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ムハの「スラヴ叙事詩」Slovanská epoleja (1/2)

サイズ:8.10 x 6.10:1, 2, 3, 4, 5, 6, 8:
    4.05 x 6.20:7, 8
6.20 x 4.05:10, 11,
6.10 x 4.05:13
4.80 x 4.05:12, 14, 15, 16, 18, 19
4.40 x 4.05:17
4.05 x 4.80:20

1.原始スラヴの故郷 
Slované v pravlasti

1912年作。狩猟や農耕にたずさわっていた、原始スラヴ人の生活圏は、ヴィスワ川からドニェプル川まで、バルチック海から黒海まで広がっていたと思われ、この絵はその生活を描いている。村は湿地帯に分散し、高い身分の者はおらず、しばしばゴートやノーマン族の進攻を受けた。オデッサ東対岸の港ケルソンでは、大きな奴隷市が開かれていた。

画面後方には炎上中の村が見え、凶暴なノーマンの戦士が、家畜や奴隷として売りさばく若者たちを駆り立てている。他の大多数の村人は殺され,前面の若い二人だけが灌木の中にひそみ、侵入者の立ち去るのを待っている。彼らの目は恐怖に満ちているが、復讐を願ってもいる。

それは神に慈悲を乞う異教の神官と、彼の腕を支える二人の人物により示されている。白衣の少女は平和の象徴で、赤服の少年は戦いに備えている。スラヴ人の独立は、手にする剣だけで得られるが、彼らの幸せは平和のうちにのみある。彼らの運命は満天の星に暗示されている。これは全作品の中でも代表的なものである。
スラヴ叙事詩1


2.大モラヴィア国への典礼導入(汝ら母国語による神の賛歌, 863- 880年)
Zavedení slovanské liturgie na Velké Moravy

大モラヴィア国は9世紀前半、中欧で形成されたスラヴ人最初の国家だった。しかし中世はじめ国家機構は、教会と密接に結びついており、この地域で僧だけは、東フランク帝国から来ていたので、ロスチスラフ公は彼独自の独立した教会機構を創る決心をした。法王が彼の試みを拒否したので、ロスチスラフはビザンチン皇帝ミカエル三世に、スラヴ語で神の言葉を教える僧の派遣を要請した。

863年に二人の兄弟コンスタンティヌスとメトデウスが、サロニカからモラヴィアに到着した。サロニカ地方にはスラヴ人が住んでおり、彼らは最初のスラヴ・アルファベットを作り出し、聖書の一部を古代スラヴ語に翻訳していた。彼らの大モラヴィア国への伝道は成功し、多くの聴衆を集めたが、これにはローマの支持が必要だった。

画面は880年にメトデウスが、ローマへの巡礼から大モラヴィア国首都への帰還を描いている。右手にはモラヴィアの新しいスヴァトプルク公が、騎士たちに囲まれ王座についている。メトデウスの弟子の一人が、法王からの書状を読んでおり、そこには法王がメトデウスを、大モラヴィア国とパンノニアの大司教に任命し、スラヴ語の使用を認める旨が認められている。白衣姿のメトデウス老は弟子たちに支えられ、これに耳を傾けている。

5年後メトデウスは死に、弟子たちはモラヴィアを去ることになる。彼らは主にキエフ・ロシアや大ブルガリアに新たな住いを築いた。これら地域の支配者たちは、右上部に描かれている。スラヴ伝道はふたたびドイツ僧らに置き換えられ、それは左上隅に描かれ、凶暴なクリスチャニズムを象徴している。その下でスラヴ人を護ろうとしている、ケープをまとった人物はコンスタンティヌスで、のちにキュリロスと呼ばれ869年ローマで没した。

前面に見えるのは握り拳の若者で、これは力を表し、もう一方に手に持っている輪は統一と調和のシンボルである。
スラヴ叙事詩2


3.リューゲン島(ルヤナ)でのスヴァントヴィート祭
Slavnost Svatovítova na Rujaně
紀元1世紀にスラヴ人たちは、全ヨーロッパへ急速に拡散していった。主流は西スラヴ人で、現在のドイツに新しい住まいを構えたが、その大部分はゲルマン民族に吸収された。彼らの最後の中心地の一つは北ドイツのリューゲン(ルヤナ)島にあり、スラヴのラニアン族は首都アルコーナを創り、異教神スヴァントヴィートを祀った。そこでは毎年秋に収穫祭が行われ、重要な神託が下されるので、未来を知るべく全世界から人々が参集した。

