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ドヴォジャーク:交響曲第9番 作品95, B.178

1894年7月20日夕刻、ドイツとの国境に近いボヘミアのカールスバード(現カルロヴィ・ヴァリ)温泉街南端にある郵便会館には、各界の名士が集っていた。前年に完成したドヴォジャークの交響曲“新世界より”の旧世界(大陸)での初演を聴くためである。(ヨーロッパ初演はその1ヶ月前、ロンドンのクインズ・ホールでマッケンジーの指揮で行われていた)。A・ラビツキ指揮する温泉地オーケストラが、序奏の静かな弦の音を響かすと、休暇中の中部ボヘミアはヴィソカー村の別荘から駆けつけた、作曲者の脳裏には、様々な思いが駆け巡る・・・

1358年カレル四世により開かれたこの温泉町は、バッハからベートーヴェンを経てマーラーに至る音楽家をはじめ、ピヨトル大帝、ゲーテ、シラー、マルクスなど、ヨ-ロッパの名だたる人物が湯治に来ていた、文化的社交の場でもあった。会場となった郵便会館は1791年に完成し、1806年に結成された素人楽団をプロの水準にまで高めたのは、この指揮者の父親である。1881年Dが世に認められる端緒となる。出版主ジムロック、評論家ハンスリックと始めて会見したのもここだった。

・・・思えばアメリカ・ナショナル音楽院を経営する、大富豪サーバー夫人に招かれ、チェコ移民の子でプラハ音楽院を卒業したばかりのヴァイオリニスト、コヴァジークを案内役に、妻と二人の子供を伴い10日間の船旅のあと、はじめて自由の女神像とニューヨークのパノラマを目に下のは、2年前の9月末のことだった。彼の一生は楽旅の連続だったが、なぜ遠い新大陸まで足をのばしたのだろう? それは師と仰ぐスメタナが10年前、貧困のうちに他界した惨状を目のあたりにしていたからだ。大家族を抱える彼にとり、1万5千ドルの年俸は魅力的だった。10月からはじまった音楽院での仕事は、週3回2時間づつの講義と、午後2回の学生オーケストラの練習、それにアメリカ各都市を巡る6回の演奏旅行で、作曲にも十分時間がとれた。

音楽院近くに居を構えた彼は、11月末の1週間ボストンでの演奏会に出かけた以外はここに留まり、渡米前にスケッチしていたカンタータ「アメリカの旗」を完成すると、これと相前後して12月19日から翌93年5月24日にかけ、“身体はアメリカに、魂はボヘミアに”という心理状態を反映する、新たな交響曲の創作に没頭した。最初の3楽章は比較的早く仕上がったが、そのあと故国に残してきた4人の子供のことが気になり、筆の運びは遅くなる。しかし彼らの渡米を知らせる電報を手にすると、一気に終楽章を書き上げた。

1893年5月末、子供たちが義妹に連れられ到着すると、皆でコヴァジークの両親のいるアイオア州のスピルヴィルへ向かった。ここはチェコ移民の村で、皆は故郷にいるようにくつろげた。すでに200年も前からアメリカでは、チェコ移民の音楽家たちにより、V・スタミツらの交響曲が演奏されていた。休暇の後半ドヴォジャーク一家は、シカゴや2つの大河ミズーリとミシシッピ流域を訪れ、ロングフェローの「ハイアワーサ」に出てくる伝説の滝ミンネハナに魅せられた。ニューヨークへの帰途、デトロイト、バッファローに立ち寄り、ナイアガラの滝を見た。

