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2011.12.26 *Mon

ムハの「スラヴ叙事詩」Slovanská epoleja (2/2)

スラヴ叙事詩15
11.ヤン・アモス・コメンスキー(希望の光 1592-1670)
Jan Amos Komenský

コメンスキーは、イヴァンチツェで新約聖書の翻訳などで活動していた、同胞団のヤン・ブラホスラフ(1523~71)の後継者で“教育学の先駆者”。ドイツに留学、1614年に帰国後、1618年フルネクの教会管理者となる。

1620年のビーラー・ホラの戦いと、1621年の旧市街広場での27名のチェコ貴族や市民の処刑は、ハプスブルク王朝支配に対するボヘミアの反抗だけでなく、ボヘミア王国における信仰の自由の終焉をも意味していた。200年に及ぶ宗教的寛容の後、カトリックだけがボヘミアでの唯一の教会となった。チェコ人代表は皇帝選定権を失い、続く300年間チェコ民族はほとんどそのアイデンティティを失った。

多くの人が、故国を離れるか改宗を迫られた。それらの中には兄弟団の構成員もおり、最後の主教ヤン・アモス・コメンスキーを戴いていた。彼はポーランドのレシュノに亡命、さらにイギリス、スウェーデン、プロシャ、オランダと渡り歩いた。彼はもっぱら教授、教育書や語学書の著述に専念し、ヨーロッパで教育改革者として名声を得たが、ヨーロッパ大陸のプロテスタントの間で、チェコ民族への何らかの支持を得ようと努めた。しかしこの希望も、30年戦争が終息すると水泡に帰した。彼は晩年をアムステルダムで過ごし、しばしば海辺を散策し、そこで望郷の念を募らせた。

画面は彼の最後の日々の一齣を描き出している。病いを患うコメンスキーを、友人たちが海辺に連れ出し、多くの人が別れを告げにやって来た。希望の小さな灯火が砂の真中で消えつつあり、帰郷の夢もなくなったことを暗示している。
11)コメニウス


12.鉄と黄金の王プシェミスル・オタカル二世プシェミスル・オタカル二世(スラヴ王朝の団結)
Přemysl Otakar II, král železný a zlatý (Svaz slovanských dynastů)

オタカル二世(1233~78)は、中世ボヘミアでもっとも優れ成功した支配者というだけではない。ダンテは“神曲”の中で彼について触れ、彼の版図はボヘミアやモラヴィアだけでなく、オーストリアや北イタリアの一部にまで及んでいた。彼は騎士たちと不滅の軍隊を持つゆえに鉄の王と呼ばれ、富と寛大さゆえに黄金の王とも言われていた。彼は姪のブランデンブルクのクンフタ*と、ハンガリー王の息子との結婚式の席でも、その富を誇示している。ハンガリーはプシェミスルの宿敵で、1261年10月ポジョニ(現ブラチスラヴァ)で行われたこの結婚は、相互関係を改善させるはずだった。オタカル二世はそこに壮大なキャンプを張り、多くの支配者、諸侯や貴族を招いた。

画面はメイン・テントの内部を描いており、真中にオタカル二世、花嫁は背後に、花婿は彼の左手を握っている。そこには主にスラヴ諸国の他の王侯も臨席している。結婚の贈物が隅に置いてあり、皆の頭上には主にプシェミスル家支配下諸国の紋章が見られる。

*クンフタ=キヌグンデ(1245~85):オタカル二世の2度目の妃、ヴァーツラフ二世の母、クンフタの女子修道院長、ファルケンシュタイン家のザーヴィシと再婚。

スラヴ叙事詩12


13.グリュンワルト戦の後(北スラヴの相互扶助, 1410)
Po bitvě u Grunwaldu (Severoslovanská vzájemnost)

チュートン騎士団は当初、十字軍と結びついていたが、のちに北を目指して騎士団となり、バルチック海周辺に定住した。彼らは北方の異教徒の間にキリスト教を広める目的を持っていたが、次第にキリスト教国だった近隣諸国、とくにポーランドとリトワニアに脅威を与えるようになった。

リトワニアのヴラディスラフ・ヤギエウォ公と、ポ-ランドのヤドヴィカ王妃とが結婚し、両国の勢力が結合した。1410年7月15日、少数のチェコ軍団に支えられた、ポーランド・リトワニア連合軍と、チュートン騎士団との間で、一大決戦が行われた。

画面には、翌日明け方の戦場が描かれている。誇り高い騎士団は完膚なきまでに打ち負かされ、勢力回復の見込みはない。ポーランド王が戦場を視察し丘に登る。多くの戦死体を見て彼は衣で顔を覆う。背後には部下の戦士たちがおり、その中には片目の人物がいるが、それはのちにフス軍団を率いることになるヤン・ジシカである。

スラヴ叙事詩13a

スラヴ叙事詩13b


14.ヴィートコフ丘での戦いの後(テ・デウム・ラウダムス)
Po bitbě v Vítkově (Tě Boha chválíme)

1419年に嫡子のいないヴァーツラフ四世が死去すると、王位継承権を持つのは弟のジギスムントだけだった。ところがボヘミアの民衆は、彼がヤン・フスの死に拘わったとして、ジギスムントの継承権を拒否した。しかしジギスムントはカトリック教会の支持を得て、異端ボヘミアに対する第一次十字軍が結成された。神聖ドイツ帝国を主力とする、ヨーロッパ各地から集められた傭兵たちは、ジギスムントを王位につけるべくボヘミアへ到着した。彼らはプラハの重要拠点の一部、フラッチャニまで占領した。

1420年7月15日ヴィートコフの丘で一大決戦は行われた。トロツノフ出のヤン・ジシカが、新たに結成された急進運動の中心地ターボルからプラハに入った。彼は丘を攻撃してくる敵を迎え撃つに最適の場所を選んだ。十字軍がすでに勝利を収めたと思った瞬間、彼らは背後からプラハ住民の奇襲を受け、多くの兵を失い算を乱して敗走した。
画面右後方ヴィートコフ丘を背に,赤マントを羽織ったジシカが立ち,その前に十字軍の放棄した武器が散乱している。中央ではターボル派の僧が、枝分かれしたホスティアを捧げ持ち,奇跡の勝利を祝福し、その前に他の僧たちが身を横たえ祈っている。画面は多くの負傷者や死者を出した激戦直後の情景を描いているにも拘わらず、死者の姿は一つも見られない。ムハは戦争や殺戮に猛反対していたから、これは戦争の残忍さに対する抗議の一齣だろう。

