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「聖夜=きよしこの夜 Stille Nacht, heilige Nacht」

1818年12月24日、ザルツブルク北西の村オーベルンドルフOberndorf bei Salzburgの聖ニコラス教会に着任ほどないモール司祭は、隣村アンスドルフにグルーバーを訪ね、2年前マリアファル村(ザルツブルク東南約80km)教区で書いておいた“聖夜Stille Nacht”の詞を渡し、独唱2声と合唱用讃美歌の作曲を依頼した。数日前に教会のオルガンが故障し、修理が間に合わなかったのでギター伴奏にしてもらった。グルーバーは即座に曲づけし、当日深夜のミサで、モールがギターを弾きながらテノールを、グルーバーがバスを歌い、教会附合唱団が混声4部で最終数小節をくり返した。

ここのオルガン修理をまかされていたのは、チロル地方フューゲン南隣、カフィング村のカール・マウラハーで、この歌を筆写して持ち帰り、故郷で歌い広めたから、のちにはチロル民謡として近隣で有名になった。彼は1824年にオーベルンドルフの古いオルガンを新品に取り換えた。同じくチロル地方の歌手ライナー一家は、1822年にヒューゲン城で、皇帝フランツII世と、ロシア皇帝アレキサンドルI世の御前で、この歌を披露し、1839年にはニューヨークの三位一体教会で歌った。チロルの手袋職人シュトラッサーも、兄弟一家と毎年ドイツの歳の市に出かけ、1826年には民謡で屋台に人々を惹きつけ、プライセンブルクのザクセン宮廷にも登場し、1932年12月15日ライプツィヒの演奏会では「聖夜」も歌った。1830年代には歌詞を変えた様々な歌集が出版され、1833年頃ドレスデンとライプツィッヒで、4巻のチロル民謡集(独唱、ピアノまたはギター伴奏)が出た。

1854年暮「聖夜」の作者を、ミハエル・ハイドンと思っていたベルリン宮廷楽団は、本当の作曲者がグルーバーだと確認した。こうしてこの歌は、チロル、ドイツ、アメリカへと伝わり、その後さまざまに編曲、翻訳され(英訳は1861年)世界中に広まった。

オーベルンドルフの聖ニコラス教会は、1899年の洪水で破損し、1906/ 13年の間にとり壊され(新しい聖ニコラス教会が別の場所に建つのは1906年になってから)、その跡には1924/ 37年の間に「モール・グルーバー記念礼拝堂」が建てられた。

「聖夜」冒頭の旋律は、グル―バー生地の民謡「Geh i hinaus zu an schen Hausここから美しい家へ行け」と同じと言われている。この歌はニ長調、6/ 8拍子で6番まであるが、ふつう1, 2, 6番だけが歌われる。自筆譜は残っていないが、1836年12月12日の写譜は変ホ長調となっており、1845年にはヴァイオリン2、チェロ、ニ調ホルン、オルガン、ソプラノ、テノール用に編曲され、ザルツブルクのCarolino Augusteum博物館所蔵の楽譜は、ニ長調、6/8拍子となっている。

この歌はその後ドラマ化され、ジングシュピールとしても上演された。1950年代には戦闘や雪崩の場面も入れ、自由に翻案した映画「Das unsterbliche Lied不滅の歌」が作られ、1988年にはチェコとスコットランドのEdinburgh Film and Video Production共作のテレビ番組「静かなネズミTychá myš」が、チェコとオーストリアで放映された。

*****

グルーバー Conrad Franz Xaver Gruber(1787~1863):
教師、ヴァイオリニスト、チェンバロ奏者、オルガニスト、合唱長、作曲家のグルーバーは、1787年11月25日、ウンターワイツベルクUnterweitzbergに、6人兄弟の第3子として生まれた。母アンナ・ダンナー(1747~95)は農家の娘で、麻布業者の父ヨゼフ(1739~1815)は、フランツ少年を、貧しいながら安定した職業の織物業者にしたかった。だが少年は音楽に走り、ひそかに地元の教師・オルガニストのアンドレアス・ペーターレヒナーに、ヴァイオリン、オルガンと作曲を学んでいた。12歳の時、両親も列席しているミサで、急病の先生の代役を務め、父も軟化し音楽の道を許してくれた。彼は18歳まで家業を手伝い、1805年にブルクハウゼンの教区教会オルガニスト・ゲオルグ・ハルトドブラーのもとへ赴き、ミサの折のオルガン演奏で腕を磨いたが、滞在はわずか3ヶ月だった。

1806年から07年までアルンスドルフ村で、教師、オルガニストを務め、7月6日にラムプレヒツハウゼン村の、13歳年上の未亡人エリーザベト・フィッシンガー(1774~1825)と結婚、生まれた二人の娘は夭折した。彼女の死後グルーバーは2回結婚し、最初の再婚相手マリエ・ブライトフスとの間に12人の子をもうけた。1816/ 29年の間オーベルンドルフで、教師、聖ニコラス教会オルガニストを務めた。1835年に教職を辞し、ハラインHalleinの教区教会合唱長、オルガニストとなり、そこで余生を送り1863年6月7日に歿した。当時楽才豊かな4人の子供が存命しており、とくにフランツ・グザヴェル(1826~71)とフェリックス(1840~84)が秀でていた。ハライン市立博物館には遺品の家具やピアノ、モールのギターなどが収められており、ミサ曲など聖俗合わせ約100曲の手稿は、当地Stille-Heiligeアーカイヴに、「聖夜」に関する資料はオーベルンドルフの郷土史館Heimatmuseumに展示されている。

モール Josef Franz Matthias Mohr(1792~1848):
神父、詩人、音楽家、ギター奏者のモールは、1792年12月11日ザルツブルクに生れた。父ヨゼフはマリアファル近村シュトラナッハ出の農夫だったが、軍隊に志願して司教付銃兵となり、ザルツブルク出の貧しいお針子アンナ・ショイバーと結婚したが、遠い戦地に赴いた後、姿を消してしまった。残された一家の暮しは苦しく、フランツ少年の面倒をみたのは聖堂助祭のJ・N・ヒールンレだった。モールは彼の援助で、ザルツブルクのギムナジウムや、上オーストリアはクレムスミュンスターのベネディクト修道院学校、最後にはザルツブルクの司教神学校で学ぶことができ、その間に音楽とくに歌や種々の楽器、中でもギター演奏を習得した。

1815年8月21日,助祭に任じられ、ベルヒテスガーデン近在のラムザウで短期間務め、1815-17の間マリアファルで助手をしていた。しかし.健康を害してザルツブルクに戻り、1817/ 19年の間オーベルンドルフで、J・ケスラーとG・H・ネストラー司祭の助手を務め、グルーバーと知り合う。その後ザルツブルク管区のクフル、ゴリング、ヴィガウン、アドネト、アンテリングなど、10ヶ村で任にあたった。1827年にはじめて独りで任された、ヒンターゼー教区で10年過ごし、その後、転任したワグラインで、1848年12月8日に肺炎で歿した。モール・グルーバー共作の「テ・デウム」も当地Waggerl博物館で聴ける。

世界的に名声を馳せた「聖夜」から二人は、金銭的な報酬も名誉も受けることなく、生涯、慈善事業に尽くしたモールの生活はつましく、グルーバーが自分の家を持てたのは最晩年だった。

