スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

カレル橋の歴史

カレル橋1

カレル橋2


昔ここには広い浅瀬があり(名残はナ・ザーブラドリーの現存しないロマネスクの聖ヨハネ教会)、春の洪水の折には岸辺が水びたしとなり、その防御のため木の土台práhが用いられたと思われる。しかしこれでは不十分で、今日のマーネス橋付近に最初の木橋が造られた。

932(5)年:聖ヴァーツラフの遺体が、ムラダー・ボレスラフからプラハ城に移送された折、今日のルドルフィヌ付近にあった木橋を通った(僧侶クリスチアーンの記述)。

1118年:プラハの橋の上を10尋もの川に水が流れたという。その後しばしば橋の修復が行われた(年代記者コスマスの記述)。

1140年:ヴラヂスラフ一世がボヘミア王位についた。

1153年:最初の妻ケドルタの死後、ヴラヂスラフ王はチューリンゲン領主ルードウィヒ三世の娘ユディトを娶った。彼女は美人で教養も高かったが、ドイツ語を話し息子たちもドイツ風に教育し、名前もプシェミスル・オタカル、ヴラヂスラフ・インジヒとした。

1157年:木橋が大洪水で破壊された。

1157~59年:1月11日ヴラヂスラフ(1140~72)はレーゲンスブルクで、フリードリヒ・バルバロッサから、ボヘミア王(ボヘミアで2番目)として戴冠されたが、この時、当地の石橋(北イタリアの技師が1135~46年の間に建造)を渡ったらしい。ヴラヂスラフ一世は皇帝の援軍として1万の兵を率い、6月初旬プラハから北イタリアとくにミラノへ遠征し、当地にかかる石橋を目にした。ボヘミア王はミラノ大聖堂でも戴冠され、9月22日帰国した。

1159年:イタリアから連れてきた建築家によりユディト橋が造られた。レーゲンスブルクを模範としたらしく1135/ 46年間に造られた橋に、王は大々的な改変を加えようとした。古い木橋を石橋に代えるだけでなく、ヴルタワの川下20メートルに橋の位置を定めた。それは今日の橋と平行し長さ514メートル巾7メートル、橋桁20ヶ(カレル橋は16)、高さは現在より4~5メートル低く、石の欄干、石畳、排水溝を備えていた。

1173年:ユディトはこの橋を完成したが、すでに病身の夫は他界しており、王冠は最初の妃の息子ベッジヒに委ねられていた。

1174年:チューリンゲンのユディトの領地で静養後、他界したヴラヂスラフの遺体は、1月18日ユディト橋を通りストラホフ修道院に運ばれた。

1249年:マラー・ストラナ側の橋入口は、ヴァーツラフ一世(1230~53)と、貴族の反乱を率いたオタカル二世との争いの舞台となった。

1252年:オタカル一世の娘アネシカが1234年に創設した、赤い星(のちに6つの光条をつけた赤十字)をつけた、十字架騎士団が橋の近くに居を構えた。会士たちは十字軍から帰還した騎士たちで、初めはベツレヘムから来て、病人や傷病兵の看護に当たり、最初の長はシュテルンベルクのアルブレヒトだった。

1253年:ヴァーツラフ一世王(1205、30~53)は、十字架会士らに橋通行税徴収の権利を与えた。

1272年:洪水でユディト橋の中央が破損し、オタカル二世(1233、53~78)は,
橋修復のため教会での基金集めを許可した。

1342年:厳冬の洪水により2月1(3)日、岸辺の家々や村や田畑を荒廃した。2月3日夜ユディト石橋は寸断され廃墟となった。

1357年:7月9日(太陽と土星の合の日)カレル四世自ら石橋の定礎。建築はP・パルレーシュに任された。彼は1332/3~99年にグミュントから来たばかりで、アラスのマティアーシュの後を受け、聖ヴィート大聖堂の建築を続けていた若者で、現場監督はアヴィニョン出のウィリアムだった。彼は従来の橋桁を20ヶから16ヶに減らし、橋の高さを4~5メートル高く水面から10~15メートルとした。橋を堅固にするため生卵や牛乳を用いたという噂も立った。

