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アルフォンス・ムハ(Alfons Mucha アルフォンス・ミュシャ)の生涯

Mucha

ムハ通称ミュシャAlphomse Mucha(1860~1939)の祖先は、南モラヴィアの小村イヴァンチツェで代々ワイン作りを生業としており、父オンジェイは仕立屋の修行をしたのち、地方裁判所の書記となった。1859年35歳で寡夫となった彼は、裕福な粉屋の娘で当時37歳だったアマリア・マラーと、持参金目当ての再婚をし、3人の子供アルフォンス、アンナ、アンジェラをもうけた。2度目の妻はやがて亡くなるが、オンジェイは残された子供たちを立派に育てた。二人の娘は中学校へ通い、アルフォンスは17歳でブルノのスラヴ系ギムナジウムに入ったが、健康を害し自宅で勉学に励んだ。しかし病弱というのは表向きの理由で“平気で嘘をつき、礼拝などをサボった”のが本当らしい。ただスケッチと歌は群を抜いており、教会で歌っていた。プラハ工芸アカデミーのルホタ教授は“まったく才能がない”と記していた。こうしてムハはイヴァンチツェの地方裁判所の書記となった。

2年後ウィーンのカウツキ=ブリオスキ&ブルクハルト会社に入り、劇場の書割制作に加わったが、1881年リング劇場が焼けたため解雇された。しばらくウィーンで細々と暮らしたのち、父のつてでモラヴィア東南端の町ミクロフで、劇場の演出、似顔絵描き、寄木細工のデザイン、室内装飾など、あらゆる職業についていた。ミクロフの西約20キロの小村、フルショヴァニのクエン伯爵の城を飾ったあと、夫人エンマホフの薦めで、ティロルにある伯爵の弟が所有するガンデグ城を装飾し、そこで伯爵夫人の肖像を描く幸運に恵まれた。ここでムハは伯爵のために数多の絵を描いたが、彼の作品を眺めたウィーンの画家クレイKray教授の助言で伯爵は、ムハのパトロンになる決心をした。

1885年ムハはミュンヘン芸術アカデミーの3年級に入った。2年後パリに出たムハはアカデミー・ジュリアンに入り、流行のコートと帽子を買い、さらに優れた教授陣のいるコラロッシ・アカデミーに移った。1889年彼は世界万博を訪れてエッフェル塔を賛美し、チェコ民族を代表し参加した、ソコル体育団の見事な演技を見て、スラヴを主題とする最初の芸術プランを立てた。伯爵からの援助は打ち切られたが、雑誌“La Vie Populairesh庶民生活”に挿絵を載せるようになっていた。1891年アルマン・コランArmand Collin出版社と契約を結び、翌1892年には優れた歴史家セニョボスSeignobos(1854~1942)の「ドイツ史」に、有名な画家ロシュグロスRochegrosse(1859~1938)と共に挿絵を描いた。

1894年のクリスマスに、ルネサンス座から印刷業者ルメルシエのもとへ、サラ・ベルナール主演の「ジスモンダGismonda」※のポスター作製の依頼が来たが、デザイナーが全員不在だったため、ポスター制作経験のないムハがこれを引き受け、代役を果たした。ムハと彼女との間に翌1895年から6年間の契約が結ばれ、これを契機に注文が殺到し、展覧会、インタヴュー、壮大なアトリエ、パーティーという栄光が続き、室内装飾からタバコのデザインまで、あらゆる分野にアールヌヴォなる、彼のデザインが用いられた。しかし彼はポスターで有名になったことに不満で、百万長者からの装飾作品を断ることもあった。

Alfons_Mucha-Gismonda

ムハが創った装飾パネルでは、1896年から1900年にかけての「四季」「花」「芸術」「一日」「星」「宝石」シリーズが名高く、「ジスモンダ」を含む劇場用ポスター、雑誌のカバー、「パリスの審判」「四季」などのカレンダー、挿絵、装身具など多岐にわたっている。

