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チェコ音楽史におけるドヴォジャークの位置

ドヴォジャーク
まずはじめに、この大作曲家の表記について触れておかねばならない。19世紀後半Dvořákはドイツ語ではツヴォルシャック、英語ではドゥヴォラクと発音されていたらしい。わが国でなぜドヴォルザークと表記されるようになったかは知らないが、正しくドヴォジャークと表記すべきである。これは些細なことではない。彼はベルリンの出版主ジムロックに、自分の名前の上についているV(軟音記号)や /(延音記号)を落とさないよう、執拗に求めていた。ドヴォジャークは不正確な表示を、チェコ人に対する侮辱と感じていたに違いない。だから我々も彼の心情を汲み、正しく表記すべきである。もう一つ、チェコスロヴァキアという国は1918年に独立するまで、つまりドヴォジャークの存命中には存在しなかった、ということである(1993年からはチェコとスロヴァキアに分裂)。

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14世紀のカレル四世時代から、17世紀初頭のルドルフ二世時代まで、プラハを中心に隆盛を極めていたボヘミア音楽も、30年戦争ですっかり衰退してしまう。1620年の“ビーラー・ホラの戦い”に敗れたチェコの人々は、旧教徒に改宗するか亡命するしかなかった。翌年首謀者27名が公開処刑されるが、その中には有名な作曲家ハラントもおり、偉大な教育家コメンスキーは国外に逃れた。ボヘミアへはドイツ人やイタリア人などが入ってきて、バロック化が進んだ。

チェコ語は禁止され聖歌集などが焼かれた。後に生まれたヴェイヴァノフスキー、チェルノホルスキー、ブリクシ、ミーチャ、セゲル、リバなどの音楽家は国内に留まったが、ゼレンカ、スタミツ、ベンダ、ヴァニュハル、ミスリヴェチェク、コジュルフ、ヴラニツキー、ドゥシーク、レイハ、ヴォジーシェクらは、日々の糧を求め国外へ出ていった。

かくてチェコ文化は都市から農村への後退を余儀なくされた。1772年にイギリスの音楽史家でオルガニストのチャールズ・バーネイは、ボヘミア各地を旅し「・・・村の学校で年端もゆかぬ子供たちが、ヴァイオリンと管楽器を巧みに演奏しているのには驚いた。彼らはそのあと農作業に出てゆく・・・ボヘミアはまさにヨーロッパの音楽院である」と記している。しかし実際にプラハ音楽院ができるのは、1811年になってからである。

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啓蒙君主ヨーゼフ二世の善政のおかげで、18世紀末から19世紀初頭にかけ、チェコ民族復興運動が芽生えはじめる。その尖兵となったのは、言語学者のドブロフスキー、辞書編纂者のユングマン、スラヴ文化研究家のシャファジーク、政治家のパラツキーらである。その後に演劇人のティル、作家のマーハ、ニェムツォヴァー、ネルダ、ハーレク、画家のマーネス、アレシュらが続く。

音楽の分野では“法王”と呼ばれたトマーシェクの支配するドイツ流儀のプラハにも、先の音楽院についでチェチリア協会、ジョフィーン・アカデミー、オルガン学校などは創設され、18世紀末のモーツァルト、ベートーヴェンについで、リスト、ワーグナー、パガニーニらが訪れ、1826年には最初のチェコ・オペラ(歌芝居)といわれるシュクロウプの「いかけ屋」が、スタヴォフスケー劇場で初演された。1848年6月に蜂起した革命軍にはスメタナも加わり、「プラハ学生軍団のための行進曲」を捧げた。ワーグナー台本によるキットルのオペラ「ビアンカとジュゼッペ」も、この年に上演され、民族独立の気運を高まった。

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“枕の下にヴァイオリンを持って”ドヴォジャークが呱々の声をあげた1841年当時、ボヘミアにおける政治、文化の状況はこのようなものであった。1848年の革命は失敗し、内務大臣バッハは厳しい弾圧政策を取る。しかし1866年の対プロシャ戦争に敗れたオーストリアは2年後、ハンガリーにも主権を与える二重帝国となる。だがチェコ人の望んでいた三重帝国、つまりボヘミア王国建設の夢は叶わなかった。そのあとブルジョア保守チェコ党と、オーストリア政府との妥協の結果、チェコ人の要求も徐々に受け入れられ、1882年にはプラハ大学にチェコ部門も併設され、1890年代にはチェコ人の発言権も大いに増してゆく。しかし相つぐ戦争と産業革命の結果、19世紀後半、実に50万のチェコ人がアメリカへ移民していった。

一方19世紀後半のプラハ楽界では、フラホル合唱団、芸術協会、チェコ人にための仮劇場(国民劇場の前身)が創られ、ハラハ伯が提唱したボヘミア・オペラ・コンクールに、スメタナの「ボヘミアに侵入したブランデンブルク人」が入賞した。これに次ぐのが「売られた花嫁」である。1880年代には国民劇場、ルドルフィヌム会館(共産政権時代の“芸術家の家”)、新ドイツ劇場(共産政権時代の“スメタナ劇場”、現国立オペラ)、が相ついで開場。1890年代にはチェコ室内楽協会、チェコ・フィルハーモニー協会が発足し、民俗博覧会でチェコ人作曲家のみの作品による、大演奏会も催された。

