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テレジーン収容所の音楽

terezin
プラハの北約60キロ、ドイツとの国境に近いオージェ川沿いの町テレジーンTerezín、Teresienstadtは、ヨ-ゼフ二世が1780年から90年にかけ、対プロシャ城砦都市として建設したものである。

18世紀のプロシャ=オーストリア戦争の経験から、1757年すでにラベ(エルベ)川とオージェ川との合流点に要塞を築く計画があった。これに拍車をかけたのが1778年に、すぐ北のリトムニェジツェ周辺をプロシャ軍に占領されたことである。1780年4月12日にはそこの指揮官に、後に要塞司令官となるK・N・シュタインメッツ大佐が任命され、10月10日皇帝みずから礎石を置き、2ヶ月後に母帝マリア・テレジアにちなみ、テレジエンシュタットと命名された。当初の駐屯兵員は5655人で、主要塞内に約290戸の家が建てられ、1830年の民間人は1302人で、ほとんどがドイツ人だった。

19世紀に入り1823年から27年まで、反トルコ運動のギリシャ人闘士イプシランティや、失敗に終った1848年革命の戦士たちが、ここに幽閉されていた。

オーストリアが惨敗した1866年の対プロシャ戦争で、この要塞の戦略的意義が失われた。1882年以降は政治犯監獄になっていたが、軍隊は駐屯し続けた。世紀末の人口は3千を超え、チェコ人が増えて1910年にはドイツ人を上回った。

1914年サライェヴォでの、オーストリア皇太子フランツ・フェルディナン・デステ暗殺の首謀者ガヴリロ・プリンツが、20年の刑で入獄したが、4年後に肺結核で死亡した。

1918年5月下旬、ロシア革命に勇気づけられた第7連隊は、ポーランドとの国境の町ルンブルクで蜂起したが、1週間で鎮圧されて10名が処刑され、残りの560名がここに投獄された。

オーストリア=ハンガリー帝国時代、ここには軍楽隊が駐屯しており、マーチやワルツの作曲家ユリウス・フチーク(1872~1916)も、一時その軍楽隊長を勤めていた。共産政権時代、英雄の祀り上げられたジャーナリストで、「絞首台からのレポート」で有名な、同姓同名のユリウス・フチークの伯父である。地元の住民は音楽好きで、素人楽団は軍楽隊と競うほどの腕前だった。

かつては「大砦」と呼ばれたこの町は、約6千の住民を民家と兵営に収容できる。オージェ川の対岸には、文字通りの要塞「小砦」があり、多数の砦、倉庫と回廊がある。

*****

チェコスロヴァキアにおけるユダヤ人の悲劇は、1938年秋のミュンヘン協定にはじまる。ズデーテン地方を併合したナチスは1939年3月15日、ボヘミア・モラヴィア保護領となったチェコへ進駐してきた。ボヘミア、モラヴィアにいたユダヤ人約12万(プラハに3万)のうち、運よく国外に脱出できたのは2万6千人だった。ナチスはプラハのパンクラーツ政治犯収容所が満杯になったため、翌1940年テレジーン小要塞を、収容所にする決定を行った。

1941年7月3日、保護領保安長官ハイドリヒ(翌年5月27日、ロンドンから飛来降下したチェコ義勇軍隊員にプラハ市内路上で襲われ爆死)の命令で、住民の強制移住が終り、10月21日完成した収容所には11月24日、「収容所建設大隊」として男子被収容者の第1陣314名が到着した。以後、千人単位の移送がはじまり、収容能力の1万人を超えるまでになり、強制労働は毎日ほぼ12時間に及び、水をはじめ生活必要物資が不足し、ネスミやノミが繁殖し、衛生状態は極端に悪化した。

当初のボヘミア、モラヴィアからの移送に加え、その後はヨーロッパ各地からも囚人が来るようになり、最盛時には5万人にも達し、医薬品や食料不足で日に100人もが命を失う有様だった。以後3年半の間、ここに収容された人数は約15万(子供1万5千)、死者3万5千(処刑者250人、自殺者259人)、アウシュヴィツ(オシュフィエンチム)などの絶滅収容所に送られた者9万、生還者はほぼ2万と言われている。

この収容所の当初の存在理由は、他の収容所への中継点に過ぎなかったが、所内での文化活動に注目したナチスは、ここを西欧諸国へのショーウィンドウにしようと企み、はじめは密かに行われていたコンサート、演劇、講演会などを、積極的に奨励して「パラダイス・ゲットー」と名づけ、国際赤十字視察団を招き、「総統はユダヤ人にこの町を贈られた」という宣伝映画まで作成して、他の収容所での残虐行為を巧みにカモフラージュした。第二次世界大戦中、ヨーロッパで一番文化活動が盛んだったのがテレジーンだったとは、何たる皮肉だろう。