文献:
1)Karl Weimmann:Stille Nacht, Heilige Nacht! Řezno, 1918, 1920.
2)Josef Gassner :Franz Xaver Grubers Autographen von Stille Nacht, heilig Nacht, mit der Geschichte des Lirders, Oberndorf an der Salzach 1968
3)Max Gehmacher:Stille Nacht, Heilige Nacht!
Das Weihnachtslied – wie es entstand und wie es wirklich ist, Salzburk 1937/ 1968

Stille Nacht.info

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[ 2013/12/11 20:33 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)

マーラーがモラヴィア、ボヘミアに残した足跡

kakeizu

マーラーの祖先は、南ボヘミアはブラニーク山麓の在に発し、ヤコブ(1680年 フメルナ生)を嚆矢とする。アブラハム・ヤコブ・マーラー(1720~1800フメルナ生没)は, 商人、シナゴーグ歌手で、アンナ(1731~1801 フメルナ没)と結婚。その息子ベルナルド・マーラー(1750~1812)とルドミラ(バルバラ)・ルスティグとの間に生まれた、アブラハム・シモン・マーラー(1793 ~1860年フメルナ生没)はマーラーの祖父で、彼もシナゴーグ歌手、食品店主だった。1793年にマリア・ブロンディと結婚しリプニツへ移住、

1827年カリシュトに移り、ここでマーラーの父ベルンハルト誕生。祖父はここで1835年から蒸留所を借りて営業(1980年代に取り払わる)、1848-49年のユダヤ人融和政策で繁盛する。ベルンハルトはイグラウやズナイム(ズノイモ)などを行商して巡る。

1857年にレデチの石鹸製造の豪商アブラハム・ヘルマンの娘マリア(1837~89)と結婚。資金提供を受け酒場と店を経営。皇帝のユダヤ人移住緩和策を受け、

1860年にシモン一家はドイチブロド(ニェメツキー・ブロト、現ハヴリーチクーフ・ブロト)へ移り、紡績工場の基礎を作る。一方ベルンハルト夫妻は7月7日に生まれた幼児グスタフを抱え、10月22日イグラウ(現イフラヴァ、モラヴィア第2の都市でドイツ人優位の人口17,000)へ移住。蒸留酒製造、販売、雑貨店を営む。カリシュトの家をまかされた弟ダヴィド(1838~1911)はじめ、親戚も順次イグラウへやって来る。近くには市役所とイグナチオ教会(1681/ 89年間建立、現マサリク広場上手、下手は市場)や、家庭医コップシュタインの家(現マサリク広場170)もあった。フランツ=ヨーゼフ一世のユダヤ人融和策で、イグラウには1863年にシナゴーグ(Neugasse,現ベネシュ通り、1939年ナチスが破壊) 、1869年にユダヤ人墓地(市の西端)などが作られた。

家はPirnitzergasse 265(現ズノイモ通 4、2000年改築)、ついで隣家264(現ズノイモ通 6)も買い取り、翌年に大改修してバーの開き、他人所有のものも借りうけ、そこで蒸留酒やブランディを売って財をなし、メイドや使用人も増えた。

1863年11月:本籍をカリシュトからイグラウへ移し、然るべき税金を払い市民となった。父は仕事熱心で意欲満々だったが、粗野で気性が激しく、生来心臓が弱く繊細で虚弱な母とは絶えず言い争っていた。そんな時グスタフ少年は通りの手回しオルガンの音や、乳母や奉公人がチェコ語で歌う民謡に憩いを求めていた。彼は4歳ですでに楽才を示し、級友フィッシャーTheodor Fischer(1859~1934、ウィーン大学でも席を並べ、イフラヴァのカトリック墓地に眠る)の父が合唱長をしている、聖ヤコブ教会(1243年建立)で歌い、ミサ曲の美しさに心打たれた。音楽の師はその外、市立劇場のJ・ジシカやFr・ヴィクトリン、ブルックナーに学んだV・プレスブルク、F・シュトゥルムらだった。

近くの兵舎(1794~1995、クシージョヴァー通2)からはラッパの音が響いて来たし、広場では軍隊パレードや野外コンサートが行われていた。小学校(ブルノ通29)へは1869年まで通っていた。レデチ村の母方の祖父宅(祖父母はグムポレツのユダヤ人墓地に眠る)の屋根裏で、埃をかぶったピアノに興味を示し、これを貰って即興演奏する。5歳のとき広場の市で、女たちにアコーデオンを弾いてきかせた。

1866年7月初旬:レオポルト大公とザクセン王ヨハンの相次いでの訪問、激励にも拘らずオーストリア軍は敗退、プロシャ軍が町中を勝利の歌を響かせながら行進、傷病兵の護送やコレラの流行を目にした。11月にはフランツ・ヨーゼフI世が戦後の視察に訪れた。この年イグラウの丘で、最後の2人の公開処刑があった。

7歳のときピアノ教師に最初の作品、序奏つき葬送行進曲「ポルカ」を見せた。

1869年ドイツ・ギムナジウム(現図書館、フルボカー通1)に通う(1875年まで)。
父親に2コルナの約束で「トルコ人」という歌曲を書いた。歌詞は“ハーレムに美女を囲っているトルコ人になりたいが、ワインが飲めないのが玉に瑕きず”という単純なものだった。12月20日、凍りついた道で財布を拾い駐在所に届けた。

1870年:10月13日、市立劇場(現ホラーツカー劇場、1994年再建)でピアノ公開演奏。
前年の善行が3日後、雑誌Vermittlerで公表された。

1871年プラハ新市街ナ・プシーコピェ16の、ギムナジウム(旧ピアリスト寄宿舎1760/ 65年創設)へ遊学するが、市中心ツェレトナー通29の下宿で、家主の息子でピアノ学生グリュンフェルトAlfréd Grünfeld(1852~1924のちの名ピアニスト)が毎晩、女中と愛を交わす激しさに恐れをなし、1年足らずで親元のイグラウへ逃げ帰った。

1872年:11月一家は広い家(現ズノイモ通, 265/ 6)を買い取り、ブルノ通3にも雑貨店を開いて繁盛、乳母や使用人も増えた(1889年まで)。11月11日校内行事の一環としてグスタフ少年は、メンデルスゾーンの「夏の夜の夢」(リスト編曲)を弾いた。

1873年:10月17日、チャプ・ホテル(ジシカ通18現労働会館)で『ノルマ』の主題による幻想曲(タルベルク編曲)を弾いた。当時すでにピアノを教えており,モーツァルトやヴェルディのオペラにも通じていた。

1875年:モラヴァン村とロノフ村を、年長の友人のスタイナーJosef Steiner(1857~1913)と訪れたマーラーは、貴族子女教育に熱心な城(18世紀末建立)主の執事G・シュワルツと知り合い、彼の支援でウィーン留学が決定した。マーラーは級友の台本をもとに『シュヴァーベンの豪族アルノシュト』なるオペラを書き、音楽院で試演した。休暇にゼラウ(ジェリフ)村を訪れフロインドの妹を知る。ヴラシム村の叔母と従姉妹を訪問。ここから郵便馬車に乗り、チェフチツェ村まで遠出し角笛を聞く(第3交響曲)。弟エルンストの死を悼み、オペラ『シュワーベンのエルンスト公』を書く。

1876年:最初の学年をシューベルトのソナタを弾いて一等賞で終え、7月31日市立劇場のコンサートで、自作のヴァイオリン・ソナタとピアノ四重奏曲を、同僚やウィーン宮廷オペラ団員と初演した。これは9月12日イグラウのチャプ・ホテルでも演奏された。

