m)にアトリエを構え、家族もろとも1928年まで滞在”SE ”の制作にかかる。この頃から画報“黄金のプラハ”は、ムハの複製を連載しはじめる。

1911年:市長室の装飾を終えると、“SE”制作のためパラツキー(1798~1876)の歴史書を熟読し、歴史家パイスケル(1851~1933)、ビドロ(1868~1937)、民俗学者ズィーブルト(1864~1932)、考古学者ピーチ(1847~1911)らに助言を求め、もちろん伝説にくわしいマーハル(1859~1931)のスラヴ民話や、フランスのスラヴ学者L・レジェ(1843~1934)の「スラヴ伝説」(1901)は知っていたに違いない。12月フランスのスラヴィストE・デニス(1849~1921)と、”SE“の最初の3点について話し合う。

1912年:3月、画家J・ウープルカ(1861~1940)とダルマチアに旅し、その後ドゥブロヴニク近くのロプド島の女流画家F・ヤクシチ(1856~1943)邸に滞在、原住民の服装を見て古代スラヴに思いを馳せ、”SE“のスケッチを行う。6月28日から4日間行われた第1回ソコル体育祭のポスターを描く。この年からウィーンのブリオスキ=カウツキ工房で学んだ手法に基づき、”SE“の連作にとりかかり、最初の3点を描く:
①原始スラヴの故郷Slované v pravlasti (3~6世紀)
②リューゲン島(ルヤナ)でのスヴァントヴィート祭(8~10世紀)
Slavnost Svatovítova na Rujaně ( Když bozi válcí spáasa v umění)
③大モラヴィア国への典礼導入(汝ら母国語による神の賛歌, 863- 880年)
Zavedení slovanské liturgie na Velké Moravy ( Chvalte Boha rodným jazykem)
これらをヨゼフ・チャペックは”トロイの木馬”と評した。

ムハの最初の7点は、船の帆用に生産された材料をベルギーから輸入し、6.1 x 8.1mの大きなカンバスに描いたが、第一次世界大戦で輸入元の工場が破壊されたため、以後は 8 x 6 m、6 x 4m、4 x4.8 m(1920年にスコットランドから輸入) と、次第に小さなカンバスを用いざるを得なくなった。すべての題材は人物モデルを置き、絵は卵テンペラ、細部は油で描いた。

1913年:はじめ短期間渡米。春にワルシャワ、ガリシア、モスクワ、ペテルブルクを訪れ、「ロシアでの農奴制廃止」④ のための多くのスケッチを描き写真をとる。批評家たちは雑誌に「このような叙事詩を描くに相応しいのはムハではなくアレシュ1852~1913だ」と書いた。

1914年:この年、以下の3点を描く。
④ロシアでの農奴制廃止
Zrušení nevolnictví na Rusi, Svobodná práce - osnova národů(1861年)
⑤シゲトでのズリンスキによる対トルコ防衛
Hájení Sigetu proti Turkům Milulášem Zrinským(1566年)
⑥イヴァンチツェの兄弟団学校(クラリツェ*聖書の揺籃)
Bratrská škola v Ivančicích ( Kolébka Bible kralické) (1594年)。

1916年:この年、以下の3点を描く(通称=Kouzlo slova言葉の魔術)。
⑦クロムニェジーシのミリーチ新たなイェルサレムを築く(売春宿を修道院に, 1372年)
Jan Milíč z Kroměžíže zakládá Nový Jarusalém ( Klášter z nevěstnicve )
⑧ベツレヘム礼拝堂でのフス師の説教(世界の不思議、真実の勝利, 1412年)
kázání mistra Jana Husa v kapli Betlémské ( Kouzlo slova pravda vítězí )
⑨クシーシキ丘での集会(言葉の魔術)1419年
Súchúzka na Křížkách (Kouzlo slova, Podobojí)