現在ジシュコフと改名されたヴィートコフ丘の上には,巨大なジシカ騎馬像(B・カフカ1941年作,1950年設置)が建っている。
スラヴ叙事詩14


15.ポヂェブラディのイジー王(カトリックとカリックス派の王, 1458-71)
Jiří z Poděbrad, král obojího lidu

フス運動はイデオロギーの違いで分派したためその力を失い、1436年ついにジギスムントはボヘミア王位についた。しかし程なく他界し、王権は死後に生れたラディスラフに受け継がれたが、長続きしなかった。ボヘミア貴族たちは大きな自由を得、事実上彼らが支配していた。中でも傑出し尊敬されていたのがポヂェブラディのイジーで、彼は王国の支配者となり、カトリックとカリックス派との間の、果てしない争いを鎮めようとした。1458年にラディスラフが死ぬと、イジーは、カトリック側と、領主,貴族,商人が占める聖杯=カリックス派の双方から国王に選ばれ、これは一定の成果をおさめた。

彼の王国の状況は極めて複雑だった:ボヘミアはヨーロッパで唯一、宗教の自由を認められている国で、その基となっていたのは、聖杯sub utraque specieからの聖体拝受を容認する、カトリック側と結んだ、改革派の公式綱領、いわゆるプラハ協約*で、これによりボヘミアでのカリックス派の存在が可能になった。

しかし1462年に法王ピウス二世は、この協約を破棄し、特使ファンティム・デ・ヴァレをボヘミアへ送った。この情景が画面に描かれている。

王の前に立つ枢機卿が王に、カリックス的信仰をやめ、その教会禁止令を伝える、ローマからの通告を読んでいる。激怒した王は、これはボヘミアにおける新たな市民戦争を意味するものとして、法王のすべての要求を拒否し、自分だけにボヘミアの統治権があるのだと答えた。彼は聖体拝受をカリックス流に行い、生命や王冠の危険を冒しても、信念を守ると宣言した。この場面を目撃した貴族たちは、彼の勇気に恐れをなし、前面にいる少年は、ローマからの文面の記された書を閉じているが、これは法王といかなる話合いも終ったことを意味している。

*注:「プラハ4ヶ条」:①神の言葉を説く自由,②両形色による聖体拝受の自由,③俗人による聖職者の世俗財産の没収,④大罪の懲罰と根絶を正当な権威者により行う。
スラヴ叙事詩15



16.ブルガリアのシメオン皇帝 (スラヴ文学の明星888-927年)
Car Simeon Bulharský (Jitřenka slovanského písemnictví)

10世紀シメオン皇帝の支配は、ブルガリア帝国のもっとも栄光に満ちた時代だった。近隣諸国との困難な戦いと、ブルガリア帝国の複雑な政情のおかげで、シメオンはバルカン半島内陸のほとんどの支配権を獲得し、この地方でもっとも尊敬される支配者の一人となった。さらに彼は教養ある人物で、彼の帝国はスラヴ教育と文学の重要な中心地となり、それはとくに大モラヴィア国を追われた僧たちが、ブルガリアのオフリダ湖近くに定住してから顕著になった。

ムハはわれわれを、シメオン王国の首都、カムツィア河畔の大ペレイェスラフを導いてくれる。玉座に坐るシメオンは、作家、科学者、僧たちに囲まれている。上方隅には、当時ブルガリアで活動していた、高僧たちのイコンが描かれている。その中にはオフリダのクリメント、ナウムやアンゲラリイがおり、アンゲラリイはグラゴル語に、すでに今日のロシア・アルファベットとほぼ同じキリル文字を導入した。

この絵には、ムハが東方への文化の旅で賞賛した、東方の主題にヒントを得た要素が含まれている。
スラヴ叙事詩16


17.セルビアのステフェン・ドゥシャン皇帝の戴冠(スラヴの律法)
Štěpán Dušan Srbský a jeho korunovace (Slovanské zákonodárství)

セルビア民族は永い間、ビザンツ帝国の強い影響下に暮らしていた。しかし13世紀半ばステフェン・ドゥシャン(c.1308~55)の支配下で、彼らの国はバルカン半島で、もっとも強大なものとなった。ドゥシャンはビザンツ帝国内の複雑な政情を利用し、2番目の強敵ブルガリアを打ち破りさえした。彼はアルバニアやルーマニア山地の住民の支援を受け、マケドニア、アルバニアや北ギリシャを含む、広大な領域を征服した。彼の重要な業績の一つは、法典編集とその法的使用だった。その結実が歴史的に興味深いドゥシャン皇帝法典で、これはセルビアがヨーロッパ他諸国にひけをとらないことを立証している。

1346年の復活祭にドゥシャンは、スコプリエの町に近い聖マルコ教会で、セルビアおよびギリシャの皇帝として、厳かに戴冠された。画面はその戴冠式を描いており、祝典行列が今しがた教会から出て来たところ。これは王の剣と盾を捧げ持つ騎士たちに先導され、中央のドゥシャンは従者に囲まれ、背後に息子と妻が見える。白衣の正教僧たちは、儀式をとり行った総主教に従っている。前面で花を持つ乙女たちは、ムハ作品の典型で、美女、花々、植物は、アールヌヴォの特徴で、ムハがその代表者である。
スラヴ叙事詩17


18.聖アトス山(正教会のヴァチカン)
Mont Athos (Svatá hora, Vatikán pravoslavných)

サロニカの北西に、3つの岬のあるハルキディキ半島があリ、その東端に位するのが独立教会国家アトスである。古い伝説によれば、使徒やキリストの弟子たちが迫害された時、イエスの母、聖母マリアが、ここに避難所を見つけ、ここで亡くなったという。9世紀になるとここに、いくつかの修道院が建てられ、1992年まで女人禁制だった。アトス山はこれら修道院の一つで、その教会は聖母マリアに捧げられた。

画面では、教会の蒼穹に、東方教会の流儀で聖母マリアが描かれており、彼女はこの教会を訪れるすべての巡礼者を祝福している。彼女のモザイクの下で、正教の神父や修道僧が聖者たちの遺物を捧げもち、口づけするよう巡礼者たちにそれを差し出している。陽光が右手から教会内にさしこみ、その光の中で智天使ケルビムたちの姿が、上に登ってゆくが、彼らが手にしているのは、この地域の他の重要なスラヴ修道院:セルビアのヒランデル、ロシアのパンテレイモン、ブルガリアのゾーグラフとヴァトペドのモデルである。これら修道院の名前はキリル文字で記され、ケルビムたちの後には、これら修道院の4人の院長igumnen(prior)の姿が見える。

アトスは、カトリック教会のヴァチカンのように、東方教会にとり重要な場所である。芸術面からもアトス山は、この連作の中での傑作とされている。
スラヴ叙事詩18


19.ボダイ樹の下での若者の誓い(スラヴ民族の覚醒)
Přísaha "Omladiny" pod slovanskou lípou (Slovanské obrazení)

ビーラー・ホラの戦いの後ボヘミアは、300年間ハプスブルク家の支配下におかれ、これは国土の中央集権化とゲルマン化を意味した。しかし18世紀末と19世紀には、民族の文化的、政治的覚醒が齎された。チェコ語がふたたび劇場や学校に姿を現し、のちにはチェコ民族を代表する最初の政党も発足した。

