スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
[ --/--/-- --:-- ] スポンサー広告 | TB(-) | CM(-)

マーラーがモラヴィア、ボヘミアに残した足跡

kakeizu

マーラーの祖先は、南ボヘミアはブラニーク山麓の在に発し、ヤコブ(1680年 フメルナ生)を嚆矢とする。アブラハム・ヤコブ・マーラー(1720~1800フメルナ生没)は, 商人、シナゴーグ歌手で、アンナ(1731~1801 フメルナ没)と結婚。その息子ベルナルド・マーラー(1750~1812)とルドミラ(バルバラ)・ルスティグとの間に生まれた、アブラハム・シモン・マーラー(1793 ~1860年フメルナ生没)はマーラーの祖父で、彼もシナゴーグ歌手、食品店主だった。1793年にマリア・ブロンディと結婚しリプニツへ移住、

1827年カリシュトに移り、ここでマーラーの父ベルンハルト誕生。祖父はここで1835年から蒸留所を借りて営業(1980年代に取り払わる)、1848-49年のユダヤ人融和政策で繁盛する。ベルンハルトはイグラウやズナイム(ズノイモ)などを行商して巡る。

1857年にレデチの石鹸製造の豪商アブラハム・ヘルマンの娘マリア(1837~89)と結婚。資金提供を受け酒場と店を経営。皇帝のユダヤ人移住緩和策を受け、

1860年にシモン一家はドイチブロド(ニェメツキー・ブロト、現ハヴリーチクーフ・ブロト)へ移り、紡績工場の基礎を作る。一方ベルンハルト夫妻は7月7日に生まれた幼児グスタフを抱え、10月22日イグラウ(現イフラヴァ、モラヴィア第2の都市でドイツ人優位の人口17,000)へ移住。蒸留酒製造、販売、雑貨店を営む。カリシュトの家をまかされた弟ダヴィド(1838~1911)はじめ、親戚も順次イグラウへやって来る。近くには市役所とイグナチオ教会(1681/ 89年間建立、現マサリク広場上手、下手は市場)や、家庭医コップシュタインの家(現マサリク広場170)もあった。フランツ=ヨーゼフ一世のユダヤ人融和策で、イグラウには1863年にシナゴーグ(Neugasse,現ベネシュ通り、1939年ナチスが破壊) 、1869年にユダヤ人墓地(市の西端)などが作られた。

家はPirnitzergasse 265(現ズノイモ通 4、2000年改築)、ついで隣家264(現ズノイモ通 6)も買い取り、翌年に大改修してバーの開き、他人所有のものも借りうけ、そこで蒸留酒やブランディを売って財をなし、メイドや使用人も増えた。

1863年11月:本籍をカリシュトからイグラウへ移し、然るべき税金を払い市民となった。父は仕事熱心で意欲満々だったが、粗野で気性が激しく、生来心臓が弱く繊細で虚弱な母とは絶えず言い争っていた。そんな時グスタフ少年は通りの手回しオルガンの音や、乳母や奉公人がチェコ語で歌う民謡に憩いを求めていた。彼は4歳ですでに楽才を示し、級友フィッシャーTheodor Fischer(1859~1934、ウィーン大学でも席を並べ、イフラヴァのカトリック墓地に眠る)の父が合唱長をしている、聖ヤコブ教会(1243年建立)で歌い、ミサ曲の美しさに心打たれた。音楽の師はその外、市立劇場のJ・ジシカやFr・ヴィクトリン、ブルックナーに学んだV・プレスブルク、F・シュトゥルムらだった。

近くの兵舎(1794~1995、クシージョヴァー通2)からはラッパの音が響いて来たし、広場では軍隊パレードや野外コンサートが行われていた。小学校(ブルノ通29)へは1869年まで通っていた。レデチ村の母方の祖父宅(祖父母はグムポレツのユダヤ人墓地に眠る)の屋根裏で、埃をかぶったピアノに興味を示し、これを貰って即興演奏する。5歳のとき広場の市で、女たちにアコーデオンを弾いてきかせた。

1866年7月初旬:レオポルト大公とザクセン王ヨハンの相次いでの訪問、激励にも拘らずオーストリア軍は敗退、プロシャ軍が町中を勝利の歌を響かせながら行進、傷病兵の護送やコレラの流行を目にした。11月にはフランツ・ヨーゼフI世が戦後の視察に訪れた。この年イグラウの丘で、最後の2人の公開処刑があった。

