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ムハの「スラヴ叙事詩」Slovanská epoleja (2/2)

スラヴ叙事詩15
11.ヤン・アモス・コメンスキー(希望の光 1592-1670)
Jan Amos Komenský

コメンスキーは、イヴァンチツェで新約聖書の翻訳などで活動していた、同胞団のヤン・ブラホスラフ(1523~71)の後継者で“教育学の先駆者”。ドイツに留学、1614年に帰国後、1618年フルネクの教会管理者となる。

1620年のビーラー・ホラの戦いと、1621年の旧市街広場での27名のチェコ貴族や市民の処刑は、ハプスブルク王朝支配に対するボヘミアの反抗だけでなく、ボヘミア王国における信仰の自由の終焉をも意味していた。200年に及ぶ宗教的寛容の後、カトリックだけがボヘミアでの唯一の教会となった。チェコ人代表は皇帝選定権を失い、続く300年間チェコ民族はほとんどそのアイデンティティを失った。

多くの人が、故国を離れるか改宗を迫られた。それらの中には兄弟団の構成員もおり、最後の主教ヤン・アモス・コメンスキーを戴いていた。彼はポーランドのレシュノに亡命、さらにイギリス、スウェーデン、プロシャ、オランダと渡り歩いた。彼はもっぱら教授、教育書や語学書の著述に専念し、ヨーロッパで教育改革者として名声を得たが、ヨーロッパ大陸のプロテスタントの間で、チェコ民族への何らかの支持を得ようと努めた。しかしこの希望も、30年戦争が終息すると水泡に帰した。彼は晩年をアムステルダムで過ごし、しばしば海辺を散策し、そこで望郷の念を募らせた。

画面は彼の最後の日々の一齣を描き出している。病いを患うコメンスキーを、友人たちが海辺に連れ出し、多くの人が別れを告げにやって来た。希望の小さな灯火が砂の真中で消えつつあり、帰郷の夢もなくなったことを暗示している。
11)コメニウス


12.鉄と黄金の王プシェミスル・オタカル二世プシェミスル・オタカル二世(スラヴ王朝の団結)
Přemysl Otakar II, král železný a zlatý (Svaz slovanských dynastů)

オタカル二世(1233~78)は、中世ボヘミアでもっとも優れ成功した支配者というだけではない。ダンテは“神曲”の中で彼について触れ、彼の版図はボヘミアやモラヴィアだけでなく、オーストリアや北イタリアの一部にまで及んでいた。彼は騎士たちと不滅の軍隊を持つゆえに鉄の王と呼ばれ、富と寛大さゆえに黄金の王とも言われていた。彼は姪のブランデンブルクのクンフタ*と、ハンガリー王の息子との結婚式の席でも、その富を誇示している。ハンガリーはプシェミスルの宿敵で、1261年10月ポジョニ(現ブラチスラヴァ)で行われたこの結婚は、相互関係を改善させるはずだった。オタカル二世はそこに壮大なキャンプを張り、多くの支配者、諸侯や貴族を招いた。

画面はメイン・テントの内部を描いており、真中にオタカル二世、花嫁は背後に、花婿は彼の左手を握っている。そこには主にスラヴ諸国の他の王侯も臨席している。結婚の贈物が隅に置いてあり、皆の頭上には主にプシェミスル家支配下諸国の紋章が見られる。

*クンフタ=キヌグンデ(1245~85):オタカル二世の2度目の妃、ヴァーツラフ二世の母、クンフタの女子修道院長、ファルケンシュタイン家のザーヴィシと再婚。

スラヴ叙事詩12


13.グリュンワルト戦の後(北スラヴの相互扶助, 1410)
Po bitvě u Grunwaldu (Severoslovanská vzájemnost)

チュートン騎士団は当初、十字軍と結びついていたが、のちに北を目指して騎士団となり、バルチック海周辺に定住した。彼らは北方の異教徒の間にキリスト教を広める目的を持っていたが、次第にキリスト教国だった近隣諸国、とくにポーランドとリトワニアに脅威を与えるようになった。