1367年:洪水で橋桁の1つが破壊された。

1378年:未完成の橋の上をカレル四世王の葬列が通り、遺体は一時、市内に安置されたのち、城に運ばれ聖ヴィート大聖堂に葬られた。

1383年:旧市街側からの入口が、旧橋の川上20メートルに設置された、新しい橋はほぼ出来上がったが、完成したのは1460/ 1503年の間と言われ、このユディット橋は、ピーセクとリトムニェジツェの橋についでボヘミア4番目の石橋で、外観は1119/ 60年にかけイタリア人フェティウスが手がけたドレスデンのものに近い。

1393年:当時、橋上で騎士の試合が行われていたが、3月20日ネポムツキーが橋から川に投げこまれた。

1419~34:フス戦争の間、橋は甚大な被害を蒙った。

1432年:長雨のあとの大洪水で5つの橋桁が損傷し、旧市街広場まで水びたしとなり、回復には1436年までかかった。この年ブラダーチ(髭面男)についての記述がある。これはすでにユディット橋にもあったらしく、この橋を造った人物に似せて十字架会の建物の下の川岸にあり、その頭により人々は水位を測り、水嵩が髭に達すると避難したという。

1436年:修理を終えた橋の上でジクムント王を讃え、騎士がフェンシング試合を行った。

1448年:この年から役人4人と書記1人からなる、旧市街共同体付属のプラハ橋梁役場(1784年まで存続)が橋の両側に設置され、ポヂェブラディ王の命で、橋通行税はじめ各種税の徴収が行われた。

1464年:ポヂェブラディ王はマラー・ストラナの高い方の橋塔を整備させ、低い方のユディト塔と門を閉鎖し、橋を様々な彫像で飾った。

1501年:大洪水による損壊の修復が完了したのは1505年6月22日。同年マラー・ストラナに火災が起き、橋塔も被害を受けた。

1517年:7月5日ここでヤン・フスを記念する盛大な催しがあった。射撃島からは花火がうち上げられ、橋塔からは3人のトランペット奏者がラッパを吹き、橋の上では太鼓が打ち鳴らされた。

1522年:ヤギウェウォ家のルドヴィーク王(1505~26)の行列が橋を通過し、興奮した若者4人が橋から川へ飛びこみ1人が死んだ。

1527年:2月5日ハプスブルク皇帝フェルディナント一世が、プラハ城で戴冠すべく橋を渡り、その真中でマラー・ストラナ参事会員らから、城門の鍵を受けとった。行列の先頭には300名の騎兵を従えたプラハ軍司令官、その後に馬に乗った382名の貴族と共に、ロジュミタールの城代ズデニェク・レフ、従者に伴われたブランデンブルク辺境伯、トリデントとロジュンベルクの司教が進み、オーストリア、グラーツ、チロル、ヴィルテンベルクの皇帝軍兵士らが続いた。参加した馬は3391頭にも達した。

1569年:大洪水、ヴルタワ川の水位はブラダーチの眼にまで達した。

1572年:4月10日マラー・ストラナのイタリア人の泥棒が、鎖に繋がれ橋の上に引き出された。マキシミリアーン二世(治世1564~76)は、ベネツィア大使の要望を受け入れ、死刑を宣告された罪人をイタリアでのガレー船労働に廻した。奴隷売買は一時禁止されたが、ルドルフ二世時代の1583年に復活した。

1582年:洪水があったが被害は僅少だった。

1588年:春、大司教M・メデクが十字架会修道院で飼っていた熊が、橋の上に現われ、馬は驚き人々は逃げまどった。

1620年:前日のビーラー・ホラでの敗戦を知り、11月9日昼前“冬の王”ことファルツ侯が、300名の兵士に護衛されながら、この橋を通って逃走した。戦勝軍が1時間後ストラホフ門を通り、フラッチャニに入城、フェルディナント二世が実権を握った。

1621年:6月21日、旧市街広場で反乱新教徒首謀者27名が公開処刑され、旧市街橋塔の両側に6人づつの首が晒された。

1631年:11月ザクセン軍がプラハに迫り、ハラハ枢機卿を先頭に貴族や軍指揮官らが逃げ出し、橋の上は大混乱になった。ザクセン軍はプラハを無血占領した。11月30日午後、旧市街橋塔から下ろされた晒し首の供養が、遺族らの参列のもとティーン教会で行われた。