19世紀末にはプラハに、学生や若い労働者の急進的団体オムラヂナが現れた。彼らは文化に関心を示すだけでなく、強権主義やオーストリアそのものに対し、嫌悪の情を露にした。1894年1月この団体の68名が裁判の結果、投獄された。

画面中央には、母なるスラヴィアといっしょに、聖なるボダイ樹(チェコの国樹)が描かれている。石の祭壇の周りで跪く若者たちが、民族への忠誠を誓っている。灰色の口髭を生やし、セルビアの民族衣裳を着た男は、同じ運動がセルビアにも起こったことを思い起こさせる。

背後の何人かが描きかけなのは、確証はないが、政治家の肖像を描くのをいつも拒んでいたムハが、チェコ民族の指導者の顔を描きたくなかったからと考えられる。さらにムハはこの作品にとり組んでいた頃、他のチェコ人芸術家から厳しく批判されており、彼らの不快な攻撃がその一因だったかも知れない。

前面にいる二人の人物は注目に値する。ハープを弾いている乙女は、娘のヤロスラヴァで、少年はのちに有名な作家となる、息子のイジーである。
スラヴ叙事詩19


20.スラヴ史の神格化(スラヴ民族の4つの時代を4色で)
Apotheosa z dějin slovanstva (4 období Slovanstva ve 4 barvách)

連作最後の作品は、すべてのスラヴ民族の歴史を総括している。右下の青は最初の定住地とその神話、彼らのもっとも古い歴史を、赤は栄光に満ちた中世とスラヴ民族の勝利(カレル四世とオタカル二世の統治)を、黒は屈辱と服従の時代を表している。画面中央を覆う陽気な黄は、オーストラ=ハンガリー帝国が瓦解し、多くのスラヴ民族は独立と自由を得た、1918年を表している。

緑の枝を持った乙女たちは、ボヘミアの独立のため、連合軍と共に戦った、第一次世界大戦の戦場から帰還したばかりの、チェコ軍団を歓迎している。戦勝国はその旗で想起される。上方に描かれている若者の手はほどかれ、自由のリースを手にしており、その後でイエスがすべてのスラヴ人を祝福し、より善き未来を願っている。背後にある平和の虹は、この連作の核をなすメッセージである。
スラヴ叙事詩20


参照文献:Dalibor Kusák, Mafrta Kadlečková Mucha(BB/art Praha1994)
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2011.12.26 *Mon

ムハの「スラヴ叙事詩」Slovanská epoleja (1/2)

サイズ:8.10 x 6.10:1, 2, 3, 4, 5, 6, 8:
    4.05 x 6.20:7, 8
6.20 x 4.05:10, 11,
6.10 x 4.05:13
4.80 x 4.05:12, 14, 15, 16, 18, 19
4.40 x 4.05:17
4.05 x 4.80:20

1.原始スラヴの故郷 
Slované v pravlasti

1912年作。狩猟や農耕にたずさわっていた、原始スラヴ人の生活圏は、ヴィスワ川からドニェプル川まで、バルチック海から黒海まで広がっていたと思われ、この絵はその生活を描いている。村は湿地帯に分散し、高い身分の者はおらず、しばしばゴートやノーマン族の進攻を受けた。オデッサ東対岸の港ケルソンでは、大きな奴隷市が開かれていた。

画面後方には炎上中の村が見え、凶暴なノーマンの戦士が、家畜や奴隷として売りさばく若者たちを駆り立てている。他の大多数の村人は殺され,前面の若い二人だけが灌木の中にひそみ、侵入者の立ち去るのを待っている。彼らの目は恐怖に満ちているが、復讐を願ってもいる。

それは神に慈悲を乞う異教の神官と、彼の腕を支える二人の人物により示されている。白衣の少女は平和の象徴で、赤服の少年は戦いに備えている。スラヴ人の独立は、手にする剣だけで得られるが、彼らの幸せは平和のうちにのみある。彼らの運命は満天の星に暗示されている。これは全作品の中でも代表的なものである。
スラヴ叙事詩1


2.大モラヴィア国への典礼導入(汝ら母国語による神の賛歌, 863- 880年)
Zavedení slovanské liturgie na Velké Moravy

大モラヴィア国は9世紀前半、中欧で形成されたスラヴ人最初の国家だった。しかし中世はじめ国家機構は、教会と密接に結びついており、この地域で僧だけは、東フランク帝国から来ていたので、ロスチスラフ公は彼独自の独立した教会機構を創る決心をした。法王が彼の試みを拒否したので、ロスチスラフはビザンチン皇帝ミカエル三世に、スラヴ語で神の言葉を教える僧の派遣を要請した。

863年に二人の兄弟コンスタンティヌスとメトデウスが、サロニカからモラヴィアに到着した。サロニカ地方にはスラヴ人が住んでおり、彼らは最初のスラヴ・アルファベットを作り出し、聖書の一部を古代スラヴ語に翻訳していた。彼らの大モラヴィア国への伝道は成功し、多くの聴衆を集めたが、これにはローマの支持が必要だった。

画面は880年にメトデウスが、ローマへの巡礼から大モラヴィア国首都への帰還を描いている。右手にはモラヴィアの新しいスヴァトプルク公が、騎士たちに囲まれ王座についている。メトデウスの弟子の一人が、法王からの書状を読んでおり、そこには法王がメトデウスを、大モラヴィア国とパンノニアの大司教に任命し、スラヴ語の使用を認める旨が認められている。白衣姿のメトデウス老は弟子たちに支えられ、これに耳を傾けている。

5年後メトデウスは死に、弟子たちはモラヴィアを去ることになる。彼らは主にキエフ・ロシアや大ブルガリアに新たな住いを築いた。これら地域の支配者たちは、右上部に描かれている。スラヴ伝道はふたたびドイツ僧らに置き換えられ、それは左上隅に描かれ、凶暴なクリスチャニズムを象徴している。その下でスラヴ人を護ろうとしている、ケープをまとった人物はコンスタンティヌスで、のちにキュリロスと呼ばれ869年ローマで没した。

前面に見えるのは握り拳の若者で、これは力を表し、もう一方に手に持っている輪は統一と調和のシンボルである。
スラヴ叙事詩2


3.リューゲン島(ルヤナ)でのスヴァントヴィート祭
Slavnost Svatovítova na Rujaně
紀元1世紀にスラヴ人たちは、全ヨーロッパへ急速に拡散していった。主流は西スラヴ人で、現在のドイツに新しい住まいを構えたが、その大部分はゲルマン民族に吸収された。彼らの最後の中心地の一つは北ドイツのリューゲン(ルヤナ)島にあり、スラヴのラニアン族は首都アルコーナを創り、異教神スヴァントヴィートを祀った。そこでは毎年秋に収穫祭が行われ、重要な神託が下されるので、未来を知るべく全世界から人々が参集した。