この年から1884年まで休暇を、叔母バルバラ(1847~11923)夫妻のフライシュベルガー(1842~1916)宅で過ごす。

1877年:父親の願いを入れイグラウ・ギムナジウムも卒業。

1877/ 79年:ウィーン大学でブルックナーの講義を受け、Rättig社の依頼で同級生のクシジャノフスキRudolf Krzyźanowski(1859~1911)と、ブルックナーの第3交響曲のピアノ譜を作った。卒業を待たず1879年ここを去る。

1878/ 83年:休暇をゼラウ(ジェリフŽeliv)で過ごした。この村はイグラウの西北35キロ、生地カリシュトの南8キロ、グムポルツ(フムポレツ)の西8キロにあり、そこには親友でのちに顧問弁護士となるフロイントEmil Freund(1859~1928、イグラウの家=現マサリク広場86)がいたせいもあるが、彼に好意を寄せる妹マリエがいたからだった。しかしこの愛は1880年の彼女の自殺で終った。ここでピアノ四重奏曲イ短調を演奏した。この楽譜は1973年にアメリカで発見されたが、これ以外の初期の作品は、破棄されたか所在不明になっている。

1870年代末:ヴラシムVlašim村の母方の叔母アンナ(1838~98)・イグナーツ・フライシュベルガー夫妻宅で、従兄弟のグスタフ・フランクやフィッシャーや、フロインドと過ごした。18世紀末建立のイギリス庭園内シナ・パヴィリオンは「大地の歌」作曲に刺激を与えた。この頃、電信局長ポイズル(旧フルボカー通50現存せず)の娘で、ピアノを教えていたヨゼファJozefa Poisl(1860~1928)に恋するが、彼女は年配の教師と結婚してしまう。彼女に捧げたMaitanz und Grünenは、のちにHans und Gretheとなる(1885年参照)、その音型が交響曲1番の2楽章冒頭に使われる。

1880年:5~6月、上部オーストリアはバード・ハルやライバッハで、保養客相手にオペレッタなどを指揮。「嘆きの歌」を作曲(推敲を重ね、初演は1901年にウィーンで)。

1881年:8月18日、ヴラシム村のカレル四世レストランで、プラハ国民劇場再建(翌年開場)支援コンサートを行った。9月から →

1882年:1月まで、ルブリャナ劇場に招かれ、ピアニストとしても登場した。

1883年:1月12日からオルミュツ(オロモウツ)のドイツ市立劇場(1830年建立)指揮者を務める(劇場経営不振のため3月18日まで)。2月24日、市民会館(リーゲル通,5/ 404)内カジノでの歌曲リサイタルで、ピアノ伴奏をする。春イタリア・オペラ団のカール劇場での公演に際し合唱指揮を手伝う。夏休に西ボヘミア国境エゲル(ヘプ)にある、友人クシジャノフスキの実家に泊る。この年はじめてバイロイトを訪れ『パルジファル』を観る。夏にイグラウでの最後のコンサートを行う。同年8月から1884年6月まで、カッセルのプロシャ劇場指揮者となるも満足せず。

1885年:8月からプラハ・スタヴォフスケー劇場指揮者となり、『ニーベルンゲンの指輪』から2部分、ベートーヴェンの第9などを指揮。4月18日にはBetty Frankの歌う自作歌曲3つと、5月7日ドイツ仮劇場(1897年以降のカルリーン劇場)での歌曲リサイタルでピアノ伴奏を受け持った。この時はホテル「青い星」「金の輪」「青いバラ」に泊まり、ナイトクラブ「ゴゴ」(現レストラン“赤いクジャク”)へピアノを弾きに通い、国民劇場でスメタナとドヴォジャークのオペラを知る。しかしスタヴォフスケー劇場支配人A・ノイマン(1838~1910)と対立し翌年7月ここを去る。

1886年:8月にはライプツィヒ市立劇場でニキシュのもと副指揮者となり、ニキシュの病気の時はワーグナー・オペラを代って指揮した。

1888年1月:遺族の依頼で補完したウェーバー未完のオペラ『ピントを名乗る3人の男』が初演され大成功を収めた。10月ブダペストのハンガリー王立オペラ(1884年新築)の楽長となり、ハンガリー語でワーグナーを歌わせた。エルケル(1810~93)のオペラも復活上演し、ウィーンから多くの歌手を招き水準を高め、1889年11月には自作、第1交響曲を指揮したが、劇場指導部と意見が合わず、1891年11月ここを去る。

1889年:不幸にも2月に父、9月に妹レオポルディーネ、10月に母が他界した。自身はミュンヘンで痔の手術、7月28日から3週間、マリエンバード(マリアーンスケー・ラーズニェ)などで静養。イグラウの2軒の家を売り払って借金を清算。両親のためにユダヤ人墓地に立派な墓碑を建てた(その後一家の多くは当地ユダヤ人墓地に葬られた)。弟のアロイスは当てにならず、ユスティーヌをブダペストに連れ帰り、オット、エマをウィーンの親友レールFritz Löhr(考古学者)のもとに預け、イグラウを去る。

1891年:3月から1897年まで、ハンブルク市立劇場主席指揮者となり、定期演奏会も開いた。支配人のBernard Polliniは立派な団員を揃えており、中には旧友のクシジャノフスキ、コレペティトゥールにブルノ・ワルターもおり、プラハからバス歌手ヘシュ(1860~1907)も招いた。1892年に入団したメッゾ歌手ミルデンブルクAnna Bahr-Mildenburg(1872~1947)に、マーラーは恋情を抱いていた。同年5~7月にかけてコヴェントガーデン、1897年にモスクワへ演奏旅行した。在任中の夏はザルツブルク近在のアッター湖畔で過ごし、Lieder und Gesänge aus der Jugendzeit(14曲)をまとめ、交響曲2番、3番などを作曲。カトリックに改宗した1897年2月ここでの任期を終える。

1897年:6月から10年間ウィーン宮廷オペラ指揮者となる。

1898年:9月ウィーン・フィル指揮者(団員はオペラと同じ)を以後3年間。ハンブルクから作曲家フェルステル夫人ラウテレロヴァー(1869~1936)など、有名な歌手を引き抜いてきた(在任は1907年まで)。
1899年:9月マイアニグに地所を購入して作曲。ウィーン・セセッション芸術家:ワーグナーO. Wagner, オルリークE. Orlik,モル K. Moll, クリムト, ココシカ, ロラーAlfred Roller(1864~1935、ブルノ出身、1883年からウィーンに住み、宮廷オペラを設計)らと接触。

1902年:アルマ・シンドラーと結婚。マリエ・アンナ誕生。クレフェルトで交響曲3番を初演。

1903年『フィデリオ』、1904年『ドン・ジョヴァンニ』をロラーの新演出で上演。
次女アンナ・ユスティナ誕生(彫刻家,1989年死去)。

1906年:11月11日、ブルノ・ドイツ会館(現モラヴィア広場)で、交響曲1番を指揮、1883年までここに家族が住んでいたロラーと再会

1907年:長女マリエがマイアニグでショウコウ熱に罹り死亡。12月17日一家でニューヨークに渡り、1911年までメトロポリタン・オペラの指揮者を務める。

1908年:元旦の『トリスタンとイゾルデ』を手始めに、ワーグナー、モーツァルト、ベートーヴェンのオペラの上演指揮。共演者にはカルーソー、シャリアピン、K・ブリアンらがおり、デスティノヴァーを主役に1909年には『売られた花嫁』をドイツ語上演した。ここでの1シーズンは3~4ヶ月だったから、余暇にはヨーロッパに演奏旅行しトルバッハで作曲に励んだ。夏カールスバード(カルロヴィ・ヴァリ)で静養、9月19日プラハ産業博覧会の折、チェコ・フィルを指揮し、自作の第7交響曲をプラハ北部の見本市会場(木造で現存せず)で世界初演、ホテル「青い星」(1935年、銀行に衣替え)に宿泊。

