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「バフチサライの泉」~その1

南クリミア半島地図
バフチサライ(庭園宮殿の意、人口2万):
13世紀半ばソルハトSolkhat(クリミア半島南東部海岸近くの現スタリイ・クリムStary Krym)が、キプチャク汗国Yurt(移動式テント)の中心だった。

ここは1328年から1783年までクリミア汗国の首都で、1475年からオットマン・トルコに臣従していた。15世紀半ば同汗国は分裂し、政争をくり返したのち、ギレイHadji-Devlet-Girayがクリミア汗国の王となり、ギレイ王朝は350年間続き、48人の王を輩出した。ギレイ王は在所をバフチサライ東南のクルク=オルKyrk-Or(現Čufut-Kale)としたが、息子のMengli-Girayは、その近くにアシュラマ宮殿を建てた。16世紀初頭から世紀末まで、チュルク=スChuruku-Su河畔の渓谷に王の宮殿が建てられはじめた。ここの宮殿は1519年にサライ王Khan Saraiが、ペルシャ、オットマン、イタリア人建築家の指導のもと、ロシアとウクライナの奴隷を使い建てさせた。

これらの宮殿は対トルコ戦争さ中の1736年、ミニヒMinich将軍の軍隊に焼払われ、庭園も壊された。その後、女帝エカテリーナ二世(1729~62在位~96)の命をうけ、ポチョムキン(1839~91)指導のもと、以前より立派に再建され、クリミアがロシアに編入されて以降も、ツァーリの意向で修復が続けられた。1787年にはエカテリーナ二世の行啓を仰いでいる(宮殿入口前に石灯篭のような記念碑)。第二次世界大戦まで36のモスクがあった。本格的な再建は1960年代になってからである。


バフチサライ入口
2008年8月この地を訪れてみた。オデッサから長路バスでクリミア共和国に入り、首都シンフェローポリ(人口約36万)に着く。1930年代半ば、モスクワ駐在武官だった西村敏雄少佐(1898~1956)が、この地の連隊に配属されていた折、演習の帰途バフチサライを逍遙していると、満月がドームの上にかかり、美しさに郷愁をそそられた。「いい眺めだ」と轡を並べ駒を進めていた、連絡将校の中尉に話しかけると、「あの月を電燈にしたら何燭光になるでしょう」とヤボな答えが返ってきた。ある日、帰宅すると家の前で、50がらみの女乞食が、彼の捨てた牛缶を集め、川の水を流しこみ、塩をいれ焚火にかけ食べていた。家に招き入れ缶詰の肉を食べさせてやると、彼女は身の上話をはじめた。一家は村一番の豪農だったが、田畑をコルホーズに没収され、夫は当局に反抗したため流刑地に送られたという。

ここからバフチサライまでは車でわずか30分足らずだが、この地には目ぼしいものがないので、黒海沿岸のヤルタに泊ることにした。ヤルタまでは85キロに及ぶ世界最長のトロリーバス複線が走っている。十二夜の月が黒海の水面に反映しており、糸杉の背後のブドウ畑は墓地を思わせ(古代エジプトでは糸杉でミイラの棺を作ったとか)、往年のフランス映画“舞踏会の手帳”冒頭場面を想い出す。翌日バスでバフチサライへ向かった。


夏のパヴィリオンの泉

1917年に開館したこの博物館は、1991年に国立歴史文化保存財として、クリミア=タタール宮殿博物館、芸術博物館、17~19世紀武器展示、考古学博物館などを含み、14の泉がある。門を入ると“大使のアレヴィズ門”(イタリア建築家の名にちなむ鉄の門Demir-kapu、1503年作)がある。謁見の間を過ぎ夏のパヴィリオン中央には、ポーランドの詩人ミツキエヴィチ(1798~1855)が“クリミアのソネット”で讃えている大理石の泉czeszmeがあり、壁の装飾はオメールの作である。小モスクから泉の庭にはいる。「黄金の泉」は1733年にカプラン・ギレイ王が作らせた。紅白のバラで飾られた「涙の泉」は、クリム・ギレイ王が謎の美女ディアラ・ビケチDilara Bikeczへの愛の証しとして、オーメルに建てさせたもので、冷たい大理石の中に王の悲しみを刻みこまれている。この泉は1764年建設当初、陵Mausoleumの壁にあった。

ここからハーレム(禁ずるの意)に入る。ここには妻(4人まで合法)や妾(経済的余裕があれば許可)が住んでいた。Shariat法によるとイスラムの妻たちは、夫の許可なく見知らぬ人との接触を禁じられ、別々の家屋に閑居させられており、許された時間に庭園内を散歩したり、鷹の塔Baszta Sokolaの上から外を眺めるだけだった。ハーレムは元は4つあったが、現在は1980年代に修復された一つが残っているだけ。家臣たちの部屋の中の台所では、男だけが調理に従事していたらしく、邸内には400年も経たクワ科Morus bombycisの大木が聳えている。墓地にある歴代王たちの碑銘には「死は万人が飲み干すべき酒盃、墓は永遠の棲家なり」と記されていた。


ハーレムの居間
「バフチサライの泉」には、ポーランドの詩人ウクラインカL‘esya Ukrańka(1871~1913)も詩を捧げているが、これを有名にしたのはプーシキン(1799~1837)で、彼はこの廃墟を訪れた1821/ 23年の間にこの詩を書いた。しかしギレイ汗の側室ザレマが、ポーランド王女マリアを殺害する場面の描写はほとんどない。

・ 「異国(とつくに)の碑銘のかなた、大理石のうちに水はざわめき、
・ 冷たき涙さながら滴り落ちる、永久とわに黙すことなく・・・
・ この国のうら若き乙女らは、遠き昔の物語を聞き知り、
・ この陰鬱な記念碑を“涙の泉”と名づけた」。

バレエ「バフチサライの泉」
プーシキンの詩をもとに、B・アサフィエフ(1884~1949)はバレエを作曲、1934年11月28日、レニングラード国立劇場で、台本ヴォルコフ、振付ザハロフ、主役マリア(ウラノワ)、セルゲイェフ(ヴァーツラフ)、ドゥトコ(ギレイ)、イオルダンおよびヴェチェスロヴァ(ザレマ)により初演された。

ハン・ギレイは、マリヤ姫の誕生パーティのさ中、ポーランドのポトツキー伯の城を襲い、城主の伯爵や許婚のヴァーツラフを殺し、マリアを捕らえてバフチサライに凱旋。彼女に惚れたが物にできなかった。ハンの側室ザレマは、マリアがハンに気のないのに安心していたが、ある時ハンがマリアを訪れた際、落としていったチュベテイカ帽(キャップ)を見つけ、嫉妬に狂い彼女を刺し殺す。怒ったハンはザレマを岩の上から海へ落とす刑に処したが、彼女らを偲びバフチサライの泉を作らせた。
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[ 2009/01/07 12:52 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)



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