スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

ラドミル・エリシュカRadomil Eliška のこと

エリシュカ

エリシュカは1931年4月6日、プラハ西方約80キロの小村Podbořanyポドボジャニに生まれた。1941年からモラヴィアと国境を接する東南ボヘミアの町ハヴリーチクーフ・ブロトで、1945年からは北ボヘミアの町リトムニェジツェで音楽を学び、1950年に同地のギムナジウムを卒業した。1950/ 55年の間ブルノのヤナーチェク芸術アカデミーJAMUで、ストゥプカ*、リシカ*、バカラ* に指揮を学び、チェルヌシャーク* や、バラトカ*、ヴェセルカ*、スタインマン* の薫陶も受けた。3年生のとき彼は、JAMUオーケストラを率い、“プラハの春音楽祭”でヤナーチェクの「コンチェルティーノ」と「カプリッチョ」を指揮する予定だったが、サッカーで負傷したためキャンセルされた。

フンパーディンクの「ヘンゼルとグレーテル」と、フィビヒの交響曲第2番を指揮し卒業すると、彼は当地ブルノの放送オーケストラや、ヘルフェルト記念楽団* を指揮し、ラドスト青年歌舞団* の指導にも当っていたが、その後は活動の舞台をプラハへ移した。

1960年から69年にかけ、45人編成のチェコスロヴァキア国立歌舞団* や、ネイェドリー記念国軍アンサンブル* を指揮した。ここの第1ヴァイオリンには、後に交友を結ぶトマーシェク* やシュトラウス* がいた。偶然の機会にエリシュカはシェフル博士* から、カルロヴィ・ヴァリ交響楽団* が首席指揮者を募っていると聞き、選考試験を受け合格した。この審査は1年にも及ぶ厳しいものだった。

こうして彼は1969から90年までの永きに亘り、「新世界交響曲」ヨーロッパ大陸初演で名高い、カルロヴィ・ヴァリ交響楽団の指揮者を勤め、その間78年からはプラハ芸術アカデミーAMUで教鞭をとっていた。カルロヴィ・ヴァリ交響楽団在任中は、幅広いレパートリーを取り上げ、現代音楽の録音・紹介にも務めた。また共産圏においてツアーを行うとともに、チェコフィルやプラハ交響楽団へも客演し、「プラハの春音楽祭」にも、たびたび出演した。

1990年2月、ビロード革命の波に乗り、楽団当局は外国の指揮者を招く方針を打ち出した。エリシュカの退団を喜んだのはAMU音楽部長のフフロ* で、彼を指揮科の教授に迎えたがっていたからである。もっとも1996年に就任するまでエリシュカは、マリアーンスケー・ラズニェ・オーケストラで、6シーズン指揮にあたっていた。


注(アイウエオ順):

ヴェセルカ Josef Veselka(1910~92)
合唱指揮者。ブルノで学んだのち、クロムニェジーシで合唱指揮者となり、ブルノの合唱芸術愛好協会OPUSでスタインマンの指導を受ける。1931年モラヴァン男声合唱団を設立。1959年から、故J・キューンの後任そして、チェコスロヴァキア(現プラハ・フィル)合唱団の指揮者となり、1976年に来日公演。

カルロヴィ・ヴァリ交響楽団
1835年に温泉オーケストラとして設立され、指揮者にはラビツキ父子、ヨゼフ(在任1835/ 68)、アウグスト(1869/ 1903「新世界交響曲」を指揮)、R・マンゼル(1910/ 41)が当っていた。戦後すぐには、L・バルトル(1945/ 46)、J・シェフル(47)、K・シェイナ(48/ 49)が指揮していたが、共産政権樹立後48/ 51年の混乱期には、シェフルとM・コンヴァリンカの二人が、同等の資格で指揮していた。1951年半ばに国立のオーケストラとなってからは、B・リシカ(51)、V・ノイマン(51/ 54)、J・ゴットハルト(54/ 58)、V・マチェイ(58/ 68)へとバトンが渡った。エリシュカの後任には、イギリス人のボストックが迎えられ(91/ 98)、現在はフランス人のレベルMartin Lebelが指揮にあたっている。

シェフル Jan Šefl(1919~)
指揮者。プルゼニュで学んだのち、イェレミアーシやシェイナに作曲と指揮の個人教授を受けた。1940年からプルゼニュ劇場でコレペティトゥールと指揮を経験。1945年当地に放送SOを設立、1947/ 48~50年にカルロヴィ・ヴァリSOの指揮者となり、1956年から73年まで東スロヴァキアはコシツェ放送SOの指揮者を勤めた。

シュトラウス Ivan Štraus(1937~)
ヴァイオリニスト,現マルチヌー協会会長。AMUでペケルスキーに学び1963年卒業。64年プラハの春コンクールで優勝。66/ 68年にかけモスクワに留学、種々のコンクールに入賞。チェコ・トリオの一員(69/ 79年)の一員として来日した。ラテルナ・マギカにも参加しソ連やアメリカを周った。68/ 75年の間AMUで教えていたが、政治的理由から退職させられた。75/ 79年の間パルドゥビツェ室内オーケストラのソリストとなり、以後88年まで当地の音楽院で教えていた。79年からFOKのソリスト、スークSQの一員を勤め、1990年AMUの教授に復帰した。

