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プロコフィエフの「ロミオとジュリエット」世界初演

Prokofiev
プロコフィエフ(1891~1953)が、16年間の国外生活から帰国した1934年当時、ソ連ではシェイクスピア劇が盛んに上演されていた。年末にレニングラードとモスクワから、バレエ創作依頼を受けた彼は、作家で劇や映画にくわしいビヨートロフスキイに「ロミオとジュリエット」を提案され、ボリショイ劇場と契約を結んだ。

翌1935年5月にプロコフィエフは、レニングラードでラドロフ、ピヨートロフスキイ、ラヴロフスキイとの「ロミオ」の台本作成に加わり、9月8日には全曲のピアノ・スコアを完成した。しかし10月のボリショイ劇場ホールでの私演は、フィナーレがハッピーエンド*1となっていたため、スキャンダルとなり、台本を原作通りに戻したが、契約は破棄された。

翌1936年の春から夏にかけて彼は、「ロミオ」のオーケストレーションを終え、バレエ音楽とは内容のやや異なる2つの交響組曲を書き、さらにこれをもとに「10のピアノ曲」も作った。この年はプーシキン没後100周年にあたり、カーメルヌイ劇場の劇「オネーギン」への付随音楽は、叙情的な旋律やオーケストレーションにおいて、「ロミオ」の愛の場面を思わせる。

1936年11月24日、「ロミオ」第1組曲(7曲、バレエの13曲を含む)が、セバスチャン指揮モスクワ・フィルにより初演され、年末にはニューヨークで絶賛された。翌1937年4月15日には、第2組曲*2(7曲、バレエの13曲を含む)が作曲者の指揮により、レニングラードで初演され好評を博した。しかし翌1938年のレニングラード・バレエ学校(現ワガリワ・バレエ・アカデミー)創立200周年を記念するキーロフ(現マリインスキイ)劇場での上演契約は破棄された。

注1:「ロミオ」と並行して1594年頃に書かれた「ヴェローナの二人の紳士」は、ハッピーエンドになっているし、17世紀後半にジェイムズ・ハワードは、恋人たちが最後まで死なないヴァージョンを書いており、原作と1日おきに上演されていた時期もあった。また1793年のスタイベルトのオペラも、ハッピーエンドになっている。

注2:第3組曲(6曲、バレエの12曲を含む)は、1946年3月8日、モスクワでジェクチャレンコ指揮で初演された。したがって3つの組曲には、バレエ音楽全52曲のエッセンスがすべて含まれている。


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こうした状況のもとで世界初演は、1938年12月30日金曜(19時半~22時)、原曲をやや室内楽風に改訂した版により、チェコスロヴァキアはモラヴィア地方の中心都市、ブルノの地方劇場Zemské divadlo(旧ドイツ、現マヘン劇場)で行われた。ちなみに自作品をしばしば改訂するのはプロコフィエフの常だった。当時の上演評を読むと、踊手やオーケストラには好意的だが、音楽については、今日では考えられない戸惑いが見られる。しかし翌1939年1月20日、メトロポリタン・オペラ支配人とともにブルノに招かれ、「ロミオ」の再演を観劇したバレエ・リュッス・ド・バジル*3の団長バジルは、この演出に感激し、プソタにニューヨークでの上演をすすめた。再演が1939年の1,2,4月の計6回しか行われなかったのは、3月半ばナチス・ドイツ軍の故国進駐という、政治情勢のためだった。



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ところで世界初演がなぜ、他ならぬブルノで行われたのだろう?

1926年6月プラハで開かれた第2回国際現代音楽祭で、プロコフィエフのヴァイオリン協奏曲第1番をシゲティが弾き、1926年2月にはピアノ協奏曲第3番を、チェコ・フィルが演奏していたし、1931年にはブラチスラヴァのスロヴァキア国立劇場で「3つのオレンジの恋」が上演され、1935年には東スロヴァキアのコシツェに、プロコフィエフがピアニストとして登場するなど、彼の音楽は当時のチェコスロヴァキアではかなり知られていた。そして1938年1月、プロコフィエフが最後の国外旅行の手はじめとして、プラハを訪問した折には。「ロミオ」の組曲がラジオ放送された。