この絵にはその祝典で踊る乙女たちと、笑いさざめく民衆、右側の背後には牛を生贄にすべく準備している、異教の神官たちの一団が描かれている。しかしその幸に加わらない二人の人物がいる:子供を抱く母親と、木製の新しい神像を彫る少年で、この二人は画面の上方に描かれている、ラニアン族の未来を予見しているらしい。

左隅には聖なる狼を従えたノーマン族の神オディンが、スラヴ人に攻撃を仕掛けており、中央のスラヴ人たちは打ち負かされ、最後の戦士が白馬の上で死にかけ、スヴァントヴィートは右手に剣を持っている。

1168年にデンマーク王ワルデマールは、アルコーナを襲って火をかけ、住民を屈服させた。楽器を持った3人は、彼らの唯一の遺産である、バルチック・スラヴの歌と神話を代言している。フィビヒは死の2年前1898年に、3幕オペラ「アルコーナの陥落」を作曲している。
スラヴ叙事詩3


4.シゲトでのズリンスキによる対トルコ防衛
Hájení Sigetu proti Turkům Milulášem Zrinským

16世紀半ばバルカン半島は、ヨーロッパ中央部に深く進攻してきたトルコ軍に、ふたたび攻撃されていた。トルコ軍を率いるのは、キリスト教ヨーロッパ制覇を目指すスレイマン二世(1520~66)だった。決戦の一つはシゲト(シゲトヴァル, 現ハンガリー南国境のペーチ近在)で行われ、シゲトの司令官はクロアチアの貴族ニコラ・ズリンスキ(1508~66)だった。彼は1566年8/ 9月にかけてのドナウ河右岸での戦いで、捕らわれ処刑された。

画面は、町がすでに占領され、城だけが戦い続けている防衛最後の瞬間を描いている。画面中央では防衛司令官が熱弁を振るい、全員が最後の戦いに備えている。反対側の塔の前では、弾丸をこめた大砲が、開門してトルコ親衛隊に最後の一撃を加うべき瞬間を待っている。

画面の2番目の部分、黒い煙柱の後では、女たちが塔の中に隠れ死を待っている。上方にいる一人は、燃えさかる松明を掲げ、火薬の中に投げ入れ、防衛軍とともに死のうとしている、それはトルコの奴隷となるよりましだと考えているからである。これに次ぐ爆発は黒い煙が表している。町と城は占領されたが、シゲトの戦いは、トルコ軍を数年間、押しとどめ、その間に彼らの指導者のスレイマンは戦死した。
スラヴ叙事詩4


5.イヴァンチツェの兄弟団学校(クラリツェ聖書の揺籃)
Bratrská škola v Ivančicích ( Kolébka Bible kralické)。

ムハの生地イヴァンチツェは、16世紀にはモラヴィア教会(もとは兄弟団)の重要な中心地の一つだった。ボヘミア兄弟団は宗教的共同体で、15世紀半ば教会の堕落に対する改革運動を起源としていた。当初、彼らは聖書の理想と貧困生活に従い、教育すら拒んでいたが、後にはヒューマニズムの思想を受け入れ、ボヘミアで最も教養ある宗教団体に変貌した。

イヴァンチツェの若い貴族のための学校は、この共同体で一番有名なものだった。主だった後援者は、1608~15年の間ボヘミア総督を務めた、カレル・ジェロチーン・シニア(1564~1636)だった。教師の中には聖書のギリシャ語からチェコ語への翻訳に着手したヤン・ブラスラフ(1523~71)がおり、彼の後継者たちが“チェコ文学の傑作と看做されている、クラリツェ聖書”(1579/ 93年に出版.第1~4巻:旧約、第5巻:聖書外典。第6巻:新約)を完成した。またイヴァンチツでは、1578年まで聖書が印刷され、それ以降、出版所はクラリツェ村に移った。

