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カレル橋彫像解説 1/3

カレル橋彫像

主として1706~14年の間に造らる。

カレル橋彫像配置図
※クリックすると大きくなります。


1.聖母と聖ベルナルドス

イェケルMatěj Václav Jäkel 1709年作のコピー。小さな雲に覆われた広い台座の上には上には小天使の頭、中央上には幼子イエスを抱いたマドンナがおり、その下には聖ベルナルドスが跪いている。左手にはキリストのリリーフを描いた十字を手にする小 天使たちが群っている。聖母の真下にいる小天使は大修道院長の司教冠を手にしている。この像がオセク修道院長により献呈された旨がラテン語で記されている。

碑銘:
【台座中央】
Ad Gabrielis Ave respondes optima fiat !
Redde tuun fiat cum repstemus Ave. Dat Bernardus Ave,
responde optima Salve! Redde tuum Salve, cum repetemus Ave.
ガブリエルのアヴェに、汝最良なる者は答える「立て」と!
われらアヴェをくり返す時、「立て」と言い給え。
 ベルナルドスがアヴェと言う時、汝最良なる者は答える「救え!」と。
われらアヴェをくり返す時、「救え」と言い給え。

【台座右手】
Si Gabriel proprium vellet sibi sumere vultum.
Hanc Bernarde tuamsumeret effigiem. Pro Gabrielis ave recipis pater optime Salve! 
Pro nostro Salve redde precamus Ave .
ガブリエルが姿を変えんとする時、ベルナルドスよ、
汝の顔をモデルとしよう。ガブリエルのアヴェに汝心致すなら、
最良の父よ、救いあれ、われらが救いにアヴェを給え!

【台座右端の板】
Christo Mariae et sancto patri Bernardo posvit AD.1709 frater Benedictus monasterii Ossecensis abbas 
キリスト、マリア、聖父に、オセク修道院長にしてベネディクト会士ベルナルドス、1709年この像を建立。

献呈:オセクのシトー会修道院長、ベネディクト会士リトヴェリグLittwerig

説明:一番高い所に、幼子イエスを抱える天なる女王、聖母マリアが鎮座し、左手に聖ベルナルドゥスが跪く。右手には十字架、釘、わき腹を突いた槍などイエス拷問具の数々。さらにイエスが顔を印されたベールと、裏切りの象徴たる雄鶏。
ベルナルドスは1091年ブルゴーニュ、ディジョン近郊のフォンテーヌ貴族の6人兄弟の一人として生まれ、1153年8月20日クレルヴォ没。1112(3)年シトー会に入り、2年後、新たな修道院を創るため、シャンパーニュのクレルヴォに派遣され、名声はイングランドやアイルランドにまで及んだ。1145年ローマ法王に推挙された元クレルヴォ僧エウゲニウス三世は、ベルナルドスにラングドックの反ローマ的アルビ派の説得と、フランスやドイツへの第2次十字軍扇動を依頼した。しかしこの遠征は失敗し、晩年に彼は著作に没頭していた。3人のシトー会創始者の一人。ber=深淵、泉、 nardus=ナルド。

カレル彫像1



2.聖イヴォ

ブラウンMatyáš Bernald Braun(1684~1738)1711年作の、ヘルゲゼルFr. Hergesellによる1908年のコピー。オリジナルはラピダリウム。像の左手には正義のシンボル(盲目)、真下と右手には老人と母子像がある。ブラウンは、聖フランシスコ・ザヴィエル像をデザインした画家P・ブランドル(1668~1735)のスケッチに触発されたという説もある。台座の彫刻群は友人のF・M・カニュカ(1674~1766)のデザインと思われる。台座上のリリーフは聖イヴォによるミサと、母子間の和解を表わしている。法衣をまとった聖像下の渦形装飾カルトゥシュには、献呈者がプラハ大学法学部たる旨がラテン語で記されている。オリジナルの破損部分は、ラピダリウムに保管されている。

僧正イヴォ(1263~1303)はブリュターヌ(エルヴォアン)のトレギエ出身、パリとオルレアン大学で法律を学び、ランヌ次いでトレギエの司教となる。貧者、MIBOUZIN、孤児の守護神(弁護者)。祭日は4月24日(5月19日)。