1909年からはライバルとしてトスカニーニが登場。この秋に私的ニューヨーク・フィル指揮者を依頼され、各都市で46回のコンサートを行った。9月工場主レドリヒFrotz Redlichに招かれたゲディング(ホドニーン)で、「大地の歌」を完成させたマーラーの言葉:
「友よ、この世が私を生んだのは、幸せになるためではなかった、私はこの地方を進んで行きたい。そこへ戻り決して外国とつくにに憧れない。この土地はそれほど美しく、見渡す限り遠くまで青く輝いているから、いつまでも、永遠に・・・」

1910年:かねてからの心臓神経症が悪化、秋にヨーロッパへ帰り、ミュンヘンで交響曲8番を指揮し、多くの知人が参加した。秋に再渡米し予定の65回のうち48回しか指揮できなかった。死の数ヶ月前に、モラヴィアはフライブルク(プシーボル)出身のフロイトの精神鑑定を受けた。

1911年:4月アメリカからパリに向かい、肺炎球菌感染症と診断され、家族にウィーンへ連れてゆかれ5月18日死去、グリンジングに葬られた。ニューヨーク・フィルの後継指揮者ストランスキーJosef Stransky(1872~1936)はグムポルツの出身。


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アルマ・マーラーの証言によれば、マーラーは毎日、死について考えていたという。13人兄弟姉妹のうち8人が夭逝していたからか、彼らの子供の遊びには、ロウソクに火を灯す弔いの儀式もあったという。ギムナジウムに入り、何になりたいかと訊ねられた時、殉教者と答えた。キリストを信じていたらしい。

ドストエフスキーの哲学に共感し、{どこかに苦しんでいる人がいるのに、どうして幸せでおれよう}が信条となった。交響曲「復活」では、人生の目指すところは死では?と問いかけている。〔魚に説教するパドゥアのアントニウス〕により「原光」が出来上がる。{私は神から来たのだから、神のもとに帰りたい}。

彼ははじめ造形芸術にほとんど無関心だったが、次第にウィーン・セセッションに近づいてゆき、ウィーン宮廷オペラの舞台装飾家のロラーの大胆な舞台装置を擁護した。セセッション芸術家の集まりに自分の別荘を提供していた画家モルCarl Mollは、のちにマ-ラーと結婚するアルマ・シンドラーの義父だった。この集いの寵児クリムトは、マーラーの音楽に共感し{幸福への憧れ}を象徴する長さ24メートルのタペスリー{ベートーヴェン}で彼を讃えた。

義父モルの別荘で当時20歳のアルマは、15歳年上のクリムトと恋に落ち、両親およびクリムトと一緒にイタリアへ旅した。たまたま娘の日記を見た母親は、二人の仲に驚いた。クリムトのウィーンでの風評(女性関係)が芳しくなかったから。彼との密会を禁ぜられたアルマは、ウィーンに帰ってから自殺まで考えたらしい。しかし作曲でこの苦しみを昇華させた。クリムト(1862~1918)の祖先はボヘミア出身で、シーレ(1862~1918)の母親も南ボヘミアはチェスキー・クルムロフの出身、二人とも1918年に亡くなったのは、スペイン風邪(インフルエンザ)のためと思われる。

夫の死後、多情なアルマは、建築家クロビウスと結婚(娘マノン)、さらにプラハ生まれの作家ヴェルフェル(1890~1945)と再婚、アメリカの彼女の音楽サロンには、シェーンベルク、ストラヴィンスキー、コルンゴールドらが出入りしていた。

1932 年に高水準のDie Wiener Walzermädelnを設立、ヨーロッパ中を演奏旅行したが、強制収容所で演奏する羽目になる。

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1960年カリシチェとイフラヴァに記念額掲示。

1986年フムポレツにマーラー記念室

1990年マーラーの次女アンナ・ユスティーネ(彫刻家)は、モーツァルトを讃えるザルツブルクでの展覧会への途次、1889年に他界した。その一人娘マリナは1991年12月初旬、プラハの国際マーラー・センターや、カリシチェ、ジェリフ、フムポレツなどを歴訪した。

1992年7月1日フムポレツ博物館でコンサート。祝典はマーラーの第7交響曲がプラハ世界初演された9月19日に合わせ行われた。

1993年オロモウツの1931年設立銀行跡に、マーラー・カフェ開店(上手広場11)。

1994年イフラヴァにマーラー・ホテル開業(クシージョヴァー通4)、ヴィソチナ博物館に“若き日のマーラーとイフラヴァ”展示室が開場(コスマーク通9)。

1997/ 98年カリシチェの生家(1937年焼失)改修。

2006年カリシチェの生家が改装され、前夜祭には歌手Thomas Hampsonらが招かれ, Wolfgang Riegerの伴奏でG・ベニャチコヴァーが歌った。参加者にはイギリス・ブリテン協会会長Donald Michell、オランダ・マーラー協会会長Willem Smithおよび、G.M.Masonらがいた。マーラーの孫娘マリナも参加した洗礼者ヨハネ教会では、Musica Noster Amor代表フデチェク、ペツコヴァー「さすらう若者の歌」、ビェロフラーヴェク指揮プラハ室内フィルのコンサートがあった。マーラーの通った学校には例年のごとくバラが植えられ、この年はノイマンとコシュレルのために捧げられた。


あとがき
1990年5月26日フムポレツ在住のマーラー研究家リヘツキーJiří Rychetský氏(1926~2012)を訪ね、まずは当地のフルドリチカ記念館内のマーラー記念室を見せてもらった。フルドリチカAleš Hrdlička(1869~1943)は当地出身の有名な人類学者で、1903年から死ぬまでワシントン博物館の人類学部門の長を務めていた(プラハ・カレル大学人類学部内にも記念室がある)。その後カリシチェの生家や、若き日の恋を燃やした地ジェリフ村などを案内してもらった。イフラヴァにはマーラー記念館があり、誕生日の7月7日(最近は秋)を中心に毎年、音楽祭が催されている。


チェコ(ドイツ)都市名対比表イフラヴァ Jihlava (Iglau)
ヴラシム Vlašim (Wlaschim)
オロモウツ Olomouc (Olmütz)
カリシチェ Kaliště (Kalischt)
ジェリフ Želiv (Selau)
チェフチツェČechtice (Czechtitz)
フムポレツ Humpolec (Gumoplds)
フメルナー Chmelná(Chmelna)
プラハ Praha (Prag)
ブルノ Brno (Brünn)
ヘプ Cheb (Eger)
ホドニーン Hodonín (Göding)
モラヴァニ Moravany(Morawan)
マリアーンスケー・ラーズニェMaránské Lázně(Marienbad)
レデチ Ledeč nad Sázavou (Ledetsch an der Sasau)
リプニツェ Lipnice nad Sázavou(Lipnitz an der Sasau)サーザヴァ河畔
ロノフ Ronov nad Doubravou(Ronow)ドウブラヴァ河畔

map


参照文献:
Jiří Rychetský:Po stopách G.Mahlera v Čechách a na Moravě, Humpolec
手書き原稿(1995)
Milan Palák:Po stopách G.Mahlera v Čechách a na Moravě, Fr. Šalé (2003)
ISBN 80- 903362- 0- 5
Ludmila Klukanobvá:Jihlava a G.Mahlerovi, Parola (2010)
ISBN 978- 80- 903282- 7- 3


sekine
リヘツキー氏とマーラー生家にて

[ 2013/07/07 09:12 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)