1648年:7月24日、羽アリの大群が4時間にわたり、マラー・ストラナから石橋に飛んできた。その2日後、侵攻してきたJ・K・ケーニヒスマルク将軍率いるスウェーデン軍は、容易にヴルタワ西岸を制圧し、略奪、狼藉の限りを尽くした。しかし旧市街橋塔付近に築かれたバリケードで頑強な抵抗に出会った。バリケードには橋の敷石も用いられ、欄干はスウェーデン軍の砲撃で破損した。学生745名を含むプラハ市民軍の武器は原始的なもので、スウェーデン軍は1万3千の砲弾を撃ちこみ、激戦は3ヶ月続いた。プラハ側の死者は219名、負傷者475名、スウェーデン側の死者は千人に達した。11月24日ウェストファリア協約で30年戦争は終息したが、石橋は大被害を受けた。

1650(1)年:ルラゴが旧市街橋塔の修復にかかった。

1661年:橋上での物乞いが禁止された。

1676年:十字架会広場の塔の前に、天辺にブドウの守護神聖ヴァーツラフを頂く“ブドウ柱”(ブラウン作)が建てられた(現在、十字架会教会の隅にある)。

1683年:聖ネポムツキーはじめ、欄干が彫像で飾りはじめられた。

1684年:不正な量り売りをするパン屋を閉じ込め、川に漬けて見せしめにする“恥辱の籠”の設置が復活したが、効果が疑わしく1693年には撤去された。

1723年:この頃、橋上での通行は右側のみとされ、灯油ランプが点された。

1729年:5月(10月?)16日ネポムツキーが、ベネディクトゥス十三世により聖列され、橋上では盛大な祝典が行われ、ヴルタワ川には提灯を点した船から音楽musica navaleが流れ、花火が打ち上げられた。

1744年:9月12日プロシャ軍がプラハを占領したが、旧市街市民の抵抗にあいほどなく撤退した。

1757年:地方長官は橋の上の右側通行を命じた。

1784年:橋通行税と橋番所が廃止された。2月末からの大洪水で6つの橋桁が壊れ、1780年から見張りに立っていた5人の衛兵のうち4名が落命した。橋の修復は1788年まで続いた。一方夏には水が涸れユディット橋の基礎の残骸が姿を見せた。“恥辱の籠”や各所にあった晒台や絞首台が撤去された。同年ヨーゼフ二世(治世1780~90)の命で、橋の修理が行われ、F・A・ヘルゲト工学教授、F・トラクサル建築家、I・ピラルディ、M・フンメルらがこれに当った。

1787年:旧市街橋塔門の真中が折れた。

1800年:橋の上や広場での刃傷沙汰が厳しく罰せられた。

1812年:6月30日オーストリア皇帝の娘で、ナポレオンの妻マリー・ルイーズがプラハを離れるに際し、盛大な催しが行われた。彼女や随員は提灯を点した船で川を下り、橋の上は鈴なりの人だかりとなった。

1813年:8月15日アレクサンドル・ロシア皇帝が橋を渡り、オーストリア皇帝やメッテルニヒも後に従い、マラー・ストラナに投宿した。8月18日プロシャ王フリードリヒ・ウィルヘルム三世も姿を現し、対ナポレオン戦争会議が始まった。橋の上を各国のさまざまな兵士が行き交い、いろんな言葉が話された。その結果11月16~19日にかけてのライプツィヒ会戦で、ナポレオンは敗北した。

1814年:ロシア人佐官ピグロフが、不要になった武器をホテル“一角獣”で競売に付した。

1816年:橋の通行が無料になった。

1821年:馬の曳くオムニバスが30分毎に、旧市街からカレル橋を渡りマラー・ストラナまで運行され、料金は一人5クレイツァルだった。

1829年:6(8)月15日ネポムツキー叙聖100年祭が行われ、橋の上はボヘミア、モラヴィアから来た人々の白樺の枝や花々で飾られた。

1835年:橋の上に鉄柵つき歩道が設置されたが照明がなく、とくに冬は危険なため1849年に撤去された。

1836年:10月2日オーストリア皇帝が、カルリーン~ツェレトナー通り~旧市街広場~カレル通り~石橋~マラー・ストラナを通りフラッチャニへ入城、数日後、ボヘミア王としての戴冠式が行われたが、当時プラハではコレラが流行し天気も悪かった。

