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ムハの“スラヴ叙事詩”プラハ展示

以前ブログに掲載した「ムハの生涯」に誤記があるので訂正し、2012年10月5日~13年9月末、見本市会館Veletržní palác 内、現代美術館で「スラヴ叙事詩」が公開中なので、再度、掲載します。

ムハ通称ミュシャAlphonse Maria Mucha(1860~1939)の先祖は、南モラヴィアの小村イヴァンチツェ*で代々ワイン作りを生業としており、父オンジェイは仕立屋の修行をしたのち、地方裁判所の書記となった。1859年35歳で寡夫となった彼は、裕福な粉屋の娘で、ウィーンで貴族の家庭教師をしていた37歳のアマーリエ・マラーと、持参金目当ての再婚をし、3人の子供アルフォンス、アンナ、アンジェラをもうけた。2度目の妻はやがて亡くなるが、オンジェイは残された子供たちを立派に育て、二人の娘は中学校へ通った。アルフォンスは11歳の時クシーシコフスキーが教え、ヤナーチェクが助手を勤めているブルノ・アウグスティノ修道院の給費生になろうとしたが果たせなかった。

1872/ 77年の間:ブルノ*のスラヴ・ギムナジウムで学んだが、健康を害し自宅で勉学に励んだ。しかし病弱というのは表向きの理由で“平気で嘘をつき礼拝をサボったため” 放校されたらしい。ただスケッチと歌は群を抜いており、ペトロフ教会で歌っていた。

1877年:イヴァンチツェの地方裁判所の書記となる。

1878年:プラハ工芸アカデミー入学を試みたが、ルホタ教授に“まったく才能がない”と言われ失敗した。

1879年:ウィーンのカウツキ=ブリオスキ&ブルクハルト工房に入り、劇場の書割制作に加わったが、

1881年:リング劇場が焼失したため解雇され、しばらくウィーンで細々と暮らしていた。

1882年:父のつてでモラヴィア東南端の町ミクロフ*で、劇場の演出、似顔絵描き、寄木細工のデザイン、室内装飾などの仕事をしていた。

1883年:ミクロフの西約20キロの小村フルショヴァニ*や、近くのエンマホフにある、クエンEduard Khuen- Belasi伯爵の城を飾る。

1884年:チロルにある伯爵の弟エゴンが所有するガンデグ城を装飾し、そこで伯爵夫人の肖像を描く幸運に恵まれた。ここでムハは伯爵のために数多の絵を描き、ともに北イタリアへ旅し、彼の作品を見たウィーンの画家クライWilhelm Kray教授(1828~89)の助言で、伯爵はムハのパトロンとなる。

1885年:ムハはミュンヘン芸術アカデミーの3年級に入り、K・V・マシェクらチェコ人画学生と交友。

1886年:アメリカ北ダコタ州ニュー・ピーセクのチェコ移民部落のために、ネポムツキー教会祭壇画「キュリロスとメトデオス」や、フルショヴァニ城付属病院のための「キリストの慈悲Charitas」なる大作を描いた。

1887年秋:パリに出たムハはここで17年間過ごすことになる。まずはアカデミー・ジュリアンに入り、流行のコートと帽子を買い、スラヴ出身者と交流。「炎上するローマを眺めるネロ」を描く。

1888年秋:さらに優れた教授陣のいるコラロッシ・アカデミーに移り、水彩画「Vyhlášení války u starých Slovanů古代スラヴ人の宣戦布告」で古代スラヴへの関心を示す。

1889年早々:伯爵からの援助が打ち切られたため学業を停止し、困窮の末チェコの画報“Zlatá Praha黄金のプラハ*1”や“ Světozor世界展望*2”などへの寄稿で糊口をしのぐ。彼はパリ世界万博を訪れてエッフェル塔を賛美し、チェコ民族を代表して参加したソコル体育団体*3の見事な演技を見て、スラヴを主題とする最初の芸術プランを立てた。

1990年から翌年にかけ、雑誌“La Vie Populaire庶民生活”や、“Le Costume au Théatre舞台衣裳“に(サラ・ベルナールのデッサンを含む)挿絵を載せるようになっていた。シャヴァンヌ(1824~1998)と知り合い、ゴーガンとの交友はじまる。

1891年:コランArmand Collin出版社と契約を結ぶ。

1892年:優れた歴史家セニョボスSeignobos(1854~1942)の「ドイツ史」に、有名な画家ロシュグロスRochegrosse(1859~1938)と共に挿絵を描いた。ムハが主題としたのは、スラヴやチェコ関連のもの(カレル四世、フスの焚刑、ルドルフ二世、ワルドシュタイン将軍の暗殺など)だったが、これらは後のスラヴ叙事詩(以下“SE”)には活かされなかった。

1893年:タヒチから帰国したゴーガンとアトリエを共有、写真機を購入。プラハのシマーチェク社から、S・チェフ(1846~1908)の叙事詩「Adamitéアダム宗徒ら」への挿絵を依頼さる(4年後に出版)。

1894年のクリスマスに、ルネサンス座から印刷業者ルメルシエのもとへ、サラ・ベルナール(1844~1923)主演の「ジスモンダGismonda」のポスター制作依頼が舞いこんたが、デザイナーが全員不在だったため、ポスター制作経験のないムハがこれを引き受けた。

1895年からサラ・ベルナールとの間に6年間の契約が結ばれ、これを契機に注文が殺到し、展覧会、インタビュー、豪華なパーティが続き、室内装飾からタバコのデザインまで、あらゆる分野にアール・ヌヴォなる彼のデザインが用いられた。しかし彼はポスターで有名になったことには不満で、百万長者からの装飾作品を断ることもあった。

1896年から1900年にかけムハが創った装飾パネルでは、「四季」「花」「芸術」「一日」「星」「宝石」シリーズが名高く、劇場用ポスター、雑誌のカバー、「パリスの審判」「四季」などのカレンダー、挿絵、装身具など多岐にわたっている。

1896年:雑誌 La Plume(1889年創刊)との共同作業はじまる。

1897年:パリの美術館で個展を2回(2,6月)開く。La Plume主催の巡回展がウィーン、ミュンヘン、ブリュッセル、ロンドン、ニューヨーク、プラハ(出版社トピチのサロン)で催された。J・H・ピッザ社出版のR・フレール(1872~1927)作「トリポリの王女イルゼ」のために134枚の彩色リトグラフを創った。国際美術協会Société International de l‘ Art populaire 会員となる。

1898年:1月、パリのフリーメイソン会員となる。春にスペイン旅行、ウィーン・セセッション展覧会に初参加。東ボヘミアのフルヂム、フラデツ・クラーロヴェーと、ブダペストで個展。プラハの文芸誌“ルミール”創刊号に「伝説の歌手」を描く。

1899年:オーストリア政府から依頼された、翌年のパリ万博ボスニア・ヘルツェゴヴィナ館デザイン準備のためバルカンへ旅行。12月ピアッツア社・シャムパノワ印刷所から、自ら文を書いた“Le Pater=Otčenáš わが父よ”を出版(プラハでの展示は1902年、出版は1906年)。

1900年:パリ万博では、上記パヴィリオン設計で銀賞とフランツ・ヨーゼフ一世勲章を拝受。この博覧会では日本の展示物に興味を示し、アカデミ・ジュリアン出身のカレラA. Gallen- Kallela (1865~1931)による、カレワラを主題としたフィンランド展示館を見て“SE”の構想を抱く。

1901年:パリの宝石商G・フーケ(1862~1957)店の内装をデザイン。チェコ人画家V・ブロジーク(1851~1901)のパリでの葬儀で弔辞を読む。チェコ・アカデミー会員となる。

1902年:ロダンのプラハとモラヴィア・スロヴァーツコ地方への旅に同行。プラハのオット出版社からJ・ヂェヂナとの共作「コンスタンツのフス師」を出版。

1903年:プラハ国民劇場での祝典オペラ『リブシェ』の舞台装置を担当。

1904年:莫大な借金を抱えていた彼は、経済的理由から3~5月の間はじめて渡米。日ロ戦争のさ中、ロシア支援パーティで大富豪にしてスラヴ愛好家のクレイン*4と知り合う。

1905年:1月再渡米、短期間の中断はあったが1909年まで滞在、そこでの仕事は、ニューヨークでの雑誌の表紙、宣伝、それに劇場のポスター制作だった。

1906年:6月プラハで、かつての弟子で24歳のマリエ・ヒチロヴァー(1882~1959)と結婚、ヤロスラヴァ(1909年生)とイジー(1915~91、後述)をもうける。

1908年:ニューヨーク・新ドイツ劇場の装飾絵画(“Harmonie”を含む)を仕上げる。ボストン・フィルの演奏する「ヴルタワ」を聴き、スラヴの過去と現在の宣伝に努める決心をする。クレインに二人の娘の肖像画を依頼される。

1909年:クレインから“SE” 制作に関する全面的経済支援を受ける契約を結び、夏にボヘミア・モラヴィアで過ごし”SE“のスケッチにかかる。建築家O・ポリーフカ(1859~1931)に、市公会堂(3年後完成予定)内市長室を飾る絵画の制作を薦められる。“SE“の制作と常設館建設には、マーネス造形芸術集団*5などからの反対があった。

1910年:帰国した彼は市長室絵画にかかる(エリシカ王妃、ジシカ将軍、フス師、コメンスキーなど)。J・コロレド=マンスフェルト(1866~1957)伯から西ボヘミアのズビロフ古城*6の一部を借り受け、右翼のかつての舞踏の間ま(長さ20m)にアトリエを構え、家族もろとも1928年まで滞在”SE ”の制作にかかる。この頃から画報“黄金のプラハ”は、ムハの複製を連載しはじめる。

1911年:市長室の装飾を終えると、“SE”制作のためパラツキー(1798~1876)の歴史書を熟読し、歴史家パイスケル(1851~1933)、ビドロ(1868~1937)、民俗学者ズィーブルト(1864~1932)、考古学者ピーチ(1847~1911)らに助言を求め、もちろん伝説にくわしいマーハル(1859~1931)のスラヴ民話や、フランスのスラヴ学者L・レジェ(1843~1934)の「スラヴ伝説」(1901)は知っていたに違いない。12月フランスのスラヴィストE・デニス(1849~1921)と、”SE“の最初の3点について話し合う。

1912年:3月、画家J・ウープルカ(1861~1940)とダルマチアに旅し、その後ドゥブロヴニク近くのロプド島の女流画家F・ヤクシチ(1856~1943)邸に滞在、原住民の服装を見て古代スラヴに思いを馳せ、”SE“のスケッチを行う。6月28日から4日間行われた第1回ソコル体育祭のポスターを描く。この年からウィーンのブリオスキ=カウツキ工房で学んだ手法に基づき、”SE“の連作にとりかかり、最初の3点を描く:
①原始スラヴの故郷Slované v pravlasti (3~6世紀)
②リューゲン島(ルヤナ)でのスヴァントヴィート祭(8~10世紀)
Slavnost Svatovítova na Rujaně ( Když bozi válcí spáasa v umění)
③大モラヴィア国への典礼導入(汝ら母国語による神の賛歌, 863- 880年)
Zavedení slovanské liturgie na Velké Moravy ( Chvalte Boha rodným jazykem)
これらをヨゼフ・チャペックは”トロイの木馬”と評した。

