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フラバル:わしはイギリス王に給仕しとった(映画名:英国王給仕人に乾杯!)~その1

「わしはイギリス王に給仕しとった」地図
Bohumil Hrabal : Obsluhoval jsem anglického krále
フラバル:わしはイギリス王に給仕しとった(梗概)


第1章:ザクロ・シロップのグラスSklenice grenadýny.(ホテル・プラハ)
第2章:チホタ・ホテルHotel Tichota
第3章:わしはイギリス王に給仕しとった(パリ・ホテル)
Obsluhoval jsem anglického krále.
第4章:もうリーザの頭は見つからなかったA hlavu jsem už nenašel.
第5章:どうやって百万長者になったかKterak jsem se stal milionářem.

各章は「これから言うことをよく聞いてDávejte pozor, co vám ted’ka řeknu.」にはじまり、「これでいいかな? Stačí vám to ? 今日はこれまでTím dneska končím.」で終る。3章以降には「わしはイギリス王に給仕しとったからなObsluhoval jsem anglického krále anglického krále.」という給仕長の台詞が13回、「私はアビシニア皇帝に給仕したことがあるObsluhoval jsem habešského císaře.」という主人公の台詞も17回出てくる。その間、事件の度に「信じられない事が現実となったNeuvěřitelné se stalo skutkem.」という台詞も何回か顔を出し、全体の枠組みを成している。

第1章:私生児でチビの私は、3年間カレル橋たもとの温泉場Karlovy lázněの、水車小屋の祖母のもとで過ごした。そこの部屋は北向きで陽が当らず、祖母は泊り客の行商人らが、川に捨てる下着を拾いあげ、洗って労働者たちに売っていた。
私ははじめ田舎町Nymburukニムブルクのホテル・プラハに給仕見習として勤めた。「何も見るな、聞くな、だがよく見聞きしとけ!」と、シェフに給仕の心得を頭に叩きこまれる。駅でソーセージを売り、孤児と思われたりして小銭を稼ぐ。書記、駅長、獣医、音楽塾長、工場主など、ホテルの常連客は、やれどこのビールが最高などと議論してるが、暇をつぶししているだけ。私はその中で話題になった女の館“楽園”を訪れ、相手の女体を花で飾りながら童貞を失い、世間を見る目が一変する。前夜つき合った館の娘が客として来た時には動転し、ザクロ・シロップのグラスを彼女にかけてしまう。平謝りするシェフたちを尻目に、自らシロップを頭からかぶり、意気揚々と引き上げる彼女を、蜜目当ての蜂の群が襲う。
私は終日埃まみれで働いた。ホテルの部屋の床に札束を並べる、大食漢の裁断機セールスマン・ワルデン氏と親しくなり、「この世は金次第、災い転じて福となす」という処世術を学ぶ。客層はさまざまで、バイブレータつきダッチワイフ・セールスマン、“イエスの生涯”を自費出版し、それをホテル代とする自称詩人などなど。

“バンビーニ・ディ・プラーガ”(プラハの幼子イエス像)
第2章:次はプラハ南郊外Strámčiceストラーンチツェのチホタ・ホテルに雇われる。車椅子の太ったボスは、従業員がサボっていると笛を吹いてハッパをかける。給仕長のズデニェクは、叔父の退役軍楽隊長を援助していた。階上の部屋では夜の蝶たちが客を待っている。このホテルの見ものは、中庭で終日マキを割る下男、彼は殺人を犯し5年服役してきた大食漢で、残飯整理役でもあった。最高の客は将軍だが、文句をつけながら料理を平らげる。楽士たちが帰りかけると彼は、第一次世界大戦中にもらった勲章を剥ぎ取って、彼らに投げつけ、演奏を続けさせ、巧みに踊りだす。そのあとフランス美人を連れた大統領が現れ、大盤振る舞いしホテルは花でいっぱいになる。私は二人のもとへ料理を運ぶ。
次に来たのは黒服のボリビア使節団で、南米で人気の高い“バンビーニ・ディ・プラーガ”(プラハの幼子イエス像)のことをプラハ司教に訊ねる。刑事たちは宴席で料理人や高僧に変装。“バンビーニ“ は聖ヴィート大聖堂に運ばれ、盛大なミサが行われる。ボリビア人たちは“バンビーニ“を手に入れたかったらしいが、偽物でごまかされ帰国した。

