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フロイトの生地を訪ねて

フロイト
1983年6月末、ポーランド国境に近い北モラヴィアの重工業都市オストラヴァに、知人である引退したオペラ歌手と奥さんの女医さんを訪ねた折、フロイトの生家を案内してもらった。それはオストラヴァから30キロほど南のプシーボル(フライベルク)という、人口1万3千の静かな町中にあった。公民館横に最近できたらしいフロイトの胸像が建っており、少し坂を下ったあたりの古めかしい一角に生家があった。これはザイーツ(野兎の意)の家といい、横の通りは昔は錠前屋通り呼ばれていたが、フロイト生誕75周年1931年にフロイト通りと改名された。その時、町は旗で飾られ、生家には青銅の立派な額が掲げられ、市長あてのフロイトの謝辞を娘のアンナが代読した。しかし7年後に進駐してきたナチス軍隊に壊されてしまった。現在かかっている記念額は1957年につけたもの。近くの郷土史館の一室が”フロイト“記念室になっていて、壁には年表や写真がいっぱい掛けられ、ガラスケースには「フロイト全集」はじめ、多くの資料が収められていた。

11世紀後半にできたこの町は、13世紀半ばのモンゴル侵攻がおさまったあと、チェコ人とドイツ人の入植が盛んとなり、手工業が栄え、15世紀には近在の行政、経済の中心地となった。フロイトの祖先は15世紀にライン川沿いのケルンに住んでいたが、ユダヤ人大虐殺を逃れて19世紀に、リトワニアからガルシアを経てオーストリア領へ移住した。フロイト一家がやって来た19世紀半ば、ベスキデ山脈を望み、林や池の多い平原の中のこの町の人口は約5千で、町囲壁の名残、広場、アーケードのあるバロック風建物、工場などがあり、中心には巡礼地としても名高い、聖ヴァレンタイン教会が聳えていた。ボヘミア、モラヴィアの他都市と異なり、カトリック色が強く新教徒とユダヤ教徒は、それぞれ2%に過ぎなかったが、チェコ的色彩の濃い町でもあった。

父のヤコブは兵役を免れるため、16歳で結婚し2児をもうけたが、妻に先立たれたため再婚した。母のマリア・ナターゾーンはロシアの出だがウィーンに移り、20歳の時ヤコブと結婚した。フライベルクで父は錠前屋のザイーツから一戸建ての家を借り、羊毛商人として生計を立てていたが、あまり成功しなかった。ユダヤ教徒としては最低限のことしか行わず、むしろ自由主義思想の持主だった。

1856年5月6日に生れたフロイトは、シェロモ(ソロモン)・シムハ(学問を究めんとする賢い男の意)と名づけられた。家族が多く、生まれながらにして叔父になっていたなどの家庭環境が、彼の心理に影響を与えたに違いない。カトリックのミサによく連れていってくれた、大好きなチェコ人の乳母が、盗みの疑いで解雇されたことが、のちの彼の無神論に作用したかもしれない。1歳年上の甥ヨハンとはよく遊んだが、友情と敵意に満ちた交わりで、ここに愛憎依存(アンビヴァレンス)の萌芽をみる。2歳の頃よく寝小便をして父に折檻された。好奇心から夫婦の営みの最中に、寝室に入って父に追い出されたり、裸の母親をまじまじ眺めたりしていた。1歳半のとき弟ユリウスが生まれ、ひどい嫉妬にかられ死ねばいいと思ったとか。実際この子は8ヶ月で亡くなり、彼は終生、自責の念にかられたという。

ところで1848年の革命で、チェコ人の間に反ドイツ気運が高まり、1850年代のオーストリア=イタリア戦争の結果、インフレが助長し、近くに毛織物工場が新設されたため、一家はウィーンへの移住を余儀なくされた。彼は3歳にも満たなかったが故郷喪失感に襲われ、旅のある駅のガス灯を見て、魂が焔の中で燃えている“カトリックの地獄”という考えに囚われた。故郷へは16歳のとき短期間帰っている。父が一時勤めた工場主の家に泊り、1歳年下の娘に一目ぼれするが、胸のうちを明かすこともできず、エロチックな空想を描きながら森中をさ迷い、故郷を捨てた父を呪った。

