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カレル・ベルマンさんの死を悼む

BermanKarel
「音楽展望Hudební Rozhledy」1995年10月号に、指揮者ノイマン(9月2日死去)追悼文が1ページに亘りのっていたが、その隣のページがバス歌手ベルマンさんの追悼記事(8月11日死去)に当てられており、驚き悲しんだ。

ベルマンさんと初めて出会ったのは、1976年12月初旬。彼はこの年ノイマン指揮チェコ・フィルのソリストとして来日し、11月19日NHKホールでヤナーチェクの「グラゴル・ミサ」、12月3日、文化会館でベートーヴェンの「第9交響曲」のバス・パートを歌った。
当時プラハでの研究生活を終え帰国された、中央大学社会学科教授、というよりビールとあちらの民謡が大好きな、石川晃弘さんの紹介で、「第9」の演奏後、テナーのリボラさん、アルトのムラゾヴァーさんとわが家に見えた。ベルマンさんはピアノを弾きながらリボラさんと、『売られた花嫁』第2幕の結婚仲介人ケツァルと、純情な若者イェニークとの二重唱「わしは金持の娘を一人知っとるZnám jednu dívku, ta má dukáty」を歌ってくれた。途中バスがト長調で1節歌うと、同じ旋律をテナーが5度上のニ長調で真似してゆき、「家も親父さんから貰えるA chalupu,a chalupu destane od táty」と続くが、これが「アハルプ、アハルプ 明るく、明るく」と聞こえ、ガラスがビリビリ鳴ったのを覚えている。


1985年5月末、モラヴィアの小村ヴルチノフへ、民俗行事「Jízda králů王様騎行」を見に行った帰り、6月1日プラハ国民劇場でのスメタナのオペラ「秘密」に、ボニファーツ役で出ているベルマンさんの姿を見かけた。翌2日午前10時からドヴォジャーク・ホールで、“18世紀ツィトリビ地方の巨匠たち”というコンサートがあった。コプシヴァK・V・Kopřiva(1756~85)の作品が中心で、ソリスト5人の一人としてベルマンさんが、プラハ室内オーケストラを伴奏に歌っていた。終演あと楽屋でしばらく歓談した。

その2週間後プラハ国民劇場オペラ団が初来日し、「売られた花嫁」と「ドン・ジョバンニ」を上演した。レポレッロ役を終えたベルマンさんは、騎士長役のイェドリチカさんと、またわが家へいらした。この時もピアノを弾きながら『売られた花嫁』第2幕のアリア「Každý jen tu svou má za jedinou誰もが自分の恋人を世界一と思っとる」を歌ってくれた。またドヴォジャークの弟子で、渡米後ハリウッド映画音楽作家となったフリムル(1879~1972)のオペレッタ「放浪の王者」の中のアリアも歌ってくれた。余談だが、このオペレッタ開幕の合唱を、邦画「蒲田行進曲」が引用している!

R・クベリーク指揮する「わが祖国」ではじまった1990年の“プラハの春音楽祭”は、ビロード革命後初と言うことで熱気にあふれていた。5月26日、国民劇場でのマルチヌーの『ジュリエッタ』に、ベルマンさんは乞食役で出ていた。28日スメタナ・ホールでは、ビェロフラーヴェク指揮チェコ・フィルが、ソリストにフィルクシュニーを迎え、マルチヌーのピアノ協奏曲第2番も演奏した。休憩時にロビーで偶然ベルマンさんにお会いした。数年前、交通事故で奥様を亡くされ、彼も傷を負ったとか。でも新しい奥さんと一緒で幸せそうだった。数日前に南ボヘミアのインジフーフ・フラデツに、世紀の名ソプラノ歌手エマ・デスティノヴァー(1878~1930)記念館を訪れた話をすると、「あそこは私の故郷、次回はぜひ寄ってくれ」と言われた。

最後にお会いしたのは1992年5月18日、スタヴォフスケー劇場での『フィガロの結婚』がはねてから、劇場裏口で立ち話したとき。この時は庭師としてちょっと出ただけだったが、これが最後の出会いになるとは夢にも思わなかった。

Berman

※写真は我が家でピアノを弾くベルマン氏(1985)

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カレル・ベルマンは1919年4月14日、南ボヘミアのインジフーフ・フラデツに生まれ、1938年ピアニストとしてプラハ音楽院に入り、R・カレルについたが、ナチスに捕らえられ1945年までテレジーンはじめ、各地の強制収容所で厳しい生活を送っていた。戦後復学し、歌唱、オペラ演出、指揮、作曲を学び1946年に卒業した。

オパヴァ(1946~48年)、プルゼニュ(1948~53年)の劇場オペラ団で歌い、1953年プラハ国民劇場入りした。その後1962年からライプツィヒ、ベルリンのオペラ劇場に客演、プラハ音楽院(1961~71年)、芸術アカデミーAMU(64~88年、70年から教授)で教えていた。オペラ台本も書き、演出家としてイェーテボリやライプツィヒにしばしば招かれていた。