カレル彫像2



3.聖母と聖ドミニクス、トマス・アクイナス
イェケル1708年作のコピー(1965年)。

碑銘:
【マドンナ下のリボン】
Iesu ac Mariae decoli
イエスとマリアを飾る。

【聖トマスが手にする本】
Bene scripsisti
よくぞ書きし。

【彼の手にあるリボン】
Ave Mariaアヴェ・マリア

【台座中央】
Memor esto congregations tuae quam       
possedisti ab initio 
はじめより汝が属せし教団に思いを至せ。

【聖トマス下の台座】 
Sancto Thomade aquinati doctori.
Positus sum ego predicator et doctor in fide et veritate.
教師たる聖トマス・アクイナスに。
われ信仰と真実により、説教者にして教師に任ぜらる。

【左台座右手】
Sancto Dominico Authori
教団創設者、聖ドミニクスに。

【左手】
Predicamus Christum crucifixum iudeis quidem scandalum. 
ユダヤ人たちを怒らせ十字架につけられしキリストを、われら説教せん。

【下】
Plantabat predicatorum religio.
説教者たちの修道士これを建てる。

献呈:旧市街聖アエギデウス付属ドミニコ派修道院。

記述:群像の最後部には幼子イエスを抱く聖母マリア。左手に本を手にした聖トマス・アクイナス、右手に聖ドミニクス。これは所謂ロザリオ像である。伝承によればドミニクスは聖母マリアからロザリオを貰い、ロザリオの祈りで知られ、この祈りを広める約束を課せられたという。聖トマス・アクイナスは幼子イエスに話しかけている。犬が口にくわえている燃えさかる松明と、地球に向かうその炎(修道士の象徴)は、聖ドミニクス伝説から来ている。

ドミニクス(c.1170~1221, 主の見張人の意)は、カスティリア王国のカラエルガ生。ドミニコ会を創設したスペインの律修司祭。バレンシア大聖堂付属学校で学び、1196年からオスマ大聖堂参事会員として、司教ディエゴを補佐、1203年司教とともに南フランスを訪れ、アルビ派への宣教活動に献身、「ルカ伝」9章冒頭の言葉を信条に、托鉢しながら各地を廻り仲間を集めていった。アウグスティヌスの戒律を会則として「説教者修道会」を設立、のちには女子修道院も開いた。祝日は8月7日と4日。
トマス・アクイナス(c.1225~74年3月7日)は、イタリアのスコラ哲学者。アクイーノ近郊ロッカセッカ城主の子として生まれ、モンテ・カッシーノ修道院、ナポリ、パリ、ケルンで学び、ドミニコ会に入る。1256年パリ大学神学部教授となったが3年で辞任。以後10年間ドミニコ会神学大学で教授、著作に専念、69年パリ大学に戻り、「神学大全Summa theologica」を著す。リヨン公会議への途上、故郷近くのフォッサノーヴァで病没。

カレル彫像3




4.聖バルバラ、聖マルガレータと聖エリーザベト

ブロコフFerdinand Maxmilián Brokoff(1688~1731)1707年作。

碑銘:
【台座中央】
Orate pro nobis numc et in hora mortis
今、死の時にあたり、われらに代り祈り給え。

献呈:ヤノフの領主、地方裁判所職員にして皇帝顧問官
たる、オビテツの騎士J・V・F・オビテツキー。

記述:中央に聖バルバラ、右手に聖マルガレータ、左手に聖エリーザベト。

聖バルバラ(c.238~c.306):ニコメディアの異教商人ディオスクルの娘。長ずるに及び父親は彼女を、塔の部屋に閉じ込め求婚者などから遠ざけ、彼女に接する者は家庭教師と丁稚だけだった。彼女に信仰を伝授したのは彼らだったかも知れない。商談で長期不在だった父親が帰宅して、娘の改宗に驚き、娘を裁判にかけた。彼女の伝説は中世にもてはやされ、14救難聖人の一人となり、砲手や消防手、守護神となった。祝日は12月4日。