1900年のパリ万博出品を見て日本美術愛好家となったムハは、その頃から“スラヴ叙事詩“の構想を抱いていた。多大の借金を抱えていた彼は、経済的理由から1905年に渡米するが、そこでの仕事は、ニューヨークでの雑誌の表紙、宣伝、それに劇場のポスターだった。その間1906年に、かつての弟子で24歳のマリエ・ヒチロヴァーと結婚する(娘の・・・)。

1909年にムハは、“スラヴ叙事詩“の構想を、アメリカの工場主で外交官のクレインCh.R.Craneに打ち明ける。アラブやスラヴ民族の運命に関心を抱いていたクレインは、トロツキーやマサリクや、当時貧しかったアラブ家長たちとも交友があった。ムハは、クレインの娘の肖像を描いているが、彼女は一時期マサリクの息子で外交官のヤン(1886~1948)の妻だった、

ムハはクレインと “スラヴ叙事詩“ 制作に関する契約を結ぶと、すぐさま1910年に帰国した。西ボヘミアの古城ズビロフの、かつての舞踏の間にアトリエを構え、委嘱されていたプラハ市公会堂内市長室の装飾を終えると、“スラヴ叙事詩“の制作にとりかかった。1912年6月28日から7月1日にかけ行われた、第1回ソコル体育祭のポスターを描く。

1918年にチェコスロヴァキア共和国が独立すると、最初の切手や紙幣、国章にムハの絵が用いられた。カンバスには、船の帆用に生産された材料をブリュッセルから輸入し、絵は卵テンペラ、細部は油で描いた”スラヴ叙事詩“の一部は、クレメンティヌムに展示されたが反響は鈍く、批評家たちはムハが19世紀のスタイルから脱していないと非難した。一方ニューヨーク・ブルックリン美術館での最初の11点の展示は大成功だった。

この畢生の大作は1928年、見本市会館に展示され、クレイン臨席のもと公式にチェコ民族とプラハ市に手渡された。第二次世界大戦後モラフスキー・クルムロフに移され、1963年から城内騎士の間で公開展示されている。
1931年には聖ヴィート大聖堂は大司教礼拝堂脇に、キュリロスとメトデウスの昇天、およびスラヴ人の寓意画を主題に、ステンドグラス創ったが、1939年、故国にナチスが進攻した4ヶ月後の7月14日、79歳の誕生日の10日前に死去した。

息子のイジー(1915~91)は、リドヴェー・ノヴィニ紙支局員としてパリに滞在中、結婚した女流作曲家のカプラーロヴァーが、間もなく病没したあとイギリスに渡り、1941年音楽家のジェラルディーン・トムスン(1918年生、2009年現在存命) と再婚、空軍士官、BBC報道員として勤務した。戦後、妻ジェラルディーン、母マリエ、姉ヤロスラヴァとプラハへ戻り、ブベネチ区からフラッチャニ区へ移り住んだ。彼は作家、ジャーナリストとして活躍していたが、共産党クーデタの翌1949年に逮捕され、前年に生まれたジョーンは18年間イギリスの祖母のもとで過ごした。のちに釈放されたイジーは、5ヶ国語を駆使していた母が1959年に他界してからは、父アルフォンスの遺品の管理に心血を注ぎ、1980年代後半「プラハ国立博物館美術展」の折に来日した。彼の死後、妻は銀行家となった息子ジョーンと「ムハ財団」を立ち上げ、1998年にプラハのカウニツ宮殿内にムハ美術館を開いた。


※ジスモンダ:
サルドゥVictorien Sardou(1831~1908)作。
ルネサンス期のアテネを舞台に、公妃ジスモンダとその息子を暗殺の謀略から救った鷹匠の成婚を筋とする。
La Taverne des etudiants (1854)、Mlle de Brécourt (1858)
Les Premières Armes de Figaro (1859)、Les pattes de mouche (1860)
La perle noire (1882)、Nos intimes (1861)、La famille Benoĩton (1865)
Divorçon (1880)、La Tosca (1887)、Thermidor (1891)
Madame Sans-Gène (1893)
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[ 2011/11/27 09:44 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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