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「未完成交響曲」の里

schubert
戦後間もなくシューベルトのロマンスを描いた、「未完成交響曲」という映画があった。原題はLeise fliehen meine Lieder ひそかに呼びかける/ わが歌は/ 夜闇を通し/ ながもとに/ で、歌曲「セレナーデ」の冒頭句(譜例)である。これはヴィリ・フォルスト監督1933年作のオーストリア映画で、シューベルトの名曲の数々を、ウィーン・フィル、同オペラ合唱団が演奏し、ハンガリーの田舎の酒場の場面では、有名なホルヴァート・ジプシー楽団が、チャールダーシュ舞曲を弾いていた。侯爵令嬢カロリーネに扮する女優マルタ・エッガートが、美しく可愛らしかった。


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宮廷楽長サリエリに学び、大いに楽才をのばしたシューベルトは、1818年と24の2回、フロン川沿いの村ジェリズ(現スロヴァキアのジェレゾフツェ)にある、エステルハージ分家の別荘で、侯爵カール(1775~1834)の二人の令嬢マリー(1802~37)とカロリーネ(1805~51)に、歌とピアノを教えていた。当初彼はは使用人と同居させられ、幸福な日々もつかの間、次第に孤独感に襲われる。でもここでの滞在で、スロヴァキアやハンガリーの民謡に接し、のちの作曲に大いに役立てる。2度目には侯爵の友人たちと食卓を共にし、とくにシェーンスタイン男爵と親交を結んだ。

しかし1822年に「未完成交響曲」を書いたシューベルトは、年末ルーエスに罹ってしまった。ベートーヴェンはじめ、スメタナ、ウォルフ、グラズノーフらを襲った忌まわしい病気である。彼は頭部の発疹のため、髪を剃り落としてカツラをつけ、ひどい憂鬱状態になってしまった。1823年にミュラーの詩による「美しき水車小屋の娘」を書いたのも、故なしとしない。当時、彼は自分のことを“この世でもっとも不幸な人間”と言っていた。シューベルトは1828年11月19日、脳動脈閉塞で他界するが、いち早くルーエスの隠蔽が行われ、腸チフスが死因と公表された。

彼の死後160年目の1988年9月末、この地を訪ねてみた。現地の友人の車で、メンデルが遺伝の実験をしたモラヴィアの中心都市ブルノから、ブラチスラヴァ(かつてのプレスブルク)に向かう。ここはもうスロヴァキアで、広大なドナウ平原の中、クルミとポプラの並木道が続き、低い屋根の家が多く、標識にはスロヴァキア語とハンガリー語が併記されている。かつてシューベルトたちがウィーンから旅したように、ストラーコヴィチョヴォ(ディオゼク)、ヴェラーフレ(ヴェレベーイ)を経て、人口5千のジェレゾフツェ村に着いた。18世紀末に出来たロココ風のかつての館はそのままで、公園のように広い屋敷内には、カシやボダイ樹、カエデの大木は梢を震わせ、白樺、アカシヤの間で、ナナカマドの赤い実が、ひときわ鮮やかに輝いていた。庭のまん中にシューベルトの胸像が建ち、やや離れた所に2階建てのこじんまりした記念館があって、モクレンと赤い花が私たちを迎えてくれた。これは使用人たちが住んでいた建物らしい。入るとすぐにピアノがあり、壁一面に資料が貼られ、2階には館から持ってきた当時の家具が置かれていた。意地悪く記念館の女性に「シューベルトは何で死んだの?」と訊くと、案の定「チフスです」という答え。「本当はル-エスだったんだよ」と言うと、怪訝そうな顔をしていた。近在のハンガリー人女学生の一団も来ていたが、もちろんカロリーネの姿はない。彼女はそれほど美人ではなかったが、シューベルトを心から尊敬し、最晩年の「幻想曲ヘ短調」作品103、D.940を献呈されている。39歳になり初めて結婚するがすぐに離婚した。

かくしてウィーンから14駅、昔は往復1週間かかった道のり以上の、往復500キロの旅は終った。
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[ 2007/02/21 12:47 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)