聖マルガレータ= 真珠の意(?~c.303)は、アンティオキアの異教の神官テオドシウスの娘でエデジウスといい、幼くして母親を失い、ひそかにキリスト教を信じていた乳母のもと田舎で育った。成長し家に帰った彼女を、父親は着飾らせようとしたが、彼女は拒んだ。マルガレータは家畜を放牧し楽しげに歌い、神を讃え祈っていた。領主は彼女を拷問し頭を切った。時に284年だった。14救難聖人に数えられ安産(妊婦の腹帯=マルガレータ帯=岩田帯)の保護者。絵画では羊飼女として描かれる。祝日は西方で7月20日、東方で13日。

聖エリーザベト(1207~31):ハンガリー王エンドレ二世の娘として、シャーロシュ・パタクに生まる。5歳でチュービンゲンのヘルマン伯の12歳の息子ルードウィヒと婚約、ヴァルトブルク城で婚約者といっしょに教育されたが、義母は性悪だった。1221年14歳で結婚、1223年から3児の母となり、貧者や病人に尽くしたが11月19日に死去した。夫君はマホメット教徒に対する十字軍準備中の1227年にイタリアで死去。実権は彼の弟に移り、彼女は城から追放された。28年子供を他家の預け、アッシジのフランチェスコにならい、第3会員となって、「フランチェスコ施療院」を設け、病人や捨てられた人々と共に住んだ。祝日は1月19日。

カレル彫像4


5.ブロンズの十字架像
1629年ヒルガー鋳造、1657年建立。ここには14世紀から十字架が建っていた。両側の聖母と聖ヨハネの石像は、マックスEmanuel Max(1810~1901)
1861年の作。

碑銘:1696年ヘブライ語:群集たちの聖なる神。
【十字架の足下】
Restauratum ano 1707年に再建。

【岩盤の盾】
ドイツ、ラテン、チェコ語で:聖なるかな、十字架につけられしキリストを讃え云々。1696年9月14日再建。

【橋の欄干】
Carlo adamo baroni de Rziczan, qui perpetuum hoc et sacrum perpetuum metropolitano sacello divi Wenceslai fundavit, legato bono Launiowicz sedi archiepiscopali Ioannes fridericus archiepiscopus pragensis hoc monumentum posvit a.1681. 
この永遠の光と常なるミサを、首都の聖ヴァーツラフ礼拝堂に設置せし、ジーチャニの男爵カレル・アダムにロウニョヴィツェ大司教の机に衷心より贈与し、ここに1681年この記念碑をプラハ大司教、ヤン・ベジッヒが建てた。

献呈:皇帝レオポルト一世;無名のユダヤ人が罰として;ジーチャニのカレル・アダム・レフ;ズロニツェの太守にしてアドラルのボフスラフ・ヴァルコウン;プラハ大司教ヤン・ベッジヒら。

記述:十字架はこの橋の最初の装飾だった。元は2本の十字交差する木製の梁だったらしい。これは1419年のフス戦士らにより破壊された。1436年になり十字架が再建された。木材は風雨、雪、日照、寒気などで傷み変形、その都度、手が加えられたらしい。1619年ファルツ公は市参議会に十字架の撤去を命じたが、議会はシュリク伯爵でこれを拒否した。1627年アドラルのヴァルコウンが新たに金属の十字架を建てた。1629年フェルディナント二世の命で石橋の上に、木製磔体をもった十字架が現われ、周りの木材の上に聖母マリア、マグダラのマリア、洗礼者ヨハネと幼子イエス像が描かれた。8年後、磔磔像は何とか鉄の枝に乗っていたが、聖者たちの色は持続しなかった。十字架の修復が必要となる。1648年この橋の上でスウェーデン軍との戦いが行われた折、リンハルト・グレツィヒを先頭に、バリケードを築いた旧市街市民の抵抗に会い、スウェーデン軍は十字架より先へは進めなかったという。しかしキリストの頭は打ち落とされた。