1845年:3月末、大洪水が起きたが、被害は軽微だった。

1846年:この年はじまった十字架会広場の改修は、翌々1848年まで続き、カレル大学創設500年を記念し、ドレスデンの彫刻家A・ハフネルの作品をモデルに、カレル四世の記念碑(ニュルンベルクで鋳造、台座はザクセン製作)が建った。この像の下に4学部の寓意像が置かれた。脇には王の協力者:大司教パルドゥビツェのアルノシュト、その後継者ヴラシムのヤン・オチコ、コロヴラトのベネシュ(1355年ローマでの戴冠時、皇帝に随行)、聖ヴィート大聖堂建築者アラスのマティアーシュ像が据えられた。

1846~48年:十字架会広場が拡張され、科学の寓意像を含むカレル四世群像が建った。建築家はクライン兄弟で、出資者は工場主V・ランナだった。

1848年:ヨーロッパ全土に反ハプスブルク革命の嵐が吹き荒れた。3月15日学生たちが愛国歌を歌いながら橋を渡り、マラー・ストラナのロハン公宮殿まで行進した。構築されたバリケードは350にも達した。4月からカレル温泉にK・H・ボロフスキー(1821~56)が住み、4月5日から1850年1月18日まで「国民新聞」を発行していた。6月12日の精霊降臨祭に、旧市街橋塔に学生たちがバリケードを築き、赤白の幟がはためき、カレル通りのバリケードには青白の旗が立てられた。革命委員会が置かれたクレメンティヌムでは、J・V・フリチ(1829~91)が指揮をとり、一時期トゥン伯を捕虜にしていた。ウィンディシュグレーツ将軍はペツシーン丘、フラッチャニ城、レトナー葡萄園に大砲を据えつけ、6月16日までに反乱軍を鎮圧した。

1854~72年の間:鎖とロープで結ばれた8頭立ての馬車が、スミーホフの工場から、カレル橋を渡りプラハ中央停車場(現マサリク駅)まで運行を始めた。

1870年:十字架会士(橋)広場の名称が用いられはじめ、従来の石橋、新橋、プラハ橋に代りカレル橋と言われるようになった。

1874年:塔壁落下物で兵士が落命したため、旧市街橋塔改修が始まり、カレル四世没後500年の1878年まで続いた。

1890年:9月3(4)日、1週間の長雨のあと最後の大洪水に襲われ、カレル橋は破壊され、カルリーンとリベニュ地区の間は海と化した。20名の塹壕兵が落命し、カルリーンの廃兵院前に忠霊塔が建った。

1892年:11月19日(暗殺された皇后エリーザベトの命名日)、橋の再建が盛大に祝われた。工事を請負ったのはブダペストのG・グレゲルセン社で、その後も工事は続けられた。

1901年:市議会はカレル橋上の電車(トロリー)道設置を許可したが、馬車運行に関与していた人々の反対があった。

1902年:橋桁補強工事行われ、橋桁の前に氷割り用木柵が設置された。1841~68年間にカレル橋上流に架けられた皇帝フランツ・ヨーゼフ一世鎖橋(通称エリシカ橋)が、1899~1901年間に石橋に変えられた(現チェコ軍団橋)。

1905年:橋上の馬車通行終焉が盛大に祝われた。直ちにクシーシュの電灯技術が5~8月の間に導入され、8月13日試運転が行われ、9月28日から電車の運行が始まった。

1940~41年:水位が下がり川底に橋桁の基礎が見えた。

1945年:ナチス占領軍がカレル橋も含め、すべての橋の通行を制限した。

1962年:カレル橋は国家文化遺産に登録され、車の通行が禁止された。歩道やアスファルトが撤去され舗装された。Salve, pons Carli IV !