7歳のときピアノ教師に最初の作品、序奏つき葬送行進曲「ポルカ」を見せた。

1869年ドイツ・ギムナジウム(現図書館、フルボカー通1)に通う(1875年まで)。
父親に2コルナの約束で「トルコ人」という歌曲を書いた。歌詞は“ハーレムに美女を囲っているトルコ人になりたいが、ワインが飲めないのが玉に瑕きず”という単純なものだった。12月20日、凍りついた道で財布を拾い駐在所に届けた。

1870年:10月13日、市立劇場(現ホラーツカー劇場、1994年再建)でピアノ公開演奏。
前年の善行が3日後、雑誌Vermittlerで公表された。

1871年プラハ新市街ナ・プシーコピェ16の、ギムナジウム(旧ピアリスト寄宿舎1760/ 65年創設)へ遊学するが、市中心ツェレトナー通29の下宿で、家主の息子でピアノ学生グリュンフェルトAlfréd Grünfeld(1852~1924のちの名ピアニスト)が毎晩、女中と愛を交わす激しさに恐れをなし、1年足らずで親元のイグラウへ逃げ帰った。

1872年:11月一家は広い家(現ズノイモ通, 265/ 6)を買い取り、ブルノ通3にも雑貨店を開いて繁盛、乳母や使用人も増えた(1889年まで)。11月11日校内行事の一環としてグスタフ少年は、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」(リスト編曲)を弾いた。

1873年:10月17日、チャプ・ホテル(ジシカ通18現労働会館)で『ノルマ』の主題による幻想曲(タルベルク編曲)を弾いた。当時すでにピアノを教えており,モーツァルトやヴェルディのオペラにも通じていた。

1875年:モラヴァン村とロノフ村を、年長の友人のスタイナーJosef Steiner(1857~1913)と訪れたマーラーは、貴族子女教育に熱心な城(18世紀末建立)主の執事G・シュワルツと知り合い、彼の支援でウィーン留学が決定した。マーラーは級友の台本をもとに『シュヴァーベンの豪族アルノシュト』なるオペラを書き、音楽院で試演した。休暇にゼラウ(ジェリフ)村を訪れフロインドの妹を知る。ヴラシム村の叔母と従姉妹を訪問。ここから郵便馬車に乗り、チェフチツェ村まで遠出し角笛を聞く(第3交響曲)。弟エルンストの死を悼み、オペラ『シュワーベンのエルンスト公』を書く。

1876年:最初の学年をシューベルトのソナタを弾いて一等賞で終え、7月31日市立劇場のコンサートで、自作のヴァイオリン・ソナタとピアノ四重奏曲を、同僚やウィーン宮廷オペラ団員と初演した。これは9月12日イグラウのチャプ・ホテルでも演奏された。

この年から1884年まで休暇を、叔母バルバラ(1847~11923)夫妻のフライシュベルガー(1842~1916)宅で過ごす。

1877年:父親の願いを入れイグラウ・ギムナジウムも卒業。

1877/ 79年:ウィーン大学でブルックナーの講義を受け、Rättig社の依頼で同級生のクシジャノフスキRudolf Krzyźanowski(1859~1911)と、ブルックナーの第3交響曲のピアノ譜を作った。卒業を待たず1879年ここを去る。

1878/ 83年:休暇をゼラウ(ジェリフŽeliv)で過ごした。この村はイグラウの西北35キロ、生地カリシュトの南8キロ、グムポルツ(フムポレツ)の西8キロにあり、そこには親友でのちに顧問弁護士となるフロイントEmil Freund(1859~1928、イグラウの家=現マサリク広場86)がいたせいもあるが、彼に好意を寄せる妹マリエがいたからだった。しかしこの愛は1880年の彼女の自殺で終った。ここでピアノ四重奏曲イ短調を演奏した。この楽譜は1973年にアメリカで発見されたが、これ以外の初期の作品は、破棄されたか所在不明になっている。

1870年代末:ヴラシムVlašim村の母方の叔母アンナ(1838~98)・イグナーツ・フライシュベルガー夫妻宅で、従兄弟のグスタフ・フランクやフィッシャーや、フロインドと過ごした。18世紀末建立のイギリス庭園内シナ・パヴィリオンは「大地の歌」作曲に刺激を与えた。この頃、電信局長ポイズル(旧フルボカー通50現存せず)の娘で、ピアノを教えていたヨゼファJozefa Poisl(1860~1928)に恋するが、彼女は年配の教師と結婚してしまう。彼女に捧げたMaitanz und Grünenは、のちにHans und Gretheとなる(1885年参照)、その音型が交響曲1番の2楽章冒頭に使われる。