ムハの最初の7点は、船の帆用に生産された材料をベルギーから輸入し、6.1 x 8.1mの大きなカンバスに描いたが、第一次世界大戦で輸入元の工場が破壊されたため、以後は 8 x 6 m、6 x 4m、4 x4.8 m(1920年にスコットランドから輸入) と、次第に小さなカンバスを用いざるを得なくなった。すべての題材は人物モデルを置き、絵は卵テンペラ、細部は油で描いた。

1913年:はじめ短期間渡米。春にワルシャワ、ガリシア、モスクワ、ペテルブルクを訪れ、「ロシアでの農奴制廃止」④ のための多くのスケッチを描き写真をとる。批評家たちは雑誌に「このような叙事詩を描くに相応しいのはムハではなくアレシュ1852~1913だ」と書いた。

1914年:この年、以下の3点を描く。
④ロシアでの農奴制廃止
Zrušení nevolnictví na Rusi, Svobodná práce - osnova národů(1861年)
⑤シゲトでのズリンスキによる対トルコ防衛
Hájení Sigetu proti Turkům Milulášem Zrinským(1566年)
⑥イヴァンチツェの兄弟団学校(クラリツェ*聖書の揺籃)
Bratrská škola v Ivančicích ( Kolébka Bible kralické) (1594年)。

1916年:この年、以下の3点を描く(通称=Kouzlo slova言葉の魔術)。
⑦クロムニェジーシのミリーチ新たなイェルサレムを築く(売春宿を修道院に, 1372年)
Jan Milíč z Kroměžíže zakládá Nový Jarusalém ( Klášter z nevěstnicve )
⑧ベツレヘム礼拝堂でのフス師の説教(世界の不思議、真実の勝利, 1412年)
kázání mistra Jana Husa v kapli Betlémské ( Kouzlo slova pravda vítězí )
⑨クシーシキ丘での集会(言葉の魔術)1419年
Súchúzka na Křížkách (Kouzlo slova, Podobojí)

1917年:ボヘミア伝説の「リブシェ、カジ、テタ三姉妹」を描く。

1918年:この年、以下の2点を描く。

⑩ペトル・ヘルチツキー(悪に報いるに悪をもって、1433年)
Petr Chelčický (Neopácet zlem zlé)
⑪ヤン・アモス・コメンスキー(希望の光1670年)Jan Amos Komenský
10月28日にチェコスロヴァキア共和国が独立すると、最初の切手や紙幣、国章にムハの絵が用いられた。

1919年:4月末クレメンティヌムの夏食堂で最初の“SE”展示会(完成した11点中5点 ②④⑦⑧⑨)が開かれたが、反響は鈍く批評家たちはムハが19世紀のスタイルから脱していないと非難した。

1920年: 6.月中旬から2ヶ月半にわたる、シカゴ美術会館でのムハ展(前年と同じ5点)は大成功で、20万人が観覧した。

1921年:1月半ばニューヨーク・ブルックリン博物館でのムハのSE展には、実に40万人が訪れた。

1923年:8月ソコル体育団体がズビロフのムハ・アトリエ訪問を企画し、多くの参観者を集めた。この年、以下の3点を描く。
⑫ヴィートコフ丘での戦いの後(テ・デウム・ラウダムス)1420年
Po bitbě v Vítkově (Tě Boha chválíme)
⑬ポヂェブラディのイジー王(カトリックとカリックス派の王, 1462年)
Jiří z Poděbrad, král obojího lidu
⑭ブルガリアのシメオン皇帝 (スラヴ文学の明星888- 927年)
Car Simeon Bulharský ( Jitřenka slovanského písemnictví )
⑮セルビアのステフェン・ドゥシャン皇帝の戴冠 1346年 (スラヴの律法)
Štěpán Dušan Srbský a jeho korunovace ( Slovanské zákonodárství)

1924年:著作「自由フリーメイソン」を出版。春バルカン、4月アトス山訪問。この年、以下の3点を描く。
⑯グリュンワルト戦の後(北スラヴの相互扶助, 1410年)
Po bitvě u Grunwaldu (Severoslovanská vzájemnost)
⑰鉄と黄金の王プシェミスル・オタカル二世(スラヴ王朝の団結)1253 – 78年
Přemysl Otakar II, král železný a zlatý (Svaz slovanských dynastů)

1926年:この年からプラハ7区ホレショヴィツェの“ウ・ストゥダーンキ通り”の市立小学校講堂(1902年建造の採光に優れたネオ・ルネサンス様式、現カレル大学教育学部付属小学校Umělecká 通り850/ 8)内アトリエで“SE”の制作を行う。7月初旬の第8回ソコル大会に際し、夕べのヴルタワ川に41隻の船やボートを浮かべて“SE”の活人画を演出、参加者は2千人に及んだ。この年までアセチレン・ガス照明で描いていたが、以下の3点は電気による昼光によった。

⑱聖アトス山(正教会のヴァチカン)
Mont Athos ( Svatá hora, Vatikán pravoslavných) 18世紀。
⑲ボダイ樹の下での若者の誓い(スのラヴ民族覚醒)1894年
Přísaha „Omladiny“ *7 pod slovanskou lípou ( Slovanské obrazení)
⑳スラヴ史の神格化(スラヴ民族の4つの時代を4色で)1928年までかけて制作。
Apotheosa z dějin slovanstva ( 4 období Slovanstva ve 4 barvách)

1928年:プラハ・ブベネチ区に新築した邸に一家で移る。9月21日すべての”SE”をプラハ市長に寄贈し、見本市会館*8で展示されたが、「ボダイ樹の下での若者の誓い」⑲は、場所の関係で展示されなかった。クレインも臨席した開会式では、文化大臣ホッジャMilan Hodža(1878~1944)、ブルガリア大使、 ユーゴスラヴィア大使、プラハ市長バクサKarel Baxa(1863~1938)らが祝辞を述べた後、ムハの謝辞があった。一般には9月23日から10月末まで公開され、賛否両論に沸いた。10月28日(独立記念10周年日)にニューヨーク・タイムズは、“SE“の完成を祝い、T.R,Ybarry氏の大がかりな記事を複製画④⑧⑫⑭⑮入りで掲載した。

1930年:6 月初めから9.月末までブルノ見本市会館ホールで “SE“ が展示された。

1931 年:プラハ・スラヴィエ銀行の委嘱で、聖ヴィート大聖堂入口から左手3番目の新大司教ホラ礼拝堂窓に、ステンドグラスを創った。これは当初、依頼主の銀行にちなみ、スラヴの女神“スラヴィエ”を中心に、周囲に鳩の舞う図案だったが気に入られず、ボヘミア古代の支配者:ボジヴォイ、リュドミラ、ヴァーツラフを中央に、両側にキュリロスとメトデウスの昇天と、スラヴ人の寓意画を配したものに変更された。

1932 年:ニンブルク(プラハ東40km)市立信用銀行のために「1421年ニンブルクの神とプラハ市民への従属」を描く。

1933 年:4月中プルゼニュ工芸博物館でムハ展(“SE“のスケッチ、水彩画10点を含む)、これにはボルシェヴィキ・ロシア絵画「Hvězda 星」(狼に襲われる民族衣装の娘、1.5 x 2.8m)も展示された。その後フラデツ・クラーロヴェー、9~10月にはフルジムでも展示会。ロキツァニ市役所のために「コンスタンツでのヤン・ロキツァナ師(1397~1471)」を描く。

1934年:著作「愛と理性と叡智」を出版。プラハ合唱協会”フラホル”のために「歌」を描く。

1935年:7つの円形連作「天地創造」を描く。共産党機関紙ルデー・プラーヴォは“SE“を、ブルジョアジ-に奉仕するものと論評。

1936年:5月末パリのJeu de Paume会館で ”ムハ+クプカ(1871~1957)回顧展“ が開かれ、“SEの⑭⑯⑱と、20点すべての写真が展示された。ムハのパリ訪問はこれが最後となった。

1936~38年:1934年にフリーメイソン用の三部作「人生行路」(理性の時代、叡智の時代、愛の時代)について構想。

1939年:「スラヴ民族協調の誓いPřísaha svornost Slovanů」は未完に終わる。3月15日プラハに進駐してきたナチス・ドイツ軍に逮捕さるも数日後釈放。7月14日、79歳の誕生日の10日前に死去。ヴィシェフラト墓地のスラヴィーン合祀廟に埋葬。弔辞は敵対者だった画家シュワビンスキー(1873~1962)が述べた。

1941~45年:“SE“はプラハ・チェコ文書館の地下室に秘蔵されていた。

1945~49年:“SE“は戦後ただちにプラハ7区の”ウ・ストゥダーンキ校“に戻され,ワルドシュタイン宮殿厩舎跡やフラッチャニの球技館に常置する案や、ストロモフカ公園、ヴィシェフラト、フヴェズダ付近、プラハ以外ではムニーシェクやズビロフの城内に美術館を新設する案が出た。これらについて画家集団間の意見は統一されなかった。

1950年:1月末プラハ地区委員会は、所有はプラハ市とし、モラフスキー・クルムロフに貸し出すことを決定した。

1963年:前年に修復された9点がモラフスキー・クルムロフ城*9内で展示された。ロンドンでのムハ展は大成功だったが、“SE“ への関心は薄かった。

1968年から:“SE“の全20点がモラフスキー・クルムロフ城内騎士の間で公開され、城内には錬金術医師パラケルズス*10記念室も併置された。

1980年:2月5日から4月28日までムハ回顧展が、オルセイ美術館とプラハ国立美術館との協力で、パリのGrand Palaisで開催された。6月8日から8月3日まで、ダルムシュタットのMathildenhöheでのムハ展には、“SE“の①⑦⑨が出品され、カタログには全20点の複製が掲載された。

1989年:カッセルのFriedericianum博物館で、プラハ市立美術館の支援を受けムハ展が開催され、“SE“の①②③⑱が貸し出された。

1994年:7月2日から10月26日まで、クレムスのKunsthalleで、プラハ市立美術館の支援を受け「スラヴ叙事詩展」(14点)が開催された。

1995年秋:東京文化村ザ・ミュージアムでのムハ展に「聖アトス山」⑱が出品された。

1998年:ストックホルムのムハ展には“SE“の①②⑱⑳が出品された。

2000年:7月末ズビロフ市立博物館でのムハ展が始まった。21世紀になると“SE“ のパラフレーズを試みる画家や写真家が現れはじめる。

2009~10年:ウィーン・ベルヴェデーレ宮では“SE“ の②⑨が、モンペリエのファーブル博物館と、ミュンヘンKunsthalle der Hypo- Kulturstiftungでは、それぞれ“SE“の⑱⑳が展示された。

2010年:ズビロフ市立博物館で7月8日から9月20日まで「スラヴ叙事詩をたどり」なる展覧会が催された。この頃から原画の所有権をめぐり、プラハとチェスキー・クルムロフとの間で争いが始まる。9月にはŠ ・ツァバン(1963年生)台本、A・ブジェジナ(1965年生)作曲のメロドラマ“スラヴ叙事詩“ がブルノ市立劇場で初演された。

2012年:10.月5日から翌13年9月末まで、プラハ7区・ホレショヴィツェのドゥクラ英雄通り*11 47番地、見本市会館Veletržní palác で“SE" 全作品がムハの念願通り年代順に一般公開されている。