画面には朝まだき校庭が描かれている。右手には訪問者に囲まれた印刷所があり、左手ではムハの自画像と思われる少年が、老人に聖書を読み聞かせている。時はまさに兄弟団が彼らの仕事の実りを集め、聖書はじめ他の文学作品が印刷され、教会が急速に発展した頃である。しかし塔を飛ぶ鳥たちは、自分たちの教会を棄て、祖国を離れねばならない、冬の到来を告げている。それは40年後、チェコ貴族たちがハプスブルク家支配への抗戦に敗れ、プロテスタントが禁じられる、ボーラー・ホラ戦後にやって来た。
スラヴ叙事詩5


6.ロシアでの農奴制廃止
Rušení nevolnictví na Rusi(1861年)

19世紀半ばヨーロッパにおけるロシアの衰退は、次第に顕著となり、クリミア戦争(1853~60)での敗北や、各地の反乱の結果、皇帝アレクサンドルII世は政治改革を迫られ、ロシアにおける農奴制を廃止した。これにより地方の民衆はある程度の自由を得、ロシアにおける新たな産業発展への道を拓いた。

画面はモスクワの聖ワシリエフ至福教会とクレムリン前の、赤の広場の寒い2月の朝を表している。右手では役人たちが新たな法令を宣言し、広場は市民や近村から来た住民であふれている。多くの人々は農奴制廃止が何を齎すかを理解できず、それは彼らの顔からも伺える。空には重い霧が立ちこめ、教会の背後の最初の陽光だけが、来るべき自由を暗示している。

この絵は、1913年にムハがロシアへ旅した後の1914/ 15年に描かれたもので、本来はスラヴ最大の民族称賛を提示しようとしていたが、作者はロシア民衆の生活を見て、絵の気分と色彩を変更した。
06)農奴制廃止


7.クロムニェジーシのミリーチ(売春宿を修道院に, 1372年)
Jan Milíč z Kroměříše

ミリーチは、クロムニェジーシの貧しい家の出だったが教育は十分に受けていた。彼はカレル四世の副大法官、聖ヴィート大聖堂参事会員の職にあり、彼の職場は名誉ある実り多きものだった。しかしコンラド・ウァルドハウザー(1364年没)の説教を聞いてから、すべての職と財産を擲なげうち神に仕える決心をした。反キリスト者の到来を告げる彼の激烈な説教は、多くの聴衆を集めるとともに、敵をも作った。投獄され釈放されてから、ローマに旅し法王に自らの活動を説明した。

1372年に彼は一大事業を成し遂げた。プラハの多くの売春婦に、それまでの生活を捨て、罪を悔い改めるよう導いた。通称“ヴェネツィア”なる古い売春宿は、“新イェルサレム”と呼ばれる、女たちの避難所に衣替えし、彼女らはそこでの新生活に入った。

画面にはその隠家の建物が描かれている。長い灰色髭のミリーチは、足場近くに立ち祈っているらしい。彼は悔悟している女たちに囲まれている。中央には口を覆っている女については、罰を受けている陰口女とか、思慮分別や無口の象徴とか、様々な解釈がなされている。

ミリーチと彼の教会改革の試みは、のちのフス運動を密接な関係にあり、彼はヤン・フスの先駆者の一人とみなされている。
スラヴ叙事詩7


8.ベツレヘム礼拝堂でのフス師の説教(世界の不思議、真実の勝利, 1412年)
kázání mistra Jana Husa v kapli Betlémské

ヤン・フスは、15世紀初頭ボヘミア王国の歴史を画する、フス運動の創始者にして指導者でもあった。彼はカレル大学の学長で、その仕事はイギリスの説教者ジョーン・ウィクリフに影響を受け、カトリック教会の現状、とくに免罪符売買に反対していた。ベツレヘム礼拝堂でのフスの説教が多くの聴衆を集めていた主因は、プラハで唯一チェコ語で説教が行われていたからだった。彼の活動は聖職者に厳しく監視され、1412年にはプラハを離れざるを得なくなり、南ボヘミアで活動を続けていた。