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フロイト一家がウィーンに出てきた頃は、ハプスブルク帝国の強権的なバッハ体制が揺らぎ、町には自由化の風が吹き始めていた。小、中学校を抜群の成績でおえたフロイトは、1873年ユダヤ慈善協会の資金援助を得てウィーン大学に入る。当時の医学界はヘルムホルツ(1821~94)を最高権威とみなされていたが、フロイトは1876年に生理学研究所で、ブリュッケ(1819~92)の助手となり、トリエステに赴き、ウナギの生殖腺の研究をする。79年と81年にはザリガニの神経細胞の研究で「神経細胞と神経突起はまとまった一単位」という、今日の神経元理論の先駆となる理論をうち出した。79年から1年間、病院で待機するだけの軍務についたが、退屈しのぎにミル(1806~73)の翻訳をしていた。81年3月の医学最終試験に成績優秀で合格、1882年から3年間ウィーン総合病院の内科、皮膚科、耳鼻科のアドを廻ったが、一番有意義だったのは、脳解剖学者のノートナーゲル(1841~1905)の精神病理学臨床教室で、この神経科の科長として、副手2名、助手1名、看護婦10名を率いて、100人以上の患者を診察、85年9月には神経病理学の私講師となった。当時の特記すべきことに、コカインの系統的研究がある。この業績は友人の眼科医コラーに超されてしまうが、苦い思出として、これを用いた患者の副作用で裁判沙汰になったことと、三叉神経痛に悩んでモルヒネを常用していた友人、フライシュル(1847~91)をコカイン中毒に追いやったことである。その後ひととき上流社会の私立精神病院に勤めた。

1885年から翌年にかけ、ブリュッケの力添えで、ビルロート(1829~94)やポリツァー(1835~1920)らが審査員をしている、国外給費生試験に合格し、シャルコ(1825~93)のいるパリのサンペートリエール病院に出かけた。当時のシャルコはドイツ学派と異なり、精神の機能的障害を追求していた。フロイトはここを去るにあたり、彼の「神経系疾患の新講義」を翻訳する許可を得た。
 
1886年、5年の婚約期間を経てマルタ・バルナイスとハンブルクで結婚式をあげた。祖父がハイネの親戚にあたるこの一家は、1869年にウィーンに出てきた。彼女は商人の娘で、兄のエリとフロイトのすぐ下の妹アンナは、すでに3年前に結婚していた。フロイトは一等地のラートハウス通7り番地に神経科診療所を開き、ウィーン小児疾患研究所神経科長の地位も得たが、つましい生活を送っていた。彼は従来の治療に催眠療法も加え“奇跡をもたらす医者”の評判が広まったが、一時的なものだった。秋には耳学会雑誌に「聴神経の起源と連絡」についての論文を発表。また医師会での留学報告で「男性のヒステリーについて」語ったが、一笑に付され大いに傷ついた。当時ヒステリーは仮病、神経過敏、時には子宮の疾患と考えられ、陰核の切除さえ行われていた。それにウィーンの大部分の医者とフロイトとは敵対関係にあり、フランスが対プロシャ戦争に負けたことも手伝い、「フランス男はヒステリーになるかも知れんが、われわれに絶対せんなことはない」とさえ言われた。