2013年:「スラヴ叙事詩」は2017年までプラハに留め置かれ、その後プラハ市当局は日本公開を予定しているが、ムハの遺族は輸送途中の破損を恐れ反対している。

息子イジー(1915~91)は、リドヴェー・ノヴィニ紙支局員としてパリに滞在中、結婚した女流作曲家のカプラーロヴァー(1915~40)が、間もなく病没したためイギリスに渡り、1941年音楽家のジェラルディーン・トムスン(1918~2012) と再婚、空軍士官、BBC報道員として勤務した。戦後、妻ジェラルディーン、母マリエ、姉ヤロスラヴァとプラハへ戻り、ブベネチ区からフラッチャニ区へ移り住んだ。彼は作家、ジャーナリストとして活躍していたが、共産党クーデタの翌1949年に逮捕され、前年に生まれたジョーンは18年間イギリスの祖母のもとで過ごした。のちに釈放されたイジーは、5ヶ国語を駆使していた母が1959年に他界してからは、父アルフォンスの遺品の管理に心血を注ぎ、1980年代後半「プラハ国立博物館美術展」の折に来日した。彼の死後、妻は銀行家となった息子ジョーンと「ムハ財団」を立ち上げ、1998年にプラハのカウニツ宮殿内にムハ美術館を開いた。

注記
1)Zlatá Praha 黄金のプラハ:1864-65年間および1884-1929年間に月2回発行された画報。

2)Světozor世界展望 :スクレイショフスキーF.Skrejšovský(1837~1902)が1867年に創刊した週刊画報で、チェフ、ヴルフリツキーらも編集に参加していたが、1900年Zlatá Prahaに吸収された。

3)ソコル体育団体:「健全なる肉体に健全な精神宿る」をモットーに、民族復興運動の波に乗り、1862年にドイツの体育協会Turnvereinをモデルに、芸術史家のティルシュ(1832~84)が創設し、ヒュグネル(1822~65)が経済的に支援した団体。1864年にプラハ・ソコル(鷹)と命名、その後、各地に支部ができた。1882年から公開体育祭Sletを催し、1889年にチェコ・ソコル団体Česká obec sokolskáČOSが結成され、愛国運動に発展してゆく。第一次世界大戦中に団員は、進んでチェコ軍団に参加した。戦後、再編された団体は、スロヴァキアやポトカルパチア・ルス(現ウクライナ領)にも支部を置いていた。

4) クレインCharles Richard Crane (1858–1939) ユダヤ人富豪。東ヨーロッパと中東に関心。1900年代にマサリクらをシカゴ大学に招く。1912年ウィルソン大統領の誕生に貢献、1917年ロシア特使に任命され、パリ平和会議の一員となる。トロツキーを支援。戦後中華民国担当大臣となり、ムハの図案による100コルナ紙幣にはジョゼフィーンが描かれ、1931年サウジアラビアとイェメンの石油開発に資金提供。当時貧しかったアラブ家長たちとも交友があった。ムハはクレインの娘の肖像を描いているが、その一人はマサリク大統領の息子で外交官のヤン(1886~1948)の妻だった、

5) マーネス造形芸術集団:画家マーネス(1820~81)の名を冠し、進歩的造型芸術を目ざし1887年に創設された。1902年にロダン展、1905年にムンク展を主催。雑誌“ヴェルネー・スムニェリ(自由な方角)”を発刊し“デヴェットシル”のメンバーも参加していた。1949年に“チェコスロヴァキア造型芸術集団”に発展、解消した。

6) Zbirovズビロフ:プルゼニュ東北25kmの芸術家村、付近の林はキノコ狩りで有名。作家V・スラーデク(1845~1912)の生地。Fr・シュラーメク(1877~1952)や作曲家J・B・フェルステル(1859~1951)が一時ここで過ごした。B・マルチヌー(1890~19519)も第二次世界大戦が終わったらアメリカから帰国し、ここに落ち着つくつもりだったがその夢は叶えられなかった。
Zbirov城:丘の上に建つこの城は、13世紀後半の初期ゴシック様式で黒塔を備える。
13世紀末にはすでに存在していたらしく、長らくロジュンベルク家の所有だったが、15世紀30年代からは持主が頻繁に代った。16世紀初めに後期ゴシック、16世紀末にルネサンスに改築。1869年に持主となった鉄道王ストロウスベルクB・H・Stroussbergがネオ・ルネサンス様式に改築したが完成しなかった。

7) Omladina オムラヂナ:若い学生や労働者の進歩的集団。セルビアの秘密結社「オムラヂナ」との関係を疑われ、1894年2月に、のちに作家となるS・K・ノイマンを含む68名が投獄されたが、翌年、無実が立証された。

8) 見本市会館:1925~28年の間にJ・フックスとO・ティル(1884~1939)設計で建てられた。1951年までは各種見本市会場として使用され、第二次世界大戦中は、プラハ在住ユダヤ人の集結場で、彼
らは近くのブブニ駅からテレジーン強制収容所へ送られた。戦後トゥゼックスなどの外国企業が入っていたが、
1974年8月14日の大火で甚大な被害を受け、1976 年プラハの美術館の手に渡ったが、再建は遅々として進まず、完成したのは1990年代になってからだった。現在は近・現代美術館としてフランス19・20世紀(ドラクロワ、コロ、セザンヌ、ゴーガン、ピカソ、ブラック、ロダン、ブールデルら)や、ヨーロッパ(クリムト、シーレ、ココシュカ、ムンク、シャガールら)・チェコ(プライスレル、ビーレク、シュトゥルサ、グトフロインド、クプカ、スカーラら)20世紀の絵画や彫刻が常時展示されている。
Třída Dukelských hrdinů ドゥクラ峠英雄通り45/ 530。

見本市会館
見本市会館(プラハ国立美術館所属)

9)Moravský Krumlovモラフスキー・クルムロフ城:この城を建てさせた人物は不明。1279年にオブジャニ家のヘラルトHeralt z Obřanが所有し、30年後リパー家のJind5ich z Lipéの手に渡った。1420年代にはフス軍団が居坐っていた。1536年に当主ヤンは難病に悩み(おそらく胆石)、名医の誉れ高いバーゼル大学教授パラケルズスParacelsusが招かれたが効なく、彼は2年後、怒れる城主のもとを去った。16世紀半ばイタリアの建築家ガルドLeonardo Gardo da Bisono(1528~74)により、アーケード回廊を含むルネサンス様式に改築された。30年戦争や17世紀末の大火で荒廃。その後1773/ 74年にリーヒテンシュタイン家がバロックに改築した。1805年11月にはナポレオンが滞在、1809年まで配下兵士約1万が駐屯していた。1866/ 67年のプロシャ=オーストリア戦争時にはプロシャ軍がここに侵攻してきた。1908年から1945年まではキンスキー家の所領だった。1934年にはパラケルズスの実験室跡が見つかった。第二次世界大戦終結直前この町はソ連軍の爆撃で甚大な被害を受けた。

10)パラケルズスTheophrastus Paracelsus Bombastus von Hohenheim、筆名Philippus Aureolus(1493~1541):スイスの医師,化学者、自然科学者。モラヴィア滞在中に創傷治療書や天文学書を書いた彼は、近代薬学、医学の先達だっただけでなく、錬金術にも凝っていた。

11)ドゥクラ峠英雄通り:東北スロヴァキア・ポーランドとの国境の峠(標高500m)一帯で、1944年9月上旬から11月末まで,スロヴァキア・パルチザンも含め、独ソ両軍30万が激突した戦闘で戦死した英雄たちを記念し、1947年に命名された。現地には広大な野外記念館がある。

プラハ国立現代美術館地図
プラハ国立現代美術館(見本市会館内)地図

モラフスキー・クルムロフ周辺地図
モラフスキー・クルムロフ周辺地図


モラフスキー・クルムロフ城
モラフスキー・クルムロフ城

モラフスキー・クルムロフの「スラヴ叙事詩展示」
モラフスキー・クルムロフの「スラヴ叙事詩展示」


城入口
城入口

館内階段横壁の「一日Denní boby」展示
館内階段横壁の「一日Denní boby」展示

参照文献:
1)Dalibor Kusák, Mafrta Kadlečková: Mucha(BB/art Praha, 1994)
2)A Mucha: Slovanská epopej(Galerie hlavního města Praha, 2011)
解説文の筆者ビジョフスカーLenka Bydžovskáとスルプ Karel Srpは、
「スラヴ叙事詩」と関連する作品として、以下のものなどをあげている:

シュヴァイゲルH.Schwaiger:「クラコノシュ山」(1885)、
マテイコJan Mateijo:「キュリロスとメトデオス」(1885)
アレシュM. Aleš :連作「古代スラヴ人の生活」(1891)、
マシェクK. V. Mašek:「リブシェ」(1893)、
シュワビンスキーM. Švabinský:「魂の融合」(1896)、
マロルトLuděk Marold:「リパニの戦い」(1898)、
ビーレクF. Bílek:連作「わが父よ」(1900/ 01)
メデクR.Medek:「真夜中の神々たち」(1912)
ヴァーハルJ.Váchal:「春を迎えるスヴァントヴィート賛歌」(1913)、
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ローレンスJ- P. Laurens:「聖ヨゼフの死」(1877- 80)、
シャヴァンヌP.P. de Chavanne:「聖なる森」(1886- 89)、
ドゥタイユJ. B- Ě.Detaille:「サン・プリヴァ戦に斃れしベルベジエ少佐」(1872)、
ベスナールA.Besnard:「人々の中に真実を齎す科学」(1891)、
デニスM. Denis:「ヴェシネ聖十字架教会礼拝堂の装飾」(1899)
カレラA. G.- Kallela:「クレルヴォ復讐の誓い」(1908)

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[ 2013/04/05 06:22 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)

ムハの「スラヴ叙事詩」Slovanská epoleja (2/2)

スラヴ叙事詩15
11.ヤン・アモス・コメンスキー(希望の光 1592-1670)
Jan Amos Komenský

コメンスキーは、イヴァンチツェで新約聖書の翻訳などで活動していた、同胞団のヤン・ブラホスラフ(1523~71)の後継者で“教育学の先駆者”。ドイツに留学、1614年に帰国後、1618年フルネクの教会管理者となる。

1620年のビーラー・ホラの戦いと、1621年の旧市街広場での27名のチェコ貴族や市民の処刑は、ハプスブルク王朝支配に対するボヘミアの反抗だけでなく、ボヘミア王国における信仰の自由の終焉をも意味していた。200年に及ぶ宗教的寛容の後、カトリックだけがボヘミアでの唯一の教会となった。チェコ人代表は皇帝選定権を失い、続く300年間チェコ民族はほとんどそのアイデンティティを失った。

多くの人が、故国を離れるか改宗を迫られた。それらの中には兄弟団の構成員もおり、最後の主教ヤン・アモス・コメンスキーを戴いていた。彼はポーランドのレシュノに亡命、さらにイギリス、スウェーデン、プロシャ、オランダと渡り歩いた。彼はもっぱら教授、教育書や語学書の著述に専念し、ヨーロッパで教育改革者として名声を得たが、ヨーロッパ大陸のプロテスタントの間で、チェコ民族への何らかの支持を得ようと努めた。しかしこの希望も、30年戦争が終息すると水泡に帰した。彼は晩年をアムステルダムで過ごし、しばしば海辺を散策し、そこで望郷の念を募らせた。