リトワニアのヴラディスラフ・ヤギエウォ公と、ポ-ランドのヤドヴィカ王妃とが結婚し、両国の勢力が結合した。1410年7月15日、少数のチェコ軍団に支えられた、ポーランド・リトワニア連合軍と、チュートン騎士団との間で、一大決戦が行われた。

画面には、翌日明け方の戦場が描かれている。誇り高い騎士団は完膚なきまでに打ち負かされ、勢力回復の見込みはない。ポーランド王が戦場を視察し丘に登る。多くの戦死体を見て彼は衣で顔を覆う。背後には部下の戦士たちがおり、その中には片目の人物がいるが、それはのちにフス軍団を率いることになるヤン・ジシカである。

スラヴ叙事詩13a

スラヴ叙事詩13b


14.ヴィートコフ丘での戦いの後(テ・デウム・ラウダムス)
Po bitbě v Vítkově (Tě Boha chválíme)

1419年に嫡子のいないヴァーツラフ四世が死去すると、王位継承権を持つのは弟のジギスムントだけだった。ところがボヘミアの民衆は、彼がヤン・フスの死に拘わったとして、ジギスムントの継承権を拒否した。しかしジギスムントはカトリック教会の支持を得て、異端ボヘミアに対する第一次十字軍が結成された。神聖ドイツ帝国を主力とする、ヨーロッパ各地から集められた傭兵たちは、ジギスムントを王位につけるべくボヘミアへ到着した。彼らはプラハの重要拠点の一部、フラッチャニまで占領した。

1420年7月15日ヴィートコフの丘で一大決戦は行われた。トロツノフ出のヤン・ジシカが、新たに結成された急進運動の中心地ターボルからプラハに入った。彼は丘を攻撃してくる敵を迎え撃つに最適の場所を選んだ。十字軍がすでに勝利を収めたと思った瞬間、彼らは背後からプラハ住民の奇襲を受け、多くの兵を失い算を乱して敗走した。
画面右後方ヴィートコフ丘を背に,赤マントを羽織ったジシカが立ち,その前に十字軍の放棄した武器が散乱している。中央ではターボル派の僧が、枝分かれしたホスティアを捧げ持ち,奇跡の勝利を祝福し、その前に他の僧たちが身を横たえ祈っている。画面は多くの負傷者や死者を出した激戦直後の情景を描いているにも拘わらず、死者の姿は一つも見られない。ムハは戦争や殺戮に猛反対していたから、これは戦争の残忍さに対する抗議の一齣だろう。

現在ジシュコフと改名されたヴィートコフ丘の上には,巨大なジシカ騎馬像(B・カフカ1941年作,1950年設置)が建っている。
スラヴ叙事詩14


15.ポヂェブラディのイジー王(カトリックとカリックス派の王, 1458-71)
Jiří z Poděbrad, král obojího lidu

フス運動はイデオロギーの違いで分派したためその力を失い、1436年ついにジギスムントはボヘミア王位についた。しかし程なく他界し、王権は死後に生れたラディスラフに受け継がれたが、長続きしなかった。ボヘミア貴族たちは大きな自由を得、事実上彼らが支配していた。中でも傑出し尊敬されていたのがポヂェブラディのイジーで、彼は王国の支配者となり、カトリックとカリックス派との間の、果てしない争いを鎮めようとした。1458年にラディスラフが死ぬと、イジーは、カトリック側と、領主,貴族,商人が占める聖杯=カリックス派の双方から国王に選ばれ、これは一定の成果をおさめた。

彼の王国の状況は極めて複雑だった:ボヘミアはヨーロッパで唯一、宗教の自由を認められている国で、その基となっていたのは、聖杯sub utraque specieからの聖体拝受を容認する、カトリック側と結んだ、改革派の公式綱領、いわゆるプラハ協約*で、これによりボヘミアでのカリックス派の存在が可能になった。