パリ・ホテル
第3章:チホタ・ホテルを解雇された私は、プラハのパリ・ホテル経営者ブランデイス氏に拾われた。フラッチャニ城を望む立派な部屋をあてがわれ、給仕長スクシヴァーネク(ヒバリの意)や、店の女たちの気に入られるが、男たちには妬まれる。客たちの品定めや注文を、金をかけて予見し、その賭けにいつも給仕長が勝つので、わけを訊くとは「わしはイギリス王に給仕しとったからな」と答え、給仕長たる者、仕事中は絶対に坐ってはならぬと言われた。女目当てに来た客の置いていった白ネクタイなどを着用。
やがてアビシニア(エチオピア)皇帝ハイレ・セラシェ御一行がやってきた。300人の パリ・ホテル(田中充子撮影)
料理で大忙し。皇帝はお抱え料理人まで連れてきて、ラクダ料理さえ作った。私は皇帝の給仕を仰せつかり「私はアビシニア皇帝に給仕した」。皇帝から青い大綬をかけてもらい、一番立派な勲章を戴いた。そしてジャーナリスト注目の的となり、写真をとられインタビューまで受けた。しかし後片付けのとき、金製スプーンが1本紛失し、客の残していったネクタイなどをしめている私が疑われた。私はタクシーで森に出かけ、首を吊ろうとしたが、先客がぶら下がってるのを見て気絶する。気づくと給仕長の腕の中にいた。タクシー運転手の機転で一命をとりとめたのだ。スプーンは流しにひっかかっていたという。
その後、私はドイツ語を習いはじめ、映画館で同じくらいの背丈で、ソバカスだらけのドイツ娘リーザと知りあった。彼女は私の名前を、ヂーチェ(子供)でなく、Herr Ditieディティさんと呼んでくれた。デートしていたある日、プラハの目抜き通りでリーザは、ソコル体育会のチェコ人たちに唾を吐きかけられ、仲裁に入った私も殴られた。私だって同じ体育会員だったのに。果ては店でいやがらせを受けた彼女を守り、パリ・ホテルを追い出された。
1939年3月15日、ナチス軍隊がプラハへ進駐。体操教師だったリ-ザは従軍看護婦長としてパリ・ホテルに入り、私と激しく愛し合う。私は占領軍将校たちの宴席に招かれる。

ナチス党歌
第4章:私の新任地は北ボヘミア、Děčínヂェチーン近くの森中の小村の ホテル。5席の客を担当、新米給仕たちに客の見分け方を教える。客は昼は水泳に来る妊婦、夜は兵士たち。ドイツ文化を学び、アーリア人リーザの夫にふさわしいかと、精液検査まで受けさせられた。 
こうして西ボヘミア国境の町Chebヘプ(エゲル)で、リーザと結婚式をあげた。市庁舎での式には市長やナチス将校らが列席、ヒットラーの胸像、ハーケンクロイツの旗のもと、ナチス党歌「旗を高く掲げ、いざ進まん・・ Die Fahne hoch, die Reichen dicht geschlossen S.A. marschiert・・」が斉唱されるうちに行われた。リーザと私は「Na strahovských hradbáchストラホフの城壁で」や、「わが故郷よいずこKde domov můj」などを歌ってたのに! 名士の娘リーザは皆に祝福されたが、bémák(チェコ野郎)の私には誰も寄ってこなかった。披露宴はリーザの父親が経営する当地アムスデルダム・ホテルで行われ、1週間ワーグナーの音楽づけだった。立派な子供を生むべく夫婦とも強壮剤の注射を何度も打たれた。
さらなる任地は東北ボヘミアのチェスキー・ラーイ(ボヘミアの楽園)Český ráj。
兵士たちはロシア語を習い、私は対ソ連戦を予感する。息子のジークフリートが生れたが、両親に全然似ていない。リーザは強制収容所送りとなったフランスやポーランドのユダヤ人から集めた切手を、戦後きっと高価になると言って、トランクに一杯つめる。私は客の性格当てを楽しみに昼夜ぶっ通しに働く。戦況不利な東部戦線へ向かう兵士と家族たちの、悲しい最後の別れを目撃、「黒い瞳の君よ、なぜ泣くOči černé, proč pláčete」、や、「森はざわめくZahučaly hory」の歌声が聞こえる。リーザが傷病兵を満載した列車で戻ってくる。
次の任地はChomtovホムトフ町の陸軍病院の食堂。足を切断された傷病兵が、リハビリの水泳やピンポンをし、女性楽団が演奏している。ヘプのホテルで床に釘を打ち続ける息子は、両親を見分けられず、リーザはヌーディスト・クラブに入る。プラハのプラットホームで時計を眺めていたら(向いのプラットホームにズデニェクがいた)、ソ連のスパイと疑われ、悪名高いパンクラーツ刑務所に入れられた。しかし人違いと解り釈放される。
同時に出てきた、10年の刑期を終えた男を、生地Lidiceリヂツェまでエスコートする。彼は母親を守るため、隣の女房と浮気する父親を斧で殺したという。しかし彼の故郷は、ボヘミア長官ハイドリッヒ爆殺の報復として、ナチスにより廃墟と化し、彼の家で残っていたのは、焼けただれたクルミの木だけだった。 
私はホムトフ村へ向かう。その頃ヘプの町は連合軍の爆撃で炎上し、泣き叫ぶ被災者と救急車のサイレン。アムステルダム・ホテルも焼け落ち、リーザは頭のない焼死体となって発見された。