この絵にはその祝典で踊る乙女たちと、笑いさざめく民衆、右側の背後には牛を生贄にすべく準備している、異教の神官たちの一団が描かれている。しかしその幸に加わらない二人の人物がいる:子供を抱く母親と、木製の新しい神像を彫る少年で、この二人は画面の上方に描かれている、ラニアン族の未来を予見しているらしい。

左隅には聖なる狼を従えたノーマン族の神オディンが、スラヴ人に攻撃を仕掛けており、中央のスラヴ人たちは打ち負かされ、最後の戦士が白馬の上で死にかけ、スヴァントヴィートは右手に剣を持っている。

1168年にデンマーク王ワルデマールは、アルコーナを襲って火をかけ、住民を屈服させた。楽器を持った3人は、彼らの唯一の遺産である、バルチック・スラヴの歌と神話を代言している。フィビヒは死の2年前1898年に、3幕オペラ「アルコーナの陥落」を作曲している。
スラヴ叙事詩3


4.シゲトでのズリンスキによる対トルコ防衛
Hájení Sigetu proti Turkům Milulášem Zrinským

16世紀半ばバルカン半島は、ヨーロッパ中央部に深く進攻してきたトルコ軍に、ふたたび攻撃されていた。トルコ軍を率いるのは、キリスト教ヨーロッパ制覇を目指すスレイマン二世(1520~66)だった。決戦の一つはシゲト(シゲトヴァル, 現ハンガリー南国境のペーチ近在)で行われ、シゲトの司令官はクロアチアの貴族ニコラ・ズリンスキ(1508~66)だった。彼は1566年8/ 9月にかけてのドナウ河右岸での戦いで、捕らわれ処刑された。

画面は、町がすでに占領され、城だけが戦い続けている防衛最後の瞬間を描いている。画面中央では防衛司令官が熱弁を振るい、全員が最後の戦いに備えている。反対側の塔の前では、弾丸をこめた大砲が、開門してトルコ親衛隊に最後の一撃を加うべき瞬間を待っている。

画面の2番目の部分、黒い煙柱の後では、女たちが塔の中に隠れ死を待っている。上方にいる一人は、燃えさかる松明を掲げ、火薬の中に投げ入れ、防衛軍とともに死のうとしている、それはトルコの奴隷となるよりましだと考えているからである。これに次ぐ爆発は黒い煙が表している。町と城は占領されたが、シゲトの戦いは、トルコ軍を数年間、押しとどめ、その間に彼らの指導者のスレイマンは戦死した。
スラヴ叙事詩4


5.イヴァンチツェの兄弟団学校(クラリツェ聖書の揺籃)
Bratrská škola v Ivančicích ( Kolébka Bible kralické)。

ムハの生地イヴァンチツェは、16世紀にはモラヴィア教会(もとは兄弟団)の重要な中心地の一つだった。ボヘミア兄弟団は宗教的共同体で、15世紀半ば教会の堕落に対する改革運動を起源としていた。当初、彼らは聖書の理想と貧困生活に従い、教育すら拒んでいたが、後にはヒューマニズムの思想を受け入れ、ボヘミアで最も教養ある宗教団体に変貌した。

イヴァンチツェの若い貴族のための学校は、この共同体で一番有名なものだった。主だった後援者は、1608~15年の間ボヘミア総督を務めた、カレル・ジェロチーン・シニア(1564~1636)だった。教師の中には聖書のギリシャ語からチェコ語への翻訳に着手したヤン・ブラスラフ(1523~71)がおり、彼の後継者たちが“チェコ文学の傑作と看做されている、クラリツェ聖書”(1579/ 93年に出版.第1~4巻:旧約、第5巻:聖書外典。第6巻:新約)を完成した。またイヴァンチツでは、1578年まで聖書が印刷され、それ以降、出版所はクラリツェ村に移った。

画面には朝まだき校庭が描かれている。右手には訪問者に囲まれた印刷所があり、左手ではムハの自画像と思われる少年が、老人に聖書を読み聞かせている。時はまさに兄弟団が彼らの仕事の実りを集め、聖書はじめ他の文学作品が印刷され、教会が急速に発展した頃である。しかし塔を飛ぶ鳥たちは、自分たちの教会を棄て、祖国を離れねばならない、冬の到来を告げている。それは40年後、チェコ貴族たちがハプスブルク家支配への抗戦に敗れ、プロテスタントが禁じられる、ボーラー・ホラ戦後にやって来た。
スラヴ叙事詩5


6.ロシアでの農奴制廃止
Rušení nevolnictví na Rusi(1861年)

19世紀半ばヨーロッパにおけるロシアの衰退は、次第に顕著となり、クリミア戦争(1853~60)での敗北や、各地の反乱の結果、皇帝アレクサンドルII世は政治改革を迫られ、ロシアにおける農奴制を廃止した。これにより地方の民衆はある程度の自由を得、ロシアにおける新たな産業発展への道を拓いた。

画面はモスクワの聖ワシリエフ至福教会とクレムリン前の、赤の広場の寒い2月の朝を表している。右手では役人たちが新たな法令を宣言し、広場は市民や近村から来た住民であふれている。多くの人々は農奴制廃止が何を齎すかを理解できず、それは彼らの顔からも伺える。空には重い霧が立ちこめ、教会の背後の最初の陽光だけが、来るべき自由を暗示している。

この絵は、1913年にムハがロシアへ旅した後の1914/ 15年に描かれたもので、本来はスラヴ最大の民族称賛を提示しようとしていたが、作者はロシア民衆の生活を見て、絵の気分と色彩を変更した。
06)農奴制廃止


7.クロムニェジーシのミリーチ(売春宿を修道院に, 1372年)
Jan Milíč z Kroměříše

ミリーチは、クロムニェジーシの貧しい家の出だったが教育は十分に受けていた。彼はカレル四世の副大法官、聖ヴィート大聖堂参事会員の職にあり、彼の職場は名誉ある実り多きものだった。しかしコンラド・ウァルドハウザー(1364年没)の説教を聞いてから、すべての職と財産を擲なげうち神に仕える決心をした。反キリスト者の到来を告げる彼の激烈な説教は、多くの聴衆を集めるとともに、敵をも作った。投獄され釈放されてから、ローマに旅し法王に自らの活動を説明した。

1372年に彼は一大事業を成し遂げた。プラハの多くの売春婦に、それまでの生活を捨て、罪を悔い改めるよう導いた。通称“ヴェネツィア”なる古い売春宿は、“新イェルサレム”と呼ばれる、女たちの避難所に衣替えし、彼女らはそこでの新生活に入った。

画面にはその隠家の建物が描かれている。長い灰色髭のミリーチは、足場近くに立ち祈っているらしい。彼は悔悟している女たちに囲まれている。中央には口を覆っている女については、罰を受けている陰口女とか、思慮分別や無口の象徴とか、様々な解釈がなされている。