旧市街側橋塔
旧市街側塔
P・パルレーシ(1332/3~99、シュワーベン出、1356年からプラハの聖ヴィート大聖堂建築を指導)の作。橋塔の建設は1357年に始められたが、完成したのは15世紀初頭になってから。14世紀末プラハ駐在イタリア大使デンセンブリオは“プラハのことを、7つの丘に囲まれ、ローマのティベリ川のように、ムルタヴィア川により町は左右に分けられている”と描写した。1432年には火災で被害を受けた。1648年のスウェーデン軍侵攻で破損した橋塔を、C・ルラゴ(1615~84)が修復したが、本格的な工事は1874~78年の間J・モツケル(1835~99)により行われた。

門の上には一列の紋章が走る。この上の三角枠内には、中央の聖ヴィートを挟み、左右に皇帝カレル四世と後継者ヴァーツラフ四世の3つの像がある。聖ヴィートはカール大帝治世時代(774~814)から、皇帝の守り神、川の支配者として崇められてきた。塔の3階は全周にわたり壁龕の帯が巡らされており、真中には聖ジギスムントと聖ヴォイチェフの像がある。一番下の帯はすべて当時、支配者だった祖国の父と、その息子のもとにあった国々の紋章である。右半分にはローマ皇帝の盾、その向いにはボヘミア王を表す2つの尾をした獅子。それから交互にモラヴィア辺境伯~ルクセンブルク伯爵、ヴラチスラフ公~ブディシーン公、ニサ公~低ルジツ辺境伯。三角形の頂点には、銀の下地に黒い焔を吐く黒鷲をのせた単純な盾があり、それは聖ヴァーツラフとプシェミスル家のシンボルである。聖ジギスムントと聖ヴォイチェフの足下には動いている獅子が彫られている。プシェミスル王オタカル二世時代の“ボヘミア予言”に対応し、聖ヴィート祝日にあたる6月15日の正午、獅子の影が鷲の盾にかかるという。

塔の橋(西)側は東側に対応しており、カレル四世、聖母の前に跪く4番目の妃ポメラニアのエリーザベト(1345~92)などがあったらしいが、数々の戦いで射撃を受けかなり貧弱になっている。一羽のカワセミの他、右にアルル(カレル四世は1365 年に、最後のアルル王として戴冠)、左にプラハ大司教という2つの紋章がある。1648年にルラゴが修復した際、この側の塔は完全に壊された。紋章のカットはB・スピネッティ、F・ハロヴニークに任せられた。1848年革命で破損した橋塔の修理は1854年から始められ、欠損部分の補填はE・マックスが行った。

この塔には2つのプレートがあり、西側には以下の文言が記されている:
Siste hic paulister viator sed lubens ac volens ubi multa populatus tandem vel invitus sistere debuit gothorum et vandalorum furor sculptum in marmore quod ad peppetuam omnium sed imprimis vetero pragensium memoriam anno domini 1648 mars Svecicus ferro et igne in hac turri delineavit, haec turris Gothici fuit vltma meta furoris sed ridei non est haec vltima meta Bohemicae. Volussent id ipsum cives vetero pragenses fuso sanguine inscribere nisi pax aurea Ferdinandi III. Piatate et orbem germanicum reducta pro sanguine aurum suppeditasset.

巡礼者よ、しばしここに足を止めよ、しかしここでは自らの意思に反し、ゴートやバンダルらの多くの荒廃のあと、喜び勇み悪魔を立ち止まらせばならなかった。そして大理石に刻まれたことを読み、1648年スウェーデン軍がこの塔を焔と剣で荒廃させたことを、すべてのチェコ人とくにに旧市街市民の永久の心に留めおけ。この塔はチェコ人の忠実さでなく、ゴート人の凶暴さの最後の砦だった。回復された敬虔さと正義に基づく、フェルディナント三世の黄金の平和が、ドイツ帝国に対し血を黄金に変えないならば、旧市街市民たちは流血で記されることとなろう。

北側の文言は以下の通りである:
Carolus IV.Aug.pontem extruxit A.MCCCLVII.vetustate vitiatum et fluminis glaciem devoluentis impetu anno MDCCLXXXIV pene dirutum Josephus II. Aug.instaurari, novisq. Substructionibus muniri iussit. A.D.MDCCCLVII.
Haec tabula ded pila pontis cui statua Sct.Christophori erat inponenda hunc in locum translata est.