芸術愛好のレオポルト一世は1657年、画家カレル・シュクレータと大砲鋳造人レーヴェンベルクのミクラーシュ・レーヴをドレスデンに遣わし、商人ヒリンガーから今属性の救世主像を求め、木製十字架に吊るした。両側の2つの木製像がそのままで、市民の反対もあったので、レ-ヴが鉛から2つの像を鋳出し、これは1861年まで残ったが、その後、撤去され行方不明となった。

1681年、プラハ郊外ジーチャニ村のK・アダムの遺産として、ここに永遠の光が設置された。1681年十字架をあざ笑ったあるユダヤ人は、罰として大きな金メッキのヘブライ文字をつけさせられた。1706年、最終的に十字架は金属製となった。1861年、上記のように像は、鉛製から砂岩製に変えられた。

カレル彫像5



6.キリスト降架像(ピエタ)

Golgoda, Locus Calvary(されこうべ)
エマヌエル・マックス1859年作。オリジナルは1695年。

碑銘:
【台座前面】
O vos omnes, qui transitis per viam, attendite et videte si est dolor sicut dolor meus. 
おお、ここに跪くすべての者よ、立ち止まりて見よ、かかる痛みがわが痛みなるかどうかを。

岩盤にEm Max Inu. et fecit
エマヌエル・マックス設計し建てる。

献呈:プラハ市会(プラハ市民の収集より)

記述:空の十字架の下に使徒ヨハネ、キリストの頭の傍らに聖母マリア、反対側にマグダラのマリア。かつてここに石柱“野辺の十字架像”が建っていたが、1496年の洪水で橋桁とともに倒壊した。1699年(当時、橋の上に像を建てるのが流行)プラハ市民G・マテイデスの遺志により、ここにヤン・ブロコフ工房作の群像が建てられた。1784年の洪水で橋桁とこの像も破壊され、修復中の1787年、台座に「おお神よ、われらが慈善行為を嘉し給え」と記された。市長の命令で、罪を認めない被告人はここへ連行され、手足を縛られ川につけられ、無実の者は溺れなかったという。1859年、聖母マリア、キリスト、2人の天使群像は撤去され、のちにイタリア通りの病院中庭に移された。
カレル彫像6


7.聖アンナ、聖母とみどり児
イェクル1707年作。碑銘なし。

献呈: Novém Stránkově, Vtelněの太守にして、プラハ旧市街のhejtman 、komoříたるリソフのルドルフ伯爵。

記述:聖母マリアの父母はアンナとヨアヒムという。伝説によれは領地は3分され、2つはイェルサレムの教会と貧者たちに、残りは自分たちのために残された。両親には子供がなく、これはイスラエル社会では不名誉なことだった。周囲の者には神罰だと言われたから、ひたすら祈り貧者や隣人たちに尽くすしかなかった。年老いてから彼らに娘マリアが授かった。アンナはイエスの誕生前に他界したらしい。1584年以降、聖アンナの日(7月26日、東方では25日)が、カトリック教会で正式に認められた。

カレル彫像7


8.聖ヨゼフ

マックス1854年作。

碑銘:
【台座前面】
Zum andenken gewidmet von Josef Bergmann Bürger und kaufmann in Prag
プラハ市民にして商人J・ベルグマン、記念碑を捧ぐ。

【台座帯】
Anno 1854年、

【右手】
Jos.Max inv.et fecit J・マックス設計施行。

献呈:台座前面と同じ。

記述:以前ここには聖ヨゼフ像が建っていた。ヴルショヴィツェ伯爵家出、プシーホヴィツェ伯爵夫人テレジエ。1706年J・ブロコフ工房で造られたこの像は、1848年の精霊降臨祭の戦いで、頭部が吹き飛ばされた。

ヨゼフ:主の養父と言われるナザレのヨゼフが、イエスの保護者だったのは、イエスの幼い頃だけで、エジプトから帰還後、12歳のイエスを復活祭にイェルサレムへ連れていった。その後、息子の姿を見失い、ふたたび目にするのは教会で博士たちと論争している姿だった。神殿の祭司に木の枝を1本づつ捧げた、マリアの求婚者たちのうち、ヨゼフの枝だけに神の承認の証しである花が咲いた。ボヘミアの守護人になったのは1654年である。