1917年:ボヘミア伝説の「リブシェ、カジ、テタ三姉妹」を描く。

1918年:この年、以下の2点を描く。

⑩ペトル・ヘルチツキー(悪に報いるに悪をもって、1433年)
Petr Chelčický (Neopácet zlem zlé)
⑪ヤン・アモス・コメンスキー(希望の光1670年)Jan Amos Komenský
10月28日にチェコスロヴァキア共和国が独立すると、最初の切手や紙幣、国章にムハの絵が用いられた。

1919年:4月末クレメンティヌムの夏食堂で最初の“SE”展示会(完成した11点中5点 ②④⑦⑧⑨)が開かれたが、反響は鈍く批評家たちはムハが19世紀のスタイルから脱していないと非難した。

1920年: 6.月中旬から2ヶ月半にわたる、シカゴ美術会館でのムハ展(前年と同じ5点)は大成功で、20万人が観覧した。

1921年:1月半ばニューヨーク・ブルックリン博物館でのムハのSE展には、実に40万人が訪れた。

1923年:8月ソコル体育団体がズビロフのムハ・アトリエ訪問を企画し、多くの参観者を集めた。この年、以下の3点を描く。
⑫ヴィートコフ丘での戦いの後(テ・デウム・ラウダムス)1420年
Po bitbě v Vítkově (Tě Boha chválíme)
⑬ポヂェブラディのイジー王(カトリックとカリックス派の王, 1462年)
Jiří z Poděbrad, král obojího lidu
⑭ブルガリアのシメオン皇帝 (スラヴ文学の明星888- 927年)
Car Simeon Bulharský ( Jitřenka slovanského písemnictví )
⑮セルビアのステフェン・ドゥシャン皇帝の戴冠 1346年 (スラヴの律法)
Štěpán Dušan Srbský a jeho korunovace ( Slovanské zákonodárství)

1924年:著作「自由フリーメイソン」を出版。春バルカン、4月アトス山訪問。この年、以下の3点を描く。
⑯グリュンワルト戦の後(北スラヴの相互扶助, 1410年)
Po bitvě u Grunwaldu (Severoslovanská vzájemnost)
⑰鉄と黄金の王プシェミスル・オタカル二世(スラヴ王朝の団結)1253 – 78年
Přemysl Otakar II, král železný a zlatý (Svaz slovanských dynastů)

1926年:この年からプラハ7区ホレショヴィツェの“ウ・ストゥダーンキ通り”の市立小学校講堂(1902年建造の採光に優れたネオ・ルネサンス様式、現カレル大学教育学部付属小学校Umělecká 通り850/ 8)内アトリエで“SE”の制作を行う。7月初旬の第8回ソコル大会に際し、夕べのヴルタワ川に41隻の船やボートを浮かべて“SE”の活人画を演出、参加者は2千人に及んだ。この年までアセチレン・ガス照明で描いていたが、以下の3点は電気による昼光によった。

⑱聖アトス山(正教会のヴァチカン)
Mont Athos ( Svatá hora, Vatikán pravoslavných) 18世紀。
⑲ボダイ樹の下での若者の誓い(スのラヴ民族覚醒)1894年
Přísaha „Omladiny“ *7 pod slovanskou lípou ( Slovanské obrazení)
⑳スラヴ史の神格化(スラヴ民族の4つの時代を4色で)1928年までかけて制作。
Apotheosa z dějin slovanstva ( 4 období Slovanstva ve 4 barvách)

1928年:プラハ・ブベネチ区に新築した邸に一家で移る。9月21日すべての”SE”をプラハ市長に寄贈し、見本市会館*8で展示されたが、「ボダイ樹の下での若者の誓い」⑲は、場所の関係で展示されなかった。クレインも臨席した開会式では、文化大臣ホッジャMilan Hodža(1878~1944)、ブルガリア大使、 ユーゴスラヴィア大使、プラハ市長バクサKarel Baxa(1863~1938)らが祝辞を述べた後、ムハの謝辞があった。一般には9月23日から10月末まで公開され、賛否両論に沸いた。10月28日(独立記念10周年日)にニューヨーク・タイムズは、“SE“の完成を祝い、T.R,Ybarry氏の大がかりな記事を複製画④⑧⑫⑭⑮入りで掲載した。