開業以来、彼を物心両面で支えていたブロイエル(1842~1925)は、半規管の機能も研究し、のちにウィーン科学アカデミー会員にも選ばれた人だが、カタルシス(通利)法を用いた「アンナの症例」は有名である。この患者ベルタ・フォン・パッペンハイムは、その後も再発したが、ドイツに移住して後半生を社会奉仕に捧げた。ブロイエルは女患者と深くかかわり、妻の嫉妬を恐れ消極的になってゆくが、フロイトは彼を説得して1895年に、共著「ヒステリー研究」を出した。フロイトはカタルシス療法の代りに自由連想法を用いたが、成果は患者の信頼度に左右された。

1889年には催眠療法の腕を磨くためナンシーに赴き、貧民への施療に献身する老医リエボールに感銘した。当時、出会った重要人物に、世に認められないフロイトを理解し支えてくれた、ベルリンのユダヤ人耳鼻科医フリース(1858~1928)がいる。二人は1904年に絶交するまで何度が会い、書簡を交し合った。フリースは「鼻介の麻酔で月経痛や神経性胃炎が和らぐ」という理論をもっていた。彼は生理学者で数学にも通じ、今で言うバイオリズムの数式化にとり組んでいた。当時鼻の病気に罹っていたフロイトは1895年に、彼から下鼻介の焼灼と蝶形洞の手術を受けている。

この年フロイトは住まいを、ベルクガッセ19番地へ移した(1954年に記念額が掲げられた。1949年にはウィーン9区のアパートのある建物が「フロイト記念館」となった)。1896年には6人の子供の中に義妹のミナが加わり、終生同居し続ける。1897年に自己分析を試みる。

1900年に有名な「夢判断」を出版するが、最初の6年間で350部が売れただけだった。1902年に大学の準教授となる(正教授になるのは1920年)。フロイトの精神分析を最初に追試したのはライトラーだが、それにステッカー(1868~1940)らも加わり、毎水曜フロイトの家で討論会が開かれ、その内容をステッカー`が「ウィーン新日報」の日曜版に送った。この会が後の「精神分析協会」の母体となる。1906年頃、アドラー(1870~1937)、スイスの分析医ブロイラー(1857~1930)、ユング(1870~1961)らが、フロイト側についていたが、圧倒的多数の反対者らは、フロイト一派を“性的倒錯者にして、原始的放縦への回帰を扇動する社会的危険分子”と看做していた。

1908年にユングは国際精神分析学会をザルツブルクで開き、2年後に同協会が発足した。しかし1911年から14年の間に、アドラー、ステッカー、ユングらが相ついで脱会した。そこでフロイトは1912年にジョーンズ、フェレンツ、ランク、ザックス、アブラハムらとコミティー(委員会)なる会を作ったが、離反者が続出した。なお1908年にフロイトは、マンチェスターにいる異母兄エマヌエルを訪ね、帰途ロンドンに立ち寄った。1909年アメリカはマサチューセツ州ウースターのクラーク大学創立20周年式典に招かれ、記念講演を行った。1910年には同じモラヴィア出身の大作曲家で当時、強迫神経症に悩んでいたマーラーの精神分析を行っている。

第一次世界大戦はフロイトにとりショックだった。書斎を暖めることも出来ず、息子も従軍している戦況を見守っていた。1915年にはノーベル賞候補に名前が挙がった。しかし当時のヨーロッパ医学界は精神分析を重視せず、受賞者の中で暖かい声援を送ってくれたのは、バーラーニ(1876~1936)と薬学者のレヴィーだけだった。戦争がむしろ精神分析を発展させたのは、1918年ブダペストで開かれた国際精神分析学会のテーマが、「戦争神経症への精神分析療法利用の可能性」だったことからも解る。