1880年:5~6月、上部オーストリアはバード・ハルやライバッハで、保養客相手にオペレッタなどを指揮。「嘆きの歌」を作曲(推敲を重ね、初演は1901年にウィーンで)。

1881年:8月18日、ヴラシム村のカレル四世レストランで、プラハ国民劇場再建(翌年開場)支援コンサートを行った。9月から →

1882年:1月まで、ルブリャナ劇場に招かれ、ピアニストとしても登場した。

1883年:1月12日からオルミュツ(オロモウツ)のドイツ市立劇場(1830年建立)指揮者を務める(劇場経営不振のため3月18日まで)。2月24日、市民会館(リーゲル通,5/ 404)内カジノでの歌曲リサイタルで、ピアノ伴奏をする。春イタリア・オペラ団のカール劇場での公演に際し合唱指揮を手伝う。夏休に西ボヘミア国境エゲル(ヘプ)にある、友人クシジャノフスキの実家に泊る。この年はじめてバイロイトを訪れ『パルジファル』を観る。夏にイグラウでの最後のコンサートを行う。同年8月から1884年6月まで、カッセルのプロシャ劇場指揮者となるも満足せず。

1885年:8月からプラハ・スタヴォフスケー劇場指揮者となり、『ニーベルンゲンの指輪』から2部分、ベートーヴェンの第9などを指揮。4月18日にはBetty Frankの歌う自作歌曲3つと、5月7日ドイツ仮劇場(1897年以降のカルリーン劇場)での歌曲リサイタルでピアノ伴奏を受け持った。この時はホテル「青い星」「金の輪」「青いバラ」に泊まり、ナイトクラブ「ゴゴ」(現レストラン“赤いクジャク”)へピアノを弾きに通い、国民劇場でスメタナとドヴォジャークのオペラを知る。しかしスタヴォフスケー劇場支配人A・ノイマン(1838~1910)と対立し翌年7月ここを去る。

1886年:8月にはライプツィヒ市立劇場でニキシュのもと副指揮者となり、ニキシュの病気の時はワーグナー・オペラを代って指揮した。

1888年1月:遺族の依頼で補完したウェーバー未完のオペラ『ピントを名乗る3人の男』が初演され大成功を収めた。10月ブダペストのハンガリー王立オペラ(1884年新築)の楽長となり、ハンガリー語でワーグナーを歌わせた。エルケル(1810~93)のオペラも復活上演し、ウィーンから多くの歌手を招き水準を高め、1889年11月には自作、第1交響曲を指揮したが、劇場指導部と意見が合わず、1891年11月ここを去る。

1889年:不幸にも2月に父、9月に妹レオポルディーネ、10月に母が他界した。自身はミュンヘンで痔の手術、7月28日から3週間、マリエンバード(マリアーンスケー・ラーズニェ)などで静養。イグラウの2軒の家を売り払って借金を清算。両親のためにユダヤ人墓地に立派な墓碑を建てた(その後一家の多くは当地ユダヤ人墓地に葬られた)。弟のアロイスは当てにならず、ユスティーヌをブダペストに連れ帰り、オット、エマをウィーンの親友レールFritz Löhr(考古学者)のもとに預け、イグラウを去る。

1891年:3月から1897年まで、ハンブルク市立劇場主席指揮者となり、定期演奏会も開いた。支配人のBernard Polliniは立派な団員を揃えており、中には旧友のクシジャノフスキ、コレペティトゥールにブルノ・ワルターもおり、プラハからバス歌手ヘシュ(1860~1907)も招いた。1892年に入団したメッゾ歌手ミルデンブルクAnna Bahr-Mildenburg(1872~1947)に、マーラーは恋情を抱いていた。同年5~7月にかけてコヴェントガーデン、1897年にモスクワへ演奏旅行した。在任中の夏はザルツブルク近在のアッター湖畔で過ごし、Lieder und Gesänge aus der Jugendzeit(14曲)をまとめ、交響曲2番、3番などを作曲。カトリックに改宗した1897年2月ここでの任期を終える。

1897年:6月から10年間ウィーン宮廷オペラ指揮者となる。

1898年:9月ウィーン・フィル指揮者(団員はオペラと同じ)を以後3年間。ハンブルクから作曲家フェルステル夫人ラウテレロヴァー(1869~1936)など、有名な歌手を引き抜いてきた(在任は1907年まで)。
1899年:9月マイアニグに地所を購入して作曲。ウィーン・セセッション芸術家:ワーグナーO. Wagner, オルリークE. Orlik,モル K. Moll, クリムト, ココシカ, ロラーAlfred Roller(1864~1935、ブルノ出身、1883年からウィーンに住み、宮廷オペラを設計)らと接触。