スタインマン Vilém Steinman(1880~1962)
1926年秋ブルノの合唱芸術愛好協会オープスOPUS = Obec přátel umění sborovéhoに、付属の男声合唱団を設立(42年まで)。第二次世界大戦中に混声となったが、活動は禁止されていた。戦後、男声、女声、混声の合唱団となり、1954年から弟子Z・ゾウハル(1927年生)が指揮に当っていた。

ストゥプカFrantišsk Stupka(1879~1965)
指揮者、ヴァイオリニスト、教育家。プラハ音楽院でシェフチークにヴァイオリンを学び(1896/ 1901)、卒業直後から1919年までオデッサ市立オペラのコンサートマスターとなり、同時に当地フィルハーモニーで指揮者としての腕を磨いた。また当地でコツィアン、ペルマン、ゼレンカとチェコ人だけの弦楽四重奏団を組織して活動(1907/ 09)し、グラズノフらと知己を得、ロシア音楽への理解を深めた。帰国後は一時ヴィオラ奏者としてチェコ弦楽四重奏団の席を占め、チェコ・フィル指揮者(19/ 46)、JAMU教授(47/ 51)、オロモウツのモラヴィア・フィル指揮者(46/ 56)のかたわら、さまざまなオーケストラに招かれ指揮していた。

チェコスロヴァキア国立歌舞団
Československý státní soubor písní a tanců

1948年クロムニェジーシ南のヴァシツェ村に、V・コペツキーがチェコスロヴァキア民族舞踊団Čs. soubor národní tancůとして創設。プラハで歌唱とオーケストラ・パートが拡大され、1950年にČs. soubor národní písní a tanců、1956年、標記に改名した。

チェルヌシャーク Garcian Černušák(1882~1961)
音楽学者、批評家。ブルノ音楽院、JAMUの教授。百科全書的知識で、永年ブルノ音楽界に貢献し、“音楽史”を書き、チェコスロヴァキア音楽辞典に寄稿、校正にたずさわった。

トマーシェク Jiří Tomášek(1942~)
AMUでフロウニョヴァー、スークに学び1968年卒業。1968/ 79年の間FOKのコンサートマスター。ソリストとしてもルージチコヴァーはじめ、各種オーケストラと共演。プラハ弦楽三重奏団、チェコ・トリオの一員として活躍、1976年から母校で教鞭をとっていた。

ネイェドリー記念国軍アンサンブルAUM
Armádní umělecký soubor Víta Nejedlého

有名な音楽批評家Z・ネイェドリー(1878~1962)の息子で、多才なヴィート (1912~1945) が、1943年に設立した国軍楽団で、ドゥクラ峠で戦死した彼を記念して戦後、彼の名前が冠され、舞踏、合唱団、オペラ団も加わった。しかし1960年代末から本来の姿に戻った。ここにはL・ポデーシチ、O・フロスマン、B・グレゴル、J・ノヘイル、J・ロハン、M・トゥルノフスキー、J・キューン、M・コシュレルら著名音楽家も登場した。

バカラ Bakala(1897~1958)
指揮者。Fr.ノイマンとヤナーチェクに学び、ピアニスト、合唱指揮者、オペラ指揮者を経て、1956年からブルノ・フィルの指揮者を勤め、ヤナーチェク・オペラのピアノ譜校訂をいくつか手がけた。

バラトカ Antonín Balatka (1882~1961)
指揮者。プラハ音楽院でV・ノヴァークに学び、ルブリャナでコレペティトゥール、指揮者、演出家を経験したのち、1929/ 49年の間ブルノで、指揮者、オペラ監督、音楽院とJAMUで教鞭をとっていた。

ヘルフェルト記念楽団
Helfeltovo orchestrální sdružení

ヤナーチェクに心酔していた音楽学者ヘルフェルトVladimír Helfelt(1886~1945)を偲び、1906年創設のベセダ協会付属楽団Orchestrální sdružení v Brněが、1945年に改名され、音楽院やJAMUと共演していた。

フフロ Josef Chuchro(1931~)
チェリスト。1950/ 53年AMUでサードロに学ぶ。52年からスーク、パネンカとチェコ・トリオを結成、しばしば来日(80年まで)。55年の「プラハの春」、59年メキシコでの「カザルス」コンクールに優勝、61年よりチェコ・フィルのソリスト。65年から音楽院、70年からAMUで教え、90年に音楽部長となる。

ラドスト青年歌舞団 Radost(喜びの意)= Mládežnický soubor
共産政権誕生1年後の1949年にブルノの女子ギムナジウムで創設され、のちにJAMUの学生、労働者なども加わり、次第に規模を拡大していった若者の団体。 ポデーシチLudvák Podéšt(1921~68)らの作った楽天的な歌や、民族舞踊をレパートリーとし、一部の団員が1970年大阪万博の折に来日した。

リシカ Bohumír Liška(1914~90)
指揮者。プラハ音楽院で指揮と作曲を学び、卒業後、国民劇場のコレペティトゥール(37/ 40)。ブルノのクベリークに呼ばれ、1940年から当地オペラの指揮者となり(40/ 50)、チェコの新作を次々と指揮した。他の団体の指揮も積極的に行い、JAMUでも教えていた(51/ 57)。カルロヴィ・ヴァリSOを指揮(51)、プルゼニュ劇場指揮者(55/ 67)プラハ国民劇場指揮者(66/ 84)となった。その間プルゼニュ放送SOの指揮者を勤め(67/ 84)、AMUでも教えていた。
スポンサーサイト
[ 2009/09/28 18:58 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。