1930年:6 月初めから9.月末までブルノ見本市会館ホールで “SE“ が展示された。

1931 年:プラハ・スラヴィエ銀行の委嘱で、聖ヴィート大聖堂入口から左手3番目の新大司教ホラ礼拝堂窓に、ステンドグラスを創った。これは当初、依頼主の銀行にちなみ、スラヴの女神“スラヴィエ”を中心に、周囲に鳩の舞う図案だったが気に入られず、ボヘミア古代の支配者:ボジヴォイ、リュドミラ、ヴァーツラフを中央に、両側にキュリロスとメトデウスの昇天と、スラヴ人の寓意画を配したものに変更された。

1932 年:ニンブルク(プラハ東40km)市立信用銀行のために「1421年ニンブルクの神とプラハ市民への従属」を描く。

1933 年:4月中プルゼニュ工芸博物館でムハ展(“SE“のスケッチ、水彩画10点を含む)、これにはボルシェヴィキ・ロシア絵画「Hvězda 星」(狼に襲われる民族衣装の娘、1.5 x 2.8m)も展示された。その後フラデツ・クラーロヴェー、9~10月にはフルジムでも展示会。ロキツァニ市役所のために「コンスタンツでのヤン・ロキツァナ師(1397~1471)」を描く。

1934年:著作「愛と理性と叡智」を出版。プラハ合唱協会”フラホル”のために「歌」を描く。

1935年:7つの円形連作「天地創造」を描く。共産党機関紙ルデー・プラーヴォは“SE“を、ブルジョアジ-に奉仕するものと論評。

1936年:5月末パリのJeu de Paume会館で ”ムハ+クプカ(1871~1957)回顧展“ が開かれ、“SEの⑭⑯⑱と、20点すべての写真が展示された。ムハのパリ訪問はこれが最後となった。

1936~38年:1934年にフリーメイソン用の三部作「人生行路」(理性の時代、叡智の時代、愛の時代)について構想。

1939年:「スラヴ民族協調の誓いPřísaha svornost Slovanů」は未完に終わる。3月15日プラハに進駐してきたナチス・ドイツ軍に逮捕さるも数日後釈放。7月14日、79歳の誕生日の10日前に死去。ヴィシェフラト墓地のスラヴィーン合祀廟に埋葬。弔辞は敵対者だった画家シュワビンスキー(1873~1962)が述べた。

1941~45年:“SE“はプラハ・チェコ文書館の地下室に秘蔵されていた。

1945~49年:“SE“は戦後ただちにプラハ7区の”ウ・ストゥダーンキ校“に戻され,ワルドシュタイン宮殿厩舎跡やフラッチャニの球技館に常置する案や、ストロモフカ公園、ヴィシェフラト、フヴェズダ付近、プラハ以外ではムニーシェクやズビロフの城内に美術館を新設する案が出た。これらについて画家集団間の意見は統一されなかった。

1950年:1月末プラハ地区委員会は、所有はプラハ市とし、モラフスキー・クルムロフに貸し出すことを決定した。

1963年:前年に修復された9点がモラフスキー・クルムロフ城*9内で展示された。ロンドンでのムハ展は大成功だったが、“SE“ への関心は薄かった。

1968年から:“SE“の全20点がモラフスキー・クルムロフ城内騎士の間で公開され、城内には錬金術医師パラケルズス*10記念室も併置された。

1980年:2月5日から4月28日までムハ回顧展が、オルセイ美術館とプラハ国立美術館との協力で、パリのGrand Palaisで開催された。6月8日から8月3日まで、ダルムシュタットのMathildenhöheでのムハ展には、“SE“の①⑦⑨が出品され、カタログには全20点の複製が掲載された。