1902年:アルマ・シンドラーと結婚。マリエ・アンナ誕生。クレフェルトで交響曲3番を初演。

1903年『フィデリオ』、1904年『ドン・ジョヴァンニ』をロラーの新演出で上演。
次女アンナ・ユスティナ誕生(彫刻家,1989年死去)。

1906年:11月11日、ブルノ・ドイツ会館(現モラヴィア広場)で、交響曲1番を指揮、1883年までここに家族が住んでいたロラーと再会

1907年:長女マリエがマイアニグでショウコウ熱に罹り死亡。12月17日一家でニューヨークに渡り、1911年までメトロポリタン・オペラの指揮者を務める。

1908年:元旦の『トリスタンとイゾルデ』を手始めに、ワーグナー、モーツァルト、ベートーヴェンのオペラの上演指揮。共演者にはカルーソー、シャリアピン、K・ブリアンらがおり、デスティノヴァーを主役に1909年には『売られた花嫁』をドイツ語上演した。ここでの1シーズンは3~4ヶ月だったから、余暇にはヨーロッパに演奏旅行しトルバッハで作曲に励んだ。夏カールスバード(カルロヴィ・ヴァリ)で静養、9月19日プラハ産業博覧会の折、チェコ・フィルを指揮し、自作の第7交響曲をプラハ北部の見本市会場(木造で現存せず)で世界初演、ホテル「青い星」(1935年、銀行に衣替え)に宿泊。

1909年からはライバルとしてトスカニーニが登場。この秋に私的ニューヨーク・フィル指揮者を依頼され、各都市で46回のコンサートを行った。9月工場主レドリヒFrotz Redlichに招かれたゲディング(ホドニーン)で、「大地の歌」を完成させたマーラーの言葉:
「友よ、この世が私を生んだのは、幸せになるためではなかった、私はこの地方を進んで行きたい。そこへ戻り決して外国とつくにに憧れない。この土地はそれほど美しく、見渡す限り遠くまで青く輝いているから、いつまでも、永遠に・・・」

1910年:かねてからの心臓神経症が悪化、秋にヨーロッパへ帰り、ミュンヘンで交響曲8番を指揮し、多くの知人が参加した。秋に再渡米し予定の65回のうち48回しか指揮できなかった。死の数ヶ月前に、モラヴィアはフライブルク(プシーボル)出身のフロイトの精神鑑定を受けた。

1911年:4月アメリカからパリに向かい、肺炎球菌感染症と診断され、家族にウィーンへ連れてゆかれ5月18日死去、グリンジングに葬られた。ニューヨーク・フィルの後継指揮者ストランスキーJosef Stransky(1872~1936)はグムポルツの出身。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
アルマ・マーラーの証言によれば、マーラーは毎日、死について考えていたという。13人兄弟姉妹のうち8人が夭逝していたからか、彼らの子供の遊びには、ロウソクに火を灯す弔いの儀式もあったという。ギムナジウムに入り、何になりたいかと訊ねられた時、殉教者と答えた。キリストを信じていたらしい。

ドストエフスキーの哲学に共感し、{どこかに苦しんでいる人がいるのに、どうして幸せでおれよう}が信条となった。交響曲「復活」では、人生の目指すところは死では?と問いかけている。〔魚に説教するパドゥアのアントニウス〕により「原光」が出来上がる。{私は神から来たのだから、神のもとに帰りたい}。

彼ははじめ造形芸術にほとんど無関心だったが、次第にウィーン・セセッションに近づいてゆき、ウィーン宮廷オペラの舞台装飾家のロラーの大胆な舞台装置を擁護した。セセッション芸術家の集まりに自分の別荘を提供していた画家モルCarl Mollは、のちにマ-ラーと結婚するアルマ・シンドラーの義父だった。この集いの寵児クリムトは、マーラーの音楽に共感し{幸福への憧れ}を象徴する長さ24メートルのタペスリー{ベートーヴェン}で彼を讃えた。

義父モルの別荘で当時20歳のアルマは、15歳年上のクリムトと恋に落ち、両親およびクリムトと一緒にイタリアへ旅した。たまたま娘の日記を見た母親は、二人の仲に驚いた。クリムトのウィーンでの風評(女性関係)が芳しくなかったから。彼との密会を禁ぜられたアルマは、ウィーンに帰ってから自殺まで考えたらしい。しかし作曲でこの苦しみを昇華させた。クリムト(1862~1918)の祖先はボヘミア出身で、シーレ(1862~1918)の母親も南ボヘミアはチェスキー・クルムロフの出身、二人とも1918年に亡くなったのは、スペイン風邪(インフルエンザ)のためと思われる。