ミリーチと彼の教会改革の試みは、のちのフス運動を密接な関係にあり、彼はヤン・フスの先駆者の一人とみなされている。
スラヴ叙事詩7


8.ベツレヘム礼拝堂でのフス師の説教(世界の不思議、真実の勝利, 1412年)
kázání mistra Jana Husa v kapli Betlémské

ヤン・フスは、15世紀初頭ボヘミア王国の歴史を画する、フス運動の創始者にして指導者でもあった。彼はカレル大学の学長で、その仕事はイギリスの説教者ジョーン・ウィクリフに影響を受け、カトリック教会の現状、とくに免罪符売買に反対していた。ベツレヘム礼拝堂でのフスの説教が多くの聴衆を集めていた主因は、プラハで唯一チェコ語で説教が行われていたからだった。彼の活動は聖職者に厳しく監視され、1412年にはプラハを離れざるを得なくなり、南ボヘミアで活動を続けていた。

ムハはプラハにおけるフス最後の説教を描いている。彼は説教壇に立ち、弟子たちが耳を傾け説教の内容を書きとっている。左の壁際には、後にフス軍団の長となる、片目のヤン・ジシカの姿が見える。反対側,天蓋の下にはボヘミア女王ゾフィーがおり、その横にいる赤服の夫人はムハ夫人だろう。彼女が見つめている、隅でケープをまとい立っているのは、カトリック教会のスパイと思われる。

数年後コンスタンツの宗教会議に招かれ、自分の教えを弁護したフスは、ジギスムント皇帝に身の安全を保障されていたのも拘わらず、異教徒として投獄され、1415年7月焚刑に処され、これがボヘミアでのフス戦争にきっかけとなった。

この絵のベツレヘム礼拝堂内部も興味深い。ムハはたえず実際の状況、内部や外部を赤裸々に描こうと努めていた。しかしこの絵の場合は例外で、20世紀初頭のベツレヘム礼拝堂(小広場をはさみナープルステク博物館の向い)はひどく破損しており、その再建は1954年になってからだった。

この作品は前後の2作品「クロムニェジーシのヤン・ミリーチ」(7)および「クシーシキ丘での集い」(9)と密接な関係にある。
スラヴ叙事詩8


9.クシーシキ丘での集会(言葉の魔術)
Súchúzka na Křížkách (Kouzlo slova, Podobojí)

ヤン・フスがコンスタンツで焚刑に処されてから、ボヘミアの民衆は苛立ち、全土に不安が満ち溢れた。カトリック教会に忠実な僧たちは、しばしばその教区を追われ、フスの後継者にとって代えられた。貴族の一部もフスの教えに賛同し、教会は貧困のうちに生きるべきと諭したフスのように、教会財産の没収に動き出した。民衆は丘の上などさまざまな聖地に集まり、説教者たちの話に聞き入り、2種類の聖体拝受さえ受け入れだした。ウトラキスムと言われるこの拝受法は、パンとワインの2つで行われた。

ムハが描いているのは、プラハから20キロ離れた小さな丘クシーシキで、1419年9月末に行われたもっとも重要な会合の一つである。フス教徒たちは、俄か作りの説教壇に立ち、彼らに話しかける、ヴァーツラフ・コランダ・シニ(c.1453没)に率いられている。説教の内容は誓約への純粋さ、神の国の到来、ボヘミアに迫りつつあるすべての出来事などと思われる。その最後に彼は、参集したすべての人々に、9月プラハに来るよう促し、その時は巡礼杖だけでなく武器も持参するようアッピールしていた。

背後の嵐を呼ぶ空は、1419年にヴァーツラフ四世が、プラハ蜂起後に頓死し、国王不在となった王国の錯綜した状況を想起させ、チェコ民族に差し向けられる十字軍を予告している。閃光は戦争の開始を、枯枝に掲げられる白旗は、来るべき戦さで命を失うだろう、すべての人々を表し、緑の木と赤旗は、新しい生命のシンボルである。
スラヴ叙事詩9


10.ペトル・ヘルチツキー(悪に報いるに悪をもってなすなc.1390~c.1460)
Petr Chelčický (Neopácet zlem zlé)

ヘルチツキーはフス戦争時代の有名な思想家だが、つねにいかなるイデオロギーにも組しなかった。彼は生涯のほとんどを田舎で過ごし、1420年のフス運動の成果に興味を示しはしたが、最終的にはそれが戦さと殺戮に結びつくとして拒否した。彼の主目的は十戒を守ることで、モラルの改革と純粋さに拘り、戦争には反対だった。

画面はボヘミアにおける市民戦争=フス運動の暗黒面を描いており、フス戦争時代の典型的な場面を示している。南ボヘミアの町ヴォドニャニが、殺された仲間への復讐に燃える、フス軍団兵士に襲われている。町は燃え上がり、生き残った住民が池のほとりに集まり、負傷者や死者も運ばれてくる。生き残りの一人、中央の若者は挙手して復讐を約束している。しかしこの瞬間ヘルチツキーが姿を現し、握り拳を下ろさせている。彼の教えによれば、悪に報いるに悪をもってしても、悪循環が果てしなく続くだけだという。この思想はのちにボヘミア兄弟団に受け入れられ、彼らがこれに息吹を与えた。
スラヴ叙事詩10
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2011.11.27 *Sun

アルフォンス・ムハ(Alfons Mucha アルフォンス・ミュシャ)の生涯

Mucha

ムハ通称ミュシャAlphomse Mucha(1860~1939)の祖先は、南モラヴィアの小村イヴァンチツェで代々ワイン作りを生業としており、父オンジェイは仕立屋の修行をしたのち、地方裁判所の書記となった。1859年35歳で寡夫となった彼は、裕福な粉屋の娘で当時37歳だったアマリア・マラーと、持参金目当ての再婚をし、3人の子供アルフォンス、アンナ、アンジェラをもうけた。2度目の妻はやがて亡くなるが、オンジェイは残された子供たちを立派に育てた。二人の娘は中学校へ通い、アルフォンスは17歳でブルノのスラヴ系ギムナジウムに入ったが、健康を害し自宅で勉学に励んだ。しかし病弱というのは表向きの理由で“平気で嘘をつき、礼拝などをサボった”のが本当らしい。ただスケッチと歌は群を抜いており、教会で歌っていた。プラハ工芸アカデミーのルホタ教授は“まったく才能がない”と記していた。こうしてムハはイヴァンチツェの地方裁判所の書記となった。

2年後ウィーンのカウツキ=ブリオスキ&ブルクハルト会社に入り、劇場の書割制作に加わったが、1881年リング劇場が焼けたため解雇された。しばらくウィーンで細々と暮らしたのち、父のつてでモラヴィア東南端の町ミクロフで、劇場の演出、似顔絵描き、寄木細工のデザイン、室内装飾など、あらゆる職業についていた。ミクロフの西約20キロの小村、フルショヴァニのクエン伯爵の城を飾ったあと、夫人エンマホフの薦めで、ティロルにある伯爵の弟が所有するガンデグ城を装飾し、そこで伯爵夫人の肖像を描く幸運に恵まれた。ここでムハは伯爵のために数多の絵を描いたが、彼の作品を眺めたウィーンの画家クレイKray教授の助言で伯爵は、ムハのパトロンになる決心をした。