1919年にフロイトは精神分析関係の雑誌や書籍のための国際出版社を創った。1920年に娘のゾフィート、忠実な患者で親友だったフロイントを失い、落胆一入だった。1923年、口腔癌らしきものの手術を受け、以後16年間に23回の手術が行われた。これは精神的、肉体的、経済的に大きな負担となったが、決して泣き言を言わず仕事も休まなかった。1924年に名誉市民としてウィーン市民権を授かった。1930年8月には、それまでの文筆活動に対し、フランクフルト市から“ゲーテ賞”が贈られた。1931年ハックスレーの記念講演を行うため、ロンドンを訪れた(ドイツ人としては19世紀末のウィルヒョー以来のこと)。1933年ベルリンで反ナチス書籍の大量焼却があり、その中に彼の本も入っていた。医学界でも統制が行われ、「わが闘争」を全医師会員が読まされ、クレチマー(1888~1964)は国際精神療法学会の会長職を退いて、ユングが後任となり、悪名高いゲーリング空将の従兄弟が補佐した。精神療法は、科学的なものと非科学的なものをでなく、アーリア人種とユダヤ人種を分ける仕事になり下がり、ユダヤ人会員は脱会させられた。

1935年にフロイトはイギリス王立医学会員に選ばれ、1936年の80歳の誕生日には医学心理学会で、古い友人のビンスヴァンガーとトーマス・マンが記念講演を行った。1938年3月ナチスがオーストリアに侵攻し、SAがフロイトの家宅を捜索した。彼は強制収容所送りのリストに入っていたが、アメリカ大使、ドイツ大使、イギリス内相、それに考古学の上でフロイトに共感していたムッソリーニらの計らいで、イギリス移住が認められた。そのための5千ドルを支払ったのは、弟子のギリシャ王女マリー・ボナパルトだった。ニトログリセリンやストリキニーネを服用しながら、6月初めパリ経由で、ロンドンはメイヤーズフィールド・ガーデンズ20番地に落ち着いた。不治の病いに苦しみながらも患者を診察し、翌1939年9月末、永遠の眠りについた。なお年老いた4人の妹は5年後、強制収容所の灰となって昇天した。

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ここで長寿家系のフロイト自身の病歴をたどってみよう。1880年代には扁桃周囲膿瘍、副鼻腔炎、左側座骨神経痛、天然痘、心臓病、葉巻喫煙過多によるニコチン中毒。1890年代には狭心症疼痛、左心不全を伴う発作性頻脈。

1910年代には口蓋の腫脹、ロイコプラキー。1923年の第1回目の口腔癌手術は、高名なハーイェクが行ったものの、大量の後出血で一騒動があった。続いてラジウム照射を受けたが副作用は激しかった。その後、局所の電気凝固術を含め、30数回の手術を受けたことはすでに述べた。

1920年代には輸精管結索、プロテーゼ(義歯)挿入、局所リンパ節切除術などを受け、狭心症、副鼻腔炎、右側耳管中耳炎、重症結膜炎などに罹っている。1923年にドイチュが去ってから空白になっていた内科主治医に、マリー・ボナパルト王女の薦めで、1929年にM・シュール博士が迎えられた。

1930年代に入っても手術は続けられ、これはピヒラー博士が担当した。術前にスコポラミン、ユーコダールなどが注射され、笑気、ペンタトールソーダの静脈内注射で、下顎骨部分切除などが行われ、術後にアヘンが用いられたこともあるが、鎮痛剤としてはアスピリンとピラミドン以外は拒否した。後療法として同化作用を目的とした男性ホルモン注射と、放射線照射が行われた。イギリスに渡ってからは激痛に襲われ、分泌物が悪臭を放つので、愛犬すら遠ざかるようになり、ハエがたかるのでカヤが張られた。放射線のため髭が抜け、出血しやすくなり、頬骨あたりの皮膚に穴があいた。最後はシュール博士がモルヒネ注射をくり返して安楽死させた。

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終りにドーデ、アンドレアス・ザロメ、S・ツヴァイク、リルケ、ロマン・ロラン、タゴール、アインシュタイン、トーマス・マン、H・G・ウェルズ、ダリらの世界的知識人と交友したり、面識のあったフロイトの人間像に触れてみたい。
 