10月から新学期が始まった。彼は春に書き上げた交響曲の推敲をはじめ、とくに第2楽章は入念に行った。改作がどの程度だったかは不明だが、彼自身「アメリカを見ずしてこのような交響曲は作れなかった」と漏らしているように、アメリカ内陸の大自然から受けた印象が付加されたに違いない。11月半ば指揮者サイドル宛のスコアのタイトルページには“新世界より”の文字が刻まれていた。1893年12月15日、超満員の16カーネギー・ホールでの、公開リハーサルの翌16日、サイドル指揮するフィルハーモニック協会オーケストラにより、交響曲第5番として初演され、楽章の終るごとに万雷の拍手を浴びたという。作曲者は音楽院賞として300ドルを手に入れた・・・

さて今、コロンブスのアメリカ大陸発見からほぼ400年後、ここボヘミアの温泉地で、新世界から故国へのメッセージである、彼の人生交響曲が響いている。

第1楽章:アダージオ~アレグロ・モルト。遠い過去への視界を遮る霧がはれてゆくような、ピアニッシモの序奏についで、3つの暗示的主題をもつアレグロ・モルトがほとばしり出る。馬車を駆り未開の大自然へと奥深く分け入る開拓者たち、彼らの苦難に満ちた旅の希望、葛藤、浮沈、甘い夢を結ぶ避難小屋。この世界と人生の美しさにみとれてしばしの休息、障害物で道をふさぎ、はじめからやり直させる嵐の到来・・・

第2楽章:ラールゴ。まどろみのうちに故郷に思いを馳せる、イングリッシュ・ホルンの魅惑的な調べ。ハイアワーサの美しいい妻ミンネハナの、森中の埋葬を告げる悲歌が、梢を渡る風に乗り、コントラバスのピチカートで刻む葬列の足音を伴い聞こえてくる。深い悲しみのさな中、小鳥が囀り、若い二人の美しい結婚式への回想がよぎる。曲は一時フォルティッシモとなって、第1楽章の主題を響かせるが、ふたたび静寂が戻り、まどろみのうちに夕陽が沈んでゆく。

第3楽章:スケルツォ・モルト・ヴィヴァーチェ。ハイアワーサの結婚の宴で、スー族の若者二人が踊り、周りで一同がはやし立てる。急に草地の暖かさと匂いがただよい、インディアンの乙女たちの叙情的な歌にあわせた踊りについで、故国ボヘミアの乙女たちが踊りだす。第1楽章の主題も回想されるが、インディアンの若者の踊りは続く。“松の木々の内外うつそとで陽光の下に見え隠れしながら、彼らの踊りは次第に激しさを増し、あたりに渦を巻き起こし、木々の葉をうち震わす・・・”

第4楽章:アレグロ・コン・フォコ。記念碑的な人生への賛歌の行進曲。曲半ばにクラリネットの叙情主題を入れているが、ここにあるのはもはや郷愁ではなく、再会の喜び。前楽章の主題が次々と再現し、人は大地を、その過去と未来を含め胸に抱く、その愛に酔いつつ・・
演奏は終り、ドヴォジャークは心から祝福と賛辞を受ける。このあと彼は10月13日、国民劇場オーケストラを指揮して、この交響曲のプラハ初演を行い、残りの6ヶ月の仕事を果たすべく、アメリカへとふたたび旅立つ。唯一の心配は、死期の近い病弱な義妹、永遠の恋人だった伯爵夫人ヨゼフィーナを、ヴィソカーの館に残して行かねばならぬことだった。

この交響曲の特徴はまず、主題と楽章構成が明快な建築美を誇っていること。終りの方で先行楽章の主題を回帰させているのは、ロマン派の常套手法である。そして何よりも郷愁をそそる暖かく美しい旋律と、巧妙な対位法、躍動するリズムを、色彩豊かに表現している。旋律には黒人やインディアンの民謡、さらにはフォスターの作品が投影されている。旋律の上ではスコットランドや古い教会音楽に見られるペンタトニックの使用。和声の上では主音、属音の保持音、あるいは両者の使用によるバグパイプ効果。リズムの上では付点音符、長/短/長(コリアンブス)、または短/長/短のリズムと、シンコペーションの多用があげられる。
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[ 2009/05/07 23:50 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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