カレル彫像8


9.キュリロスとメトディオス
ドヴォジャークKarel Dvořák(1893~1950)1938年作。
碑銘:Karel Dvořák r.1928 - 38

献呈:チェコスロヴァキア文化教育省。

記述:以前ここにあったプロコフ1711年作のラヨロの聖イグナチオ像(家畜広場=現カレル広場の聖イグナチオのイエズス会修道院が奉納)は、1890年の洪水でヴルタワ川に水没、1890年と1904年の2回ヴルタワ川から引き上げられ、チェニェク・ヴォスミークが修復した。現在ラピダリウムに保管されている。

兄弟は共に東ローマ帝国の官吏の子としてテッサロニキに生まれた。弟キュリロス=コンスタンティヌス(869年2月14日死去、享年42歳)は、コンスタンティノポリス大学で学び、司祭の叙せられたのち大学で哲学、神学を講じた。860年官吏を勤めたのち修道士となり、兄と共に皇帝の外交使節としてカザルに赴いた。二人の兄弟はさまざまな地方を布教して廻り、モラヴィアでの活動は特筆に値する。学問以外に絵筆にも優れていた兄、メテオディオス=ミカエル(885年4月6日死去、ヴェレフラトの聖マリア教会に埋葬)は、弟の死後、教皇ハドリアヌス二世からシルミウムの大主教に叙階され、モラヴィアとパンノニアの司牧を委任された。しかしこの地方に利権を持っていた東フランクの聖職者たちの反発を受け、レーゲンスブルク教会会議で有罪とされ、バイエルンの修道院に2年半幽閉されたが(870年)、873年に教皇ヨハネス八世の尽力で自由の身となった。祝日は7月7日、東方教会では5月11日。

カレル彫像9


10.聖フランシスコ・ザビエル
F・M・ブロコフ1711年作のコピー=ヴォスミークVincenc Vosmík(1913?1906?年)。
碑銘:盾の縁Sancto Francisco Xaverio s.l.Indiarum et Japoniae apostolo theosopho germinae facultates theological et philosophica universitatis pragens posvere 1711. イエスの弟子にして、インド、二本に布教せし聖フランシスコ・ザヴィエルに、プラハ大学、神学、哲学両学部が1711年に捧ぐ(献呈)

イエスの弟子にして、インド、二本に布教せし聖フランシスコ・ザヴィエルに、プラハ大学、神学、哲学両学部が1711年に捧ぐ(献呈)

記述:台座を形成するのは異教の代表者たちで、作者は像の髪に羽根をつけたインディアンとインド人とをミックスしている。日本人を見つけるのも難しい。ブロコフの元の群像は1890年の洪水の際ヴルタワ川に沈んだ。一部はその直後および1903~04年にかけ引き上げられた。

彼の布教した東洋(黒人、インド人、タタール人、日本人)らが、聖人を盾に乗せ担いでいる。彼の傍らにはインドの王子が跪き、冠を持った小姓とともに、聖人から洗礼を受けている。23歳の作者プロコフも書物を手に跪く小姓として描かれ、王子の後にはドイツ出の彫刻家で作者の父ヤン(1652~1718)のサインがある。


ザビエル(1506~52)はナヴァラのパンプローナ近郊ハビエルに、バスク人城主の第6子として生まる。1525~36年パリのバルバラ学院に学び、ロヨラの影響を受け1534年、他の学生5人で清貧と貞潔を誓い、宣教に専念する。これがイエズス会の発端である。37年司祭に任じられイタリアで活動を始めるが、ポルトガル王の要請に応じ、イグナティウスによりインドに送られた。41年4月、フアン三世の命でインド教皇代理としてゴアに上陸、7年間ここで働き、さらにセイロン、マラッカへ渡り、その間、日本人ヤジローを伴い1549年6~8月の間、鹿児島に上陸、平戸、山口、京都を訪問(11日間だけ)。1552年ゴア、マラッカ訪問、12月3日(祝日)、鎖国中の支那、広東郊外、上川Shangchan島で待機中に死去。

カレル彫像10

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[ 2011/07/31 09:49 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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