100以上もの悲喜劇役をこなし、とくにボリス、レポレッロ、ベックメッサー(ニュルンベルクの名歌手)、アルベリヒ(ラインの黄金)、ケツァル、ルトボル(リブシェ)、バネシ、(悪魔とカーチャ)、城代(ジャコバン党員)、コレナティー博士(マクロプロスの秘事)などが際立っていた。

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ヨジャ・カラス著「テレジーンの音楽」には、ベルマンの回想が引用されている。1939年3月15日プラハにナチス軍隊が進駐してから、ユダヤ人たちの公的生活は極端に制限され、コンサートは秘密裏に行わねばならなかった。ベルマンもハヴラスの偽名で故郷の“スメタナ合唱団”を指揮し、プラハで密かに行われる演奏会でも欠かせない人物だった。しかし彼もナチスに捕らえられ、1943年3月テレジーンへ送られた。ここでも歌手、ピアノ伴奏者、指揮者、作曲家として忙しい日々を送っていた。彼が参加した「売られた花嫁」とヴェルデイの「レクイエム」は特筆される。ウルマンのオペラ「アトランティスの皇帝」は、ついに収容所内では初演されなかったが、死神役はベルマンを念頭に書かれたという。

1944年9月末アウシュヴィツへ送られたベルマンは、職業を訊かれた時とっさに「労働者」と答え、ガス室行きを免れた。さらに1週間後、家畜輸送車でオロモウツ、ウィーン、ザルツブルク経由で、ミュンヘン西方のカウフェリング第2収容所へ送られた。ここでは朝4時半から航空機製造地下工場の仕事をさせられた。まもなく腸チフスにかかって41度の高熱、意識不明が10日間続き、その間に私物をすべて盗まれた。彼は天国の門の前で「ここでも歌っていいか」と訊ねている夢を見たという。この苦境を奇跡的に乗り切った彼の体重は40キロを切っていた。そこから12キロ歩いてカウフェリング第4キャンプに移り、ここでテレジーン時代の旧友たちと再会、「キャバレー楽団」を結成して、音楽好きの所長のために演奏し優遇された。戦争が終りに近づき、彼は疲労困憊していたが、東へ80キロ歩いて、ミュンヘンン郊外ダッハウ収容所近くのアラッハでアメリカ軍に救出された。途中ヒットラー・ユーゲントに射殺される仲間もいたが、「生き永らえて愛する人たちと再会したい」という強い意志が、彼の生還をもたらした。

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1974年5月アウシュヴィツ(オシュフィエンチム)収容所跡を訪れた私は、囚人が起居していた蚕棚、ツィクロン・ガスが天井から散布された浴室、死体焼却炉、没収された夥しい数のメガネ、義足、人形、刺青のある皮を剥いで作った電気の傘、髪の毛で作った毛布、人体を絞って石鹸を作ったあとの血の池、拷問台、立ったままの姿勢で餓死させられた立房Steh Zelleなどに、人間の恐ろしさを見た。この収容所の悲劇については、フランクール著「夜と霧」に詳しいが、一番感動させられるのは、こうした極限状態にあっても、人間としての尊厳を失わなかった人たちのいたことである。

あれから21年後の今年1995年5月、初めてテレジーン収容所跡を訪ねてみた。ここにはアウシュヴィツほどの凄惨さはない。記念館2階には、胸に黄色いユダヤの星を縫いつけた服や、コンサートのプログラム、写真などが展示されたいた。1階でハース、クラーサ、クラインらの楽譜を求め、奥の部屋でナチス宣伝相ゲッペルスの肝いりで作られた宣伝映画、「総統はユダヤ人に町を贈られたDer Führer schenkt de Juden ein Stadt」を見せてもらった。人口密集は病人7500人をアウシュヴィツ送りで解消し、町はきれいに掃き清められ、乙女たちが微笑み、アンチェル指揮の弦楽オーケストラのコンサート場面もあった。しかし舞台前面に飾られている花は、演奏者たちの裸足を隠していた。

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ベルマンの作品の中では、いずれもテレジーン収容所内で初演された、1944年テレジーン収容所内でハースに依頼され作った「中国の詩による4つの歌」(マテジュウスのチェコ語訳)と、自身の25歳の誕生日に書き上げた、歌曲とピアノ曲から成る「テレジーン」が有名。後者は戦後補筆され、5つの歌曲集「蕾poupata」(ホラやハラスの詩による)と、自伝的「ピアノ組曲1939~45」の分けられた。詩の内容はいずれも孤独、望郷、帰郷への望みを詠ったもの。ピアノ組曲は「青春、家族、ナチス進駐、工場、アウシュヴィツ、カウフェリング収容所でのチフス、孤独、新生活」の8部からなっており、いずれも感動的な曲ばかりである。

ベルマンさんの人間味溢れる人柄はどこから来ているのだろう? 苦しい経験をされたことなど、おくびにも出さなかった。「自分は仲間と一緒にアウシュヴィツかカウフェリングで一度死んだのだ。残りの人生はおまけとして、神から授かったもの。だからこの残りの日を大切に人間らしく生きてゆこう」と、考えていたのだろう。そして半世紀が過ぎた。今頃は50年前の夢がかない、天使たちに囲まれ美声を響かせているに違いない。
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[ 2008/01/14 10:53 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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