第5章:第二次世界大戦が終結。ズデニェクはアメリカ軍に雇用され、政治局員となってゲシュタポ長官を追跡していた。私はソコルの連中に逮捕され、半年投獄されていたが、釈放後、例の切手を売って儲け、プラハ郊外に40室のホテルを買った。子供たちは床に一斉に釘を打つが、その音は私にしか聞こえない。きっとラビから奪った切手の呪いだ! そこで床をタイル張りにした。
森中の池のほとり、高山植物に囲まれた、花崗岩の高さ40メートルの美しいホテルを「採石場ホテル・ロム」と命名。ルイ十四世風の家具や、19世紀の旅行家ナープルステクの収集品さながらの品々も飾った。丘の上から池へロープで滑り降りるアトラクション、冬はレコードをかけ凍った池でのスケート、メリーゴーラウンドのある遊園地も造った。
プラハのホテル王ブランデイス氏らも訪ねてくる。スタインベック、G・クーパー、S・トレーシー、ヘミングウェイらも泊り、高額でホテルを譲ってくれと言われたが売らなかった。M・シュヴァリエ目当ての女の子たちが押し寄せ、私は随行のジャーナリストらに写真を撮られた。
1948年2月末、共産党クーデターが起こり、金持たちは亡命するか逮捕される。私はベロウン近くの村Svatý Jan pod skalou“岩の下の聖ヨハネ”収容所に入れられた。刑期は財産100万につき1年。そこは修道院跡で、岩の上には十字架が建ち、壁には聖像が架かっていた。私の仕事は伝書鳩二百番いの世話だった。チホタ・ホテルのズデニェクの姿が夢の中に現れ、スパルタ対スラーヴィエのサッカー試合の話をする。百万長者milionářと民兵milicionářとは和気藹々で、家族の面会も許され、彼らは愛人たちと一夜も過ごしていた。収容所を去る夕方、修道僧がオルガン伴奏で「聖ヴァーツラフよ」を朗々と歌い、最後の晩餐となった。私は“カナの饗宴”に思いを馳せていた。民兵のほとんどがクラドノの鉱夫たちだった。
「ホテル・ロム」に戻ってみると、目ぼしい物はみな持ち去られていた。次に私は刑務所に入る代りに、森での仕事に志願し、西北ボヘミアのKrasliceクラスリツェへ赴いた。そこにはフランス文学の教授と、チョコレート会社で働いていた浮気娘マルツェラがいた。昼になると森番小屋=ルネサンス様式の美しい館へ、牛の群が入ってきた。樹々の中から音楽を聴きとる教授は、娘にフランス語や文学の講釈をし、しまいに二人はフランス語で会話していた。ここは半年で切り上げた。

最後の任地はシュマヴァ地方のSrníスルニーで、ジプシー老夫婦と息子から、道路管理の仕事が引き継いだ。息子の弾く悲しいヴァイオリンの調べを載せ、彼らの馬車は去っていった。私は干草作り、マキ割り、道普請などに精を出し、不毛だった自身の過去を振り返る。周りにいるのは馬と山羊と犬と猫だけ。週末は買物に村へ降り、酒場で土地の人と語り合う。人生の本質は死について問いかけること、とかどこに葬られたいか?などと。分水嶺のこの山の上では、遺体は動物に喰われ、骨はボヘミアの小川から北海と、ドナウを下り黒海に運ばれよう。アメリカの詩人サンドバークは言っている「人体の燐はマッチ、鉄分は釘、水分はスープのもとになる」と。ある時、ドイツ人の幽霊が見えるという大鏡を譲り受け、自分自身を見つめる。政治に無関係なドイツ人労働者たちは、永年住みなれたこの地を去っていったのだ。またも村外れにズデニェクの姿がちらつく。
ある日、突然マルツェラのことを思い出し、とる物もとりあえず山を降り、バス停に向かった。だが動物たちが追いかけてきたので、出立を諦めた。クリスマス前夜、ふいに村人が押しかけてきた。彼らは遠い教会にいる神父より、私の話が聞きたかったのだ。しかし正装して青い大綬を帯び、勲章をつけている私を見て驚き、聖ステパノの日(12月26日)に来てくれと言い残し去っていった。私はひたすら自叙伝を書き続ける・・・
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[ 2009/01/25 12:48 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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