画面は彼の最後の日々の一齣を描き出している。病いを患うコメンスキーを、友人たちが海辺に連れ出し、多くの人が別れを告げにやって来た。希望の小さな灯火が砂の真中で消えつつあり、帰郷の夢もなくなったことを暗示している。
11)コメニウス


12.鉄と黄金の王プシェミスル・オタカル二世プシェミスル・オタカル二世(スラヴ王朝の団結)
Přemysl Otakar II, král železný a zlatý (Svaz slovanských dynastů)

オタカル二世(1233~78)は、中世ボヘミアでもっとも優れ成功した支配者というだけではない。ダンテは“神曲”の中で彼について触れ、彼の版図はボヘミアやモラヴィアだけでなく、オーストリアや北イタリアの一部にまで及んでいた。彼は騎士たちと不滅の軍隊を持つゆえに鉄の王と呼ばれ、富と寛大さゆえに黄金の王とも言われていた。彼は姪のブランデンブルクのクンフタ*と、ハンガリー王の息子との結婚式の席でも、その富を誇示している。ハンガリーはプシェミスルの宿敵で、1261年10月ポジョニ(現ブラチスラヴァ)で行われたこの結婚は、相互関係を改善させるはずだった。オタカル二世はそこに壮大なキャンプを張り、多くの支配者、諸侯や貴族を招いた。

画面はメイン・テントの内部を描いており、真中にオタカル二世、花嫁は背後に、花婿は彼の左手を握っている。そこには主にスラヴ諸国の他の王侯も臨席している。結婚の贈物が隅に置いてあり、皆の頭上には主にプシェミスル家支配下諸国の紋章が見られる。

*クンフタ=キヌグンデ(1245~85):オタカル二世の2度目の妃、ヴァーツラフ二世の母、クンフタの女子修道院長、ファルケンシュタイン家のザーヴィシと再婚。

スラヴ叙事詩12


13.グリュンワルト戦の後(北スラヴの相互扶助, 1410)
Po bitvě u Grunwaldu (Severoslovanská vzájemnost)

チュートン騎士団は当初、十字軍と結びついていたが、のちに北を目指して騎士団となり、バルチック海周辺に定住した。彼らは北方の異教徒の間にキリスト教を広める目的を持っていたが、次第にキリスト教国だった近隣諸国、とくにポーランドとリトワニアに脅威を与えるようになった。

リトワニアのヴラディスラフ・ヤギエウォ公と、ポ-ランドのヤドヴィカ王妃とが結婚し、両国の勢力が結合した。1410年7月15日、少数のチェコ軍団に支えられた、ポーランド・リトワニア連合軍と、チュートン騎士団との間で、一大決戦が行われた。

画面には、翌日明け方の戦場が描かれている。誇り高い騎士団は完膚なきまでに打ち負かされ、勢力回復の見込みはない。ポーランド王が戦場を視察し丘に登る。多くの戦死体を見て彼は衣で顔を覆う。背後には部下の戦士たちがおり、その中には片目の人物がいるが、それはのちにフス軍団を率いることになるヤン・ジシカである。

スラヴ叙事詩13a

スラヴ叙事詩13b


14.ヴィートコフ丘での戦いの後(テ・デウム・ラウダムス)
Po bitbě v Vítkově (Tě Boha chválíme)

1419年に嫡子のいないヴァーツラフ四世が死去すると、王位継承権を持つのは弟のジギスムントだけだった。ところがボヘミアの民衆は、彼がヤン・フスの死に拘わったとして、ジギスムントの継承権を拒否した。しかしジギスムントはカトリック教会の支持を得て、異端ボヘミアに対する第一次十字軍が結成された。神聖ドイツ帝国を主力とする、ヨーロッパ各地から集められた傭兵たちは、ジギスムントを王位につけるべくボヘミアへ到着した。彼らはプラハの重要拠点の一部、フラッチャニまで占領した。

1420年7月15日ヴィートコフの丘で一大決戦は行われた。トロツノフ出のヤン・ジシカが、新たに結成された急進運動の中心地ターボルからプラハに入った。彼は丘を攻撃してくる敵を迎え撃つに最適の場所を選んだ。十字軍がすでに勝利を収めたと思った瞬間、彼らは背後からプラハ住民の奇襲を受け、多くの兵を失い算を乱して敗走した。
画面右後方ヴィートコフ丘を背に,赤マントを羽織ったジシカが立ち,その前に十字軍の放棄した武器が散乱している。中央ではターボル派の僧が、枝分かれしたホスティアを捧げ持ち,奇跡の勝利を祝福し、その前に他の僧たちが身を横たえ祈っている。画面は多くの負傷者や死者を出した激戦直後の情景を描いているにも拘わらず、死者の姿は一つも見られない。ムハは戦争や殺戮に猛反対していたから、これは戦争の残忍さに対する抗議の一齣だろう。

現在ジシュコフと改名されたヴィートコフ丘の上には,巨大なジシカ騎馬像(B・カフカ1941年作,1950年設置)が建っている。
スラヴ叙事詩14


15.ポヂェブラディのイジー王(カトリックとカリックス派の王, 1458-71)
Jiří z Poděbrad, král obojího lidu

フス運動はイデオロギーの違いで分派したためその力を失い、1436年ついにジギスムントはボヘミア王位についた。しかし程なく他界し、王権は死後に生れたラディスラフに受け継がれたが、長続きしなかった。ボヘミア貴族たちは大きな自由を得、事実上彼らが支配していた。中でも傑出し尊敬されていたのがポヂェブラディのイジーで、彼は王国の支配者となり、カトリックとカリックス派との間の、果てしない争いを鎮めようとした。1458年にラディスラフが死ぬと、イジーは、カトリック側と、領主,貴族,商人が占める聖杯=カリックス派の双方から国王に選ばれ、これは一定の成果をおさめた。

彼の王国の状況は極めて複雑だった:ボヘミアはヨーロッパで唯一、宗教の自由を認められている国で、その基となっていたのは、聖杯sub utraque specieからの聖体拝受を容認する、カトリック側と結んだ、改革派の公式綱領、いわゆるプラハ協約*で、これによりボヘミアでのカリックス派の存在が可能になった。

しかし1462年に法王ピウス二世は、この協約を破棄し、特使ファンティム・デ・ヴァレをボヘミアへ送った。この情景が画面に描かれている。

王の前に立つ枢機卿が王に、カリックス的信仰をやめ、その教会禁止令を伝える、ローマからの通告を読んでいる。激怒した王は、これはボヘミアにおける新たな市民戦争を意味するものとして、法王のすべての要求を拒否し、自分だけにボヘミアの統治権があるのだと答えた。彼は聖体拝受をカリックス流に行い、生命や王冠の危険を冒しても、信念を守ると宣言した。この場面を目撃した貴族たちは、彼の勇気に恐れをなし、前面にいる少年は、ローマからの文面の記された書を閉じているが、これは法王といかなる話合いも終ったことを意味している。

*注:「プラハ4ヶ条」:①神の言葉を説く自由,②両形色による聖体拝受の自由,③俗人による聖職者の世俗財産の没収,④大罪の懲罰と根絶を正当な権威者により行う。
スラヴ叙事詩15



16.ブルガリアのシメオン皇帝 (スラヴ文学の明星888-927年)
Car Simeon Bulharský (Jitřenka slovanského písemnictví)

10世紀シメオン皇帝の支配は、ブルガリア帝国のもっとも栄光に満ちた時代だった。近隣諸国との困難な戦いと、ブルガリア帝国の複雑な政情のおかげで、シメオンはバルカン半島内陸のほとんどの支配権を獲得し、この地方でもっとも尊敬される支配者の一人となった。さらに彼は教養ある人物で、彼の帝国はスラヴ教育と文学の重要な中心地となり、それはとくに大モラヴィア国を追われた僧たちが、ブルガリアのオフリダ湖近くに定住してから顕著になった。

ムハはわれわれを、シメオン王国の首都、カムツィア河畔の大ペレイェスラフを導いてくれる。玉座に坐るシメオンは、作家、科学者、僧たちに囲まれている。上方隅には、当時ブルガリアで活動していた、高僧たちのイコンが描かれている。その中にはオフリダのクリメント、ナウムやアンゲラリイがおり、アンゲラリイはグラゴル語に、すでに今日のロシア・アルファベットとほぼ同じキリル文字を導入した。

この絵には、ムハが東方への文化の旅で賞賛した、東方の主題にヒントを得た要素が含まれている。
スラヴ叙事詩16


17.セルビアのステフェン・ドゥシャン皇帝の戴冠(スラヴの律法)
Štěpán Dušan Srbský a jeho korunovace (Slovanské zákonodárství)

セルビア民族は永い間、ビザンツ帝国の強い影響下に暮らしていた。しかし13世紀半ばステフェン・ドゥシャン(c.1308~55)の支配下で、彼らの国はバルカン半島で、もっとも強大なものとなった。ドゥシャンはビザンツ帝国内の複雑な政情を利用し、2番目の強敵ブルガリアを打ち破りさえした。彼はアルバニアやルーマニア山地の住民の支援を受け、マケドニア、アルバニアや北ギリシャを含む、広大な領域を征服した。彼の重要な業績の一つは、法典編集とその法的使用だった。その結実が歴史的に興味深いドゥシャン皇帝法典で、これはセルビアがヨーロッパ他諸国にひけをとらないことを立証している。

1346年の復活祭にドゥシャンは、スコプリエの町に近い聖マルコ教会で、セルビアおよびギリシャの皇帝として、厳かに戴冠された。画面はその戴冠式を描いており、祝典行列が今しがた教会から出て来たところ。これは王の剣と盾を捧げ持つ騎士たちに先導され、中央のドゥシャンは従者に囲まれ、背後に息子と妻が見える。白衣の正教僧たちは、儀式をとり行った総主教に従っている。前面で花を持つ乙女たちは、ムハ作品の典型で、美女、花々、植物は、アールヌヴォの特徴で、ムハがその代表者である。
スラヴ叙事詩17


18.聖アトス山(正教会のヴァチカン)
Mont Athos (Svatá hora, Vatikán pravoslavných)

サロニカの北西に、3つの岬のあるハルキディキ半島があリ、その東端に位するのが独立教会国家アトスである。古い伝説によれば、使徒やキリストの弟子たちが迫害された時、イエスの母、聖母マリアが、ここに避難所を見つけ、ここで亡くなったという。9世紀になるとここに、いくつかの修道院が建てられ、1992年まで女人禁制だった。アトス山はこれら修道院の一つで、その教会は聖母マリアに捧げられた。

画面では、教会の蒼穹に、東方教会の流儀で聖母マリアが描かれており、彼女はこの教会を訪れるすべての巡礼者を祝福している。彼女のモザイクの下で、正教の神父や修道僧が聖者たちの遺物を捧げもち、口づけするよう巡礼者たちにそれを差し出している。陽光が右手から教会内にさしこみ、その光の中で智天使ケルビムたちの姿が、上に登ってゆくが、彼らが手にしているのは、この地域の他の重要なスラヴ修道院:セルビアのヒランデル、ロシアのパンテレイモン、ブルガリアのゾーグラフとヴァトペドのモデルである。これら修道院の名前はキリル文字で記され、ケルビムたちの後には、これら修道院の4人の院長igumnen(prior)の姿が見える。