夫の死後、多情なアルマは、建築家クロビウスと結婚(娘マノン)、さらにプラハ生まれの作家ヴェルフェル(1890~1945)と再婚、アメリカの彼女の音楽サロンには、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、コルンゴールドらが出入りしていた。

1932 年に高水準のDie Wiener Walzermädelnを設立、ヨーロッパ中を演奏旅行したが、強制収容所で演奏する羽目になる。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
1960年カリシチェとイフラヴァに記念額掲示。

1986年フムポレツにマーラー記念室

1990年マーラーの次女アンナ・ユスティーネ(彫刻家)は、モーツァルトを讃えるザルツブルクでの展覧会への途次、1889年に他界した。その一人娘マリナは1991年12月初旬、プラハの国際マーラー・センターや、カリシチェ、ジェリフ、フムポレツなどを歴訪した。

1992年7月1日フムポレツ博物館でコンサート。祝典はマーラーの第7交響曲がプラハ世界初演された9月19日に合わせ行われた。

1993年オロモウツの1931年設立銀行跡に、マーラー・カフェ開店(上手広場11)。

1994年イフラヴァにマーラー・ホテル開業(クシージョヴァー通4)、ヴィソチナ博物館に“若き日のマーラーとイフラヴァ”展示室が開場(コスマーク通9)。

1997/ 98年カリシチェの生家(1937年焼失)改修。

2006年カリシチェの生家が改装され、前夜祭には歌手Thomas Hampsonらが招かれ, Wolfgang Riegerの伴奏でG・ベニャチコヴァーが歌った。参加者にはイギリス・ブリテン協会会長Donald Michell、オランダ・マーラー協会会長Willem Smithおよび、G.M.Masonらがいた。マーラーの孫娘マリナも参加した洗礼者ヨハネ教会では、Musica Noster Amor代表フデチェク、ペツコヴァー「さすらう若者の歌」、ビェロフラーヴェク指揮プラハ室内フィルのコンサートがあった。マーラーの通った学校には例年のごとくバラが植えられ、この年はノイマンとコシュレルのために捧げられた。


あとがき
1990年5月26日フムポレツ在住のマーラー研究家リヘツキーJiří Rychetský氏(1926~2012)を訪ね、まずは当地のフルドリチカ記念館内のマーラー記念室を見せてもらった。フルドリチカAleš Hrdlička(1869~1943)は当地出身の有名な人類学者で、1903年から死ぬまでワシントン博物館の人類学部門の長を務めていた(プラハ・カレル大学人類学部内にも記念室がある)。その後カリシチェの生家や、若き日の恋を燃やした地ジェリフ村などを案内してもらった。イフラヴァにはマーラー記念館があり、誕生日の7月7日(最近は秋)を中心に毎年、音楽祭が催されている。


チェコ(ドイツ)都市名対比表イフラヴァ Jihlava (Iglau)
ヴラシム Vlašim (Wlaschim)
オロモウツ Olomouc (Olmütz)
カリシチェ Kaliště (Kalischt)
ジェリフ Želiv (Selau)
チェフチツェČechtice (Czechtitz)
フムポレツ Humpolec (Gumoplds)
フメルナー Chmelná(Chmelna)
プラハ Praha (Prag)
ブルノ Brno (Brünn)
ヘプ Cheb (Eger)
ホドニーン Hodonín (Göding)
モラヴァニ Moravany(Morawan)
マリアーンスケー・ラーズニェMaránské Lázně(Marienbad)
レデチ Ledeč nad Sázavou (Ledetsch an der Sasau)
リプニツェ Lipnice nad Sázavou(Lipnitz an der Sasau)サーザヴァ河畔
ロノフ Ronov nad Doubravou(Ronow)ドウブラヴァ河畔

map


参照文献:
Jiří Rychetský:Po stopách G.Mahlera v Čechách a na Moravě, Humpolec
手書き原稿(1995)
Milan Palák:Po stopách G.Mahlera v Čechách a na Moravě, Fr. Šalé (2003)
ISBN 80- 903362- 0- 5
Ludmila Klukanobvá:Jihlava a G.Mahlerovi, Parola (2010)
ISBN 978- 80- 903282- 7- 3


sekine
リヘツキー氏とマーラー生家にて

スポンサーサイト
[ 2013/07/07 09:12 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。