「バフチサライの泉」~その2

涙の泉
プロローグ:ギレイ汗の宮殿。“涙の泉”のほとりで悲しむギレイ汗。

第1幕:ポトツキー城内の前庭。

マリアの誕生日の舞踏会。タタールの密偵が忍びこみ、突然その軍勢が襲いかかり、伯は隊長ヌラリに、ヴァーツラフはギレイ汗に殺され、マリヤはギレイ汗に捕われ、城は炎に包まれる。

第2幕:ハーレムの大広間。
ハーレムでの情景では、第二夫人“褐色の女”も含め、囲われ女たちが美を競ってワルツを踊り、ギレイ汗最愛の美女ザレムに嫉妬の眼が向けられる。タタール軍が凱旋し、召使に伴われたマリアが、亡き恋人の竪琴を抱き入ってくる。丁重に迎える汗の心は、すでに彼女に移っていた。3人の女奴隷が次々と踊りを披露し、汗の心を和らげる。フィナーレではザレマは汗にそっ気なくされ、嘆き倒れる。

第3幕:マリアの寝室。
マリヤが故郷を偲び竪琴を弾いている。ギレイが訪れるが、想いをとげられず去ってゆく。ザレマはマリアに「ギレイを返して」と哀願するが、ギレイが残していった帽子を見て逆上し、駆けつけたギレイの眼前で、マリアを刺し殺す。ザレマを成敗しようと、恐ろしい形相で二度三度空しく剣を振り上げるギレイ。

第4幕:断崖を見下ろす刑場の広場。
覇気を失い悲しみに沈むギレイ。ザレマが引き出され谷間に落とされる。マリヤの父を殺した親衛隊長ヌラリは、落胆している主君を元気づけようと、兵士たちに勇壮な“騎士たちの踊り”を披露させるが、ギレイの心は晴れない。
エピローグ。再び“涙の泉”のほとりで嘆くギレイ。白いベールをかぶったマリヤとザレマの幻影が、現れては消えてゆく。

楽曲解説

スコア1
プロローグ:
序曲。ロマンス=パ・ド・ドゥ:ハープ伴奏ヴァイオリン・ソロ(譜例1)に、ホルン、ファゴット、ヴィオラなどが、次々と対旋律をつけてゆく。この旋律はエピローグでも再現される。

第1幕:
ワルツ=マリヤと婚約者ヴァーツラフ子爵のパ・ド・ドゥ(譜例2-1)。主題はクラリネットとフルートの対話にはじまり、トリオ(譜例2-2)では弦が主体となる。
ティンパニ連打についで、やや長めの情景(譜例3)が、オーボエ、ファゴット、クラリネットと木管で奏でられる。この短縮型は「全員の踊り」の前奏にも引用されている。
ポロネーズ(譜例4)ではトランペットが高らかに吹き鳴らされる。
フルート・ソロの前奏に次ぎ、全員の踊り(譜例5)となる。これはシンコペーション主題が、トランペットや打楽器を加えた力強く奏でられる。2つのヴァリエーション。
情景(譜例5)の主題は、すぐあとの「ノクターン」にも引用されている。
マリアおよびヴァーツラフのヴァリエーション。情景。
ノクターン(マリアとヴァーツラフ)。
ティンパニを交えた力強いマズルカ主題(譜例7-1)に、優美なトリオ主題(譜例7-2)が間に入る。
フィナーレは、オーボエ~ファゴット~クラリネットの独奏に次いで、ティンパニのトレモロで前奏が終り、1、全員の踊りとなる(譜例8-1)となる。2タタールの襲来(譜例8-2)は、小太鼓、タンバリン、シンバルなど打楽器を豊富に用いたトゥッティの活気あるもの。3逃走(譜例8-3)では、マリア、ヴァーツラに次いでギレイも登場する。


スコア2
第2幕:
間奏曲。情景(譜例9)は弦の波に乗った延々と続く軽快なワルツ。ギレイの行進曲。ザレマの踊り(譜例10)。マリアの登場(譜例11)。
奴隷たちの踊り(譜例12―1~3):1曲目はハープの伴奏の上で、木管~弦の下降主題が、シロフォンやグロッケンシュピールで鳴らされる。2,3曲目では、スタッカート伴奏に乗るリズミカルなもの。ザレマの踊りと情景。
フィナーレ=ザレマとギレイ(譜例13):独奏ヴァイオリンがラプソディックな音型を奏で、途中トゥッティで力強くなり、第1トリオにはプロコフィエフを思わす旋律が出、第2トリオは曖昧模糊としたもの。全体の構成はABACBDA。


スコア3
第3幕:
間奏曲は「涙と度重なる災いの代りに、人には天国を与え・・」にはじまる、プーシキンの詩によるタタールの歌(譜例14)。マリアの情景(譜例15)。
マリアとギレイの情景。マリアのエレジー(譜例16)。
マリアとザレマの情景、のちにギレイ(譜例18 -1):無伴奏チェロ独奏がしばらく続き、途中からホ長調12/ 8拍子となって、ピアノ伴奏が入ってややテンポを速め、テンポがもとに戻ると旋律がイ長調のヴァイオリンに移り(譜例18 -2)、また主題がチェロに戻り、トゥッティでテンポを速め高揚するが、ヴァイオリンとチェロのみの二重奏を経てコーダではオーケストラが余韻を奏でる。

スコア4
第4幕:
情景では遠くからチェロ独奏が聞こえ、これにヴァイオリン独奏が応える(譜例19-1)。アンダンテとなって小太鼓、タンバリンの不規則なリズムに乗り、舞曲が奏でられ(譜例19-2)、奴隷たちがワルツを踊る、ザレマの処刑の情景となる(譜例20)。
(譜例8-2)の勇壮な前奏に次ぎ、激しい騎士たちの踊りとなる(譜例21)。これに歌うようなギレイの情景が続く(譜例22)。

エピローグ:
本来ここではプーシキンの詩「・・愛の泉、生命の泉よ!私は君に二輪のバラを持ってきた・・・」が、テノールで歌われるはずだったが、今日ではハープ伴奏の弦楽合奏が4/4拍子の叙情的な旋律を奏でる。この旋律はA・L・リュヴォヴィツ(1803~58)収集のロシア民謡集からの引用と思われる。
[ 2008/12/07 12:55 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)

オッフェンバックのオペレッタ「青髭Barbe-Bleue」

青髭(オッフェンバック)
オッフェンバック(1819~80)は、1855年に自前のブッフ・パリジャン座を創設、「地獄のオルフェオ」(1858年作)で一躍有名になり、ヴァリエテ、ルネサンス、ムニュ・プレシール、パレ・ロワイアル、オペラ・コミックなどの劇場に作品を提供し、パリ万国博をはさむ1860年代は(1870~71年フランスが対プロシャ戦争で敗れるまで)、多忙を極めていた。こうした時期の1866年に「青髭」は作曲された。

ペロー原作の「昔話Histoires ou Contes du temps passé」(1697年)をもとに、メイヤック+アレヴィが台本を書いたこのオペレッタは、「美しきエレーヌ」(1864年作)で活躍した、ジョゼ・ドュピュイ(1831~1900、青髭)と、オルタンス・シュナイダー(1833~1920、ブロット)を主役に、1866年2月5日パリ・ヴァリエテ劇場で初演された。とくに堂々たる体格のシュナイダーの好演が光り、1年半に130回も続演された。