1885年ムハはミュンヘン芸術アカデミーの3年級に入った。2年後パリに出たムハはアカデミー・ジュリアンに入り、流行のコートと帽子を買い、さらに優れた教授陣のいるコラロッシ・アカデミーに移った。1889年彼は世界万博を訪れてエッフェル塔を賛美し、チェコ民族を代表し参加した、ソコル体育団の見事な演技を見て、スラヴを主題とする最初の芸術プランを立てた。伯爵からの援助は打ち切られたが、雑誌“La Vie Populairesh庶民生活”に挿絵を載せるようになっていた。1891年アルマン・コランArmand Collin出版社と契約を結び、翌1892年には優れた歴史家セニョボスSeignobos(1854~1942)の「ドイツ史」に、有名な画家ロシュグロスRochegrosse(1859~1938)と共に挿絵を描いた。

1894年のクリスマスに、ルネサンス座から印刷業者ルメルシエのもとへ、サラ・ベルナール主演の「ジスモンダGismonda」※のポスター作製の依頼が来たが、デザイナーが全員不在だったため、ポスター制作経験のないムハがこれを引き受け、代役を果たした。ムハと彼女との間に翌1895年から6年間の契約が結ばれ、これを契機に注文が殺到し、展覧会、インタヴュー、壮大なアトリエ、パーティーという栄光が続き、室内装飾からタバコのデザインまで、あらゆる分野にアールヌヴォなる、彼のデザインが用いられた。しかし彼はポスターで有名になったことに不満で、百万長者からの装飾作品を断ることもあった。

Alfons_Mucha-Gismonda

ムハが創った装飾パネルでは、1896年から1900年にかけての「四季」「花」「芸術」「一日」「星」「宝石」シリーズが名高く、「ジスモンダ」を含む劇場用ポスター、雑誌のカバー、「パリスの審判」「四季」などのカレンダー、挿絵、装身具など多岐にわたっている。

1900年のパリ万博出品を見て日本美術愛好家となったムハは、その頃から“スラヴ叙事詩“の構想を抱いていた。多大の借金を抱えていた彼は、経済的理由から1905年に渡米するが、そこでの仕事は、ニューヨークでの雑誌の表紙、宣伝、それに劇場のポスターだった。その間1906年に、かつての弟子で24歳のマリエ・ヒチロヴァーと結婚する(娘の・・・)。

1909年にムハは、“スラヴ叙事詩“の構想を、アメリカの工場主で外交官のクレインCh.R.Craneに打ち明ける。アラブやスラヴ民族の運命に関心を抱いていたクレインは、トロツキーやマサリクや、当時貧しかったアラブ家長たちとも交友があった。ムハは、クレインの娘の肖像を描いているが、彼女は一時期マサリクの息子で外交官のヤン(1886~1948)の妻だった、

ムハはクレインと “スラヴ叙事詩“ 制作に関する契約を結ぶと、すぐさま1910年に帰国した。西ボヘミアの古城ズビロフの、かつての舞踏の間にアトリエを構え、委嘱されていたプラハ市公会堂内市長室の装飾を終えると、“スラヴ叙事詩“の制作にとりかかった。1912年6月28日から7月1日にかけ行われた、第1回ソコル体育祭のポスターを描く。

1918年にチェコスロヴァキア共和国が独立すると、最初の切手や紙幣、国章にムハの絵が用いられた。カンバスには、船の帆用に生産された材料をブリュッセルから輸入し、絵は卵テンペラ、細部は油で描いた”スラヴ叙事詩“の一部は、クレメンティヌムに展示されたが反響は鈍く、批評家たちはムハが19世紀のスタイルから脱していないと非難した。一方ニューヨーク・ブルックリン美術館での最初の11点の展示は大成功だった。

この畢生の大作は1928年、見本市会館に展示され、クレイン臨席のもと公式にチェコ民族とプラハ市に手渡された。第二次世界大戦後モラフスキー・クルムロフに移され、1963年から城内騎士の間で公開展示されている。
1931年には聖ヴィート大聖堂は大司教礼拝堂脇に、キュリロスとメトデウスの昇天、およびスラヴ人の寓意画を主題に、ステンドグラス創ったが、1939年、故国にナチスが進攻した4ヶ月後の7月14日、79歳の誕生日の10日前に死去した。

息子のイジー(1915~91)は、リドヴェー・ノヴィニ紙支局員としてパリに滞在中、結婚した女流作曲家のカプラーロヴァーが、間もなく病没したあとイギリスに渡り、1941年音楽家のジェラルディーン・トムスン(1918年生、2009年現在存命) と再婚、空軍士官、BBC報道員として勤務した。戦後、妻ジェラルディーン、母マリエ、姉ヤロスラヴァとプラハへ戻り、ブベネチ区からフラッチャニ区へ移り住んだ。彼は作家、ジャーナリストとして活躍していたが、共産党クーデタの翌1949年に逮捕され、前年に生まれたジョーンは18年間イギリスの祖母のもとで過ごした。のちに釈放されたイジーは、5ヶ国語を駆使していた母が1959年に他界してからは、父アルフォンスの遺品の管理に心血を注ぎ、1980年代後半「プラハ国立博物館美術展」の折に来日した。彼の死後、妻は銀行家となった息子ジョーンと「ムハ財団」を立ち上げ、1998年にプラハのカウニツ宮殿内にムハ美術館を開いた。


※ジスモンダ:
サルドゥVictorien Sardou(1831~1908)作。
ルネサンス期のアテネを舞台に、公妃ジスモンダとその息子を暗殺の謀略から救った鷹匠の成婚を筋とする。
La Taverne des etudiants (1854)、Mlle de Brécourt (1858)
Les Premières Armes de Figaro (1859)、Les pattes de mouche (1860)
La perle noire (1882)、Nos intimes (1861)、La famille Benoĩton (1865)
Divorçon (1880)、La Tosca (1887)、Thermidor (1891)
Madame Sans-Gène (1893)
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2011.08.03 *Wed

カレル橋彫像解説 3/3

21.聖アウグステヌス

作者:コールJan Bedřich Kohl(1681~1736)
1708年作のコピー(1974年)。司教の衣をまとい、右手に燃えさかる心臓をかざしている。

碑銘(右足下):

【台座】
Doctorum princpi.
教会教師へ。

【額面】
Doctorum principi mango religionum patriarchae divo patri Augustino pietas filialis erexit.
偉大なる教会教師、総主教たる聖アウグスティヌスを讃え。

