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ハースの生涯と作品(1)

haas
パヴェル・ハース Pavel Hass(1899~1944)の父ジクムント(1871~1944)は、靴の製造で名高い東ボヘミアはホリツェ村の行商人の息子で、ブルノに移ってすぐの1898年3月末、ロシア人のオルガ・エプスタインと結婚、当地に靴店を開いた。息子のパヴェルとフゴが生まれた頃、住まいはゴムペルツ(現ベズルチ)通り5番地にあり、パヴェルは幼少時から楽才を発揮*1していた。

20世紀初頭、電車が走りはじめた人口10万のブルノでは、工業が発展したので商売は順調で、1911年には市中心に3軒も店を出せるほどになった。ハース家での会話はチェコ語だったが、商売にはドイツ語が必要だったから、パヴェルは古ブルノ区のドイツ系小学校(親友のF・ソウクプの影響でドイツ文学に傾倒)、中学はチェコ系の学校に通い、音楽は家庭教師について学んでいた。彼は当時ゼンソクを病んでおり、1910年頃一家はビスクプスカー通り8番地に転居した。

ハースはベセダ協会付属オルガン学校で、ピアノをホルボヴァー(1883~?)、音楽理論をヤン・クンツ(1883~1976)に学んでいた。世界的ソプラノ歌手デスティノヴァーの来演、プラハ初演大成功後の「イェヌーファ」再演に湧く16年に、彼は多くの歌曲を書いたが、テキストはみなシャミソー、グリルパルツァーらドイツ語の詩によるもので、友人のソウクプや弟のフゴのものまである。第一次世界大戦のさなか17年3月に従軍した。

祖国独立の翌19年9月下旬、彼は新設された音楽院(普通科、中等科、マスタークラス)の3年生に編入された。ここではクンツ、ペトルジェルカ(1889~1967)の薫陶を受け、20~22年の間マスタークラスでヤナーチェクに作曲の指導を受けた*2。21年4月ブルノでチャペックの「ロボット」が初演された際、ハースはH. Pavlasのペンネームで付随音楽を書いた。21年12月はじめドレスデンで「売られた花嫁」を観て感涙にむせび、ヤナーチェク宛の手紙の中で“ここで「イェヌーファ」や「カーチャ」も観たいものです”と書いている。音楽院在学中一番の作品は、20年秋に知り合ったマリエ・ヤルシコヴァーへの失恋の情をこめた、大オーケストラのための「悲しげなスケルツォ」作品5で、その切ない思いは、23年作のタゴール*3の詩「園丁」につけた5曲からなる「蜃気楼」(テノール独唱とピアノ五重奏)作品6にも反映している。

22年6月末に卒業したハースはマリエ(のちに女流作家となり、画家ポデシュヴァと結婚)と別れ、ザールブリュッケン劇場のコレペティトゥールを目指したが失敗、父親の靴店を手伝いながら作曲していた。23年3月5日ブルノ・レドゥタ劇場で、ロンゲン*4率いるプラハ革命劇団が、ビュヒナーの劇「ヴォ(イ)ツェック」を上演した際、ハースはこれへの付随音楽を書き、4月終りから5月初旬にかけイタリアに旅した。

25年には画期的な弦楽四重奏曲第2番「猿山より」作品7*5が作られた。当時ブルノでは国民劇場オーケストラにより、ストラウィーンスキーはじめ、6人組の作曲家らの作品が盛んに演奏されていた*6。ハースはこれら以外にもモラヴィア民謡やユダヤ音楽の研究にも励んでいた。作品8は同郷の天才詩人ウォルケル(1900~24)による、変拍子の目立つ「選ばれし乙女」(27年作)である。

 28年ブルノに国際見本市会館が完成した折に、ハースはハルパ(1900~83)の詩による男声合唱曲「カーニヴァル」を書きはじめたが、ヤナーチェクの死に衝撃と受けて中断。師の葬儀ではモラヴィア作曲家集団を代表して弔辞を述べ、落胆しているズデンカ未亡人のフクワルディ行きに同道した。巨匠の死でハースのブルノ音楽院教授への道も絶たれた。