1357年皇帝カレル四世がこの橋を建てた。年とともに古び、1784年の流氷を伴う洪水でほとんど破壊されたこの橋を、皇帝ヨーゼフ二世が修理させ、新たな基礎で安全を確保した。

なおこのプレートは、聖クリストフォルス像が置かれる予定だった橋桁から、ここに移されたものである。





マラー・ストラナ側橋塔
マラーストラナ側塔


2つの橋塔があり、その間に門がある。マラー・ストラナがまだ城下町だった頃、両側に堅固な要塞があった。低い塔側には堅固なマルタ騎士団修道院があり、反対側の要塞にはプラハ大司教が住んでいた。かつての塔門は巨大で、緊急の際には鉄格子が下りる仕掛けになっていた。門の頂上には狭間があり、橋側の紋章は:真中にボヘミアの獅子、塔の右側にルクセンブルクの獅子、左側にモラヴィアの鷲、それらの下に旧市街の紋章が2つあった。マラー・ストラナ側の紋章は:真中にボヘミアの獅子、右側にヴラチスラフ、左側に低ルテニア、それらの下に旧市街とマラー・ストラナの紋章があった。

低い方のユディット塔は、ユディト王妃時代のものと思われる。1591年ルネサンス様式に改築されたが、3度の洪水でルネサンス時代の方形抱石が破壊された。円錐形の広い屋根はスレートで覆われ、19世紀まで天井の平たい地階は小さな空間に仕切られていた。かつての収税所、現在56番の家の蔽われる2階東側には、浅いニッシェが見られ、ロマネスク時代の彫刻が残っている。右側に坐っているのはヴラディスラフ二世、左側には短い上着を羽織った禿頭、髭なしの男が跪いており、それはこの橋の建造者もしくは王の息子ソビェスラフと考えられ、その頭はレプリカで本物は市立博物館に納まっている。色つきレリーフは中世のものらしい。

高い方の塔は、古い塔に取り代りポジェブラディ王支配の1464年、旧市街橋塔をモデルに造られた。3番目のレベルの各外壁には方形の窓があり、最上階の東西に面し、垂直のロッドで固定された天蓋形の庇つきニッシェが3つある。4隅にはピラミド形の細い塔がある。

2つの橋塔を結ぶアーチ形の門の橋側の上には、左からルクセンブルクとボヘミアの獅子、モラヴィアの雌鷲、その上には旧市街の紋章2つ、マラー・ストラナ側にはブレスラウの紋章、ボヘミアの獅子、下ルテニアの紋章があり、その下方には旧市街とマラー・ストラナの紋章がある。

これらの建造物は1879~83年間モツカーにより改築され、最後の改修は1969~70年間に行われた。



Kamenný most   石の橋
Jaroslav Seifert    J・サイフェルト(1901~86)

Čas, řeka, mládí a co ještě ?    時、川、青春それから?
Snad vůně májového deště     五月さつきの雨の薫り、それに
a smích ve větru lehkonohém.   軽い足どりの風の中の笑いか。
Po mostě šel jsem, srdce bráně,   私は二つの塔の間の橋を行く、
dát sbohem musil v jedné bráně  こちら側の門に別れを告げ、
a v druhé musil dáti sbohem    あちら側の門にもそうせねば。

Jen vzpomínku. Jen pěti slovy: ただの思い出。五つの言葉だけ:
do ruky dítě rybky loví.      手・に・子供は・魚を・釣りあげる。
Z dlaně je hrob a peníz z ryby;  掌から墓場、魚からお金;
tím penízem pak zbožně platí    このお金で敬虔に支払う
za vše, co touží milovat       愛そうとするすべてに、
a zná jen samo bezpochyby.    そしてただ過ちなきを知る。

Těch jar !             めぐる春!
Když jaro vzbouzí z mdloby     その時、春は橋の下で冬の失神から
pod mostem stromy a hned škrobí  木々を目覚めさせ、すぐにも
jim rukávce, na které včely,     その手袋に糊づけする、その上で蜜蜂が、
tak zkřehlé, jak by místo v medu   蜜の上であるかのように、か細く
narodily se v tříšti ledu,       氷片の上で生れ、
za suknic světců přiletěly.     聖人たちの衣から飛んでくる。(*1)
                 