アトスは、カトリック教会のヴァチカンのように、東方教会にとり重要な場所である。芸術面からもアトス山は、この連作の中での傑作とされている。
スラヴ叙事詩18


19.ボダイ樹の下での若者の誓い(スラヴ民族の覚醒)
Přísaha "Omladiny" pod slovanskou lípou (Slovanské obrazení)

ビーラー・ホラの戦いの後ボヘミアは、300年間ハプスブルク家の支配下におかれ、これは国土の中央集権化とゲルマン化を意味した。しかし18世紀末と19世紀には、民族の文化的、政治的覚醒が齎された。チェコ語がふたたび劇場や学校に姿を現し、のちにはチェコ民族を代表する最初の政党も発足した。

19世紀末にはプラハに、学生や若い労働者の急進的団体オムラヂナが現れた。彼らは文化に関心を示すだけでなく、強権主義やオーストリアそのものに対し、嫌悪の情を露にした。1894年1月この団体の68名が裁判の結果、投獄された。

画面中央には、母なるスラヴィアといっしょに、聖なるボダイ樹(チェコの国樹)が描かれている。石の祭壇の周りで跪く若者たちが、民族への忠誠を誓っている。灰色の口髭を生やし、セルビアの民族衣裳を着た男は、同じ運動がセルビアにも起こったことを思い起こさせる。

背後の何人かが描きかけなのは、確証はないが、政治家の肖像を描くのをいつも拒んでいたムハが、チェコ民族の指導者の顔を描きたくなかったからと考えられる。さらにムハはこの作品にとり組んでいた頃、他のチェコ人芸術家から厳しく批判されており、彼らの不快な攻撃がその一因だったかも知れない。

前面にいる二人の人物は注目に値する。ハープを弾いている乙女は、娘のヤロスラヴァで、少年はのちに有名な作家となる、息子のイジーである。
スラヴ叙事詩19


20.スラヴ史の神格化(スラヴ民族の4つの時代を4色で)
Apotheosa z dějin slovanstva (4 období Slovanstva ve 4 barvách)

連作最後の作品は、すべてのスラヴ民族の歴史を総括している。右下の青は最初の定住地とその神話、彼らのもっとも古い歴史を、赤は栄光に満ちた中世とスラヴ民族の勝利(カレル四世とオタカル二世の統治)を、黒は屈辱と服従の時代を表している。画面中央を覆う陽気な黄は、オーストラ=ハンガリー帝国が瓦解し、多くのスラヴ民族は独立と自由を得た、1918年を表している。

緑の枝を持った乙女たちは、ボヘミアの独立のため、連合軍と共に戦った、第一次世界大戦の戦場から帰還したばかりの、チェコ軍団を歓迎している。戦勝国はその旗で想起される。上方に描かれている若者の手はほどかれ、自由のリースを手にしており、その後でイエスがすべてのスラヴ人を祝福し、より善き未来を願っている。背後にある平和の虹は、この連作の核をなすメッセージである。
スラヴ叙事詩20


参照文献:Dalibor Kusák, Mafrta Kadlečková Mucha(BB/art Praha1994)
[ 2011/12/26 21:56 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)

ムハの「スラヴ叙事詩」Slovanská epoleja (1/2)

サイズ:8.10 x 6.10:1, 2, 3, 4, 5, 6, 8:
    4.05 x 6.20:7, 8
6.20 x 4.05:10, 11,
6.10 x 4.05:13
4.80 x 4.05:12, 14, 15, 16, 18, 19
4.40 x 4.05:17
4.05 x 4.80:20

1.原始スラヴの故郷 
Slované v pravlasti

1912年作。狩猟や農耕にたずさわっていた、原始スラヴ人の生活圏は、ヴィスワ川からドニェプル川まで、バルチック海から黒海まで広がっていたと思われ、この絵はその生活を描いている。村は湿地帯に分散し、高い身分の者はおらず、しばしばゴートやノーマン族の進攻を受けた。オデッサ東対岸の港ケルソンでは、大きな奴隷市が開かれていた。

画面後方には炎上中の村が見え、凶暴なノーマンの戦士が、家畜や奴隷として売りさばく若者たちを駆り立てている。他の大多数の村人は殺され,前面の若い二人だけが灌木の中にひそみ、侵入者の立ち去るのを待っている。彼らの目は恐怖に満ちているが、復讐を願ってもいる。

それは神に慈悲を乞う異教の神官と、彼の腕を支える二人の人物により示されている。白衣の少女は平和の象徴で、赤服の少年は戦いに備えている。スラヴ人の独立は、手にする剣だけで得られるが、彼らの幸せは平和のうちにのみある。彼らの運命は満天の星に暗示されている。これは全作品の中でも代表的なものである。
スラヴ叙事詩1


2.大モラヴィア国への典礼導入(汝ら母国語による神の賛歌, 863- 880年)
Zavedení slovanské liturgie na Velké Moravy

大モラヴィア国は9世紀前半、中欧で形成されたスラヴ人最初の国家だった。しかし中世はじめ国家機構は、教会と密接に結びついており、この地域で僧だけは、東フランク帝国から来ていたので、ロスチスラフ公は彼独自の独立した教会機構を創る決心をした。法王が彼の試みを拒否したので、ロスチスラフはビザンチン皇帝ミカエル三世に、スラヴ語で神の言葉を教える僧の派遣を要請した。

863年に二人の兄弟コンスタンティヌスとメトデウスが、サロニカからモラヴィアに到着した。サロニカ地方にはスラヴ人が住んでおり、彼らは最初のスラヴ・アルファベットを作り出し、聖書の一部を古代スラヴ語に翻訳していた。彼らの大モラヴィア国への伝道は成功し、多くの聴衆を集めたが、これにはローマの支持が必要だった。

画面は880年にメトデウスが、ローマへの巡礼から大モラヴィア国首都への帰還を描いている。右手にはモラヴィアの新しいスヴァトプルク公が、騎士たちに囲まれ王座についている。メトデウスの弟子の一人が、法王からの書状を読んでおり、そこには法王がメトデウスを、大モラヴィア国とパンノニアの大司教に任命し、スラヴ語の使用を認める旨が認められている。白衣姿のメトデウス老は弟子たちに支えられ、これに耳を傾けている。

5年後メトデウスは死に、弟子たちはモラヴィアを去ることになる。彼らは主にキエフ・ロシアや大ブルガリアに新たな住いを築いた。これら地域の支配者たちは、右上部に描かれている。スラヴ伝道はふたたびドイツ僧らに置き換えられ、それは左上隅に描かれ、凶暴なクリスチャニズムを象徴している。その下でスラヴ人を護ろうとしている、ケープをまとった人物はコンスタンティヌスで、のちにキュリロスと呼ばれ869年ローマで没した。

前面に見えるのは握り拳の若者で、これは力を表し、もう一方に手に持っている輪は統一と調和のシンボルである。
スラヴ叙事詩2


3.リューゲン島(ルヤナ)でのスヴァントヴィート祭
Slavnost Svatovítova na Rujaně
紀元1世紀にスラヴ人たちは、全ヨーロッパへ急速に拡散していった。主流は西スラヴ人で、現在のドイツに新しい住まいを構えたが、その大部分はゲルマン民族に吸収された。彼らの最後の中心地の一つは北ドイツのリューゲン(ルヤナ)島にあり、スラヴのラニアン族は首都アルコーナを創り、異教神スヴァントヴィートを祀った。そこでは毎年秋に収穫祭が行われ、重要な神託が下されるので、未来を知るべく全世界から人々が参集した。

この絵にはその祝典で踊る乙女たちと、笑いさざめく民衆、右側の背後には牛を生贄にすべく準備している、異教の神官たちの一団が描かれている。しかしその幸に加わらない二人の人物がいる:子供を抱く母親と、木製の新しい神像を彫る少年で、この二人は画面の上方に描かれている、ラニアン族の未来を予見しているらしい。

左隅には聖なる狼を従えたノーマン族の神オディンが、スラヴ人に攻撃を仕掛けており、中央のスラヴ人たちは打ち負かされ、最後の戦士が白馬の上で死にかけ、スヴァントヴィートは右手に剣を持っている。

1168年にデンマーク王ワルデマールは、アルコーナを襲って火をかけ、住民を屈服させた。楽器を持った3人は、彼らの唯一の遺産である、バルチック・スラヴの歌と神話を代言している。フィビヒは死の2年前1898年に、3幕オペラ「アルコーナの陥落」を作曲している。
スラヴ叙事詩3


4.シゲトでのズリンスキによる対トルコ防衛
Hájení Sigetu proti Turkům Milulášem Zrinským

16世紀半ばバルカン半島は、ヨーロッパ中央部に深く進攻してきたトルコ軍に、ふたたび攻撃されていた。トルコ軍を率いるのは、キリスト教ヨーロッパ制覇を目指すスレイマン二世(1520~66)だった。決戦の一つはシゲト(シゲトヴァル, 現ハンガリー南国境のペーチ近在)で行われ、シゲトの司令官はクロアチアの貴族ニコラ・ズリンスキ(1508~66)だった。彼は1566年8/ 9月にかけてのドナウ河右岸での戦いで、捕らわれ処刑された。

画面は、町がすでに占領され、城だけが戦い続けている防衛最後の瞬間を描いている。画面中央では防衛司令官が熱弁を振るい、全員が最後の戦いに備えている。反対側の塔の前では、弾丸をこめた大砲が、開門してトルコ親衛隊に最後の一撃を加うべき瞬間を待っている。

画面の2番目の部分、黒い煙柱の後では、女たちが塔の中に隠れ死を待っている。上方にいる一人は、燃えさかる松明を掲げ、火薬の中に投げ入れ、防衛軍とともに死のうとしている、それはトルコの奴隷となるよりましだと考えているからである。これに次ぐ爆発は黒い煙が表している。町と城は占領されたが、シゲトの戦いは、トルコ軍を数年間、押しとどめ、その間に彼らの指導者のスレイマンは戦死した。
スラヴ叙事詩4


5.イヴァンチツェの兄弟団学校(クラリツェ聖書の揺籃)
Bratrská škola v Ivančicích ( Kolébka Bible kralické)。

ムハの生地イヴァンチツェは、16世紀にはモラヴィア教会(もとは兄弟団)の重要な中心地の一つだった。ボヘミア兄弟団は宗教的共同体で、15世紀半ば教会の堕落に対する改革運動を起源としていた。当初、彼らは聖書の理想と貧困生活に従い、教育すら拒んでいたが、後にはヒューマニズムの思想を受け入れ、ボヘミアで最も教養ある宗教団体に変貌した。

イヴァンチツェの若い貴族のための学校は、この共同体で一番有名なものだった。主だった後援者は、1608~15年の間ボヘミア総督を務めた、カレル・ジェロチーン・シニア(1564~1636)だった。教師の中には聖書のギリシャ語からチェコ語への翻訳に着手したヤン・ブラスラフ(1523~71)がおり、彼の後継者たちが“チェコ文学の傑作と看做されている、クラリツェ聖書”(1579/ 93年に出版.第1~4巻:旧約、第5巻:聖書外典。第6巻:新約)を完成した。またイヴァンチツでは、1578年まで聖書が印刷され、それ以降、出版所はクラリツェ村に移った。