50キロ制限の携帯私物の中に、音楽家たちは生命ともいえる楽器や楽譜を入れていた。ゲットー内での文化活動は、第1陣到着直後のシュヴェンク作「最後のサーカス芸人」ではじまった。これはジャガイモ集積倉庫で行われ、見物人はシェフターの作曲した陽気な歌を全員で唱和したという。その年の暮に当局は、収容所内のトラブルを回避する目的で、労働後の文化活動を許可したので、シェフターは男声合唱団を組織し、クラインは各国の民謡に和声づけした。

翌年、収容所の外の体育館にあった毀れかけたピアノが、密かに学校の屋根裏に運びこまれ、クラインによるベートーヴェンのソナタ、ブラームスやスークの作品、ゾンメル=ヘルツ嬢によるショパンのエチュード、バルナルト・カフによる「展覧会の絵」などが演奏された。モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、ブラームス、ドヴォジャークの室内楽作品にはクライン、クリング、フレーリヒ、マルク、ポラクらが参加した。ここではオペラすら上演され、「売られた花嫁」は42年11月以降、35回も舞台にかけられた。シェフターが粗末なピアノで伴奏、指揮と演出を行い、合唱が開幕の合唱「大いに楽しもうではないか」と歌いはじめると、みな泣き出したという。さらに「口づけ」や「フィガロの結婚」、「魔笛」と続き、ヴェルディのレクイエムではG・クラインがピアノを弾き、ウィーンの指揮者フランツ・クラインは「カルメン」「トスカ」「リゴレット」「ホフマン物語」「こうもり」などを取り上げ、子供たちには「バスティアンとバスティエンヌ」を歌わせた。

メンデルスゾーンの「エリア」も演奏され、ワイス指揮する「ゲットー・スウィンガーズ」なるジャズ・バンドまであり、講演会や詩の朗読会も催されていたが、一番の人気はクラーサ作曲の子供オペラ「ブルンヂバール」だった。44年7月15日、オランダ、デンマーク、スウェーデン3ヶ国10名から成る国際赤十字の視察に際し、ナチスはゲットーを洗い清め、このオペラを上演して視察団を迎えたが、彼らが帰ると9月終りから10月にかけ、この子供たちを含め、ほとんどの芸術家たちをアウシュヴィツに送った。ここで作曲された50もの作品が残っている。

指揮者のアンチェルは弦楽オーケストラを指揮して、ドヴォジャークの「セレナーデ」、スークの「聖ヴァーツラのフコラールによる瞑想曲」、ハースの「弦楽オーケストラのための幻想曲」などを演奏した。アンチェルがアウシュヴィツへ送られてからは、ブロック(1905~79)が指揮をとった。

1945年になるとプラハからテレジーンへの移送が増え、その中にはブロックと、国民劇場歌手のタインがいた。3月7日の第2回国際赤十字視察に際し、ここに収容されていたスロヴァキアの子供たちが、カラフィアート原作の童話「蛍」の基づく“歌と踊り”が上演された時、二人は音楽面を担当し、ブロックはその付随音楽の対旋律の中に、密かに国歌を挿入した。

2月にプラハのパンクラーツ刑務所からここに送りこまれた、ドヴォジャーク最後の弟子で、有望な作曲家R・カレル(1880~1945)は、2月ここへ送られ「テレジーン・ワルツ」を作曲しただけで、3月6日赤痢のため絶命した。終戦直前の4月にはチフスが大流行した。

45年5月9日解放された時、ここには575人がいた。収容所長として悪名を馳せていたイェッケルは、バイエルンに逃げたが捕らえられ、翌年ここで処刑された。

ピアニストで指揮者のR・シェヒター(1905~44)や、ヴァイオリニストのエゴン・レデチ(1889~44)らは、アウシュヴィツで殺されたが、指揮者のアンチェル(1908~73)、作曲家のエベン(1929~2007)、チェンバロ奏者のルージチコヴァー(1928~)、1990年代半ばに女性として初めて、プラハ国民劇場のオペラ監督となったエヴァ・ヘルマノヴァー(1929~)らは、この収容所の生き残りで、作曲家のカレル・ライネル(1910~79)は1960年代に、組曲「蝶はここで生きられない」や、チェロ・ソナタの中でテレジーンを回想している。