一方ブルノ文化界は、優れた演劇人イジー・マヘン(1882~1939自殺)指導のもと、プラハよりも進んでおり、ヤナーチェクの親ロシア精神の名残か、音楽面でもとくにソ連の作品に関心を寄せていた。だから1936年にショスタコーヴィチの「ムツェンスクのマクベス夫人」、37年にはN・チェレプニンの「鍵番ヴァニュカ」、ジェルキンスキイの「静かなるドン」などのオペラが上演され、「ロミオ」以前にすでにプロコフィエフのバレエ「道化師」(1920年作)や「放蕩息子」(1928年作)*4がとり上げられていた。

注3:1909年から20年間、パリで活動していたディアギレフ(1872~1929)が亡くなった後,バレエ・リュスは、バジル(1888~1951、本名ワシリ・ヴォスクレセンスキイ)と、ブルム(1878~1942)が協力して、1932年にモンテカルロ・バレエ団を結成していたが、36年に2つのグループに分裂した。その後フォーキン、バランシン、マシーンらを擁するバレエ団は、アメリカで活動していたが、紆余曲折をへて1962年に解散した。

注4:プロコフィエフのバレエには他に、「アラとロリ」(1914年)、「道化師」(1921年)、「ブランコ」(1924年)、「鋼鉄の歩み」(1928年)、[放蕩息子](1929年)、「ポリステーヌ(ドニエプル)河畔で」(1930年)、「シンデレラ」(1944年)、「石の花」(1949年)などがあり、のちにオペラ「3つのオレンジの恋」や、子供のための音楽物語「ペーチャと狼」などもバレエ化された。


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「ロミオ」のスコアを劇場側はどこで入手したのだろう?

その頃パリでドヴォジャークのオペラ「ルサルカ」上演の交渉をしていたブルノ劇場支配人イジコフスキー*5が、パリから持ち帰ったのか、あるいはパリ時代にプロコフィエフと面識があったに違いない振付師プソタが、じかに作曲者から借りたのかは明らかでない。

初演(プロローグ+2場9場+エピローグ)を指揮したのは、クイド・アルノルディ*6、振付はロミオを踊ったイヴォ・ヴァーニャ=プソタ*7、舞台装置はV・スクルシュニー(1873~1949)で、ジュリエットはシェムベロヴァー*8が踊った。

注目すべきは、口上役chorus(フィカロヴァー*9)と、原作にはない2人の天使(ミティースコヴァー、オルショフスカー)が、各場面のつなぎとして登場し、この3人だけがプワント(爪先立ち)で踊ったことである。あまり動きを必要としない、モンタギューには俳優プルクラーベクが、憎しみ合う両家の奥方には、当時、同劇場で歌っていた2人のオペラ歌手が出演した。またパリスの小姓役として、当時13歳だったシュレジングロヴァーが登場していた。

その他、クラブ(ティボルト)、ホラ(パリス)、ソコル(マーキューシオ)、ナプラヴィル(ベンヴォーリオ)、ザヴァヂロヴァー(乳母)、シーマ(ヴェローナの大公)らの名前がみられるが、キャプレット邸の舞踏会で、ロミオがお目当てにしていたロザラインは出ていない。

注5:イジコフスキー、ヴァーツラフ(1891~1942アウシュヴィツ):1931年からブルノの劇場支配人となり、パリ、オランダ、ブエノス・アイレスへの国外公演の野望を抱いていたが実現しなかった。

注6:アルノルディ、クイド(1896~1958):イタリア出身の指揮者。1923年間までブルノ音楽院でF・ノイマンに指揮と作曲を学び、23/24年のプロスチェヨフ音楽学校を皮切りに、24/25年イタリアで指揮、26/30年にパルドゥビツェの東ボヘミア・オペラ劇場、30/36年、北ボヘミアのリベレツ市立劇場の指揮者を経て、36/41年ブルノの国立劇場オペラ指揮者となる。42年からミラノ・スカラ座に移り、戦後、同オペラ団を率いてチェコスロヴァキア公演を行い、56年には「プラハの春音楽祭」に登場した。