画面には朝まだき校庭が描かれている。右手には訪問者に囲まれた印刷所があり、左手ではムハの自画像と思われる少年が、老人に聖書を読み聞かせている。時はまさに兄弟団が彼らの仕事の実りを集め、聖書はじめ他の文学作品が印刷され、教会が急速に発展した頃である。しかし塔を飛ぶ鳥たちは、自分たちの教会を棄て、祖国を離れねばならない、冬の到来を告げている。それは40年後、チェコ貴族たちがハプスブルク家支配への抗戦に敗れ、プロテスタントが禁じられる、ボーラー・ホラ戦後にやって来た。
スラヴ叙事詩5


6.ロシアでの農奴制廃止
Rušení nevolnictví na Rusi(1861年)

19世紀半ばヨーロッパにおけるロシアの衰退は、次第に顕著となり、クリミア戦争(1853~60)での敗北や、各地の反乱の結果、皇帝アレクサンドルII世は政治改革を迫られ、ロシアにおける農奴制を廃止した。これにより地方の民衆はある程度の自由を得、ロシアにおける新たな産業発展への道を拓いた。

画面はモスクワの聖ワシリエフ至福教会とクレムリン前の、赤の広場の寒い2月の朝を表している。右手では役人たちが新たな法令を宣言し、広場は市民や近村から来た住民であふれている。多くの人々は農奴制廃止が何を齎すかを理解できず、それは彼らの顔からも伺える。空には重い霧が立ちこめ、教会の背後の最初の陽光だけが、来るべき自由を暗示している。

この絵は、1913年にムハがロシアへ旅した後の1914/ 15年に描かれたもので、本来はスラヴ最大の民族称賛を提示しようとしていたが、作者はロシア民衆の生活を見て、絵の気分と色彩を変更した。
06)農奴制廃止


7.クロムニェジーシのミリーチ(売春宿を修道院に, 1372年)
Jan Milíč z Kroměříše

ミリーチは、クロムニェジーシの貧しい家の出だったが教育は十分に受けていた。彼はカレル四世の副大法官、聖ヴィート大聖堂参事会員の職にあり、彼の職場は名誉ある実り多きものだった。しかしコンラド・ウァルドハウザー(1364年没)の説教を聞いてから、すべての職と財産を擲なげうち神に仕える決心をした。反キリスト者の到来を告げる彼の激烈な説教は、多くの聴衆を集めるとともに、敵をも作った。投獄され釈放されてから、ローマに旅し法王に自らの活動を説明した。

1372年に彼は一大事業を成し遂げた。プラハの多くの売春婦に、それまでの生活を捨て、罪を悔い改めるよう導いた。通称“ヴェネツィア”なる古い売春宿は、“新イェルサレム”と呼ばれる、女たちの避難所に衣替えし、彼女らはそこでの新生活に入った。

画面にはその隠家の建物が描かれている。長い灰色髭のミリーチは、足場近くに立ち祈っているらしい。彼は悔悟している女たちに囲まれている。中央には口を覆っている女については、罰を受けている陰口女とか、思慮分別や無口の象徴とか、様々な解釈がなされている。

ミリーチと彼の教会改革の試みは、のちのフス運動を密接な関係にあり、彼はヤン・フスの先駆者の一人とみなされている。
スラヴ叙事詩7


8.ベツレヘム礼拝堂でのフス師の説教(世界の不思議、真実の勝利, 1412年)
kázání mistra Jana Husa v kapli Betlémské

ヤン・フスは、15世紀初頭ボヘミア王国の歴史を画する、フス運動の創始者にして指導者でもあった。彼はカレル大学の学長で、その仕事はイギリスの説教者ジョーン・ウィクリフに影響を受け、カトリック教会の現状、とくに免罪符売買に反対していた。ベツレヘム礼拝堂でのフスの説教が多くの聴衆を集めていた主因は、プラハで唯一チェコ語で説教が行われていたからだった。彼の活動は聖職者に厳しく監視され、1412年にはプラハを離れざるを得なくなり、南ボヘミアで活動を続けていた。

ムハはプラハにおけるフス最後の説教を描いている。彼は説教壇に立ち、弟子たちが耳を傾け説教の内容を書きとっている。左の壁際には、後にフス軍団の長となる、片目のヤン・ジシカの姿が見える。反対側,天蓋の下にはボヘミア女王ゾフィーがおり、その横にいる赤服の夫人はムハ夫人だろう。彼女が見つめている、隅でケープをまとい立っているのは、カトリック教会のスパイと思われる。

数年後コンスタンツの宗教会議に招かれ、自分の教えを弁護したフスは、ジギスムント皇帝に身の安全を保障されていたのも拘わらず、異教徒として投獄され、1415年7月焚刑に処され、これがボヘミアでのフス戦争にきっかけとなった。

この絵のベツレヘム礼拝堂内部も興味深い。ムハはたえず実際の状況、内部や外部を赤裸々に描こうと努めていた。しかしこの絵の場合は例外で、20世紀初頭のベツレヘム礼拝堂(小広場をはさみナープルステク博物館の向い)はひどく破損しており、その再建は1954年になってからだった。

この作品は前後の2作品「クロムニェジーシのヤン・ミリーチ」(7)および「クシーシキ丘での集い」(9)と密接な関係にある。
スラヴ叙事詩8


9.クシーシキ丘での集会(言葉の魔術)
Súchúzka na Křížkách (Kouzlo slova, Podobojí)

ヤン・フスがコンスタンツで焚刑に処されてから、ボヘミアの民衆は苛立ち、全土に不安が満ち溢れた。カトリック教会に忠実な僧たちは、しばしばその教区を追われ、フスの後継者にとって代えられた。貴族の一部もフスの教えに賛同し、教会は貧困のうちに生きるべきと諭したフスのように、教会財産の没収に動き出した。民衆は丘の上などさまざまな聖地に集まり、説教者たちの話に聞き入り、2種類の聖体拝受さえ受け入れだした。ウトラキスムと言われるこの拝受法は、パンとワインの2つで行われた。

ムハが描いているのは、プラハから20キロ離れた小さな丘クシーシキで、1419年9月末に行われたもっとも重要な会合の一つである。フス教徒たちは、俄か作りの説教壇に立ち、彼らに話しかける、ヴァーツラフ・コランダ・シニ(c.1453没)に率いられている。説教の内容は誓約への純粋さ、神の国の到来、ボヘミアに迫りつつあるすべての出来事などと思われる。その最後に彼は、参集したすべての人々に、9月プラハに来るよう促し、その時は巡礼杖だけでなく武器も持参するようアッピールしていた。

背後の嵐を呼ぶ空は、1419年にヴァーツラフ四世が、プラハ蜂起後に頓死し、国王不在となった王国の錯綜した状況を想起させ、チェコ民族に差し向けられる十字軍を予告している。閃光は戦争の開始を、枯枝に掲げられる白旗は、来るべき戦さで命を失うだろう、すべての人々を表し、緑の木と赤旗は、新しい生命のシンボルである。
スラヴ叙事詩9


10.ペトル・ヘルチツキー(悪に報いるに悪をもってなすなc.1390~c.1460)
Petr Chelčický (Neopácet zlem zlé)

ヘルチツキーはフス戦争時代の有名な思想家だが、つねにいかなるイデオロギーにも組しなかった。彼は生涯のほとんどを田舎で過ごし、1420年のフス運動の成果に興味を示しはしたが、最終的にはそれが戦さと殺戮に結びつくとして拒否した。彼の主目的は十戒を守ることで、モラルの改革と純粋さに拘り、戦争には反対だった。

画面はボヘミアにおける市民戦争=フス運動の暗黒面を描いており、フス戦争時代の典型的な場面を示している。南ボヘミアの町ヴォドニャニが、殺された仲間への復讐に燃える、フス軍団兵士に襲われている。町は燃え上がり、生き残った住民が池のほとりに集まり、負傷者や死者も運ばれてくる。生き残りの一人、中央の若者は挙手して復讐を約束している。しかしこの瞬間ヘルチツキーが姿を現し、握り拳を下ろさせている。彼の教えによれば、悪に報いるに悪をもってしても、悪循環が果てしなく続くだけだという。この思想はのちにボヘミア兄弟団に受け入れられ、彼らがこれに息吹を与えた。
スラヴ叙事詩10
[ 2011/12/26 21:43 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)

アルフォンス・ムハ(Alfons Mucha アルフォンス・ミュシャ)の生涯

Mucha

ムハ通称ミュシャAlphomse Mucha(1860~1939)の祖先は、南モラヴィアの小村イヴァンチツェで代々ワイン作りを生業としており、父オンジェイは仕立屋の修行をしたのち、地方裁判所の書記となった。1859年35歳で寡夫となった彼は、裕福な粉屋の娘で当時37歳だったアマリア・マラーと、持参金目当ての再婚をし、3人の子供アルフォンス、アンナ、アンジェラをもうけた。2度目の妻はやがて亡くなるが、オンジェイは残された子供たちを立派に育てた。二人の娘は中学校へ通い、アルフォンスは17歳でブルノのスラヴ系ギムナジウムに入ったが、健康を害し自宅で勉学に励んだ。しかし病弱というのは表向きの理由で“平気で嘘をつき、礼拝などをサボった”のが本当らしい。ただスケッチと歌は群を抜いており、教会で歌っていた。プラハ工芸アカデミーのルホタ教授は“まったく才能がない”と記していた。こうしてムハはイヴァンチツェの地方裁判所の書記となった。

2年後ウィーンのカウツキ=ブリオスキ&ブルクハルト会社に入り、劇場の書割制作に加わったが、1881年リング劇場が焼けたため解雇された。しばらくウィーンで細々と暮らしたのち、父のつてでモラヴィア東南端の町ミクロフで、劇場の演出、似顔絵描き、寄木細工のデザイン、室内装飾など、あらゆる職業についていた。ミクロフの西約20キロの小村、フルショヴァニのクエン伯爵の城を飾ったあと、夫人エンマホフの薦めで、ティロルにある伯爵の弟が所有するガンデグ城を装飾し、そこで伯爵夫人の肖像を描く幸運に恵まれた。ここでムハは伯爵のために数多の絵を描いたが、彼の作品を眺めたウィーンの画家クレイKray教授の助言で伯爵は、ムハのパトロンになる決心をした。

1885年ムハはミュンヘン芸術アカデミーの3年級に入った。2年後パリに出たムハはアカデミー・ジュリアンに入り、流行のコートと帽子を買い、さらに優れた教授陣のいるコラロッシ・アカデミーに移った。1889年彼は世界万博を訪れてエッフェル塔を賛美し、チェコ民族を代表し参加した、ソコル体育団の見事な演技を見て、スラヴを主題とする最初の芸術プランを立てた。伯爵からの援助は打ち切られたが、雑誌“La Vie Populairesh庶民生活”に挿絵を載せるようになっていた。1891年アルマン・コランArmand Collin出版社と契約を結び、翌1892年には優れた歴史家セニョボスSeignobos(1854~1942)の「ドイツ史」に、有名な画家ロシュグロスRochegrosse(1859~1938)と共に挿絵を描いた。

1894年のクリスマスに、ルネサンス座から印刷業者ルメルシエのもとへ、サラ・ベルナール主演の「ジスモンダGismonda」※のポスター作製の依頼が来たが、デザイナーが全員不在だったため、ポスター制作経験のないムハがこれを引き受け、代役を果たした。ムハと彼女との間に翌1895年から6年間の契約が結ばれ、これを契機に注文が殺到し、展覧会、インタヴュー、壮大なアトリエ、パーティーという栄光が続き、室内装飾からタバコのデザインまで、あらゆる分野にアールヌヴォなる、彼のデザインが用いられた。しかし彼はポスターで有名になったことに不満で、百万長者からの装飾作品を断ることもあった。