1968年の「プラハの春事件」後、アメリカに亡命した作家のルスティクは、「夜と希望」(1957年作)、イワン・クリーマも「わが初恋」(1985年作)の中で、ここでの体験を綴っている。

収容所の門の上にはアウシュヴィツ同様“Arbeit macht Frei働けば自由になる”の文字が今も残されており、毎年5月には追悼音楽祭が催され、平和への祈りが捧げられている。

*****

テレジーンで作曲された主な作品


ウルマン
ウルマンViktor Ullmann(1898~1944)
オペラ「アトランティスの皇帝」(43年)、序曲「ファンダンゴを踊るドンキホーテ」(44年)、メロドラマ「リルケの愛と死の物語」(44年)、弦楽四重奏曲第3番、第4番(43年)、ピアノ・ソナタ第5番、同ソナタによる交響曲(43年)、第6番、第7番(7番は44年8月22日)、同ソナタによる交響曲第2番。マイヤーの詩による3つの歌曲(42年)、ヘルダーリンの詩による2つの歌曲(43年)、「李太白による3つの歌」(43年)、アドラーによる13の歌曲集「人とその日」(43年)、メゾソプラノと弦楽三重奏のための歌曲「秋」(43/ 44年)、メゾソプラノと弦楽四重奏のための2つの歌曲「憩いの歌」(43/ 44年)、「イディシュの3つの歌」作品53(44年)。

北モラヴィアのチェシーン生、父はオーストリア将校。ウィーンで音楽理論を学び、第一次世界大戦従軍後、一時シェーンベルクに作曲を学び、プラハでは1920年代に、新ドイツ劇場でツェムリンスキの助手、ウースチー市立劇場のオペラ監督を経て、定職のないままプラハに戻り、作曲、文筆活動をしていた。スツットガルトで人知学の書店を開いたが失敗。結婚は3回。1942年9月8日、妻エリーザベト、二人の息子マックス、パウルと共にテレジーンに送られ、44年10月18日アウシュヴィツで抹殺された。

haas
ハースPavel Haas(1899~1944)
弦楽オーケストラのための習作(43年)、弦楽四重奏のためのユダヤの歌による幻想曲(43年)、メゾソプラノ、テノール、フルート、クラリネット、弦楽四重奏のための、ハラスの詩のよる「待降節」(44年) 、歌曲集「中国の詩による4つの歌」(44年)、ピアノのための古風なパルティータ(44年)、ピアノとオーケストラのための変奏曲(44年)、独唱、合唱とオーケストラのための「レクイエム」(44年、未完)。

父親が大きな靴店を構えていたブルノ生。1920年代はじめ当地の音楽院でヤナーチェクに作曲を学ぶ。短期間ブルノ劇場で歌唱指導にあたった以外は作曲に専念。ナチス進駐後は家族を守るため、女医の妻と偽装離婚し、何度か国外脱走を試みたが失敗した。1941年12月2日テレジーンに収容され、1944年10月16日アウシュヴィツに送られ、翌日殺された。


クラーサ
クラーサHans Krasa(1899~1944)
小オーケストラのための序曲、子供オペラ「ブルンヂバール」(41~42年)、
弦楽三重奏のための「パッサカリアとフーガ」(43年)、弦楽四重奏曲第2番「主題と変奏曲」(43~44年)、「弦楽三重奏のための「踊り」(44年)、「ランボーの詩による3つの歌」ネズヴァル訳詩、クラリネット、ヴィオラ、チェロ伴奏(43年)。

父親はチェコ人法律家、音楽の才能はドイツ人の母親ゆずり。プラハのドイツ・アカデミーで学び、1923年パリに出てルーセルにつき、しばらくベルリンのクロール・オペラで仕事をしてプラハに戻った。新ドイツ劇場のコレペティトゥールをしながら作曲し、アヴァンギャルドのチェコ人やドイツ文化人と交流していた。プラハへの愛着ゆえに亡命の機会を失った。1842年8月10日テレジーンへ送られ、44年10月17日、アウシュヴィツの煙となって消えた。


クライン
クラインGideon Klein(1919~45)
弦楽のためのパルティータ(43年)、マドリガル(42~43年)、弦楽四重奏のための幻想曲とフーガ(42~43)、弦楽三重奏曲(44年10月9日))、ピアノ・ソナタ(43年)、男声合唱曲「原罪」(42年)、ヘブライの歌「Bachuri lean tssa」=無伴奏女声3部への編曲(42年)、ヘブライの歌「子守唄」編曲(43年)。