献呈:プラハ聖トマス教会付属アウグスティノ修道院。

聖アウグスティヌス(354~430年8月28日):北アフリカ、タガステ(現チュニジア)生。父はローマ帝国地方官吏の異教徒、母モニアはキリスト教徒。カルタゴで淫らな生活にふけっていたが、キケロを読んで目覚め、383年からローマ、ミラノに学ぶ。373~82年間マニ教に熱中。384年ミラノで修辞学を講じ、アンブロジスの説教に感動。388年帰郷、修道院で共同生活。391年司祭、396年司教、ギリシャ哲学とキリスト教を統合した独自の神学を打ち立てる。
ana・上なる, astris ・都、 augeo・治める者

カレル彫像21


22.トレンティーノの聖ニコラス作者

コール1706年作のコピー(1963)。

碑銘:
【台座】
Fidelium consolatori
信者の教師らに。

【額面】
Divo Nicolao de Tolentino prodigiosa sanguinis emanatione paneque miracula continua patranti (sacrum)
飛び散る血と祝福されしパンにより、たえず奇跡を行いしトレンティーノの聖ニコラスに。聖人の足下には、貧者の保護者たる小天使が、パンを入れた籠を抱えている。

献呈:
プラハ聖トマス教会付属アウグスティノ修道会。

聖ニコラス(1245~1304)はフェルモ近郊のサンタンジェロ生。アウグスティヌス会士、1271年に司祭、トレンティーノに赴く。祝日9月10日。カレル四世はニコラスを大いに崇拝していた。Nikos=勝利、Laus=賞賛。

カレル彫像22


23.聖カイェタヌス

作者:ブロコフ1709年。

碑銘:
【聖人に手にある書物】
Qvaerite primo regnum dei et iustitiam eius et haec omnia adjicentur vobis.Math.cap.6. v.33.
まず神の王国とその正しさに目を向ければ、すべての願は叶えられよう。
マタイ伝6章33節。

【台座上】
Sanctus Caietanus Thienaeus clericorum regularum fundator apostolicae vivendi formae imitator.
12使徒の生き方にのっとり、当修道会を設立せしティエネの聖カイェタヌス。

【ピラミッドの右下】
Ioan.Brokoff fecit et inventit.
ヤン・ブロコフ設計、製作。

献呈:プラハ3区(マラー・ストラナ)テアティノ修道会。

聖カイェタヌス(1480~1547)はテアティノ修道会創設(1524年)。ヴィンツェンツァ生、ナポリ没。パドゥアで法律を学び、教皇ユリウス二世の秘書となる。1516年司教、オラトリオ神愛会の一員として改革に尽力。1518年ヴィチェンツァに戻る。1520年ヴェネツィア、1523年ローマ、1527年ローマ追放。ヴェネツィア、ナポリで活躍。祝日は8月7日。

カレル彫像23


24.聖ルトガルディス

作者:ブラウン1710年。傷口に接吻しようとする聖女のために、十字架上のキリストが身をかがめている。

碑銘:
【台座】
s.Lutgardis ordinis cisterciensis
シートー会の聖ルトガルディスに。

【右手額】
Vivificum latus exugit cor mutuans corde. Ex brev. Cist. ad 15 Iunii
復活せる脇腹を心の代りに与う。6月15日シトー会祈祷書より。

【左手額】
Christi crucifixi constricta branchi
十字架にかかるキリストの腕に抱かる。

【台座後】D.honori s.Lutgardis posuit monasterium de plass ord. cisterc. Eugenio Tyttlabbate et praeposito s.m.magd.ad Boh. Lippam 1710
聖ルトガルディスを讃え、プラシのシトー会修道院1710年に建立、代表者チェスカー・リーパの聖マグダレーナ大修道院長エジュヴェン・ティトル。

献呈:刻印に。

聖ルトガルディス(1182~1246)は1200年頃トーングルの修道女となり、ベルギー中世の神秘家サン=トロンのベネディクト会修道院に寄宿。1205年院長、1209年ブリュッセル近くのシトー会へ、アルビ派に回心を求める。29歳で聖痕を受け、35歳で盲目となる。祝日6月16日。
 
この後下にカンパ島へ下る階段(1785年作、1844年再建)がある。現在のはヨゼフ・クラネルの作。
カレル彫像24


25.聖ベニーツィ・フィリッポ

作者:ザルツブルクのマンドル
Michael Bernard Mandl1714年作。

碑銘:
【台座上】
Phillippus Benitius ordinis servorum B.V.M.quintus generalis in humilitate placuit Deo
至高聖母マリア奉仕会第5代総長、聖ベニーツィ・フィリッポは敬虔なる神への信者。橋上、唯一の大理石像。

献呈:リヒテンシュタイン侯爵夫人。

フィリッポ(1233~85年8月23日)はフィレンツェに生れ、パリ、パドゥワに学び医師となる。59年司祭、62年イタリアの「マリアのしもべ会」第5代会長、ギベリン党とゲルフ党との抗争の調停役。
カレル彫像25


26.聖ヴェオイチェフ

作者:ブロコフ1709年作のコピー(1973)。

碑銘:
Marcus de Ioanelli, regiae antiquae vrbis pragenae consularis publico cultui exposui.
プラハ旧市街顧問官マルクス・イォアネッリ謹みて建立。

献呈:マルクス・バルナルト・イォアネッリ。

聖ヴォイチェフ(アダルベルト)は972/81年マグデブルクに学ぶ。983年プラハ第2代司教。キリスト教化に努め教会の改革1709年を推進。989年ローマでベネディクト会聖ボニファティウス修道院に入る。992年プラハに戻りブジェヴノフ修道院を設立。のちボヘミアを追われ、993年ハンガリーを経てローマへ。ポーランド王ボレスラフ一世の招きで、プロイセンに布教、ダンツィヒに没す。祝日は4月23日。
カレル彫像26


27.聖ヴィート

作者:ブロコフ1714年。

碑銘:
【像の下】
s.Vitus
聖ヴィート

【岩の右】
opus Ioan Brokoff
ヤン・プロコフ作。

献呈:レーヴェンマハト家のマトウシュ・マハト(ヴィシェフラト僧院長)。

聖ヴィート:4世紀初頭ディオクレアティヌス帝の迫害の時期、12歳で殉教。シチリア生まれ、異教徒の父親に改宗をすすめられたが、家庭教師モデストゥス乳母レスケンティアとその夫とともに南イタリアに逃れて捕らえられ、皇太子の病いを治したりした。伝説によると彼の聖遺骨は6世紀、シチリア島から南イタリアを経て、8世紀にはパリ郊外のサン・ドニ修道院に移され、9世紀に中部ドイツはコルヴァイの修道院に寄贈されたという。10世紀にプラハは聖ヴィートの片腕をもらい受け、聖ヴィトゥス教会を建てた。チェコ名Svatý Vít の名前が、異教のSvantovítというスラヴの神に発音が似ているため、この聖人崇拝に拍車がかけられたらしい。14世紀にカレル四世はパヴィアにあったその他の聖遺骨も手に入れた。30年戦争の時、コルヴァイにあった物すべてがプラハに移されたという。ヴィトゥスは生命の意で祝日は6月15日。14世紀救難聖人の一人で癲癇の守護人。標章は鍋、足下に横たわるライオン、吊ランプ、鷲などである。
カレル彫像27