1989年:カッセルのFriedericianum博物館で、プラハ市立美術館の支援を受けムハ展が開催され、“SE“の①②③⑱が貸し出された。

1994年:7月2日から10月26日まで、クレムスのKunsthalleで、プラハ市立美術館の支援を受け「スラヴ叙事詩展」(14点)が開催された。

1995年秋:東京文化村ザ・ミュージアムでのムハ展に「聖アトス山」⑱が出品された。

1998年:ストックホルムのムハ展には“SE“の①②⑱⑳が出品された。

2000年:7月末ズビロフ市立博物館でのムハ展が始まった。21世紀になると“SE“ のパラフレーズを試みる画家や写真家が現れはじめる。

2009~10年:ウィーン・ベルヴェデーレ宮では“SE“ の②⑨が、モンペリエのファーブル博物館と、ミュンヘンKunsthalle der Hypo- Kulturstiftungでは、それぞれ“SE“の⑱⑳が展示された。

2010年:ズビロフ市立博物館で7月8日から9月20日まで「スラヴ叙事詩をたどり」なる展覧会が催された。この頃から原画の所有権をめぐり、プラハとチェスキー・クルムロフとの間で争いが始まる。9月にはŠ ・ツァバン(1963年生)台本、A・ブジェジナ(1965年生)作曲のメロドラマ“スラヴ叙事詩“ がブルノ市立劇場で初演された。

2012年:10.月5日から翌13年9月末まで、プラハ7区・ホレショヴィツェのドゥクラ英雄通り*11 47番地、見本市会館Veletržní palác で“SE" 全作品がムハの念願通り年代順に一般公開されている。

2013年:「スラヴ叙事詩」は2017年までプラハに留め置かれ、その後プラハ市当局は日本公開を予定しているが、ムハの遺族は輸送途中の破損を恐れ反対している。

息子イジー(1915~91)は、リドヴェー・ノヴィニ紙支局員としてパリに滞在中、結婚した女流作曲家のカプラーロヴァー(1915~40)が、間もなく病没したためイギリスに渡り、1941年音楽家のジェラルディーン・トムスン(1918~2012) と再婚、空軍士官、BBC報道員として勤務した。戦後、妻ジェラルディーン、母マリエ、姉ヤロスラヴァとプラハへ戻り、ブベネチ区からフラッチャニ区へ移り住んだ。彼は作家、ジャーナリストとして活躍していたが、共産党クーデタの翌1949年に逮捕され、前年に生まれたジョーンは18年間イギリスの祖母のもとで過ごした。のちに釈放されたイジーは、5ヶ国語を駆使していた母が1959年に他界してからは、父アルフォンスの遺品の管理に心血を注ぎ、1980年代後半「プラハ国立博物館美術展」の折に来日した。彼の死後、妻は銀行家となった息子ジョーンと「ムハ財団」を立ち上げ、1998年にプラハのカウニツ宮殿内にムハ美術館を開いた。

注記
1)Zlatá Praha 黄金のプラハ:1864-65年間および1884-1929年間に月2回発行された画報。

2)Světozor世界展望 :スクレイショフスキーF.Skrejšovský(1837~1902)が1867年に創刊した週刊画報で、チェフ、ヴルフリツキーらも編集に参加していたが、1900年Zlatá Prahaに吸収された。

3)ソコル体育団体:「健全なる肉体に健全な精神宿る」をモットーに、民族復興運動の波に乗り、1862年にドイツの体育協会Turnvereinをモデルに、芸術史家のティルシュ(1832~84)が創設し、ヒュグネル(1822~65)が経済的に支援した団体。1864年にプラハ・ソコル(鷹)と命名、その後、各地に支部ができた。1882年から公開体育祭Sletを催し、1889年にチェコ・ソコル団体Česká obec sokolskáČOSが結成され、愛国運動に発展してゆく。第一次世界大戦中に団員は、進んでチェコ軍団に参加した。戦後、再編された団体は、スロヴァキアやポトカルパチア・ルス(現ウクライナ領)にも支部を置いていた。