 29年2月のF・ノイマンの死もショックだったが、ユーゴスラヴィアへの旅から帰国後「カーニヴァル」*7を完成した。前年に結成されたモラヴィア管楽五重奏団に触発され書いたのが、ヤナーチェクの「青春」を思わす「木管五重奏曲」作品10である。これは30年3月24日のモラヴィア作曲家集団の演奏会で初演された(35年1月7日ウィーンでも演奏され好評を博す)。30年ブルノに放送局が開局したので、翌年にかけ「ラジオ放送のための序曲」(小オーケストラ、男声四重唱と朗唱)作品11を書いた。

31年6月、母親とフランクフルト、ボンなどに旅し、ケルン大聖堂の鐘の音に触発されて綴ったのが、ヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」を連想させる、カンタータ「詩篇29」*8作品12(31~32年作)である。当時すでに弟のフゴ*9はプラハで俳優として舞台や映画に出ており、彼の出演する映画「人生はきびしい遵?ivot je pes」(32~33年作)に付けた音楽の最終部分には、死の床にある母親への懸念が垣間見られる。32年にプラハからブルノに移ってきた女医のソーニャ*10は、ハースの母親の治療にあたっていたが、その間にハースと心が通じ合い、夫君と離婚し二人は35年10月17日に結婚した。ハースはソーニャの住まうヴァヴロヴァ(ハヴリーチコヴァ)通り67番地に移り、作曲と個人教授*11に専念できるようになった。

35年の作品には、優れたピアニストのB・カフ(1905~44)に触発されて書いた「ピアノ組曲」作品13(36年2月10日ウィーン音楽院で初演)があり、彼とは後にテレジーンとアウシュヴィツの強制収容所で共に過ごすことになる。

34年から37年にかけオペラ「旅回りのイカサマ医師」*12の作曲に取り組み、2幕完成後、夫妻でユーゴスラヴィアに旅した。第3幕に入る前に2幕の音楽をもとに6楽章の「組曲」作品14を作り、これはオペラ完成以前の37年6月24日に放送された。37年10月、弦楽四重奏曲第3番作品15*13にとりかかり、第1楽章完成直後に胃潰瘍のため病院に送られたが、11月1日に愛娘オルガが生まれた。

38年のスロヴァーツコ民謡14曲をソプラノ、テノール独唱、女声、男声合唱と大オーケストラ用に編曲した「夕べから朝まで」作品16は、39年1月28日バカラの指揮で演奏されたが、これが彼の作品の最後の放送となった。

39年3月15日ナチス・ドイツ軍が故国に進駐してきたため、ハースはテヘランに新設された音楽院への就職を試み、ソ連、アメリカへのビザも申請したが失敗した。ユダヤ・ギムナジウムでの教職を奪われた彼は、自宅で個人教授*14をしていた。当時の作品には「オーボエとピアノのための組曲」作品17(39年作)や「民謡調の7つの歌曲集」作品18(39/40年作)があり、前者には聖ヴァーツラフのコラールや、ユダヤの聖歌が引用されている。彼は家族を守るため40年4月半ばに偽装離婚した。

注1:ハースの楽才は歌の好きな母(オデッサ海運会社員の娘)方から受け継いだもので、伯父リハルト・ライヒナーは東ボヘミアの町コリーンのユダヤ教区カントルで、ハース兄弟は小さい頃よくそこへ遊びに行き、シナゴーグの音楽に耳を傾けていた。伯父ミカエル・エプスタインはウィーンの俳優。従姉のB・ライヒネロヴァー(1893~1916)は、プラハの「新ドイツ劇場」と「国民劇場」のソリストだった。

