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カレル橋彫像解説 2/3

11.洗礼者ヨハネ

マックス1857(5)年作。

碑銘:Joz.Max[ inv.et fecit]
J・マックス設計建立。

献呈:ネウペルクの騎士ヤン・ノルベルト。

記述:以前ここにハブロコフ作の主の洗礼者の群像があったが、1848年の砲撃で破損したため、1855年にエリシカ通りへ、さらにワルトシュタイン宮殿庭園に1906年まで、以降ラピダリウムに移された。この像と聖ノルベルト群像の間で、ヤン・ネポムツキーが川へ投げ込まれたとされる場所の欄干に、「ヴルタワ川の波上の聖ヤン・ネポムツキー」というブロンズ板がはめこまれている。

ヨハネとは“ヤハウェは恵み深い”の意。両親は祭司ザカリアとエリザベツ、クムラン宗団と関連。

カレル彫像11



12.聖クリストフォルス:

マックス1857年作。

碑銘:
【台座前面】
Ut ille nos pelago saeculijactatos bracchio potenti perducat ad portum salutis quem mirum infantem Selix Cgristophore pie portasti per fluctus te coelestem periclitantium in undis patronum cives precamur pragenses.

年波に揺らるわれらを、幸いなるクリストフォルスの如、力強き腕もて救いの岸辺に運び給え;そのことを類い稀なる幼子を愛もて波を越え、 波の中の危険に耐うる人々に天なる守神あたな様に、プラハ市民は乞い願う。

【台座左】
Cleri pragensis duces et cultures viribus unitis posuerunt.
プラハの聖職者と崇拝者らが一致協力しこれを建立。

【台座右】
Anno reparatae salutis 1857 die festa s.Christophori.
聖クリストフォルスの聖日、再度救済の1857年に。

【聖者の右足下】
Em.Max invenit et fecit 1857. 
設計建立。

献呈:ヴァーツラフ・ワンカ市長。

記述:以前ここに橋上の治安を監視する衛所があった。しかし1784年2月28日の洪水で、この付近の橋桁2本が氷塊で壊され、衛所が川に落ち5人の兵士のうち4人が落命した。1788年M・フメルにより橋は修復され、ヨ-ゼフ二世がじかにその保全にあたることになった。以上のことは台座の大理石板に記される。のちにこのプレートは旧市街橋塔の壁に移され、今日に至っている。

シュポルク伯爵は1720年頃、衛所の屋根上にカレル四世像を建てるつもりで、皇帝の脇に“真実と正義”の寓意像を置くべく、M・ブラウンに依頼した。さらに空間があったので、戴冠式行列などに備え、ハプスブルクのスローガン“不変と力Costantia et Fortitudo”のシンボルも置くつもりだった。しかし皇帝もプラハ行政当局もあまり関心を示さず、この計画は実現しなかった。

クリストフォルスは3世紀頃カアナン(犬の意)の上流家庭に生まれ、シチリアで回心、テキウスの迫害で殉教。彼は地上最強の者に仕えようと、皇帝~悪魔を経て十字架(キリスト)にたどり着いた、という伝説が12世紀頃からドイツで流布した。ペスト流行時には彼の画を壁や家の外壁に魔よけとして掲げた。東方では犬の頭(地の果てに住む怪人)で表されることがあり、祝日は7月25日。14救難聖人の一人で、車、巡礼、商人、船人、荷運び人などの守護人である。本名レプロープスまたはオフェルス。レプローブスという犬頭人体の人食い人種が、キリストの洗礼を受けてクリストフォルスの名づけられた。エジプトの犬頭の神アヌービスの影響といわれる。

カレル彫像12


13.聖ノルベルト、ヴァーツラフ、ジギスムント

マックス1853年作。

碑銘:
【台座中央】
Honori divi Norberti patriarchae sacri ac canoniciordinis praemonstratensis atque patroni begin bohemiae anno salutis 1853 tertio iam posuit venerandasque ss.regum Venceslai et Sigismundi imagines adiunxit laetis sub ausperendissimi ac magnifici Hieronymi Zeidler Praesulis Sionei canonia strahovensis.