その後ギルバート&サリヴァンのオペレッタが人気を集めるまで、1860年代と70年代には、イギリスやアメリカでも上演されていた。1929年にはレオ・スレザークを主役に、1963年にはフェルゼンシュタインの新演出で、いずれもベルリンで上演された。

なおチャプリンの戦争の大虐殺を風刺した映画「ヴェルドゥ氏=殺人狂時代Monsieur Verdoux」(1947年作、銀行を首になった男が、結婚した妻を殺し、保険金をせしめる)も、「青髭」のパロディーと言えよう。

登場人物:
青髭:(T)
青髭に仕える錬金術師ポポラーニ:(B/ Br)
羊飼サフィール(実は王子):(T)
ボベーシュ王:(T)
クレメンティーヌ王妃:(Ms/ A)
花売娘フルーレット(実はヘルミア姫):(S)
長官オスカー伯爵:
廷臣アルバレス侯:
村娘ブロット:(S/ Ms)
書記:
青髭の昔の5人の妻:
(エロイーズ、エレオノーラ、イゾール、ロザリンド、ブランシュ)

あらすじ:
第1幕:村の草地、朝。
羊飼サフィール(実は王子)と花売娘ブルーレット(実は王女)、それに浮気な村娘ブロットが話していると、王様の長官オスカーが、幼いとき姿を消した王女を探しにやってくる。青髭の家来の魔術師ポポラーニも、青髭の次なる妻を探しに余念がない。ブルーレットが王女と分かり、青髭の次なる妻にはブロットが選ばれ、彼らは連れだって宮殿に向かう。

第2幕:
第1場:ボベーシュ王の玉座の間。
今晩サフィール王子とヘルミア姫(ブルーレット)との結婚式が行われることになる。そこへ青髭が6番目の妻ブロットを伴い表敬訪問にやって来る。だがブロットが勝手気ままに振舞うので、立腹した青髭は彼女を強引に連れ去る。
同、第2場:青髭城下のポポラーニの実験室。
青髭はポポラーニに、「今夜ヘルミア姫と結婚するから、ブロットを直ちに毒殺せよ」と命ずる。ブロットは毒を仰ぐが、中身は眠薬でほどなく目覚める。以前の5人の妻たちも、ポポラーニに匿われていたのだ。彼女たちは自由になり、青髭に復讐しようと誓い合う。

第3幕:ボベーシュ王の宮殿、真夜中。
サフィールとフルーレットの結婚式の場へ、青髭が闖入してきて、花嫁をさし出せと迫る。サフィールが青髭に決闘を挑むが倒される。そこへジプシーの一団が入ってきて、占い女がボベーシュ王(彼も、王妃と懇ろだった5人の廷臣を、オスカーに処刑させていた)と青髭の殺人を暴く。
驚いている二人の前で、ジプシーたちが仮装を脱ぎ捨てると、彼らは王と青髭に殺されたはずの男女5組と、ブロットだった。王様と青髭は前非を悔い、5組の男女、息を吹き返したセフィールとフルーレット、それに青髭とブロットとがめでたく結ばれる。


楽曲解説:

オッフェンバック青髭譜例1
第1幕:村の草地、朝。
序曲には、1幕各所から抜粋した、楽しげな旋律(譜例A, B, C, D, E)が使われている。小鳥の囀り(高音木管)のもと、恋仲の羊飼サフィールと花売娘フルーレットが、彼女の小屋の前で甘い二重唱(譜例1)を歌っている。そこへサフィールに惚れている多情な村娘ブロットも来て、「だれもあたしに構ってくれない」(譜例B)と歌う。
ブロットとサフィールが話していると、オスカー伯爵と錬金術師ポポラーニが姿を現す。ボベーシュ王の長官オスカーは、王女を探しに来たのだ。18年前王家に王女が生れたが、3年後に王子が生れたので、彼女はモーゼのよう籠に入れられ、川に流しされてしまった。しかし王子が芳しくないので、捨てた娘を後継者にしようってわけ。籠はこのあたり、青髭の城の前に流れついたらしい。
一方、青髭の命令で、“バラの女王”コンテストをしにやって来たポポラーニは、妖艶なブロットを王女に仕立て上げようとするが、素行が悪いからとオスカーは反対される。
ギャロップのリズムに乗って、村娘たちがコンテストに集まってくる(合唱)。ポポラーニは彼女らのコンテストの開催を、シンバルの伴奏で告げる(譜例2)。籠の中から“バラの女王”の籤をひき当てたのは、予想を裏切りブロットだった(行進曲)! 書記はそれを書類に記す。

その籠がフルーレットのだと聞いたオスカーは、善良なルカス老人に育てられた彼女に、幼い頃の宮殿の記憶もかすかに残っているのを確かめる。では王女様に間違いないと、彼女を輿に乗せ、宮殿に向かう=合唱(譜例A)。ただ彼女はサフィールも一緒に連れてってとせがむ。

入れ違いに、家来たちを従えた青髭が登場、過去の5人や未来の妻について、勿体ぶったアリア「わしは陽気な独りやもめ!」(譜例C, D, E)を歌う。フィナーレで青髭は、“バラの女王”に選ばれた、ルーベンス風の豊満な6番目の妻ブロットを伴い、城での結婚式に向かう。村人たちの合唱、ブロットの肉体を讃える青髭と彼女との軽快なワルツに乗った二重唱、トランペットのファンファーレ。でも青髭の関心はすでに、ちらっと目にしたフルーレットに移っている。最後は急テンポとなり、シンバルが鳴りロッシーニ風の早口「ホップ、ホップ、ラララ!」につぐ、青髭の主題による合唱で幕となる。


オッフェンバック青髭譜例2
第2幕:
第1場:ボベーシュ王の玉座の間。
荘重な序奏(譜例3)の旋律で、オスカーと廷臣たちが「宮廷でのお勤めは辛い」(譜例4)と歌っている(当時のヒット・ソングとなる)。入ってきたボベーシュ王にオスカーは、当日のスケジュールを読み上げる:サフィール王子とヘルミア姫の結婚式、青髭の新妻を伴っての表敬訪問、深夜に及ぶ宴会、舞踏会などなどと。全員が退場するとオスカーは王に、独身の貴公子アルヴァレスを含め5人もが、庭で王妃と逢引きしていると告げる。しかし王の関心は、次々と姿を消した青髭の妻たちにある。

王妃が入って来て、娘は他に好きな男がいるから、今夜の結婚は止めた方がいいと言い、「自分は光り輝く16歳で政略結婚させられてしまった」(譜例5)と優美なアリアを歌い嘆く。フルーレットは結婚したくないと駄々をこね、王が大切にしている、宮殿中の壺を割ってしまう。しかし正装して入ってきた王子が、羊飼のサフィールと知って大喜び、楽しい四重唱となる。王子は狩の最中道に迷い、美しいフルーレットに出会ったが、誠の愛を味おうと羊飼に変装していたのだ(楽しい行進曲)。そこへ飛びこんできてオスカーは、アルヴァレスを処刑したと報告する。

フィナーレ:楽しげな行進曲(譜例6)に合わせ、青髭がブロットを伴い表敬訪問にやってくる。彼は「また妻を娶りましたぞ」(譜例7)と陽気に歌い、ブロットも同じ旋律で後ずけ、合唱が相の手を入れる。

皆はヴァイオリンの甘いグリッサンドを背景に“キスのワルツ”を踊り、青髭はフルーレット姫の美しさに打たれ、7番目の妻にしようと呟く(譜例8)。一方ブロットはサフィールに気づき、王様の代りに彼にキスし、皆に「何でそんなびっくり眼で見るの?」(譜例9)と歌い、その後、王様の頬っペにキスし皆を呆れさせるが、最後は青髭に無理やり連れ去られる。