注2:ヤナーチェクの教授法は、音声学、作曲法の講義以外に、モラヴィア民謡をピアノや男声合唱に編曲させて、これに手を入れたり、ドビュッシーの「海」などの楽曲分析で、彼はめったに生徒を誉めなかったという。
同級生にはバカラ(1897~1958指揮者)、クシェネク兄弟のエドゥアルト(1895~1960とヨゼフ1898~?、クドラーチェク弦楽四重奏団の第2ヴァイオリニストとチェリスト、21年4月18日ハースの弦楽四重奏第1番作品3を初演)。クハシ(?~?モラヴィア弦楽四重奏団の第2ヴァイオリニスト)、R・クヴァスニツァ(1897~?指揮者)、キンツル(1898~?=指揮者)、V・ドゥシーク(1899~? オルガニスト)らがいて親交を結び、時折フィルクシュニー(1912~94ピアニスト)少年の姿も見かけたという。マスタークラス最初の卒業生はハースとホモラ(1899~1953, 作曲家)だった。

注3:1921年6月プラハでのタゴール(1861~1941)の講演の前後に、彼の詩をもとにフルブナ(1893~1971)が20年にオーケストラ伴奏の「3つの歌」作品21(24年2月20日初演)を、22年にヤナーチェクも「彷徨える狂人」を書いており、ハースはヤナーチェクに触発されたのだろう。

注4:E・A・ロンゲン、本名ピッターマン(1885~1936)。画家、俳優、監督、劇作家。1907年画家集団Osm(八)を結成、ルツァルナなどプラハのキャバレーで活躍、チェルヴェナー・セドマ(1919~20)、革命劇団(20~22)を結成し21年には「模範兵スヴェイク」も上演していた。

注5:弦楽四重奏曲第2番(4楽章)は、第1楽章「風景」:低弦pppの分散和音上で第1ヴァイオリンが高音を響かす。この楽章に出てくるc~es~f~c(3音上昇、1音下降)4音型は、全楽章に共通の核である。第2楽章「馬車、御者と馬」:ここではグリサンド奏法が目立つ。第3楽章「月と私」:拍子の交代が著しい静かで神秘的な雰囲気。第4楽章「荒れ狂う夜」:スル・ポンティチェロ奏法でのトレモロ、トリル、コル・レ-ニョ奏法や、3+3+2拍子などを入れた舞踏調で、終わり近く2/4拍子ヘ長調の叙情主題が現われる。なおこの楽章には当初、打楽器も入っていた。初演は1926年3月16日モラヴィア弦楽四重奏団により行われた。

注6:22年から27年にかけ、ミヨーの弦楽四重奏曲1番、オネゲルの「パシフィク231」やタイユフェル、プーランクの作品、ストラヴィンスキーの「ペトルーシカ」、「兵士の物語」、「火の鳥」、「花火」、「プルチネッラ」などが演奏されていた。

注7:「カーニヴァル」は、急病のヴァッハに代るヤン・ショウパル(1892~1964)指揮するモラヴィア教員合唱団により、32年11月29日プラハで初演され15回続演された。

注8:楽器編成はオルガン、バリトン独唱、女声合唱と小オーケストラ(鐘3、トランペット、ホルン各2、ティンパニ、大太鼓、弦)で、1933年3月13日バカラ指揮ブルノ放送オーケストラにより初演された。
当時ハースはこれ以外に、ユダヤを主題にした作品を書こうとしていたが、いずれも陽の目を見なかった。たとえばポーランドの劇作家シャロム・アンスキ(1868~1920)1920年作のTzvishen tzvei Velter(イディッシュ語)に基づくオペラである。この原作をもとに、すでに1928年から30年にかけ、イタリアの作曲家L・ロッカ(1895~1986)がオペラ「Il Dibuk悪霊」(恋人の父親に間を裂かれた若者が、悪霊となって復讐し娘を黄泉の国に誘う)を書いており、1934年3月24日のスカラ座初演は、「トゥーランドット」以来の大成功だったという。