プレモントレ会総主教にして司教座聖堂参事会員、ボヘミアの守護神たる聖ノルベルトを讃え、記念すべき1853年、三度これを建て、さらに聖者ヴァーツラフ、ジギスムント両王の像を加えるは、ストラホフ・プレモントレ会修道院および、シオンの代表者たるJ・ザイドラーである。

【台座左】
S.Venceslausm. duxet patronus bohemiae decus solamenaque patriae.
聖ヴァーツラフ、殉教者、ボヘミア公にしてその守護神、祖国を飾りと慰め。

【台座右】
S.Sigsmundus m.rex burgundiae patronus bohemiae regni Christi propugnator perennis.
ブルゴーニュ王、ボヘミアとキリスト王国の守護神なる殉教者、聖ジギスムント。

【聖ノルベルトの足下】
Ios.Max inv.et fecit  
J・マックス設計建立。

記述:群像の中央に聖ノルベルト、右手に旗を持った聖ヴァーツラフ、左手に聖ジギスムント。以前ここにJ・ブロコフ1708年作の、使徒ヤコブと善人アドリアンを従えた聖ノルベルト群像があり、献呈者はストラホフ大修道院長V・シュパイプルだった。1764年にこの群像が老朽化したため、かつてのベネディクト教会に移され、新市街の貴族女学院の庭に置かれた。代りにカレル橋上にはI・プラツァー・シニア作の群像が置かれた。
 聖ノルベルト(c1080年ドイツのクサンテニ生~1134年6月6日没)の貴族一家は、ハインリヒ四世の親戚だったから、彼は宮廷の聖職についた。波乱万丈の生活と送った後、1115年雷に打たれ落馬して一身発起、故郷の修道院に入る。1120年ラオン近郊でプレモントレ会を創設、1126年マグデブルク大司教、教会および世俗世界の批判者、戦士、外交家となった。1132年ロータル三世に随行、教皇イノケンティウス二世を支持、帰途、天使らに伴われ昇。遺体は1627年プラハのストラホフ・プレモントレ修道院に安置され現在に至っている。
 ジギスムント(ブルグント王)は、妻=(オストロゴート王の娘)の死後、若くして美人の彼女の侍女プロコピエを娶った。ある日、王妃の衣を試着し、王位継承者たる前妻の息子ジデリヒに咎められた彼女は、義理の息子に復讐すべく甘言、嘘泣きなどあらゆる手段を尽くして、ジギスムントに無実を信じさせる。激怒した王は522年息子を殺させる。しかし息子の遺体を見た王は後悔する。1年後フランク軍がブルゴーニュに侵攻し、王夫妻と二人の息子は殺され、遺体は深い井戸に投げこまれた。3年後、近在の修道院の院長がジギスムントの遺体を見つけ、自分の大修道院に安置した。そこからカレル四世がプラハへ移させた。聖ヴァーツラフについては別項参照。

カレル彫像13


14.聖ボルジア・フランシスコ

ブロコフ1710年作、1937年改修。
1784年の洪水以降1881年まで、この像の前に歩哨一人のための衛所があった。これは群像の壁に組入れられた。

碑銘:
【天使の足下】
Ioannes Brokoff fecit.
ブロコフ作。

献呈:皇帝の城伯にしてウィーン新市街の財政官コレットのフランツ。

記述:左手の天使が持っているのは全聖人賛美の象徴。坐している天使が示しているのは、その賛美の源たる聖母マリア崇拝の盾。
 聖ボルジア(1510~72年9月30日、祝日10月10日)は、スペインのガンディア大公の子。貴族趣味の美男子の彼は1543年父の後を継ぎ、カタルーニャ副王に列せられ、スペイン王カルロス五世と妃イザベラに寵愛され、魅力的なエレオノラ・デ・カストロとの間に8人の子をもうけた。トレドでイザベラ王妃が亡くなり、遺体はグラナダに移送ることになり埋葬され、ボルジアがその監視役となった。宮廷の慣習により埋葬前に監視役は遺体を確認する。王妃は生前遺体をバルサンで脱臭しないよう願っていた。1週間あと棺を開けると、腐敗、異臭に皆たじろぎ、ボルジアの傍には誰もいなくなった。彼は美女の変り果てた姿に愕然とした。翌日盛大な葬儀が行われたが、彼には人生の儚さが身に沁みた。彼は妻の死直後の46年イエズス会に入り、イグナチウスらと親交を結び、65年イエズス会3番目の将軍に選ばれた。

カレル彫像14


15.聖ヤン・ネポムツキー

ウィーンの彫刻家Matyáš Rauchmüllerラウフミュラー(1645~86)1682年設計、ブラウンが1683年(この年トルコ軍がウィーンから撤退し、この聖人の没後300周年にあたる)、スピシ出のヤン・ブルコフの木像を元に、ニュルンベルクのヘロルトWolfgang Jeroným Heroldtが同年鋳造。橋上最古の唯一ブロンズ像。

碑銘:
【台座正面】
Divo Ioanni Nepomuceno anno 1383 ex hoc ponte deiecto erexit Mathias L.B.beWunschwitz anno 1683
この橋より1383年川に投げ入れられし聖ヤン・ネポムツキーを讃え、マチアーシュ・ヴンシュヴィツ男爵建立。

【台座右側】
Brokoff fec.(上記)

【像右足下】
Me fecit Wolff Hieronymus Heroldt in Nurumberg 1683(上記)

献呈:
ロンシュペルクおよびベズヴィロフの領主マチアーシュ・ヴンシュヴィツ男爵。

記述:像は司教座参事会員の服をまとい、頭の周りに5つ星の光輪がついている。台座の下には板が3つあり、中央板には上記献呈者の記述、左側板には王女の告白、右手板にはネポムツキーが橋から投げ込まれる様が刻まれている.

