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スメタナ晩年の足跡をたどって

スメタナ肖像
1874年2月、オペラ「売られた花嫁」や交響詩「モルダウ」で名高いスメタナ(1824~84)は、前妻カテジナ(1827~59)との間にもうけた愛娘ジョフィエ(1853~1902)を、森林官シュワルツ(1845~1939)のもとに嫁がせ、3月2日、50歳の誕生日を迎えた。友人たちは祝辞を述べ、新聞にはこの記念すべき日の記事ものったが、同時にこの日、保守ボヘミア党政治家リーゲル(1818~1903)を後盾とする、音楽評論家ピヴォダ(1824~98)らによる、スメタナ攻撃のノロシがあがった。

1866年秋以来プラハ仮劇場(1862年開場、国民劇場の前身)楽長の地位にあり、劇場すぐ近くのラジャンスキー宮殿に住んでいたスメタナは、この年ペテルブルクへ行く予定だったらしい。しかし周囲の騒音に加え、後妻のベッティ(1840~1908)とも、うまくいってなかったのか、一夜をさる宿で過ごしたらしい。その結果、先輩のミスルベク、ベートーヴェン、シューベルトらと同じく、花柳病いに罹ってしまった。

彼の日記によると「4月に“化膿性潰瘍”を患い、6月から7月にかけ、頚部の頑固な炎症にはじまる全身発疹が出た」という。7月はじめ耳の異常、18日聴覚障害に気づき、8月のある日、森の中を散歩していて、きれいなフルートの音を聞いたが、それは夜、寝床の中までつきまとってきた。8月5日にゾウファル博士(1837~1910)の診察を受けたが「耳のカタルだから吸入すればよい」と云われた。9月5日の劇場あて書簡には「左耳はまったく聞こえず、右で少し聞こえるだけ」と記されている。耳鳴、複聴、聴力および平衡障害が続き、10月20日に朝起きると、両耳ともまったく聞こえない状態だったという。11月1日に仮劇場楽長の地位についた保守派のマイール(1818~88)に明渡すが、年末には連作交響詩『わが祖国』の第1,2曲「ヴィシェフラト」と「モルダウ」を完成している。

ベートーヴェン同様、彼も大金を治療につぎ込む羽目となり、その上、生計を支えるには年金だけでは足りず、劇場側にオペラの著作権を売り渡し、作曲も続けねばならなくなった。

1875年2月にはメマイ発作に襲われ、4月ヴュルツブルクにトレルチ(1829~90)を訪れたが効なく、鼓膜切開を勧められた。ついで5月ヴィーンポリツァー(1835~1920)の門を叩く。この耳科医は“迷路麻痺”の診断を下し、通電法を指示した(梅毒が内耳疾患、前庭障害の原因となり、二次的に不治の聾となるという論文は、1868年の耳鼻科の雑誌に出はじめていた)。プラハに帰ったスメタナは、ゾウファルのクリニックの一室に閉じ込められ、1ヶ月間、全身塗薬療法を受けた、ピアノ演奏はもちろん、話すことすら禁じられた。6月20日、後妻との間にできた二人の娘、ズデンカ(1861~1936)とボジェナ(1863~1941)にあてた手紙の中で、「ああ、また聞こえるようになりたい!」と、孤独の苦しみを訴えている。7月4日から10月半ばまで気分転換のため、娘婿のいるヤプケニツェ村に出かけ、狩をしたり近くの町へ芝居を見に行ったりした。プラハに戻ってからは、新しい電気治療器をドレスデンから取り寄せた、ゾウファルのもとで電気ショック療法を受けた。この年『わが祖国』の次なる2曲「シャールカ」と「ボヘミアの野と森から」、およびピアノ組曲「夢」が完成した。

1876年6月はじめ、経済的理由からプラハの家をたたみ、ヤプケニツェ村に定住するが、妻のベッティとの間は完全に冷え切っていた。11月7日、仮劇場でのオペラ『口づけ』初演が大成功をおさめ、作曲家は何度も舞台上に迎えられた。この時、指揮者はマイールからチェフ(1851~1903)に代っており、台本を書いたのは、礼金を断りスメタナに献身的に尽くした女流作家クラースノホルスカー(1847~1926)で、この人にベッティは嫉妬していたらしい。このオペラはその後1ヶ月に11回も続演され、スメタナの懐は発病以来はじめて潤い、楽しいクリスマスが過ごせたという。年末には最終楽章に2点ホ音で耳鳴を表している、弦楽四重奏曲「わが生涯より」を書いている。