注9:弟フゴ(1901~68)は,オロモウツ、オストラヴァ、ブルノの舞台を経て、25年プラハのヴィノフラディ劇場に登場。30年から国民劇場劇団に入り、映画俳優としても「オフサイドの男たち」(31年)で人気を集め、チャペック原作の「白死病B醇^l醇@ nemoc」(37年)で主人公のガレン医師を、舞台と映画で見事に演じていた。30年代初めヤコブソン夫妻と親交を結び、これが縁で母親の治療にソーニャが当ることになる。ナチス進駐直後、フゴ夫妻は生後半年の息子を兄夫妻に託し(これが生涯の負い目となる)、フランス、リスボン経由でアメリカに脱出した。アメリカでは「戦争と平和」のピエール役などに登場、61年ウィーンに戻りオーストリア・テレビに出演していた。

注10:夫君はモスクワ生まれの有名な言語学者R・ヤコブソン(1896~1983)で、1920年、留学生としてプラハを訪れ、30年プラハ・カレルで哲学博士号を取得、詩人サイフェルトらと親交を結ぶ。33年からブルノのマサリク大学で教えており、夫人と離婚後すぐに再婚、ハースとはその後も親しい間柄にあった。39年に北欧経由でアメリカに亡命。68年プラハ再訪。
妻のソーニャ(ソフィア)は、モスクワ大学医学部在学中にヤコブソンと知り合い、1922年プラハに来て結婚、24年にカレル大学ドイツ医学部で学び、ブルノに移るまで各所で医療に励んでいた。ハースは32年5月末ウィーンに転医した母親が心配で、近くにホテル住まいし見舞っていたが、彼女は33年のクリスマスに他界した。

注11:「ハースの生涯と作品」(1993年)を書いたペドゥッツィも音楽理論の生徒だった。

注12: オペラ「イカサマ医師Šarlatán」(3幕7場)は、ドイツの医師で作家のヨゼフ・ウィンクラー(1881~1966)の「アイゼンバルト博士」(1929年作)を題材に、作曲者みずから台本を書いた悲喜劇。初演は38年4月2日、市囲壁跡 (現マヘン) 市立劇場で、指揮アルノルト、演出ワルター、舞台装置ムジカ、振付プソタ、主役バドナーシなどにより行われた。
数人の助手を連れた旅回りのイカサマ医師が、村々の広場で怪しげな薬を売る。あるとき心気症の美女を治し、一目ぼれして彼女を一座に引き入れる。彼女の夫は修道僧に頼んで動向を探らせる。一方イカサマ医師の妻は美女に嫉妬し、二人の喧嘩となる(3場)。ある村では大騒ぎし水車小屋に火を放つ(2幕1場)。ドレスデンのカーニヴァルでは、農民に変装したアウグスト二世シルニ王(1670~1733)に気に入られる(2幕2場)。イカサマ医師は、瀕死の病いに苦しむ修道僧を手術するが失敗、村人に「人殺し、イカサマ師」とどなられ、逃げ出す(3幕1場)。放浪の末たどりついた酒場で、主人公が歌う「わしは比類なき名医」の旋律(“歓喜の歌”に類似) は、18世紀ドイツからフランス、スイスにかけ流行っていた「わしはアイゼンバルト博士Ich bin der Doctor Eisenbart」の引用だという。このあと彼は修道僧の幻に脅えながら息絶えるが、フィナーレに「汝ら神の戦士たち」が引用されている。
これは38年12年20日、賞金5千コルナのスメタナ賞を受けているが、同時に「軍隊シンフォニエッタ」で受賞したカプラーロヴァー(1915~40)は、婚約者コペツキーに「受賞は嬉しいけど、こんな15分ほどの作品がハースさんのオペラと肩を並べられます?」と書いている。

注13: 弦楽四重奏曲第3番:第1楽章には「イカサマ医師」の主題が引用されている。第2楽章の主題と、ヤナーチェクの『グラゴル・ミサ』の「アニュス・デイ」主題との類似を、ペドゥッツィは指摘している。第3楽章の最後はフーガになっており、ナチスの脅威を前にプラハで行われた、愛国的ソコル体育大会の実況放送をラジオで聞きながら38年8月はじめに完成。初演は戦後46年1月23日モラヴィアSQにより行われた。
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[ 2007/12/27 12:34 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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