ヤン・ネポムツキーはヴァーツラフ四世治世(1378~1419)時代、大司教ヤン・イェンシテインの身近な補佐にして代理司教で、王の二度目の妃ジョフィエの告悔僧だったという。王は若く美しい王妃を大変愛していたが嫉妬深く、ネポムツキーに王妃の告白を漏らすよう迫ったが断られた。やがて彼は王と大司教に憎まれ、拷問の末1393年3月20日の夜、石橋の上からヴルタワ川に投げ込まれたという。これらの伝説は、後世イエズス会が、ヤン・フス崇拝をヤン・ネポムツキー崇拝に向けるためのデッチ上げとも云われている。上記設計者ヘロルトがニュルンベルクでこの像を鋳造する際、まだ聖人にもなっていなかったこの人物を、想像だけで作り上げねばならなかった。プラハでの聖ヤンの祭りは1771年5月16日から始まり、聖像は白樺や花で飾られ、毎日2回その前で宗教儀式が行われ、ボヘミア、モラヴィア、シレジア各地から何万もの巡礼が押しかけた。射撃島からは花火が打ち上げられ、提灯を点した小船がヴルタワ川を行き交った。

カレル彫像15


16.聖ルドミラとヴァーツラフ

ブラウン工房1720年頃作。碑銘なし、献呈不明。

ヴァーツラフ少年に教えを授けている聖ルドミラ像。本来はプラハ城壁アイジーデルの聖母マリア礼拝堂前にあったが、1784年の大洪水でここにあった、聖ヴァーツラフ像が破壊されたため、カレル橋に移された。これはパドゥア起源ザルツブルク出のO・モスト(1659~c.1701)作で、足下のレリーフに聖ヴァーツラフ暗殺場面が描かれてい
る。1791年に聖ヴァーツラフ像は若干の修復後、プラハ城に移され、現在はラピダリウムにある。

ルドミラ(841~921年9月15日)は、ムニェルニーク近在に生まれ、ボジヴォイ公の妃となり、871年メトデウスから洗礼を受け、874年頃キリスト教徒となり、貧者、寡婦、孤児に気を配った。ボジヴォイの後を息子ヴラチスラフが継いだが、若死にして政務を継いだ妻ドラホミーラと対立、チェシーンで殺害された。その息子(ルドミラの孫)がヴァーツラフとボレスラフである。

カレル彫像16


17.パドゥアの聖アントニウス

マイヤーJan Oldřich Mayer(1666~1721)1707年作。

碑銘:
【台座両側】
Deo incarnate et sancto Antonio de Padua erigebat et dicabat
モリツ・V・ヴィタウアーにより建てらる。

【台座中央】
Dei gloriae zelotes hostes Iosephi Caesaris feri Timore.
戦う神の栄光よ、ヨーゼフ皇帝の敵を恐れ慄かせ。

献呈:旧市街市民にしてプラハ城代顧問官K・M・ヴィッタウアー。ホテク伯爵により修復。

パドゥアの聖アントニウス(1195~1231年6月13日):リスボン生、パドゥア近郊没。15歳にして生地のアウグスチノ会に入り、2年後コインブラ修道院入り、1220年当地のフランチェスコ会に入り、アントニウスと改名。布教のためモロッコに送られたが、健康を害しヨーロッパに戻り、アッシジはじめイタリアやフランスで布教、1124年南フランスのアルビ派と戦った。

カレル彫像17


18.燭天使に守られた聖フランチェスコ
マックス1855年作

碑銘:
【台座中央】
Sancto Francisco Seraphico ob Franciscum Iosephum imperatorem Augustum 1853 divinitus servitum D.D.Franciscus Antonius Kolowrat Liebsteinsky eques avrei velleris 1855.    

1855年フランツ・ヨーゼフ皇帝を護った燭天使に守られた聖フランチェスコに、1855年、金毛会騎士コロヴラト・リプシテインスキー伯爵フランリシェク・アントニーン。

【台座右手】
Anjelům svým přikázal o tobě, aby tě ostříhali na všech cestách tvých. Žalm 90.11. 