4) クレインCharles Richard Crane (1858–1939) ユダヤ人富豪。東ヨーロッパと中東に関心。1900年代にマサリクらをシカゴ大学に招く。1912年ウィルソン大統領の誕生に貢献、1917年ロシア特使に任命され、パリ平和会議の一員となる。トロツキーを支援。戦後中華民国担当大臣となり、ムハの図案による100コルナ紙幣にはジョゼフィーンが描かれ、1931年サウジアラビアとイェメンの石油開発に資金提供。当時貧しかったアラブ家長たちとも交友があった。ムハはクレインの娘の肖像を描いているが、その一人はマサリク大統領の息子で外交官のヤン(1886~1948)の妻だった、

5) マーネス造形芸術集団:画家マーネス(1820~81)の名を冠し、進歩的造型芸術を目ざし1887年に創設された。1902年にロダン展、1905年にムンク展を主催。雑誌“ヴェルネー・スムニェリ(自由な方角)”を発刊し“デヴェットシル”のメンバーも参加していた。1949年に“チェコスロヴァキア造型芸術集団”に発展、解消した。

6) Zbirovズビロフ:プルゼニュ東北25kmの芸術家村、付近の林はキノコ狩りで有名。作家V・スラーデク(1845~1912)の生地。Fr・シュラーメク(1877~1952)や作曲家J・B・フェルステル(1859~1951)が一時ここで過ごした。B・マルチヌー(1890~19519)も第二次世界大戦が終わったらアメリカから帰国し、ここに落ち着つくつもりだったがその夢は叶えられなかった。
Zbirov城:丘の上に建つこの城は、13世紀後半の初期ゴシック様式で黒塔を備える。
13世紀末にはすでに存在していたらしく、長らくロジュンベルク家の所有だったが、15世紀30年代からは持主が頻繁に代った。16世紀初めに後期ゴシック、16世紀末にルネサンスに改築。1869年に持主となった鉄道王ストロウスベルクB・H・Stroussbergがネオ・ルネサンス様式に改築したが完成しなかった。

7) Omladina オムラヂナ:若い学生や労働者の進歩的集団。セルビアの秘密結社「オムラヂナ」との関係を疑われ、1894年2月に、のちに作家となるS・K・ノイマンを含む68名が投獄されたが、翌年、無実が立証された。

8) 見本市会館:1925~28年の間にJ・フックスとO・ティル(1884~1939)設計で建てられた。1951年までは各種見本市会場として使用され、第二次世界大戦中は、プラハ在住ユダヤ人の集結場で、彼
らは近くのブブニ駅からテレジーン強制収容所へ送られた。戦後トゥゼックスなどの外国企業が入っていたが、
1974年8月14日の大火で甚大な被害を受け、1976 年プラハの美術館の手に渡ったが、再建は遅々として進まず、完成したのは1990年代になってからだった。現在は近・現代美術館としてフランス19・20世紀(ドラクロワ、コロ、セザンヌ、ゴーガン、ピカソ、ブラック、ロダン、ブールデルら)や、ヨーロッパ(クリムト、シーレ、ココシュカ、ムンク、シャガールら)・チェコ(プライスレル、ビーレク、シュトゥルサ、グトフロインド、クプカ、スカーラら)20世紀の絵画や彫刻が常時展示されている。
Třída Dukelských hrdinů ドゥクラ峠英雄通り45/ 530。

見本市会館
見本市会館(プラハ国立美術館所属)