しかし1462年に法王ピウス二世は、この協約を破棄し、特使ファンティム・デ・ヴァレをボヘミアへ送った。この情景が画面に描かれている。

王の前に立つ枢機卿が王に、カリックス的信仰をやめ、その教会禁止令を伝える、ローマからの通告を読んでいる。激怒した王は、これはボヘミアにおける新たな市民戦争を意味するものとして、法王のすべての要求を拒否し、自分だけにボヘミアの統治権があるのだと答えた。彼は聖体拝受をカリックス流に行い、生命や王冠の危険を冒しても、信念を守ると宣言した。この場面を目撃した貴族たちは、彼の勇気に恐れをなし、前面にいる少年は、ローマからの文面の記された書を閉じているが、これは法王といかなる話合いも終ったことを意味している。

*注:「プラハ4ヶ条」:①神の言葉を説く自由,②両形色による聖体拝受の自由,③俗人による聖職者の世俗財産の没収,④大罪の懲罰と根絶を正当な権威者により行う。
スラヴ叙事詩15



16.ブルガリアのシメオン皇帝 (スラヴ文学の明星888-927年)
Car Simeon Bulharský (Jitřenka slovanského písemnictví)

10世紀シメオン皇帝の支配は、ブルガリア帝国のもっとも栄光に満ちた時代だった。近隣諸国との困難な戦いと、ブルガリア帝国の複雑な政情のおかげで、シメオンはバルカン半島内陸のほとんどの支配権を獲得し、この地方でもっとも尊敬される支配者の一人となった。さらに彼は教養ある人物で、彼の帝国はスラヴ教育と文学の重要な中心地となり、それはとくに大モラヴィア国を追われた僧たちが、ブルガリアのオフリダ湖近くに定住してから顕著になった。

ムハはわれわれを、シメオン王国の首都、カムツィア河畔の大ペレイェスラフを導いてくれる。玉座に坐るシメオンは、作家、科学者、僧たちに囲まれている。上方隅には、当時ブルガリアで活動していた、高僧たちのイコンが描かれている。その中にはオフリダのクリメント、ナウムやアンゲラリイがおり、アンゲラリイはグラゴル語に、すでに今日のロシア・アルファベットとほぼ同じキリル文字を導入した。

この絵には、ムハが東方への文化の旅で賞賛した、東方の主題にヒントを得た要素が含まれている。
スラヴ叙事詩16


17.セルビアのステフェン・ドゥシャン皇帝の戴冠(スラヴの律法)
Štěpán Dušan Srbský a jeho korunovace (Slovanské zákonodárství)

セルビア民族は永い間、ビザンツ帝国の強い影響下に暮らしていた。しかし13世紀半ばステフェン・ドゥシャン(c.1308~55)の支配下で、彼らの国はバルカン半島で、もっとも強大なものとなった。ドゥシャンはビザンツ帝国内の複雑な政情を利用し、2番目の強敵ブルガリアを打ち破りさえした。彼はアルバニアやルーマニア山地の住民の支援を受け、マケドニア、アルバニアや北ギリシャを含む、広大な領域を征服した。彼の重要な業績の一つは、法典編集とその法的使用だった。その結実が歴史的に興味深いドゥシャン皇帝法典で、これはセルビアがヨーロッパ他諸国にひけをとらないことを立証している。

1346年の復活祭にドゥシャンは、スコプリエの町に近い聖マルコ教会で、セルビアおよびギリシャの皇帝として、厳かに戴冠された。画面はその戴冠式を描いており、祝典行列が今しがた教会から出て来たところ。これは王の剣と盾を捧げ持つ騎士たちに先導され、中央のドゥシャンは従者に囲まれ、背後に息子と妻が見える。白衣の正教僧たちは、儀式をとり行った総主教に従っている。前面で花を持つ乙女たちは、ムハ作品の典型で、美女、花々、植物は、アールヌヴォの特徴で、ムハがその代表者である。
スラヴ叙事詩17


18.聖アトス山(正教会のヴァチカン)
Mont Athos (Svatá hora, Vatikán pravoslavných)

サロニカの北西に、3つの岬のあるハルキディキ半島があリ、その東端に位するのが独立教会国家アトスである。古い伝説によれば、使徒やキリストの弟子たちが迫害された時、イエスの母、聖母マリアが、ここに避難所を見つけ、ここで亡くなったという。9世紀になるとここに、いくつかの修道院が建てられ、1992年まで女人禁制だった。アトス山はこれら修道院の一つで、その教会は聖母マリアに捧げられた。