注7:ヴァーニャ=プソタ、イヴォ(1908~52):外国商社の支店長だった父親の任地ウクライナのキエフ生。幼少時に一家はモラヴィアのプシェロフに帰り、母親はバレエ学校を開いた。彼はブルノとプラハでバレエを学び、1926/32年の間ブルノ国立劇場バレエ団に所属。その間1926年のニジンスカヤを主役とする、ディアギレフ・バレエ団のブルノ公演に大いに触発された。1932/36年にかけモンテ・カルロのバレエ・リュスで活躍した後、ブルノに戻る(36/41年)。1941年に渡米してメトロポリタンや南米のサンパウロのバレエ団の監督を歴任。戦後ふたたびブルノに戻り、47/52年の間に数々のバレエを振付けた。父親の影響で8ヶ国語に通じていた。

注8:シェムベロヴァー、ゾラ(1913年ブルノ近在生):パリ(30/32年)、ウィーン(36/37年)、ドレスデン(46年)に学ぶ。ブルノ(22/41年)、プラハ(43/59年)の劇場に出演。1968年以降はオーストラリアで後進の指導に当っていた。振付家としても「赤いケシ」などを手がけ、1999年のプソタ回顧コンサートの折にブルノを訪れた。
なおオーストラリア・バレエの基礎を築いたのは、モンテ・カルロで活躍(1932/39年)した後、40年オーストラリアに渡り、メルボルンにバレエ学校を創設したモラヴィア生れのE・オロヴァンスキー(1902~59)だし、現在オランダを本拠に活躍中のイジー・キリアーン(1947年生)も、プラハ生れのチェコ人である。

注9:フィガロヴァー、ミルカ(1917年生):生地ブルノのプソタ・バレエ学校で学び(1929/32年)、ドイツ、フランス、ユーゴスラヴィア、1937年にはニューヨーク、デトロイト、クリーヴランド公演に参加した。その後プラハ国民劇場にも出演、36年からブルノ国立劇場のプリマ・バレリーナとなる。戦時中はオロモウツ市立劇場で踊り、戦後ブルノに戻り、ウィーンでも研鑽を積み、49年からブルノ音楽院で教えていた。


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「ロミオとジュリエット」を主題にしたオペラには、イジー・ベンダ(1776年)はじめ、ダレイラク(1792年)、スタイベルト(1793年)、ツィンガレッリ(1796年)、シャル(1810年)、ヴァッカイ(1825年)、ベッリーニ(1830年)、グノー(1867年)、ディーリアス(1900年)、ザンドナイ(1922年)、ズッターマイスター(1940年)、ヤン・フィシェル(1962年)などがある。交響作品にはベルリオーズ(劇的交響曲1839年)、チャイコフスキイ(1871年)、ドヴォジャーク(1873年)、プーランク(1921年)、カバレフスキイ(1956年)などのものがある。バーンスタインのミュージカル「ウェスト・サイド・ストーリー」(1957年)もこの主題の翻案で、10,数本ある映画では、1954年の英伊合作映画(監督カステラーニ、音楽ロマン・ヴラド)と、1968年のイタリア映画(監督ゼッフィレリ、音楽ニーノ・ロータ)が優れている。

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さて本家のソ連では、1939年秋のキーロフ劇場で「ロミオ」のリハーサルがはじまったが、当劇場の構造上の欠陥ゆえにか、主役のウラノワは音楽がまったく聞こえない、と不満を漏らしたため、プロコフィエフは激怒したが、結局はオーケストレーションをかなり変更する羽目になった。こうした努力の末、ブルノ初演のほぼ1年後、1940年1月11日にキーロフ劇場で行われた3幕14場のこのバレエのソ連初演は大成功だった。この時の演出振付はラブロフスキイ、舞台装置ウィリアムス、指揮ファイエルで、ジュリエットをウラノワ、ロミオをセルガーエフが踊った。そして春にはモスクワで再演された。
20世紀バレエの最高峰と目されるこの作品は、その後バランシン、クルベリ、グソフスカ、フロマン、アシュトン、リファール、クランコ、スタフ、マクミラン、ヴィノグラドフ、ベリオゾフ、ダンツィヒ、ノイマイヤー、ボヤルチコフ、スムイン、ヌレエフ、アライズ、グリゴロヴィチ、ヴァシリエフらの新演出で、今日まで世界各地で上演されてきている。

(ブルノ国民劇場バレエ団2001年来日公演プログラム抜粋)
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[ 2007/12/22 12:51 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)



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