急進的チェコ党に接近し、民族復興運動の旗印を鮮明にしていたスメタナは、スウェーデンから帰国すると、当時のプラハ楽会の後進性に痛罵を浴びせた。彼は気性が激しく、安易な妥協をしなかったから敵も多かった。1866年に仮劇場楽長の地位につくと、歌唱教室を経営していた同年輩のピヴォダの反対を押し切り、劇場付属の歌手養成校を創ったから、ピヴォダはおさまらない。批評家でもあった彼は、保守チェコ党政治家リーゲルを後盾に、スメタナをワーグナー主義者として攻撃した。

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このスメタナの指揮下でドヴォジャークは、仮劇場でヴィオラを弾いていた頃から薫陶を受け、終生この先輩を尊敬していた。しかし反スメタナの保守チェコ党にとり、敬虔なカトリック信者で、あまり政治に関わらないドヴォジャークの方が禦しやすかったに違いない。だが彼とて愛国心にかけては、スメタナに引けをとらなかった。彼は師の流儀を発展させ民族復興に貢献した。それは19世紀ボヘミアの詩人、作家たちの作品を積極的にとりあげていることからも覗える。たとえばエルベンによるカンタータ「幽霊の花嫁」や、晩年の交響詩4部作、モラフスキーによる歌曲集「いとすぎ」、ヘイドゥクによる「ジプシーの旋律」、ハーレクによるアンタータ「ビーラー・ホラの後継者たち」、クラースノホルスカーによる「4つの歌」、ヴルフリツキーによるカンタータ「聖ルドミラ」、チェルヴィンコヴァーによるオペラ「ジャコバン党員」などである。

また国民劇場開きのための序曲「フス党員」には、ボヘミアの古いコラール「汝ら神の戦士たち」と「聖ヴァーツラよ」を、序曲「わが故郷」にはシュクロウプの「わが、故郷よいずこ」(祖国独立後、国歌に引用される)を、初期の弦楽四重奏曲ニ長調には「おお、スラヴの民よ」(現ポーランド国歌)を引用しているし、民族復興運動に拍車をかけた「ドヴール・クラーロヴェー写本」による歌曲も書いている。

さらにはボヘミア、モラヴィア、スロヴァキア民謡に基づく作品も多い。2つのスラヴ舞曲集はじめ、交響曲、室内楽曲にまで、フリアント、ポルカはじめ、スラヴ音楽舞踏形式を活かしている。

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ドヴォジャークの音楽は、形式と表現に優れている。声部進行はベートーヴェンやブラームスを模範としており、郷愁をそそる旋律はシューベルトのように無尽蔵である。躍動するリズムはスラヴとゲルマンの折衷であり、オーケストレーションは多彩である。そして何よりも自然と人生に対する庶民的な愛と楽天性、神への畏怖の念に満ちている。ジャンルはすべてを網羅しているが、10本あるオペラはやや劇的構成に欠けるため、スメタナほどの成功を収めなかった。やはり純音楽の分野で傑出していたといえる。

ほぼ同年代にプラハで活躍し、オペラ「シャールカ」はじめ、より叙情的な作品を残しているフィビヒが、未だに国際性を得ていないのは、イギリス、ロシア、アメリカにまで楽旅を重ねたドヴォジャークとは異なり、存命中、世界に雄飛できなかったからかも知れない。

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ドヴォジャークは50歳の時、「大きな遺産である知識や技能が、この世から消えてゆくのを坐視するに忍びない。後世に伝えなくては」と言って、プラハ音楽院作曲科教授職をひき受けた。生徒にはスーク、V・ノヴァーク、ネドバル、フリムル、フチーク、R・カレルらがいた。彼のリリシズムは、これら弟子たちや後輩に大きな影響を与えた。たとえば作品22の「弦楽セレナーデ」をモデルに、ヤナーチェクは「牧歌」を、V・ノヴァークは「セレナーデ」を、スークも「弦楽セレナーデ」を書いている。一時スークに学んだチェコ第4の作曲家マルチヌーは、晩年の作品にドヴォジャークの「レクイエム」主題をしばしば引用している。このようにドヴォジャークの音楽はチェコ音楽の中に連綿と受けけ継がれている。

巨匠没後50周年祭の1954年にマルチヌーは語っている:「ドヴォジャークは、芸術家や作曲家に必要な道を示してくれました。それは彼が自分の民族やチェコ精神を率直に表現しており、こうした態度の中に、私自身が表現したいものがあったからでしょう。私にはドヴォジャークの人柄が、何か得難い愛情、人間性、健全さで覆われているような気がします。人生への健全で喜びに満ちた態度を表明する人がいるとすれば、それは彼です。幸福なドヴォジャークの遺産とはそういうものなのです」。
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[ 2008/01/23 10:41 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)



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