オッフェンバック青髭譜例3
同、第2場:青髭の城、ポポラーニの地下実験室。
前奏(譜例10)、雷鳴と稲妻の嵐。もう主人の妻を殺すのは御免だ、とつぶやくポポラーニに、青髭は「すぐ効く毒薬を作れ、今夜フルーレット姫と結婚するんだ」という。ポポラーニが姿を消すと青髭は「ここに5人の妻たちが眠っている」(譜例11)と叙情的なアリアを歌う。

ブロットは嵐の中、陰鬱な城に帰らされたと不平たらたら。でも彼女に青髭は「君も死ぬ運命にあるのだ」と言い、彼女は「死にたくない」と泣く。譜例10の旋律を背景に、メロディアスな二重唱が続く。外は嵐。

青髭が出てゆくと、ブロットはポポラーニに渡された毒薬(実は眠り薬)を仰ぎ、ふらつきながらヴィオラ・ソロ伴奏に始まるアリア(譜例12)を歌い失神する。でもポポラーニのかけた電気ショックで意識をとり戻す。情深い彼は、かつての妻たちも同様に眠らせ、地下の墓所にかくまっていたのだ。

フィナーレ:厳かな序奏(譜例13-1)についで、ワルツ(譜例13-2)が低弦で奏でられ、死んだはずの5人の妻たちの優美な合唱(譜例14-1, 2)に、ブロットが加わる。ここは全曲中で一番優美な場面! 彼女たちはエロイーズを先頭に、次々と自己紹介する(譜例14-3)。ブロットは彼女たちを扇動し、小太鼓と撥のリズムに乗って、自由になり復讐しようと歌いだす(譜例14-4)。最後に皆はシンバルとタンバリンを鳴らして踊りまくる。




オッフェンバック青髭譜例4
第3幕:ボベーシュ王の宮殿、真夜中、結婚の場。
前奏(譜例15)、12時の鐘が鳴り、廷臣たちに先導され、正装したサフィールと、ウェディング・ドレス姿のフルーレットが登場、皆が祝いの言葉をのべる(合唱)。ふいに現われた青髭は、結婚式を止めるよう命ずる。自分は1時間前、城への帰途に新妻を失ったから、フルーレット姫をよこせという(譜例16-1)。彼には強力な軍隊が控えている=トランペット、シンバル、太鼓を伴う勇壮な行進曲(譜例16-2)。サフィールが青髭に決闘を挑み、王は決闘の勝者に娘をやると言い、皆が応援するが、サフィールは倒される。前奏の音楽のうちに、フルーレットは泣きなき青髭に手をとられ、皆は祝福しながら退出する。

独り残されたオスカーのもとに、ジプシーに変装したポポラーニが入って来て、ブロットを含め、青髭の妻たちはみんな生きていると言う。オスカーも実は自分も、処刑を命ぜられた5人の若者を、地下室にかくまっていたと漏らす。

王様が姿を見せたとたん、タンバリンを打ち鳴らしながら、ジプシーの一団が入ってくる(譜例19)。占い女(譜例18)は、王様と青髭の手相を読み、彼らの旧悪を暴く。驚く二人の前でジプシーたちが仮装を脱ぎ捨てると、彼らは王と青髭に殺されたはずの男女5組と、ブロット(占い女)だった。二人は前非を悔い、この5組の男女、息を吹き返した王子セフィールとフルーレット姫、それに青髭とブロットが結ばれ、第1幕序曲C、Eの旋律を交えた、皆の歓喜の合唱でフィナーレとなる。

参照CD:Troy 993 Albany、
M.ボロヴィツ指揮オハイオ・ライト・オペラ(英語版)

注:フランス語版、ドイツ語版、英語版それぞれ、内容や歌う役などに異同がある。
[ 2008/06/08 18:42 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)

レズニチェクのオペラ「青髭の騎士」Ritter Blaubart

青髭(レズニチェック)
1)作曲家について
オペラ「ドンナ・ディアナ」序曲で有名な、レズニチェクEmil Nikolaus von Rezniček(1860ウィーン~1945ベルリン)の先祖はボヘミアらしい。祖父は軍楽隊長、父親ヨゼフ男爵は野戦軍将校、母親クラリスはルーマニア王家の出だった。レズニチェクは少年時代ピアノなしで作曲し、ヴェルディやワーグナーの管弦楽曲に興味を抱いていた。

グラーツで法律を学ぶかたわら、ブゾーニやワインガルトナーを弟子に持つ、W・マイアー(1831プラハ~98グラーツ)に音楽理論を学び、さらにライプツィヒ音楽院でライネッケとヤダスゾーンに師事、在学中から小劇場で指揮台に立っていた。

彼は1888~95年の間、プラハ軍楽隊長職にありながら、新設間もない新ドイツ(元スメタナ、現プラハ・オペラ)劇場の作曲家として活躍、オペラ「オルレアンの処女」(1886)、「サタネッラ」(1887)、「エメリヒ・フォルトナト」(1889)を作曲、とくに1894年当地で上演された「ドンナ・ディアナ」は好評を博した。

その後ワイマール、マンハイムで活動、1902年に家族とともにベルリンのシャルロッテンブルク区に居を構え、R・シュトラウス、プフィツナーと親交を結んだ。1906年に破格の高額でワルシャワのオペラ座とフィルハーモニーの指揮者に迎えられ、1909年にベルリン・コミッシュ・オパーの指揮者となった。第一次世界大戦中は、交響曲、交響詩、オペラなど多くの作品を書いていた。

戦後の1919年、芸術アカデミー会員に選ばれ、1920年から26年まで、芸術大学で作曲と管弦楽法を教えていた。その後は作曲に専念、1934年R・シュトラウスの薦めで、14ヶ国からなる国際作曲科連盟(1942年に消滅)のドイツ代表となり、著作権の擁護に献身した。長期の闘病ののち1945年8月2日死去し、シュターンスドルフの森墓地に埋葬された。

2)オペラ「青髭の騎士」作曲経過
こオペラの構想は、1915年に妻のベルタから、H・オイレンブルク(1876~1949)の劇(1906年初演)を薦められたことに始まる。彼はただちに原作者と会って原作をオペラ用に改訂してもらい、その結果、最初と最後の各2幕を1つにまとめ、各所でカットが行われ全3幕となった。R・シュトラウスは当初からこのオペラに注目していた。この台本に描かれている青髭は、女たらしのドン・ファンというより、エゴイスティックで血に飢えた殺人鬼で、盲目の召使や二人の墓泥棒を配している点でも特異である。

初演は1920年1月29日、M・バリングズ指揮ダルムシュタット国立劇場で好評裡に行われた。1919年にウンター・デン・リンデン国立オペラ劇場支配人となったシリングズ(1868~1933)は、現代音楽の紹介に力をいれ、翌1920年にはR・シュトラウスの「影のない女」、シュレカーの「烙印を押された男」、ブゾーニの「トゥーランドット」を上演した。同年10年31日にはレオ・ブレヒの指揮でレズニチェクのこのオペラがベルリン上演された。その後、6年間このオペラは当地で27回続演された。

3)あらすじ
登場人物:青髭の騎士ライナー(バリトン)
盲目の召使ヨシュア(テノール)
伯爵ニコラウス (バス)
息子ウェルナー (テノール)
娘 ユディット (ソプラノ)
同 アグネス (ソプラノ)
神父 (バス)
墓泥棒ヒンツ (バス)
同 ラッテ (テノール)