9)Moravský Krumlovモラフスキー・クルムロフ城:この城を建てさせた人物は不明。1279年にオブジャニ家のヘラルトHeralt z Obřanが所有し、30年後リパー家のJind5ich z Lipéの手に渡った。1420年代にはフス軍団が居坐っていた。1536年に当主ヤンは難病に悩み(おそらく胆石)、名医の誉れ高いバーゼル大学教授パラケルズスParacelsusが招かれたが効なく、彼は2年後、怒れる城主のもとを去った。16世紀半ばイタリアの建築家ガルドLeonardo Gardo da Bisono(1528~74)により、アーケード回廊を含むルネサンス様式に改築された。30年戦争や17世紀末の大火で荒廃。その後1773/ 74年にリーヒテンシュタイン家がバロックに改築した。1805年11月にはナポレオンが滞在、1809年まで配下兵士約1万が駐屯していた。1866/ 67年のプロシャ=オーストリア戦争時にはプロシャ軍がここに侵攻してきた。1908年から1945年まではキンスキー家の所領だった。1934年にはパラケルズスの実験室跡が見つかった。第二次世界大戦終結直前この町はソ連軍の爆撃で甚大な被害を受けた。

10)パラケルズスTheophrastus Paracelsus Bombastus von Hohenheim、筆名Philippus Aureolus(1493~1541):スイスの医師,化学者、自然科学者。モラヴィア滞在中に創傷治療書や天文学書を書いた彼は、近代薬学、医学の先達だっただけでなく、錬金術にも凝っていた。

11)ドゥクラ峠英雄通り:東北スロヴァキア・ポーランドとの国境の峠(標高500m)一帯で、1944年9月上旬から11月末まで,スロヴァキア・パルチザンも含め、独ソ両軍30万が激突した戦闘で戦死した英雄たちを記念し、1947年に命名された。現地には広大な野外記念館がある。

プラハ国立現代美術館地図
プラハ国立現代美術館(見本市会館内)地図

モラフスキー・クルムロフ周辺地図
モラフスキー・クルムロフ周辺地図


モラフスキー・クルムロフ城
モラフスキー・クルムロフ城

モラフスキー・クルムロフの「スラヴ叙事詩展示」
モラフスキー・クルムロフの「スラヴ叙事詩展示」


城入口
城入口

館内階段横壁の「一日Denní boby」展示
館内階段横壁の「一日Denní boby」展示

参照文献:
1)Dalibor Kusák, Mafrta Kadlečková: Mucha(BB/art Praha, 1994)
2)A Mucha: Slovanská epopej(Galerie hlavního města Praha, 2011)
解説文の筆者ビジョフスカーLenka Bydžovskáとスルプ Karel Srpは、
「スラヴ叙事詩」と関連する作品として、以下のものなどをあげている:

シュヴァイゲルH.Schwaiger:「クラコノシュ山」(1885)、
マテイコJan Mateijo:「キュリロスとメトデオス」(1885)
アレシュM. Aleš :連作「古代スラヴ人の生活」(1891)、
マシェクK. V. Mašek:「リブシェ」(1893)、
シュワビンスキーM. Švabinský:「魂の融合」(1896)、
マロルトLuděk Marold:「リパニの戦い」(1898)、
ビーレクF. Bílek:連作「わが父よ」(1900/ 01)
メデクR.Medek:「真夜中の神々たち」(1912)
ヴァーハルJ.Váchal:「春を迎えるスヴァントヴィート賛歌」(1913)、
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ローレンスJ- P. Laurens:「聖ヨゼフの死」(1877- 80)、
シャヴァンヌP.P. de Chavanne:「聖なる森」(1886- 89)、
ドゥタイユJ. B- Ě.Detaille:「サン・プリヴァ戦に斃れしベルベジエ少佐」(1872)、
ベスナールA.Besnard:「人々の中に真実を齎す科学」(1891)、
デニスM. Denis:「ヴェシネ聖十字架教会礼拝堂の装飾」(1899)
カレラA. G.- Kallela:「クレルヴォ復讐の誓い」(1908)

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[ 2013/04/05 06:22 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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