画面では、教会の蒼穹に、東方教会の流儀で聖母マリアが描かれており、彼女はこの教会を訪れるすべての巡礼者を祝福している。彼女のモザイクの下で、正教の神父や修道僧が聖者たちの遺物を捧げもち、口づけするよう巡礼者たちにそれを差し出している。陽光が右手から教会内にさしこみ、その光の中で智天使ケルビムたちの姿が、上に登ってゆくが、彼らが手にしているのは、この地域の他の重要なスラヴ修道院:セルビアのヒランデル、ロシアのパンテレイモン、ブルガリアのゾーグラフとヴァトペドのモデルである。これら修道院の名前はキリル文字で記され、ケルビムたちの後には、これら修道院の4人の院長igumnen(prior)の姿が見える。

アトスは、カトリック教会のヴァチカンのように、東方教会にとり重要な場所である。芸術面からもアトス山は、この連作の中での傑作とされている。
スラヴ叙事詩18


19.ボダイ樹の下での若者の誓い(スラヴ民族の覚醒)
Přísaha "Omladiny" pod slovanskou lípou (Slovanské obrazení)

ビーラー・ホラの戦いの後ボヘミアは、300年間ハプスブルク家の支配下におかれ、これは国土の中央集権化とゲルマン化を意味した。しかし18世紀末と19世紀には、民族の文化的、政治的覚醒が齎された。チェコ語がふたたび劇場や学校に姿を現し、のちにはチェコ民族を代表する最初の政党も発足した。

19世紀末にはプラハに、学生や若い労働者の急進的団体オムラヂナが現れた。彼らは文化に関心を示すだけでなく、強権主義やオーストリアそのものに対し、嫌悪の情を露にした。1894年1月この団体の68名が裁判の結果、投獄された。

画面中央には、母なるスラヴィアといっしょに、聖なるボダイ樹(チェコの国樹)が描かれている。石の祭壇の周りで跪く若者たちが、民族への忠誠を誓っている。灰色の口髭を生やし、セルビアの民族衣裳を着た男は、同じ運動がセルビアにも起こったことを思い起こさせる。

背後の何人かが描きかけなのは、確証はないが、政治家の肖像を描くのをいつも拒んでいたムハが、チェコ民族の指導者の顔を描きたくなかったからと考えられる。さらにムハはこの作品にとり組んでいた頃、他のチェコ人芸術家から厳しく批判されており、彼らの不快な攻撃がその一因だったかも知れない。

前面にいる二人の人物は注目に値する。ハープを弾いている乙女は、娘のヤロスラヴァで、少年はのちに有名な作家となる、息子のイジーである。
スラヴ叙事詩19


20.スラヴ史の神格化(スラヴ民族の4つの時代を4色で)
Apotheosa z dějin slovanstva (4 období Slovanstva ve 4 barvách)

連作最後の作品は、すべてのスラヴ民族の歴史を総括している。右下の青は最初の定住地とその神話、彼らのもっとも古い歴史を、赤は栄光に満ちた中世とスラヴ民族の勝利(カレル四世とオタカル二世の統治)を、黒は屈辱と服従の時代を表している。画面中央を覆う陽気な黄は、オーストラ=ハンガリー帝国が瓦解し、多くのスラヴ民族は独立と自由を得た、1918年を表している。

緑の枝を持った乙女たちは、ボヘミアの独立のため、連合軍と共に戦った、第一次世界大戦の戦場から帰還したばかりの、チェコ軍団を歓迎している。戦勝国はその旗で想起される。上方に描かれている若者の手はほどかれ、自由のリースを手にしており、その後でイエスがすべてのスラヴ人を祝福し、より善き未来を願っている。背後にある平和の虹は、この連作の核をなすメッセージである。
スラヴ叙事詩20


参照文献:Dalibor Kusák, Mafrta Kadlečková Mucha(BB/art Praha1994)
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[ 2011/12/26 21:56 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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