青髭の騎士は、ワスゲンワルトの秘密めいた城に、盲目の召使ヨシュアと住んでいる。だいぶ前、旅から帰った彼は、唯一の友人が妻と抱きあっているのを見て、彼を射殺し妻も恐怖のあまり死に絶える。その後、青髭は5人の妻を娶るが、いずれも不実を理由に殺してしまった。彼女らの首は城の地下蔵に並べられていた。

ある日ニコラスとヴェルナー伯爵父子は、青髭の客となる。青髭は返礼に、美しい二人の娘がいる伯爵の城に招待され、楽しい数日を過ごす。姉のユディットは青髭に一目ぼれし二人は結婚する。楽しい数週間が過ぎたある日、青髭は、城のすべての鍵を新妻に与え、金の鍵の部屋だけは開けてはならぬと言い残して旅に出る。

しかしユディットは誘惑に負け、禁断の部屋を開け、かつての妻たちの首を見て驚き、鍵を床に落としてしまう。鍵についた血はいくら拭いても落ちない。旅から帰った青髭は、召使ヨシュアが止めるのも聞かずユディットを殺してしまう。ユディットの死因を知る者はだれもいない。二人の墓泥棒は首のない彼女の遺体を見て驚き逃げ去る。

妹のアグネスも青髭の甘言に逆らえず、青髭の城に向かう。耐え切れなくなったヨシュアは、彼女を救うため森に火を放つ。これを見た青髭はこれまでの殺人を告白し、アグネスはバルコニーから飛び降り、青髭は延焼した城の業火に焼かれ、あとには廃墟だけが残る。

4)楽曲解説
音楽はワーグナー、R・シュトラウス、デュカスなどを連想させる、後期ロマン派風の重厚なオーケストレーションで書かれている。

第1幕:星の輝く夏の夜、青髭の城。ホルンが吹き交わす短い序奏にはじまり、青髭の城にまぎれこんだ伯爵父子は、広く立派だが、盲目の召使ヨシュアのいる不気味なこの城について語り合っている。青髭が登場し、妻を寝取った友人を射殺して庭の池に投げこんだ話をする。R・シュトラウス風の華やかな3連音の音楽が執拗にくり返される中で、テンポが変わり、時折バスクラリネットやヴァイオリン・ソロのパッセージが入る。客人は青髭とグラスを交わす。

間奏曲1:悪魔的なフォルティッシモと、弱奏ピアノの叙情的部分が交互に何度も現われる。前者には低音域でうごめく旋律と、コラール風和音進行が見られ、後者ではヴァイオリン・ソロや、ショパンの歌曲「乙女の願い」冒頭に似た旋律が見られる。客人が去ったあと青髭は、ヨシュアに松明を持たせ、地下の穴倉に入り、過去の妻たちの頭をたしかめる。それから上下する4音(ドミドシー)の音型のあと、かつての妻=ビアンカ、マリア、ベアトリース、レオノーラらに思いを馳せ、その名前を呼びながら、ウィンナ・ワルツ風の音楽に合わせヴァイオリンを弾く。

間奏曲2:青髭とユディットの結婚の宴。デュカスの「アリアーヌと青髭」の“紫水晶の部屋”に似た華やかな音楽が奏でられ、メンデルスゾーンの「結婚行進曲」の旋律が、重々しく引用されている。白い髭を生やした小人に変装した妹のアグネスが、祝福の歌を歌う。式の最中に新郎新婦が庭へ出てしまったので、神父はこんな結婚式を見るのは初めてだと嘆く。父親の伯爵(バス・クラリネット)もこの結婚に乗り気ではなかった。ユディットは兄のウェルナーと、幼い頃を思い出しデュエットする(叙情的なヴァイオリンのオブリガート)。やがてシンバルを交えたトゥッティのフォルティッシモのうちに、青髭はユディットを連れ去る。

第2幕:夏の夕暮れ近い青髭の城のテラス。ねぐらに帰る小鳥が囀り、波打つ庭の池を眺め物思いにふける青髭は、かつて射殺した友人ロデリヒの幻を見る。フルートに乗ってユディットが登場、青髭への愛、はじめは恐かったが、今は無上の幸を感じていると歌う(ヴァイオリン・ソロ)。青髭は突然、旅に出ると言い出し(金管の荘重なコラール伴奏)、城内のすべての鍵を渡すが、金の鍵の部屋だけは開けるな、と言い残し出立する。ユディットはリュート(ギター)を手に、独り淋しくアリエッタ「夜になるといつも、思いはあなたに・・Nachts muss ich oft dein denkenn・・」を歌う。ヨシュアは小鳥の囀り(木管のトリル)を聞きながら、よく歌っていたビアンカを思い出し、だれも自分を慰めてくれないと嘆く。突然ユディットの叫び声(フォルティッシモ)が響く、金の鍵で禁断の部屋を開けてしまったのだ! 不安げに青髭が森を通って城に帰ってくる。彼はヨシュアの嘆願も聞き入れず(二重唱)、ユディットの命を奪う(ヴァイオリン・ソロ、この殺人は台本には明記されていない)。音楽は間奏曲をはさみ、ティンパニの轟き、金管の咆哮、減7和音上下動、奔馬調のトゥッティで高鳴る。外に出た青髭は月明かりのもと、渇えた野獣のように城の前の泉の水を飲む。あたりは静まり幕がおりる。

第3幕:伯爵家父祖伝来の墓地前の広い庭。晩夏の夕暮れ近く。召使たちがユディットの棺を担ぎ、後に神父、伯爵、ウェルナー、アグネス、青髭が続く(クラリネットの旋律、葬送行進曲)。「肉体は滅ぶとも霊魂は天国で花開く。最後の審判の日、神の前では・・」と神父が唱える。

弦主体の音楽に乗って、ユディットとの少女時代を回想するアグネスのアリア(ヴァイオリン・ソロ、フルート)につぐ、青髭との二重唱。二人の墓泥棒がコントラ・ファゴット、フルートの上下動で登場。ワルツ風のスケルツォ、弦のピチカート、タンバリンなどを背景に、悪者のくせに聖人の名前を唱えたりする。

間奏曲:低音の唸り、木管のみのパッセージ、劇的な部分とメロディアスな部分などが交互に現われるアマルガムである。トロンボーンの唸りについで、このオペラで一番の聴き所、ヨシュアが3拍子でもう我慢ならぬと、悪魔的なアリア「炎よ燃えろGl醇・’ Feuer!」を歌い、燃えさかる薪を手に森に走る。

次のアグネスと青髭の対話は、弦主体で静かに始まり、コラール伴奏やヴァイオリン・ソロのパッセージを経て、アグネスが「森が燃えてる!」と叫ぶと、青髭はユディットを含む6人の妻の虐殺を告白し、音楽は激しくなる。アグネスはバルコニーに出て、後ろ手にドアを閉め、青髭が強引にそれを打ち破ると、身を翻し下に飛び降りる。

ついに青髭のアリア「わが身を灰と焼き尽くせVerbrenn’ mich zu Asche!」となり、めらめらと燃える炎の中、彼は「太陽のもとへZur Sonne!」と歌い猛火に包まれる。最後は木管のトレモロの上でヴァイオリン・ソロが奏でられ、すべては昇華される。

参照CD:cpo 999 899-2, M.ユロフスキ指揮ベルリン放送SO
[ 2008/06/08 18:39 ] 音楽解説(一般) | TB(-) | CM(-)



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