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ヤナーチェクの一番弟子バカラ

バカラ

ブチェティスラフ・バカラBřetislav Bakala(1897ズリーン近郊の小村フリシュターク~1958ブルノ)の父親アントニーン(1851~1907)はカントル、母親のマリエ(1863~1941)は楽士一家の出だった。バカラは音楽の初歩を父親と生地のオルガニスト、J・ドレジャル(1878~1961)に学んだ。父の死後1908年に気丈な母親は、6人の音楽好きな子供を抱えブルノに移った。クロムニェジーシからブルノの中学へ転校したバカラは、さらにヤナーチェクのオルガン学校へと進み、国内外の作品に接した(1912/ 15年)。1915年にブルノ北25キロのチェルナー・ホラ近郊で軍務につき、前線に出ることはなかったが、重いチフスに罹った。


バカラ
兵役時のバカラ (1916)

戦後はブルノ音楽院でF・ノイマンに指揮(1919/ 20)、マスタークラスでヤナーチェクに作曲を学び、ピアノはV・クルツ(1872~1945)の個人教授を受け、1923年に卒業、ヤナーチェクの北スロヴァキア高タトラ山地への旅に、民謡収集家の兄ヤロスラフ(1895~1952)、クシェノフスキー*一家と同行した。ヤナーチェクは1921年7月上旬にもここを訪れていた。ヤナーチェクの写っている写真には、バカラがしばしば姿を見せている。

注:クシェノフスキーJan Křenovský(1894~?)指揮者、ヴァイオリニスト。ベルリン高等音楽院でヴァイオリンを学び(1909/ 15)、1919年からブルノ・オペラのヴァイオリニストを勤め、当初クヴァピルに作曲を、F・ノイマンに指揮を学んだ。ブルノ・ソコル・オーケストラ(1925/ 35)や、ブルノ=ユリアノフ区の民衆劇場(オペレッタ)で指揮、ベセダでヴァイオリンを教えていた(1925/ 30)。戦後、放送局の編集局に入り、ポオユラー・コンサートを指揮していた。

1920/ 25年の間、ノイマンと副指揮者J・ヤノタ(1874~1957)のもとで、劇場のコレペティトゥールとなり、ノイマンにスメタナの『売られた花嫁』『口付け』『二人の若後家』『秘密』、ドヴォジャークの『ルサルカ』、『イェヌーファ』の再演(1925年)、「ラシュスコ舞曲」(1925年2月19日バレエとして)や、マルチヌーのバレエ『世界で一番強いもの』(1925年1月31日初演)を任された。

1925年にブルノ劇場のソプラノ歌手マリエ(1904~92)と結婚、7月6日ブルノ劇場歌手を連れてズリーンで『イェヌーファ』を演奏した。9月から26年5月の間、滞米中の親友リプカ*František Rybka(1895~1970)の仲介で、フィラデルフィア大聖堂のオルガニストを勤め、トスカニーニと知り合い、チェリストH・キンドラーのピアノ伴奏を行った。

バカラ夫人
バカラ夫人 マリエ (1925)

注:リプカ:オルガニスト、チェロ奏者。オルガン学校で共にヤナーチェクに学び、1912年からアメリカに定住、1924年からフィラデルフィアに移住。ピッツバーク、ジャマイカで教え、アメリカでマルチヌーと親交があった。

帰国後、ブルノの妻と家族のもとへ戻り、ブルノ国民劇場の指揮者を希望したが、すでにハラバラ(1899~1962)がその地位についていたので、ヤノタの助手を勤め、ヤナーチェクの理解者で批評家のヘルフェルト(1886~1945)が1927年に創設した、放送交響楽団コレギウム・ムジクムのピアニスト、副指揮者となり、1927年には自身が編曲した「韻ふみ歌」を指揮した。その間1929/ 31年にかけバラトカ(1895~1958)、およびハラバラと共に劇場指揮者を勤め、1930年4月12日『死の家より』の初演、12月には「娘オルガに捧げるエレジー」「アダージオ」「われらが歌」、『運命』の断章を指揮した。1931年2月24日には『物語のはじまり』を初演、3月7日に『イェヌーファ』を指揮したが、次期劇場指揮者には1932年8月末からミラン・ザックス(1884~?)が登場したため、バカラはまた放送交響楽団へ戻った。1934年には『運命』の1,3幕を、全曲は演奏会形式で9月指揮した。

放送局では局長のA・スラヴィーク(1893~1942)やヘルフェルトの弟子で音楽部長のK・ヴェッテルル(~)と親交を結んだが、経済恐慌後の1932/ 33年の間に楽団は、室内オーケストラ規模に縮小された。1936年には(1947年にも)『ブロウチェク氏の旅』に挑み、ヴァッハの後任としてモラヴィア教員合唱団の指揮者、放送SOの主席指揮者に任命され、『シャールカ』を放送し、モスクワで「タラス・ブーリバ」などを指揮した。