Těch podzimů a zim, kdy stíny   めぐる秋と冬、この季節
nad řekou nesou baldachýny,    川の上の影は天蓋をつけ、
jež vítr vzdouvá. Jak se klamu !   風でふくらむ。とんでもない!
To není vítr, to se chvějí      それは風ではなく、震えてるのは
jen křídla racků nad peřejí,     急流の上のカモメの翼、
než usednou na ledolamu.     氷塊の上に憩う前の。

Nad věžemi se hvězdy smály,    百塔の上で数多の星が笑ってた、
ach, povídali, že mu hráli,     ああ、そんな馬鹿なことが、
copak se hvězda smáti může ?   一体星が笑えようか?
Pod jezem rybář zůstal němý;  堰の下の漁夫は黙したまま;
jez totiž řeku pod dlaněmi     堰は掌の下で川を
mu proměňuje v bílé růže.     白いバラに変えるから。

Čeřeny doschly a pach sítí     大網は乾あがり網の臭いも
už vyvanul: už můžem jíti;    消えうせた:もう行かねば;
čas láme pečet‘ pergamenu.    時は羊皮紙の封印を紐解く。
Však krev neb zlato, jež se třpytí, しかし光り輝く血と黄金(*2)を、
at‘ je nám dovoleno píti,      われらに飲ませたまえ、
jinak by život neměl cenu.     これなくて何の人生ぞ。

Listí jak člunky po osnové     航路をゆく小船さながら、葉を
setřásá vrba na ostrově       島の柳は震わせ、風はここで
a s řekou vítr rubáš tká tu.    川とともにルパシカを織る。
Ach, byly dny, kdy chtělo se mi   ああ、こんな思いの日々もあった、
zoufat si smutkem pod větvemi,   枝の下で悲しみに絶望し、
a pak jsem vzlykal do achátů.   アカシアに泣きついた頃も。

Proč se však choulit do perleti   だがなぜ悲しみの真珠に寄りかかる。
smutku. Jde jaro, roky letí    春は過ぎ、歳月はゆき去り
a vody tekou věky věků.      川は永遠に流れている。
Až na most jejich prška stříká   やがて橋に霧雨がそそぐ
jako na záda převozníka,      渡し守(*3)の背中に向けてのように、
jenž po krách překračuje řeku.   氷塊伝いに川を渡る彼の背に。

V obloucích kdysi na lodici     かつて橋の弧をくぐり小船に乗り
prchal král s krásnou lezebnicí,   王(*4)は美しい温泉宿の娘と逃げた、
ukryv svou hlavu v jejím klíně.   頭を娘の太股の中に隠して。
Dodnes tak ještě v beznaději    今に至るまでかように望みもなく
můžeme prchnout nejsnadněji   私たちはいとも容易く逃げられる
výčitkám zlým i trestu, vině.    悪しき非難や罰や罪から。

Prst na ústech, svit mihotavý   口に指をあて、きらめく光
patera hvězdic kolem hlavy,    頭の周りに五つ星をつけ、ここで
mlčí tu světec.  Co chtěl říci,   聖人(*5)は黙す。彼は言い分を、
řekl již rybám u pilíře,      もう橋桁のそばの魚たちに伝えていた、
však žena podobá se lyře     だが女は竪琴に似て
a zní na ruce milující.      愛する者の手のうちで音を響かせる。

Než praskne vlna na peřeji,    波が急流に砕ける前に、
hoch vezme dívku, obejme ji,    若者は娘を引き寄せ、抱く、
ret plaše nakloní se k retu.    唇はおずおずと娘の唇に傾く。
Hrnčíři stojí poblíž stánku,     陶器売り(*6)は屋台のそばで、
t’ukají prstem do svých džbánků, 自分の壺を指で叩く、
majíce ruce plné květů.      いっぱいの花を手にして。

Šavlemi, prachem, krví, děly   サーベル、埃、血、大砲(*7)で
kameny nám tu vyprávěly.    石はわれらに語りかける。
Jen nehtem ryji do kamenů.   私は爪で石に刻みをつけるだけ。
Však krev a zlato, jež se třpytí,  しかし光り輝く血と黄金を、
at‘ je nám dovoleno píti,      われらに飲ませたまえ、
jinak by život neměl cenu.    これなくて何の人生ぞ。