詩篇90章11節。聖像下Em.Max inv. Et fecit.E・マックス設計、製作。

献呈:コロヴラト・リプシテインスキー伯爵フランリシェク・アントニーン。
元々ここには1708年、マラー・ストラナ在住の彫刻家フランチシェク・プライス作の群像があったが、材質が悪く風雪に晒されたためマラー・ストラナの聖ヨゼフ教会へ移された。これはプラハのカプチン会士たちの依頼で作られたが、費用を負担したのは、トロヤの館を造らせたシュテルンベルクのヴァーツラフ・ヴォイチェフだった。

フランチェスコ(フランス崇拝の父親が命名、1181~1226)は、商人となり放縦な生活ののちペルージャの戦いで捕虜となり、1年間受牢中に病いを得て回心、ある日アッシジ郊外の荒れ果てた聖ダミアヌス教会に足をとめ祈り、神の声を聞いた。そこで彼は急ぎ家に帰り丹物を売り払い、この教会を再建した。父に勘当された彼はその後、托鉢して廻り、フランチェスコ会を創設した。1124年アルヴェルナ山で断食中に、キリストの聖痕を刻印さる。晩年は視力を失う。

カレル彫像18


19.聖タダイのユダ
マイヤー1708年作

碑銘:
【台座上】
Devoto Christi amico
敬虔なるキリストの友へ。

献呈:ネミシュルとイェツシホヴィツェの騎士ミトロフスキーなる、ボヘミア王国代理書記フランチシェク・セジマ。

タダイのユダ(神を賛美しようの意):
他の使徒とは異なり漁夫ではなく農夫で、イエスの近親者(彼の母とマリアは姉妹)だったらしい。イエスとは短期間のみ行動を共にするつもりだったが、師の奇跡を見て後に従った。イエスの教えを遠隔の地でひろめたが、ペルシャ兵に殺された。

カレル彫像19


20.聖ヴィンケンティウス・フェレリウスとプロコプ

ブロコフ1712年作

碑銘:
【標識の上】
s.s.Vincentio ferrserio et Procopio binis patronis D.D.D.
二人の保護聖人聖ヴィンケンティウスと聖プロコプに。

【台座蛇腹に】
Convertiti 100 000peccatores.
十万の罪人を改悛さす。

【左の棺】
Resuscitavit 40.
四十人を蘇生。

【左手女人像柱台座】
8000 Saracenos ad fidem catholicam.
八千のサラセン人をカトリックに改宗さす。

【前面女人像柱】
2500 Iudeos ad Christum.
二千五百のユダヤ人をキリスト教徒に。

【右手女人像柱】
70 daemones domuit.
七十匹の悪魔を改悛さす。

【台座上板】
Timete deum et date ikki honorem quia venit hora iudicii eius.
裁きの時近ければ、神を恐れ敬え。

【台座後】
Opus Ioanis Brokoff.
ヤン・ブロコフ作。

ヴィンケンティウス(1350~1419):
スペインのドミニコ会士。1384年ヴァレンシア聖堂付属新学校教授、審判の天使と呼ばる。祝日4月5日。プロコプ(985~1053)コウジム近在生。1030年サーザヴァ修道院を設立、院長となる。歌唱に優れ、薬草を集めた。

カレル彫像20



ブルンツヴィーク像

上記の外側通称「ローランの柱」という橋桁にブルンツヴィーク像(1506年頃作)のコピー(1884年)がある。ハンガリー王ベーラに勝利したオタカル二世が、民衆の歓呼のうちにカレル橋を渡りながら、感謝に念をこめ剣をヴルタワ川に投げ入れたという。

Venceslaus (Václav)=Wencl,Wencel
Boleslaus(Boleslav)=Buncel
Przetislaus (Břetislav)=Pretzel
Przemysl (Přemysl)=Pruncel,
Prunclík, Brunclík, Bruncvík
Przemysl・Pruncel・Bruncvík は
有名なオタカル二世Přemysl Otakarをさす。

作者:ルドヴィーク・シメク1886年。

献呈:プラハ教区。もとは川に向いていたが、1648年、1848年の砲撃で損傷、1886年に再建された。現物はラピダリウムに保管。本来は剣をひっさげ、平和と友情を示す老人像だった。象牙製の縮小コピーはプラハ市立博物館にある。同様のものは北ボヘミアのリトムニェジツェはじめ、国外ではヴェネツィア、ニュルンベルク、ハンブルク、ブレーメンなどにもある。

カレル彫像ブルンツウィーク



[ 2011/08/02 22:24 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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