1877年6月16日スメタナは完全に聴覚を失った。劇場からの支払いも滞って経済的に苦しく、夫婦の間はますます悪くなり、8月ベッティは夫に、プラハ行きは金の浪費だと言い放った。11月7日ランベルクにクリーマなる医者を訪ね、針治療と塗薬治療を受けた。この藪医者は3日以内に耳が聞こえるようになると言ったが、結果は頚が腫れメマイで失神するだけだった。この年にはピアノのための「ボヘミア舞曲」第1集が作られた。

1878年6月にまたクリーマの治療を受けたが、耳の中で騒音がするだけで、一睡もできなかった。9月18日にオペラ『秘密』の初演が新ボヘミア劇場であった。年末から翌年3月に『わが祖国』最後の2曲「ターボル」と「ブラニーク」が完成した。

1879年には「ボヘミア舞曲」第2集10曲が作られた。

1880年1月ジョフィーン島ホールで、スメタナの音楽生活50周年記念コンサートが行われ、「ターボル」と「ブラニーク」の初演、「夕べの歌」と「チェコの歌」が歌われ、彼自身もショパンの変ロ長調ノクターン、自作のイ短調ポルカを完璧に弾いた。9月18日リトミシュルの生家に記念額が掲げられた。彼は1858年から折に触れ、楽想が浮かぶとメモ帳に書きつけていたが、11月15日以降は白紙になっている。この年には合唱曲と、ヴァイオリンとピアノのための「故郷より」が作られた。

1881年はオペラ『悪魔の壁』の作曲にかかりきっていた。「作品を仕上げる時しばしば、毒を仰ぐような気分になる。長い休息の後やっと仕事にかかれる」と漏らしており、明らかに集中力の減退があった。6月11日チェコ人待望の国民劇場が完成し、スメタナの祝典オペラ『リブシェ』で幕を開けたが、8月12日失火で炎上した。彼はその1週間前プラハ北方のネラトヴィツェ駅で、危うく列車に轢かれるところだった。10月国民劇場再建資金調達の一助として、南ボヘミアのピーセクでリサイタルを開いた後、ゾウファルの勧めでDentiphone(おそらくベートーヴェンが用いていたような骨伝導補聴器)を用いてみたが、何の役にも立たなかった。この頃から気管支の炎症が加わってきた。

1882年5月5日、『売られた花嫁』100回記念公演が新ボヘミア劇場であった。4月17日に完成した『悪魔の壁』の初演が10月29日にあったが、不評で作曲家をいたく落胆させた。11月には舌が片方に偏移し、声をだしても「ア、ア、チェ、チェ、チェ」というだけで、顔もゆがんできた(顔面神経麻痺)。12月上旬、激しい咳発作に襲われて、気管のつまる感じがし、声が出なくなり、発声すると数時間もノドが痛み、いらいらしていた。知人の名前も忘れるようになり、、歩くとき前に倒れるようにり、震え発作、幻聴、幻視などが起こった。医者に“ハンガリー水”を勧められたが無効だった。「食欲はあるが気分が滅入り、体と脳がまいってる」と、年の暮れに述べているが、精神の高揚もみられた。

1883年春オペラ『ヴィオラ』の構想を練る。村の子供たちに金をばらまいたりするので、ベッティが金銭を管理するようになると腹を立て、プラハに出たがった。しかしプラハに出ても暑いさ中、毛皮のコートを着て歩く始末だった。ヤプケニツェ村では部屋に閉じこもり、じっと壁を見つめる無表情な時と、退屈でいら立っている時とが交錯していた。10月10日、幻覚を訴える。家の前に着飾った男女が立っている。彼はこの幻の人たちに、よく来てくれたと礼を言い、立派な服を誉めた。しかし後ろでは料理人や召使が、主人が窓から飛び降りないよう見張っていた。11月18日に国民劇場が再建され、ふたたび『リブシェ』で幕を開けたが、どうせ来ないだろうと劇場当局が作曲者に招待券を送らなかったため、当日出かけたスメタナは、あやうく門前払いを喰らうところだった。23日にはここで初めて『売られた花嫁』が上演された(117回目公演)。この年、弦楽四重奏曲第2番と「プラハの謝肉祭」が作曲された。