モラヴィアのプシェロフ生。1939年までカレル大学とプラハ音楽院でR・カレルとA・ハーバに学んだが、作曲は独学に近い。1941年12月4日テレジーンに送られ、44年10月16日、牢働可能な若者としてアウシュヴィツ経由で、さらに北の炭鉱で重労働を課され、ナチスの敗退に伴い西方への死の行進中45年1月27日、SS隊員に射殺された。

BermanKarel
ベルマンKarel Berman(1919~95)
歌曲集「蕾」、ピアノ組曲「1939~1945」(44年)。

プラハ音楽院でR・カレルに師事。1944年テレジーン経由でアウシュヴィツ、カウフェリングなどの収容所を、音楽好きの所長なども配慮もあり、奇跡的に生き抜いた。帰国後はオパヴァ、プルゼニュを経て、53年プラハ国民劇場のソリストとなり、そのご芸術アカデミーなどで教えていた。演出家としてイェーテボリ、ライプツィヒなどのも招かれた。1976年のチェコ・フィル来日公演で「第9」、1985年国民劇場初来日公演ではレポレロを歌った。1995年5月21日テレジーン音楽祭初日に歌ったハースの「4つの中国の歌」が最後の舞台となった。

ドマジュリツキーFrantišek Domažlický(1913~)
弦楽四重奏のための無言歌(42年)、チェコの歌、弦楽四重奏伴奏の児童合唱「ボヘミア民謡」8曲(1955年改訂)。

1930年代はトランペット、アコーデオン奏者、バンド・リーダーをしながら作曲していたが、1935年のキャンプファイアー・ソング・コンクールで優勝してから、シェフチークにヴィオラを学ぶ。テレジーン収容所(1941~45)でも歌曲や合唱曲を作曲、アウシュヴィツから生還、芸術アカデミーでフロビルらに作曲を学び1960年に卒業した晩学の交響作品作曲家。かたわらカルリーン・オペレッタ劇場や、プラハ映画オーケストラでヴィオラを弾いていた。

*****

以下に記すのは、自身はテレジーン収容所に入ったことはないが、ここをテーマにした作品である。

ツアイスルErc Zeisl(1905~59)
「ヘブライ・レクイエム」Requiem ebraico(1944/ 45年作)。19分半。
オルガン、オーケストラ伴奏のアルト、バリトン独唱、混声合唱のためのこの「レクイエム」の歌詞は、詩篇92によっている。これは現地シナゴーグの委嘱作品で、1945年初頭に初演された。彼の父がテレジーン経由、アウシュヴィツで虐殺されていただけに、心に沁みる名作である。

ツアイスルはウィーンで学び、将来を嘱望されていたが、ナチスに追われ1938年パリ経由で渡米。ハリウッド映画音楽を多数作り、ロスアンジェルスで教職についていた。

ワックスマンFranz Waxman(1906~67)
「テレジーンの歌」Das Lied von Terezín 39分半。

メゾソプラノ独唱、混声合唱、児童合唱、オーケストラのために書かれたこの8つの曲集は、「子供たちが登場する詩を含む」という条件を含む、シンシナティ五月音楽祭からの委嘱作で1965年に作られ、5月22日に初演された。題材にしたのはテレジーンで亡くなった児童たちの遺した絵や詩である(これらはプラハのユダヤ儀式館で公開されている)。

上部シレジア生、ベルリンで学びジャズ・オーケストラなどでピアノを弾いていたが、ナチスの脅威を逃れ、パリ経由で渡米、ハリウッド映画の音楽を数々書いた。1947年ロスアンジェルス音楽祭を創設、現代音楽の紹介につとめた。
(上記2曲はロンドンPOCL-1873国内盤に収められている)


ボドロヴァーSylva Bodorová(1954~)
「テレジーン・ゲットー・レクイエム」バリトンと弦楽四重奏(1997年作) 16分。
 
これはWarwick Festivalの主催者R・フィリップスの委嘱作品で、ヨーロッパやアメリカではしばしば演奏されている。

「Shema(聞け)Israel(よ)」ではじまる、第1部Lacrimosaには、ヴェルデイのレクイエム主題断片が引用されている。第2部は「Dies irae」には、この旋律と「Gael Israel」からなっている。第3部「Libera me」には、ユダヤ聖歌「Elokai neshama神がわれらに与えし魂は清らか」が引用され、最後にRequiem aeternam dona eis, Domineが歌われる。
参照CD(ARCO DIVA UP 00522 131)



参照文献:Joža Karas 著Music in Terezín 1941―1945
(Pendragon Press Stuyvesant, New York, 1985)
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[ 2007/12/27 12:15 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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