彼は7歳頃から旧約聖書やシェイクスピアを読み、記憶力抜群で語学の才にたけ、ラテン、ギリシャ、フランス、スペイン語に通じていた。レッシングやゲーテでドイツ語を磨き、とくにゲーテの「自然論」の深く影響された・音楽は嫌いだったが「カルメン」と「ドン・ジョヴァンニ」は別だった。葉巻を放さずワインを嗜み、時にはチェスやトランプに打ち興じ、キノコ狩り、水泳、散歩が好きで、65歳の時ハルツ山を逍遥している。めったに怒ったことはなく、人前で涙を流したのは、第1回目の手術を受けた頃、扁桃腺手術で粟粒結核が悪化し他界した、最愛の孫を失った時だけといわれる。1895年ユダヤ人クラブ(ブナイ・ブリト)に入り、隔週火曜日の集会に顔を出していた。

「健康と教育と旅行に金を惜しんでらならない」が持論で、1901年から7回もローマを訪れ、ギルシャ、ローマ、エジプトの古美術品を蒐集していた。妻は乗物に弱かったので、旅には友人や義妹と出かけたが、その前の何週間かを一家で静かな山荘で過ごしていた。また日曜にはよく母親を訪ねていた。午前8時からの患者の診察には、一人きっかり55分かけていた。

彼の言動を二三拾ってみよう。「古今の傑作“エディプス”、“ハムレット”、“カラマーゾフの兄弟”がすべて、父親殺しを主題としているのは、決して偶然ではない」と言っている。1932年のアイシュタインへの手紙で「人はだれでも生きる権利があるのに、戦争は希望に満ちた人生を断ち切り、個々人を屈辱状態に追いこみ、己れの意思に反して殺人を強制する」と、戦争反対の意思を強く表明している。「運命に逆らっても仕方ない」とも言い、度重なる手術に際し「私は生来ペシミストではない。人生の上でのささやかな事にも喜びを見出せる」と心境を披露しているが、1933年のA・ツヴァイク宛の手紙には「すべてが憂鬱で窒息しそうだ。怒りがこも上げてきて心の芯をかじる。何かすきっとできないものか・・・」とある。最後に読んでいた本はバルザックの「悲しみ肌」で、「この本は私にぴったりだ、肌が縮んで餓死する話だから」と結んでいる。

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フロイトの生地を訪ねた後、その周辺を廻ってみた。東約8キロの隣村フクワルディで彼より2年早く、モラヴィアの大作曲家ヤナーチェク(1854~1928)が生れている。同じく南に8キロ下がるとシュトランベルクという町があり、円形塔が聳える古城の丘に、モンゴル人が削いだ現地人の耳を納めるという「耳塚」がある。また30キロ真西には遺伝学の創始者メンデル(1822~84)の生地ヒンチツェ(ハインツェンドルフ)村がある。オストラヴァ西方40キロに静かな古都オパヴァ(トロパウ)がある。ここは1806年ナポレオン軍将校の前での演奏を拒否したベートーヴェンが、雷雨の夜道を歩いて「熱情ソナタ」の草稿を濡らしてしまった所でもある。オストラヴァとオパヴァとの間には大平原が広がり、その中間点にフラビニェという寒村がある。ここで第二次世界大戦末期の2ヶ月間、独ソ両軍の間で死闘が繰り広げられ(オストラヴァ会戦)、掩蔽壕にたてこもるドイツ軍により、実に2万のソ連兵が戦死したという。今もトーチカの残骸が点々と残る平原の中に、戦車を模した真新しい巨大なコンクリート製モニュメントが2基建ち、ピオニールの少年少女たちが護っていた。


参考文献:
1)E・ジョーンズ「フロイトの生涯」竹友、藤井訳(紀伊国屋書店)
2)M・シュール「フロイト= 生と死」安田、岸田訳(誠信書房)
3)J・Cvekl「 Sigmund Freud 」(Orbis社)
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[ 2008/01/05 10:59 ] 中欧文化(その他) | TB(-) | CM(-)



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