1884年2月25日のオペラ『ヴィオラ』作曲の途中で、スメタナの筆は止まっている。3月2日、彼の心酔者で生涯をスメタナに尽くしたスルプ=デブルノフ(1836~1904)は、誕生日を祝いジョフィーン島ホールでコンサートを催したが、当のスメタナは「家族を養う金がない」という妄想におびえ、飢えないよう金を恵んでくれと、熱に浮かされた目でスルプに頼む始末。仕方なしに玩具の財布を与えると静かになり、枕の下に隠したという。また自分やベートーヴェン、モーツァルト宛の手紙を書くようになった。4月20日、手がつけられない狂躁状態になったので、プラハのフラホル合唱協会設立者で、スメタナの良き理解者だった領主、トゥルン=タキシス(1833~1904)の馬車に乗せられ、シュワルツとスルプに守られながら、彼はプラハへ向かった。

4月22日スメタナが収容されたカテジナ通りの精神病院をとりしきっていたのは、自身音楽家で美声の持主チュムペリーク博士だった。はじめ彼は開放病棟に入れられたが、すぐ拘禁室に移された。かつての巨匠も今では何も食べず、何時間も叫び続けたり、壁に沿って逃げ回ったりしていた。不潔な生きざまを続け、顔は左半分麻痺し、意識は混濁し、不安状態だった。訪問客を見分けられず、食物を拒否して骨と皮だけになり、無力と幻覚の中で5月12日息を引きとった。

翌日、遺体はボヘミア病理解剖学研究所に運ばれ、フラヴァ教授(1855~1924, 27歳でボヘミア医師会長となった著名な病理解剖学者)の執刀で、剖検が行われた。その要点は「脳軟膜は肥厚、とくに左前葉部で著明、左右側脳室は拡大し、脳内衣は平滑で柔軟、脳皮質は全体に薄い。聴神経は両側とも細く、灰色調強く硬い。脳重量1250グラム。診断:慢性脳膜炎、脳質の赤色萎縮、聴神経萎縮」となっていた。5月15日に旧市街広場のティーン教会を出た葬列は、4頭の黒馬にひかれた棺を先頭に、国民劇場前を通って南に向かい、彼の遺体はヴィシェフラト墓地に葬られた。

今世紀はじめの存命中、スメタナより遥かに幸せだったドヴォジャーク(1841~1904)が亡くなると、反ドヴォジャーク= 親スメタナ気運が高まり、とくに1918年にチェコスロヴァキア共和国が誕生すると、その傾向はいっそう強まり、スメタナ生誕100周年の1924年、頂点に達した。この年カレル大学教授で精神科医のヘヴェロホ(1869~1027)は、スメタナの病名を「脳動脈硬化症および両側内耳出血を伴うメニエール氏病」という、得体の知れない説を唱え、各方面から圧力が加えられたフラヴァ教授は、「進行性麻痺説」を撤回させられ、梅毒説を唱え続けていた人々は、“巨匠の名誉を冒涜するエセ学者”として弾劾された。しかし1963年秋プラハで、未公開のスメタナの日記と書簡集を調べたH・フェルトマン(1926~)により、「典型的な未治療の悪性梅毒症候群」との結論が下された。

忌まわしい病に冒されたからといって、スメタナを非難するつもりは毛頭ない。むしろ彼の人間的弱さに同情するとともに、確実に人格崩壊へと導く不治の病いと闘いながら、最後の10年間にこそ不滅の名作を生んでいった努力に、敬服するものである。駆梅療法の確立されていなかった19世紀、ベートーヴェン、シューベルト、ボードレール、ニーチェ、さらにはレーニンらも同じ道をたどっている。

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1983年6月初旬、ヤプケニツェ村を訪ねてみた。プラハ東北30キロのこの村まで、昔はニンブルクの町で汽車を下り、馬車でロウチェニュまで行き、そこから歩いたという。広い野原には一面に白いケシの花が咲き乱れ、木造の鐘楼と赤屋根の小さな教会の近くに、森番小屋=上級森林官の館があった。だいぶ手が加えられた1階と異なり、2階は昔日の面影を留めていて、広い部屋の真中にウルリヒ社製のピアノが鎮座し、ゲーテ、シラー、シェイクスピアなどの本、指揮棒、花輪、賞状、ワルトシュタイン伯からスメタナの父親に贈られた時計などがあり、壁には画才にたけたベッティの描いた風景画が飾られていた。同行してくれた音楽作家のブリアン氏(1923~90年代)は、やおらピアノに腰掛けると「モルダウ」を弾きだし、私は目頭が熱くなるのを感じた。この主旋律はスウェーデン民謡によるそうだが、この曲を作りながらスメタナは、汚れのなかった過去に思いを馳せていただろう:

ボダイ樹の生い茂るルネサンス宮殿前のリトミシュルの生家、南東ボヘミア・モラヴィア国境地方の田園で過ごした少年時代、「作曲ではモーツァルト、演奏ではリスト」を目ざし、たくさんのサロン音楽を書いて、社交界の寵児となったピルゼンの町、カテジナ・コラージョヴァーへの愛と結婚、リストやシューマン夫妻との出会い、スウェーデンでのめざましい活躍、あい次ぐ愛児や愛妻に死、帰国後のきびしい芸術上の戦いなどなどに。
その横には戸外への見晴らしのきく小さな仕事部屋があり、書机の上には家族の写真とリストの肖像画、モーツァルトの胸像などがあった。“ニワトコの茂みに囲まれた中庭で、大きなボダイ樹の下にベンチを置き、皆で食事をした”という跡はもうない。記念館前には松やモミ、マロニエの大木を背に、1924年にビーレク(1872)1941)が建てた記念碑があり、代表作「ダリボル」「リブシェ」「わが祖国」「わが生涯より」の名が刻まれていた。すぐ近くには大きな池が5っあり、水辺にはキノコ状の傘をかぶったアズマヤがある。泳ぎ上手のスメタナは、奇声を発しながらよく水浴びしていたという。池をめぐる散策は、彼にしばしの憩いを与えたのだろう。刻々と変わる雲や池の表面の色、物おじしない動物たちに見とれながら・・・

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1985年も5月半ば過ぎ「プラハの春音楽祭」を聴きに、かの地へ出かけた。周知のようにこのフェスティバルは1951年から、スメタナの命日である5月12日の「わが祖国」全曲演奏にはじまり、6月4日ベートーヴェンの第9交響曲で幕を閉じる。とくに4の年号のつく年には、スメタナの全オペラが上演される。7年の歳月をかけ2年前に改装された国民劇場で一夜、オペラ『秘密』を観て1世紀前を偲んだ。翌日ケ・カルロヴ通りを隔てたドヴォジャーク記念館の向かい、カレル大学神経科病棟を訪れた。公園のように広い構内の鬱蒼とした木立の間で、ライラックや、赤や白の燭台を無数につけたようなマロニエの花が咲き乱れ、芝生の上を嘴の黄色い黒ツグミ(歌鳥)が、きれいな声で囀りながら飛び回っていた。2,3人の若い男女従業員に「スメタナの亡くなった部屋」を尋ねたが、だれも知らないという。行きつ戻りつすること三度、最後に年配の用務員の男に、真向かいの2階で訊いてみたらと言われた。見当をつけた建物の2階へあがってすぐの部屋をノックすると、30代半ばの医者が出てきた。来意を告げると鍵をとりに行き、しばらくすると戻ってきて、そばの一室を開けてくれた。壁には「ここでスメタナは偉大なる精神の息を引きとった」と記した額が掲げてあったが、驚いたことにこの部屋もふつうに使われているらしい。写真をとって外に出てくると、中年の太ったおばさんがニタっとして「スメタナが亡くなった部屋は、本当は1階の向こうのひどい所だったそうよ」と教えてくれた。すると今見てきたのは、最初に収容された部屋なのだろうか。

昨1984年スメタナ没後100周年を記念し、全作品40枚のLPレコードが出た。手元にシェイクスピアの「十二夜」による、断片だけに終ったオペラ「ヴィオラ」の、わずか365小節のスコアとレコードがある。所々ピアノだけで奏でられるこの断片を聴いていると、まるであちこち毛細胞が抜けた内耳を見ているようで、何とも痛ましい。その代わりフラッチャニの城山へのもっとも美しい、ヴルタワ(モルダウ)河畔カレル橋のたもと、スメタナ記念館の前の柳の下に建てられた銅像が、自らの芸術の不滅を象徴するかのように、流れる川のせせらぎに耳を傾けている。
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[ 2008/01/14 10:52 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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