Alfons_Mucha-Gismonda

ムハが創った装飾パネルでは、1896年から1900年にかけての「四季」「花」「芸術」「一日」「星」「宝石」シリーズが名高く、「ジスモンダ」を含む劇場用ポスター、雑誌のカバー、「パリスの審判」「四季」などのカレンダー、挿絵、装身具など多岐にわたっている。

1900年のパリ万博出品を見て日本美術愛好家となったムハは、その頃から“スラヴ叙事詩“の構想を抱いていた。多大の借金を抱えていた彼は、経済的理由から1905年に渡米するが、そこでの仕事は、ニューヨークでの雑誌の表紙、宣伝、それに劇場のポスターだった。その間1906年に、かつての弟子で24歳のマリエ・ヒチロヴァーと結婚する(娘の・・・)。

1909年にムハは、“スラヴ叙事詩“の構想を、アメリカの工場主で外交官のクレインCh.R.Craneに打ち明ける。アラブやスラヴ民族の運命に関心を抱いていたクレインは、トロツキーやマサリクや、当時貧しかったアラブ家長たちとも交友があった。ムハは、クレインの娘の肖像を描いているが、彼女は一時期マサリクの息子で外交官のヤン(1886~1948)の妻だった、

ムハはクレインと “スラヴ叙事詩“ 制作に関する契約を結ぶと、すぐさま1910年に帰国した。西ボヘミアの古城ズビロフの、かつての舞踏の間にアトリエを構え、委嘱されていたプラハ市公会堂内市長室の装飾を終えると、“スラヴ叙事詩“の制作にとりかかった。1912年6月28日から7月1日にかけ行われた、第1回ソコル体育祭のポスターを描く。

1918年にチェコスロヴァキア共和国が独立すると、最初の切手や紙幣、国章にムハの絵が用いられた。カンバスには、船の帆用に生産された材料をブリュッセルから輸入し、絵は卵テンペラ、細部は油で描いた”スラヴ叙事詩“の一部は、クレメンティヌムに展示されたが反響は鈍く、批評家たちはムハが19世紀のスタイルから脱していないと非難した。一方ニューヨーク・ブルックリン美術館での最初の11点の展示は大成功だった。

この畢生の大作は1928年、見本市会館に展示され、クレイン臨席のもと公式にチェコ民族とプラハ市に手渡された。第二次世界大戦後モラフスキー・クルムロフに移され、1963年から城内騎士の間で公開展示されている。
1931年には聖ヴィート大聖堂は大司教礼拝堂脇に、キュリロスとメトデウスの昇天、およびスラヴ人の寓意画を主題に、ステンドグラス創ったが、1939年、故国にナチスが進攻した4ヶ月後の7月14日、79歳の誕生日の10日前に死去した。

息子のイジー(1915~91)は、リドヴェー・ノヴィニ紙支局員としてパリに滞在中、結婚した女流作曲家のカプラーロヴァーが、間もなく病没したあとイギリスに渡り、1941年音楽家のジェラルディーン・トムスン(1918年生、2009年現在存命) と再婚、空軍士官、BBC報道員として勤務した。戦後、妻ジェラルディーン、母マリエ、姉ヤロスラヴァとプラハへ戻り、ブベネチ区からフラッチャニ区へ移り住んだ。彼は作家、ジャーナリストとして活躍していたが、共産党クーデタの翌1949年に逮捕され、前年に生まれたジョーンは18年間イギリスの祖母のもとで過ごした。のちに釈放されたイジーは、5ヶ国語を駆使していた母が1959年に他界してからは、父アルフォンスの遺品の管理に心血を注ぎ、1980年代後半「プラハ国立博物館美術展」の折に来日した。彼の死後、妻は銀行家となった息子ジョーンと「ムハ財団」を立ち上げ、1998年にプラハのカウニツ宮殿内にムハ美術館を開いた。


※ジスモンダ:
サルドゥVictorien Sardou(1831~1908)作。
ルネサンス期のアテネを舞台に、公妃ジスモンダとその息子を暗殺の謀略から救った鷹匠の成婚を筋とする。
La Taverne des etudiants (1854)、Mlle de Brécourt (1858)
Les Premières Armes de Figaro (1859)、Les pattes de mouche (1860)
La perle noire (1882)、Nos intimes (1861)、La famille Benoĩton (1865)
Divorçon (1880)、La Tosca (1887)、Thermidor (1891)
Madame Sans-Gène (1893)
[ 2011/11/27 09:44 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)

カレル橋彫像解説 2/3

11.洗礼者ヨハネ

マックス1857(5)年作。

碑銘:Joz.Max[ inv.et fecit]
J・マックス設計建立。

献呈:ネウペルクの騎士ヤン・ノルベルト。

記述:以前ここにハブロコフ作の主の洗礼者の群像があったが、1848年の砲撃で破損したため、1855年にエリシカ通りへ、さらにワルトシュタイン宮殿庭園に1906年まで、以降ラピダリウムに移された。この像と聖ノルベルト群像の間で、ヤン・ネポムツキーが川へ投げ込まれたとされる場所の欄干に、「ヴルタワ川の波上の聖ヤン・ネポムツキー」というブロンズ板がはめこまれている。

ヨハネとは“ヤハウェは恵み深い”の意。両親は祭司ザカリアとエリザベツ、クムラン宗団と関連。

カレル彫像11



12.聖クリストフォルス:

マックス1857年作。

碑銘:
【台座前面】
Ut ille nos pelago saeculijactatos bracchio potenti perducat ad portum salutis quem mirum infantem Selix Cgristophore pie portasti per fluctus te coelestem periclitantium in undis patronum cives precamur pragenses.

年波に揺らるわれらを、幸いなるクリストフォルスの如、力強き腕もて救いの岸辺に運び給え;そのことを類い稀なる幼子を愛もて波を越え、 波の中の危険に耐うる人々に天なる守神あたな様に、プラハ市民は乞い願う。

【台座左】
Cleri pragensis duces et cultures viribus unitis posuerunt.
プラハの聖職者と崇拝者らが一致協力しこれを建立。

【台座右】
Anno reparatae salutis 1857 die festa s.Christophori.
聖クリストフォルスの聖日、再度救済の1857年に。

【聖者の右足下】
Em.Max invenit et fecit 1857. 
設計建立。

献呈:ヴァーツラフ・ワンカ市長。

記述:以前ここに橋上の治安を監視する衛所があった。しかし1784年2月28日の洪水で、この付近の橋桁2本が氷塊で壊され、衛所が川に落ち5人の兵士のうち4人が落命した。1788年M・フメルにより橋は修復され、ヨ-ゼフ二世がじかにその保全にあたることになった。以上のことは台座の大理石板に記される。のちにこのプレートは旧市街橋塔の壁に移され、今日に至っている。

シュポルク伯爵は1720年頃、衛所の屋根上にカレル四世像を建てるつもりで、皇帝の脇に“真実と正義”の寓意像を置くべく、M・ブラウンに依頼した。さらに空間があったので、戴冠式行列などに備え、ハプスブルクのスローガン“不変と力Costantia et Fortitudo”のシンボルも置くつもりだった。しかし皇帝もプラハ行政当局もあまり関心を示さず、この計画は実現しなかった。

クリストフォルスは3世紀頃カアナン(犬の意)の上流家庭に生まれ、シチリアで回心、テキウスの迫害で殉教。彼は地上最強の者に仕えようと、皇帝~悪魔を経て十字架(キリスト)にたどり着いた、という伝説が12世紀頃からドイツで流布した。ペスト流行時には彼の画を壁や家の外壁に魔よけとして掲げた。東方では犬の頭(地の果てに住む怪人)で表されることがあり、祝日は7月25日。14救難聖人の一人で、車、巡礼、商人、船人、荷運び人などの守護人である。本名レプロープスまたはオフェルス。レプローブスという犬頭人体の人食い人種が、キリストの洗礼を受けてクリストフォルスの名づけられた。エジプトの犬頭の神アヌービスの影響といわれる。

カレル彫像12


13.聖ノルベルト、ヴァーツラフ、ジギスムント

マックス1853年作。

碑銘:
【台座中央】
Honori divi Norberti patriarchae sacri ac canoniciordinis praemonstratensis atque patroni begin bohemiae anno salutis 1853 tertio iam posuit venerandasque ss.regum Venceslai et Sigismundi imagines adiunxit laetis sub ausperendissimi ac magnifici Hieronymi Zeidler Praesulis Sionei canonia strahovensis.

プレモントレ会総主教にして司教座聖堂参事会員、ボヘミアの守護神たる聖ノルベルトを讃え、記念すべき1853年、三度これを建て、さらに聖者ヴァーツラフ、ジギスムント両王の像を加えるは、ストラホフ・プレモントレ会修道院および、シオンの代表者たるJ・ザイドラーである。

【台座左】
S.Venceslausm. duxet patronus bohemiae decus solamenaque patriae.
聖ヴァーツラフ、殉教者、ボヘミア公にしてその守護神、祖国を飾りと慰め。

【台座右】
S.Sigsmundus m.rex burgundiae patronus bohemiae regni Christi propugnator perennis.
ブルゴーニュ王、ボヘミアとキリスト王国の守護神なる殉教者、聖ジギスムント。

【聖ノルベルトの足下】
Ios.Max inv.et fecit  
J・マックス設計建立。

記述:群像の中央に聖ノルベルト、右手に旗を持った聖ヴァーツラフ、左手に聖ジギスムント。以前ここにJ・ブロコフ1708年作の、使徒ヤコブと善人アドリアンを従えた聖ノルベルト群像があり、献呈者はストラホフ大修道院長V・シュパイプルだった。1764年にこの群像が老朽化したため、かつてのベネディクト教会に移され、新市街の貴族女学院の庭に置かれた。代りにカレル橋上にはI・プラツァー・シニア作の群像が置かれた。
 聖ノルベルト(c1080年ドイツのクサンテニ生~1134年6月6日没)の貴族一家は、ハインリヒ四世の親戚だったから、彼は宮廷の聖職についた。波乱万丈の生活と送った後、1115年雷に打たれ落馬して一身発起、故郷の修道院に入る。1120年ラオン近郊でプレモントレ会を創設、1126年マグデブルク大司教、教会および世俗世界の批判者、戦士、外交家となった。1132年ロータル三世に随行、教皇イノケンティウス二世を支持、帰途、天使らに伴われ昇。遺体は1627年プラハのストラホフ・プレモントレ修道院に安置され現在に至っている。
 ジギスムント(ブルグント王)は、妻=(オストロゴート王の娘)の死後、若くして美人の彼女の侍女プロコピエを娶った。ある日、王妃の衣を試着し、王位継承者たる前妻の息子ジデリヒに咎められた彼女は、義理の息子に復讐すべく甘言、嘘泣きなどあらゆる手段を尽くして、ジギスムントに無実を信じさせる。激怒した王は522年息子を殺させる。しかし息子の遺体を見た王は後悔する。1年後フランク軍がブルゴーニュに侵攻し、王夫妻と二人の息子は殺され、遺体は深い井戸に投げこまれた。3年後、近在の修道院の院長がジギスムントの遺体を見つけ、自分の大修道院に安置した。そこからカレル四世がプラハへ移させた。聖ヴァーツラフについては別項参照。