ナチス占領下ではF・スヒー(1902~77, 1927/ 47年間ブルノ放送Oのフルート、オーボエ奏者)、H・カシュリーク(1904~?、1927/ 47年間ブルノ放送Oのオーボエ奏者。有名な演出家ヴァーツラフの兄)、L・フィルクシュニー(1905~50, 音楽学者。ピアニスト=ルドルフの兄)と、愛国的演奏会を催した。

戦後も放送SOの定期演奏会を催し、1948年5月5日『死の家より』を指揮、1948/ 39年の間にブルノ交響楽団や室内オーケストラを設立、1940年からの放送交響楽団のコンサートでは、アンブロス、フルブナ、クヴァピル、ペトルジェルカ、シェファー、スヒーら、モラヴィア作曲家の作品を積極的にとり上げた。

1951年からヤナーチェク・アカデミーの非常勤講師となり、5月26日にはプルゼニュ劇場で『イェヌーファ』を、1954年9月30日にブルノで『運命』を指揮した。晩年の1955/ 56年にはソ連、ルーマニア、ブルガリア、ポーランド、東ドイツ、デンマークで指揮し好評を得、1955年には国立ブルノ・フィルに移り主席指揮者となった。

国内でもチェコ・フィル、チェコ放送SO、FOKプラハSO、モラヴィア・フィル、ゴットワルドフ(ズリーン)フィル、オストラヴァ放送SO、スロヴァキア・フィルなどを客演指揮していた。
バカラはヤナーチェクからだけでなく、親交を結んでいたヘルフェルトからも、作曲、指揮を含め音楽的才能を高く評価されていた。「消えた男の日記」初演のピアノを担当し、『死の家より』(1930年)、「韻ふみ歌」『運命』(1934年)、交響詩「ドナウ」(1948年)などを指揮した。

録音では「カプリッチョ」「コンチェルティーノ」「グラゴル・ミサ」「ラシュスコ舞曲」「タラス・ブーリバ」「シンフォニエッタ」などを残し、「青春」『死の家より』『カーチャ・カバノヴァー』『ビストロウシカ』「ソラーニュチャルターク」「永遠の福音」などのピアノ譜を作り、「ブラニーク山のバラッド」「組曲op.3」の校訂を行っている。

また親交のあったV・ノヴァークの作品の紹介にも力を入れ、1947年のコペンハーゲンでの国際音楽祭で「デ・プロフンディス」を初演したのをはじめ、6つの歌曲集「エロティコン」op.46、4つの歌曲集「ジプシーの歌」op.14などを演奏し、スークやマルチヌーの作品も好んでとり上げていた。

膨大な民謡編曲以外に作品には、弦楽四重奏のための幻想曲(1913年)、弦楽四重奏曲ハ長調(1919年)、チェロ・ソナタ(1916)、オーケストラのためのスケルツォ(1922年)はじめ、歌曲や合唱曲が多数ある。


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[ 2009/09/28 06:48 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)

「バフチサライの泉」~その1

南クリミア半島地図
バフチサライ(庭園宮殿の意、人口2万):
13世紀半ばソルハトSolkhat(クリミア半島南東部海岸近くの現スタリイ・クリムStary Krym)が、キプチャク汗国Yurt(移動式テント)の中心だった。

ここは1328年から1783年までクリミア汗国の首都で、1475年からオットマン・トルコに臣従していた。15世紀半ば同汗国は分裂し、政争をくり返したのち、ギレイHadji-Devlet-Girayがクリミア汗国の王となり、ギレイ王朝は350年間続き、48人の王を輩出した。ギレイ王は在所をバフチサライ東南のクルク=オルKyrk-Or(現Čufut-Kale)としたが、息子のMengli-Girayは、その近くにアシュラマ宮殿を建てた。16世紀初頭から世紀末まで、チュルク=スChuruku-Su河畔の渓谷に王の宮殿が建てられはじめた。ここの宮殿は1519年にサライ王Khan Saraiが、ペルシャ、オットマン、イタリア人建築家の指導のもと、ロシアとウクライナの奴隷を使い建てさせた。

これらの宮殿は対トルコ戦争さ中の1736年、ミニヒMinich将軍の軍隊に焼払われ、庭園も壊された。その後、女帝エカテリーナ二世(1729~62在位~96)の命をうけ、ポチョムキン(1839~91)指導のもと、以前より立派に再建され、クリミアがロシアに編入されて以降も、ツァーリの意向で修復が続けられた。1787年にはエカテリーナ二世の行啓を仰いでいる(宮殿入口前に石灯篭のような記念碑)。第二次世界大戦まで36のモスクがあった。本格的な再建は1960年代になってからである。