ムハはプラハにおけるフス最後の説教を描いている。彼は説教壇に立ち、弟子たちが耳を傾け説教の内容を書きとっている。左の壁際には、後にフス軍団の長となる、片目のヤン・ジシカの姿が見える。反対側,天蓋の下にはボヘミア女王ゾフィーがおり、その横にいる赤服の夫人はムハ夫人だろう。彼女が見つめている、隅でケープをまとい立っているのは、カトリック教会のスパイと思われる。

数年後コンスタンツの宗教会議に招かれ、自分の教えを弁護したフスは、ジギスムント皇帝に身の安全を保障されていたのも拘わらず、異教徒として投獄され、1415年7月焚刑に処され、これがボヘミアでのフス戦争にきっかけとなった。

この絵のベツレヘム礼拝堂内部も興味深い。ムハはたえず実際の状況、内部や外部を赤裸々に描こうと努めていた。しかしこの絵の場合は例外で、20世紀初頭のベツレヘム礼拝堂(小広場をはさみナープルステク博物館の向い)はひどく破損しており、その再建は1954年になってからだった。

この作品は前後の2作品「クロムニェジーシのヤン・ミリーチ」(7)および「クシーシキ丘での集い」(9)と密接な関係にある。
スラヴ叙事詩8


9.クシーシキ丘での集会(言葉の魔術)
Súchúzka na Křížkách (Kouzlo slova, Podobojí)

ヤン・フスがコンスタンツで焚刑に処されてから、ボヘミアの民衆は苛立ち、全土に不安が満ち溢れた。カトリック教会に忠実な僧たちは、しばしばその教区を追われ、フスの後継者にとって代えられた。貴族の一部もフスの教えに賛同し、教会は貧困のうちに生きるべきと諭したフスのように、教会財産の没収に動き出した。民衆は丘の上などさまざまな聖地に集まり、説教者たちの話に聞き入り、2種類の聖体拝受さえ受け入れだした。ウトラキスムと言われるこの拝受法は、パンとワインの2つで行われた。

ムハが描いているのは、プラハから20キロ離れた小さな丘クシーシキで、1419年9月末に行われたもっとも重要な会合の一つである。フス教徒たちは、俄か作りの説教壇に立ち、彼らに話しかける、ヴァーツラフ・コランダ・シニ(c.1453没)に率いられている。説教の内容は誓約への純粋さ、神の国の到来、ボヘミアに迫りつつあるすべての出来事などと思われる。その最後に彼は、参集したすべての人々に、9月プラハに来るよう促し、その時は巡礼杖だけでなく武器も持参するようアッピールしていた。

背後の嵐を呼ぶ空は、1419年にヴァーツラフ四世が、プラハ蜂起後に頓死し、国王不在となった王国の錯綜した状況を想起させ、チェコ民族に差し向けられる十字軍を予告している。閃光は戦争の開始を、枯枝に掲げられる白旗は、来るべき戦さで命を失うだろう、すべての人々を表し、緑の木と赤旗は、新しい生命のシンボルである。
スラヴ叙事詩9


10.ペトル・ヘルチツキー(悪に報いるに悪をもってなすなc.1390~c.1460)
Petr Chelčický (Neopácet zlem zlé)

ヘルチツキーはフス戦争時代の有名な思想家だが、つねにいかなるイデオロギーにも組しなかった。彼は生涯のほとんどを田舎で過ごし、1420年のフス運動の成果に興味を示しはしたが、最終的にはそれが戦さと殺戮に結びつくとして拒否した。彼の主目的は十戒を守ることで、モラルの改革と純粋さに拘り、戦争には反対だった。

画面はボヘミアにおける市民戦争=フス運動の暗黒面を描いており、フス戦争時代の典型的な場面を示している。南ボヘミアの町ヴォドニャニが、殺された仲間への復讐に燃える、フス軍団兵士に襲われている。町は燃え上がり、生き残った住民が池のほとりに集まり、負傷者や死者も運ばれてくる。生き残りの一人、中央の若者は挙手して復讐を約束している。しかしこの瞬間ヘルチツキーが姿を現し、握り拳を下ろさせている。彼の教えによれば、悪に報いるに悪をもってしても、悪循環が果てしなく続くだけだという。この思想はのちにボヘミア兄弟団に受け入れられ、彼らがこれに息吹を与えた。
スラヴ叙事詩10
[ 2011/12/26 21:43 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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