カレル彫像13


14.聖ボルジア・フランシスコ

ブロコフ1710年作、1937年改修。
1784年の洪水以降1881年まで、この像の前に歩哨一人のための衛所があった。これは群像の壁に組入れられた。

碑銘:
【天使の足下】
Ioannes Brokoff fecit.
ブロコフ作。

献呈:皇帝の城伯にしてウィーン新市街の財政官コレットのフランツ。

記述:左手の天使が持っているのは全聖人賛美の象徴。坐している天使が示しているのは、その賛美の源たる聖母マリア崇拝の盾。
 聖ボルジア(1510~72年9月30日、祝日10月10日)は、スペインのガンディア大公の子。貴族趣味の美男子の彼は1543年父の後を継ぎ、カタルーニャ副王に列せられ、スペイン王カルロス五世と妃イザベラに寵愛され、魅力的なエレオノラ・デ・カストロとの間に8人の子をもうけた。トレドでイザベラ王妃が亡くなり、遺体はグラナダに移送ることになり埋葬され、ボルジアがその監視役となった。宮廷の慣習により埋葬前に監視役は遺体を確認する。王妃は生前遺体をバルサンで脱臭しないよう願っていた。1週間あと棺を開けると、腐敗、異臭に皆たじろぎ、ボルジアの傍には誰もいなくなった。彼は美女の変り果てた姿に愕然とした。翌日盛大な葬儀が行われたが、彼には人生の儚さが身に沁みた。彼は妻の死直後の46年イエズス会に入り、イグナチウスらと親交を結び、65年イエズス会3番目の将軍に選ばれた。

カレル彫像14


15.聖ヤン・ネポムツキー

ウィーンの彫刻家Matyáš Rauchmüllerラウフミュラー(1645~86)1682年設計、ブラウンが1683年(この年トルコ軍がウィーンから撤退し、この聖人の没後300周年にあたる)、スピシ出のヤン・ブルコフの木像を元に、ニュルンベルクのヘロルトWolfgang Jeroným Heroldtが同年鋳造。橋上最古の唯一ブロンズ像。

碑銘:
【台座正面】
Divo Ioanni Nepomuceno anno 1383 ex hoc ponte deiecto erexit Mathias L.B.beWunschwitz anno 1683
この橋より1383年川に投げ入れられし聖ヤン・ネポムツキーを讃え、マチアーシュ・ヴンシュヴィツ男爵建立。

【台座右側】
Brokoff fec.(上記)

【像右足下】
Me fecit Wolff Hieronymus Heroldt in Nurumberg 1683(上記)

献呈:
ロンシュペルクおよびベズヴィロフの領主マチアーシュ・ヴンシュヴィツ男爵。

記述:像は司教座参事会員の服をまとい、頭の周りに5つ星の光輪がついている。台座の下には板が3つあり、中央板には上記献呈者の記述、左側板には王女の告白、右手板にはネポムツキーが橋から投げ込まれる様が刻まれている.

ヤン・ネポムツキーはヴァーツラフ四世治世(1378~1419)時代、大司教ヤン・イェンシテインの身近な補佐にして代理司教で、王の二度目の妃ジョフィエの告悔僧だったという。王は若く美しい王妃を大変愛していたが嫉妬深く、ネポムツキーに王妃の告白を漏らすよう迫ったが断られた。やがて彼は王と大司教に憎まれ、拷問の末1393年3月20日の夜、石橋の上からヴルタワ川に投げ込まれたという。これらの伝説は、後世イエズス会が、ヤン・フス崇拝をヤン・ネポムツキー崇拝に向けるためのデッチ上げとも云われている。上記設計者ヘロルトがニュルンベルクでこの像を鋳造する際、まだ聖人にもなっていなかったこの人物を、想像だけで作り上げねばならなかった。プラハでの聖ヤンの祭りは1771年5月16日から始まり、聖像は白樺や花で飾られ、毎日2回その前で宗教儀式が行われ、ボヘミア、モラヴィア、シレジア各地から何万もの巡礼が押しかけた。射撃島からは花火が打ち上げられ、提灯を点した小船がヴルタワ川を行き交った。

カレル彫像15


16.聖ルドミラとヴァーツラフ

ブラウン工房1720年頃作。碑銘なし、献呈不明。

ヴァーツラフ少年に教えを授けている聖ルドミラ像。本来はプラハ城壁アイジーデルの聖母マリア礼拝堂前にあったが、1784年の大洪水でここにあった、聖ヴァーツラフ像が破壊されたため、カレル橋に移された。これはパドゥア起源ザルツブルク出のO・モスト(1659~c.1701)作で、足下のレリーフに聖ヴァーツラフ暗殺場面が描かれてい
る。1791年に聖ヴァーツラフ像は若干の修復後、プラハ城に移され、現在はラピダリウムにある。

ルドミラ(841~921年9月15日)は、ムニェルニーク近在に生まれ、ボジヴォイ公の妃となり、871年メトデウスから洗礼を受け、874年頃キリスト教徒となり、貧者、寡婦、孤児に気を配った。ボジヴォイの後を息子ヴラチスラフが継いだが、若死にして政務を継いだ妻ドラホミーラと対立、チェシーンで殺害された。その息子(ルドミラの孫)がヴァーツラフとボレスラフである。

カレル彫像16


17.パドゥアの聖アントニウス

マイヤーJan Oldřich Mayer(1666~1721)1707年作。

碑銘:
【台座両側】
Deo incarnate et sancto Antonio de Padua erigebat et dicabat
モリツ・V・ヴィタウアーにより建てらる。

【台座中央】
Dei gloriae zelotes hostes Iosephi Caesaris feri Timore.
戦う神の栄光よ、ヨーゼフ皇帝の敵を恐れ慄かせ。

献呈:旧市街市民にしてプラハ城代顧問官K・M・ヴィッタウアー。ホテク伯爵により修復。

パドゥアの聖アントニウス(1195~1231年6月13日):リスボン生、パドゥア近郊没。15歳にして生地のアウグスチノ会に入り、2年後コインブラ修道院入り、1220年当地のフランチェスコ会に入り、アントニウスと改名。布教のためモロッコに送られたが、健康を害しヨーロッパに戻り、アッシジはじめイタリアやフランスで布教、1124年南フランスのアルビ派と戦った。

カレル彫像17


18.燭天使に守られた聖フランチェスコ
マックス1855年作

碑銘:
【台座中央】
Sancto Francisco Seraphico ob Franciscum Iosephum imperatorem Augustum 1853 divinitus servitum D.D.Franciscus Antonius Kolowrat Liebsteinsky eques avrei velleris 1855.    

1855年フランツ・ヨーゼフ皇帝を護った燭天使に守られた聖フランチェスコに、1855年、金毛会騎士コロヴラト・リプシテインスキー伯爵フランリシェク・アントニーン。

【台座右手】
Anjelům svým přikázal o tobě, aby tě ostříhali na všech cestách tvých. Žalm 90.11. 

詩篇90章11節。聖像下Em.Max inv. Et fecit.E・マックス設計、製作。

献呈:コロヴラト・リプシテインスキー伯爵フランリシェク・アントニーン。
元々ここには1708年、マラー・ストラナ在住の彫刻家フランチシェク・プライス作の群像があったが、材質が悪く風雪に晒されたためマラー・ストラナの聖ヨゼフ教会へ移された。これはプラハのカプチン会士たちの依頼で作られたが、費用を負担したのは、トロヤの館を造らせたシュテルンベルクのヴァーツラフ・ヴォイチェフだった。

フランチェスコ(フランス崇拝の父親が命名、1181~1226)は、商人となり放縦な生活ののちペルージャの戦いで捕虜となり、1年間受牢中に病いを得て回心、ある日アッシジ郊外の荒れ果てた聖ダミアヌス教会に足をとめ祈り、神の声を聞いた。そこで彼は急ぎ家に帰り丹物を売り払い、この教会を再建した。父に勘当された彼はその後、托鉢して廻り、フランチェスコ会を創設した。1124年アルヴェルナ山で断食中に、キリストの聖痕を刻印さる。晩年は視力を失う。

カレル彫像18


19.聖タダイのユダ
マイヤー1708年作

碑銘:
【台座上】
Devoto Christi amico
敬虔なるキリストの友へ。

献呈:ネミシュルとイェツシホヴィツェの騎士ミトロフスキーなる、ボヘミア王国代理書記フランチシェク・セジマ。

タダイのユダ(神を賛美しようの意):
他の使徒とは異なり漁夫ではなく農夫で、イエスの近親者(彼の母とマリアは姉妹)だったらしい。イエスとは短期間のみ行動を共にするつもりだったが、師の奇跡を見て後に従った。イエスの教えを遠隔の地でひろめたが、ペルシャ兵に殺された。

カレル彫像19


20.聖ヴィンケンティウス・フェレリウスとプロコプ

ブロコフ1712年作

碑銘:
【標識の上】
s.s.Vincentio ferrserio et Procopio binis patronis D.D.D.
二人の保護聖人聖ヴィンケンティウスと聖プロコプに。

【台座蛇腹に】
Convertiti 100 000peccatores.
十万の罪人を改悛さす。

【左の棺】
Resuscitavit 40.
四十人を蘇生。

【左手女人像柱台座】
8000 Saracenos ad fidem catholicam.
八千のサラセン人をカトリックに改宗さす。

【前面女人像柱】
2500 Iudeos ad Christum.
二千五百のユダヤ人をキリスト教徒に。

【右手女人像柱】
70 daemones domuit.
七十匹の悪魔を改悛さす。

【台座上板】
Timete deum et date ikki honorem quia venit hora iudicii eius.
裁きの時近ければ、神を恐れ敬え。

【台座後】
Opus Ioanis Brokoff.
ヤン・ブロコフ作。

ヴィンケンティウス(1350~1419):
スペインのドミニコ会士。1384年ヴァレンシア聖堂付属新学校教授、審判の天使と呼ばる。祝日4月5日。プロコプ(985~1053)コウジム近在生。1030年サーザヴァ修道院を設立、院長となる。歌唱に優れ、薬草を集めた。

カレル彫像20



ブルンツヴィーク像

上記の外側通称「ローランの柱」という橋桁にブルンツヴィーク像(1506年頃作)のコピー(1884年)がある。ハンガリー王ベーラに勝利したオタカル二世が、民衆の歓呼のうちにカレル橋を渡りながら、感謝に念をこめ剣をヴルタワ川に投げ入れたという。

Venceslaus (Václav)=Wencl,Wencel
Boleslaus(Boleslav)=Buncel
Przetislaus (Břetislav)=Pretzel
Przemysl (Přemysl)=Pruncel,
Prunclík, Brunclík, Bruncvík
Przemysl・Pruncel・Bruncvík は
有名なオタカル二世Přemysl Otakarをさす。

作者:ルドヴィーク・シメク1886年。

献呈:プラハ教区。もとは川に向いていたが、1648年、1848年の砲撃で損傷、1886年に再建された。現物はラピダリウムに保管。本来は剣をひっさげ、平和と友情を示す老人像だった。象牙製の縮小コピーはプラハ市立博物館にある。同様のものは北ボヘミアのリトムニェジツェはじめ、国外ではヴェネツィア、ニュルンベルク、ハンブルク、ブレーメンなどにもある。

カレル彫像ブルンツウィーク



[ 2011/08/02 22:24 ] 中欧文化(チェコ) | TB(-) | CM(-)



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