Na troucheň vyschlo kolo mlýna,  水車(*8)の輪は朽木のように乾き、
i serenádu zapomíná,        セレナーデを忘れてる、
již hrávávalo v čase mládí.     若い頃はよく奏でてたのに。
Však št’astná řeka - vždyt‘ ji znáte, だが幸せな川は・・お存知のように、
je mladičká po tisícáté       千余年を経ても若々しく
a svoje struny znovu ladí.     またも弦を整える。

Tak úzce ústa k ústům nelnou,    唇と唇をそっと寄せ合うことなく、
jak hladinou svou zrcadelnou    鏡のような水面で
lne k pilířům a v tmavých očích   橋桁に寄りかかり、黒目の中に
zrcadlí vše, i jaro v mechu,     すべてを映す、苔の中の春も、
jejž vítr do spár vsadil v spěchu,  風はそれを裂目の中に急ぎ入れる、
když letěl střemhlav po úbočích.  坂をまっ逆さまに駆け下りる時。

Hodiny blahé po vteřině      時を告げる幸せな鐘の音を、私は
dýchal jsem s vůní na Petříně,   ペツシーン丘(*9)の香りとともに吸いこむ。
jež oblakem se k řece valí.     それは下のヴルタワ川へなびいてゆく。
A co je s vámi, nožky hbité? で、君のすばしこい足は?
Už také asi netančíte,       君はもう踊れまい、
jako jste kdysi tančívaly.      昔よく踊ってたようには。

Jak lehký poskok karnevalu    カーニバルの軽い足どりが
proměňoval se v kroky žalu     嘆きの重い足どりに
a bezstarostnost v hořkost lásky,  気楽さが愛の苦しみに変るように、
i zvony z hloubi země ssály    鐘の音は大地の深みから吸い上げる
svou moudrost, než se rozhoupaly. 揺れる前に、その賢さを。
A také most má svoje vrásky.    橋もまたその皺を持っている。

Purpur, jímž sláva plápolala,    栄光がちらつかす紫色と、
boty, jež válka okovala,       戦さに鋲打ちされた軍靴が、
šly po tom mostě;voda Styxu    この橋を通っていった;三途の川は
nebyla tmavší. Po pilíři      暗くはなかった。橋桁にそって
krev tekla a tu neusmíří      血が流れ、ここでは和解しない
ani ta hlava krucifixu.       十字架像(*10)の頭ですら。

Osudů osud ve své roli,      運命の中の運命はその役割で、
at‘ už měl masku kteroukoli,    どんな仮面もつけようと、
nemohl vybrat lepší scénu.    よりよい舞台は選べなかった。
Však krev a zlato, jež se třpytí,   しかし光り輝く血と黄金を、
at‘ je nám dovoleno píti,      われらに飲ませたまえ、
jinak by život neměl cenu.     これなくて何の人生ぞ。

サイフェルト

サイフェルト詩表紙



注1:カレル橋両側欄干に建つ30基の聖人群像。

注2:旧市街側橋塔には2つのプレートがあり、西側には“・・黄金の平和がドイツ帝国に対し、血を黄金に変えねば、旧市街市民たちは流血を免れない”との記述がある。

注3:聖クリストフォルス像。旧市街側から左側6番目。キリストを背負って川を渡った聖人。

注4:ヴァーツラフ四世王(1378~1419)。指導力欠如のため教会や貴族たちと対立、1397年と1402/ 3年に捕えられ、旧市庁舎に幽閉された。8月末の暑いある日、近くの温泉へ行くことを許された王は、監視の目を盗み、温泉宿の娘の小船で脱出。復権するとその娘を厚遇した。

注5:カレル橋で一番古い聖ネポムク像、頭の周りに5つ星の光輪を戴く。ヴァーツラフ四世王の命で、1393年3月20日の夜、石橋の上からヴルタワ川に投げ込まれた。

注6:カレル橋下マラー・ストラナのカンパ島では昔から陶器市が立っていた。

注7:カレル橋上では、1648年の対スウェーデン戦争、1848年の反ハプスブルク蜂起など、重要な戦闘がしばしば行われた。

注8:カンパ島のチェルトフカ水路に、今もあるが動いていない水車。

注9:マラー・ストラナ西方、フラッチャニ南方の美しい丘。

注10:ブロンズの十字架像:ここには14世紀から十字架が建っていた。
スポンサーサイト
[ 2011/01/22 08:39 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。