バフチサライ入口
2008年8月この地を訪れてみた。オデッサから長路バスでクリミア共和国に入り、首都シンフェローポリ(人口約36万)に着く。1930年代半ば、モスクワ駐在武官だった西村敏雄少佐(1898~1956)が、この地の連隊に配属されていた折、演習の帰途バフチサライを逍遙していると、満月がドームの上にかかり、美しさに郷愁をそそられた。「いい眺めだ」と轡を並べ駒を進めていた、連絡将校の中尉に話しかけると、「あの月を電燈にしたら何燭光になるでしょう」とヤボな答えが返ってきた。ある日、帰宅すると家の前で、50がらみの女乞食が、彼の捨てた牛缶を集め、川の水を流しこみ、塩をいれ焚火にかけ食べていた。家に招き入れ缶詰の肉を食べさせてやると、彼女は身の上話をはじめた。一家は村一番の豪農だったが、田畑をコルホーズに没収され、夫は当局に反抗したため流刑地に送られたという。

ここからバフチサライまでは車でわずか30分足らずだが、この地には目ぼしいものがないので、黒海沿岸のヤルタに泊ることにした。ヤルタまでは85キロに及ぶ世界最長のトロリーバス複線が走っている。十二夜の月が黒海の水面に反映しており、糸杉の背後のブドウ畑は墓地を思わせ(古代エジプトでは糸杉でミイラの棺を作ったとか)、往年のフランス映画“舞踏会の手帳”冒頭場面を想い出す。翌日バスでバフチサライへ向かった。


夏のパヴィリオンの泉

1917年に開館したこの博物館は、1991年に国立歴史文化保存財として、クリミア=タタール宮殿博物館、芸術博物館、17~19世紀武器展示、考古学博物館などを含み、14の泉がある。門を入ると“大使のアレヴィズ門”(イタリア建築家の名にちなむ鉄の門Demir-kapu、1503年作)がある。謁見の間を過ぎ夏のパヴィリオン中央には、ポーランドの詩人ミツキエヴィチ(1798~1855)が“クリミアのソネット”で讃えている大理石の泉czeszmeがあり、壁の装飾はオメールの作である。小モスクから泉の庭にはいる。「黄金の泉」は1733年にカプラン・ギレイ王が作らせた。紅白のバラで飾られた「涙の泉」は、クリム・ギレイ王が謎の美女ディアラ・ビケチDilara Bikeczへの愛の証しとして、オーメルに建てさせたもので、冷たい大理石の中に王の悲しみを刻みこまれている。この泉は1764年建設当初、陵Mausoleumの壁にあった。

ここからハーレム(禁ずるの意)に入る。ここには妻(4人まで合法)や妾(経済的余裕があれば許可)が住んでいた。Shariat法によるとイスラムの妻たちは、夫の許可なく見知らぬ人との接触を禁じられ、別々の家屋に閑居させられており、許された時間に庭園内を散歩したり、鷹の塔Baszta Sokolaの上から外を眺めるだけだった。ハーレムは元は4つあったが、現在は1980年代に修復された一つが残っているだけ。家臣たちの部屋の中の台所では、男だけが調理に従事していたらしく、邸内には400年も経たクワ科Morus bombycisの大木が聳えている。墓地にある歴代王たちの碑銘には「死は万人が飲み干すべき酒盃、墓は永遠の棲家なり」と記されていた。


ハーレムの居間
「バフチサライの泉」には、ポーランドの詩人ウクラインカL‘esya Ukrańka(1871~1913)も詩を捧げているが、これを有名にしたのはプーシキン(1799~1837)で、彼はこの廃墟を訪れた1821/ 23年の間にこの詩を書いた。しかしギレイ汗の側室ザレマが、ポーランド王女マリアを殺害する場面の描写はほとんどない。

・ 「異国(とつくに)の碑銘のかなた、大理石のうちに水はざわめき、
・ 冷たき涙さながら滴り落ちる、永久とわに黙すことなく・・・
・ この国のうら若き乙女らは、遠き昔の物語を聞き知り、
・ この陰鬱な記念碑を“涙の泉”と名づけた」。

バレエ「バフチサライの泉」
プーシキンの詩をもとに、B・アサフィエフ(1884~1949)はバレエを作曲、1934年11月28日、レニングラード国立劇場で、台本ヴォルコフ、振付ザハロフ、主役マリア(ウラノワ)、セルゲイェフ(ヴァーツラフ)、ドゥトコ(ギレイ)、イオルダンおよびヴェチェスロヴァ(ザレマ)により初演された。

ハン・ギレイは、マリヤ姫の誕生パーティのさ中、ポーランドのポトツキー伯の城を襲い、城主の伯爵や許婚のヴァーツラフを殺し、マリアを捕らえてバフチサライに凱旋。彼女に惚れたが物にできなかった。ハンの側室ザレマは、マリアがハンに気のないのに安心していたが、ある時ハンがマリアを訪れた際、落としていったチュベテイカ帽(キャップ)を見つけ、嫉妬に狂い彼女を刺し殺す。怒ったハンはザレマを岩の上から海へ落とす刑に処したが、彼女らを偲びバフチサライの泉を作らせた。
[ 2009/01/07 12:52 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)



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