28.マタの聖ヨハネとヴァロワの聖フェリックスおよび聖イワン

作者:ブロコフ1714年。犬を連れたトルコ人が牢の中のキリスト教徒を見張り、その上に聖イワンと三位一体会創設者の二人が立っている。

碑銘:
【右台座】
Liberata a contagione patria et conclusa cum Gallis pace
ペスト終息、フランスとの平和条約締結の折に。
 
【さらに右】
Ioan. frsnc. Ios. E. comitibus de Thun F. F. J. Fr.J.
トゥン伯爵、幸運にも成せる。

【トルコ人背後の台座】
Opus Ioan. Brokoff
J. ブロコフの作。

【台座の右脇】
Die Brückenstatuen wurden in Jahre 1854 durch Bärgermeister dr. Wanka restauriert
橋上の像は1854年市長ワンカ博士の下で改修。

献呈:クラーシュテレツの支配者ヤン・フランチシェク・トゥン伯爵。

マタの聖ヨハネ(1160~1213):プロヴァンス生、パリで学び、ローマ没。遺体は1655年マドリードに移された。祝日は2月8日。

ヴァロワの聖フェリックス(1127~1212):エヌセルのフロア。フランスを中心に、イスラムに捕らえられていたキリスト教徒を買い戻し、救済することを使命とした。1197年に三位一体修道会を設立。祝日は11月20日

イヴァン(チェコのヤン):クロアチア公の息子だったが、裸足でボヘミアに来て長年、西ボヘミアの洞窟に住み、人との交流なく雌鹿から乳をもらって生きていた。ある日、ボジヴォイ公がその鹿を射とめ、鹿はイワンの足下で死に絶えた。かくて両者は親交を結ぶが、ほどなく882年頃に死んだ彼を、ボジヴォイ公は手厚く葬った。
カレル彫像28


29.救世主と双子の聖コスマスとダミアヌス

作者:マイヤー1709年。

碑銘:
【十字の肩】
In ista cruce nostri redemptio       
この十字架上に我らの購い。

【十字架の下】
Iesu Christo orbis medico
世の医師イエス・キリスト。

【左台座】
Inter divos Hippocrati Cosmae
聖人中のヒポクラト・コスマスに。

【台座】
Pique frateri coeli Galeno Damiano
敬虔な兄弟、天なるガレヌス・ダミアヌスに。

【コスマスが抱える容器】
Sic medicina posvit           
かく医術は確立された。

【ダミアヌスが抱える容器】 
Hic medicina vitae 
ここに生命の薬あり。

献呈:プラハ大学医学部。

聖コスマスとダミアヌス:彼らはキキリアのキュロスの双子の殉教者。医術の守護聖人(4世紀)。無償医療に従事し、銀貨を受け取らなかった故にOnaigyroiと言われた。ディオクレティアーヌ治世下の287年頃処刑された。イェルサレム、コンスタンチノープルはじめ、各地に彼らを祀る教会が建てられ、伝染病の流入に悩むハンザ同盟などで崇拝された。フラ・アンジェリコが名画を残しており、メヂチ家の当主もコスマスにちなみコズモを名乗った。図像は薬箱、医療器具などで、祝日は9月26日(東方では7月10日もしくは11月1日)。
cosmas=手本、cosmos=飾り、清らかな、damaダマ鹿、dogma=教え、
ana=上, damium=いけにえ, domini manus=主の手。
カレル彫像28


30.聖ヴァーツラフ

作者:1858年ベームJosef Kamil Böhm(J・フューリヒ原案)。

碑銘:
In memoriam festivitatis primae lustriquinti post fundationem
institute coecorum in Bohemia celebratae Prage 4 in octob. 1857。
1857年10月4日プラハで行われた、ボヘミアにおける若年者盲学校設立4半世紀を記念して。

献呈:クラール一家(クラール盲学校)。プラハ大学古典哲学の教授Alois Klár(1763~1833)は、1832年からカンパ島で盲学校を個人経営していた。この事業を息子のパヴェルPavel.Al.Klár(1801~60)が引き継ぎ、1844年にはブススカ(現クラ-ロフ)下に広い新校舎を造ったが、晩年には自身も失明してしまった。孫のルドルフRudolf Klár(1845~96)も盲人や子供たちに付くし、上記の建物に内部空間を上品に飾ったもう一棟を付け足した。

聖ヴァーツラフ(907~35?)は、プシェミスル家のヴラチスラフとドラホミーラの息子で、920年父王の死後、政務についた母親は横暴で民衆に嫌われていた。彼は922年頃、それまで統一されてなかった西ボヘミアの支配者となり、レーゲンスブルク司教やザクセン王ハインリヒ一世と友好関係を結んだ。彼はラテン語を良くし、貧民、未亡人や孤児たちに心を配り、囚われ人たちを自由にしてやったという。しかし935年9月28日(祝日)、キリスト教に反対する弟のボレスラフ一世(~967)を、ムラダー・ボレスラフ城に訪れた折、彼の手にかかり殺された。後世ボヘミアの守護神に祀り上げられ、13世紀まで彼の絵姿はボヘミアの国章となっていたし、貨幣や盾や抜き身の剣を持つ姿が軍旗に印されていた。彼の伝説的剣や筋金入り胴衣や兜が知られている。カレル四世の洗礼名は元々ヴァーツラフで、この名前は息子にもつけられた。また「聖ヴァーツラフのコラール」も有名。

カレル彫像30

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2011.08.02 *Tue

カレル橋彫像解説 2/3

11.洗礼者ヨハネ

マックス1857(5)年作。

碑銘:Joz.Max[ inv.et fecit]
J・マックス設計建立。

献呈:ネウペルクの騎士ヤン・ノルベルト。

記述:以前ここにハブロコフ作の主の洗礼者の群像があったが、1848年の砲撃で破損したため、1855年にエリシカ通りへ、さらにワルトシュタイン宮殿庭園に1906年まで、以降ラピダリウムに移された。この像と聖ノルベルト群像の間で、ヤン・ネポムツキーが川へ投げ込まれたとされる場所の欄干に、「ヴルタワ川の波上の聖ヤン・ネポムツキー」というブロンズ板がはめこまれている。

ヨハネとは“ヤハウェは恵み深い”の意。両親は祭司ザカリアとエリザベツ、クムラン宗団と関連。

カレル彫像11



12.聖クリストフォルス:

マックス1857年作。

碑銘:
【台座前面】
Ut ille nos pelago saeculijactatos bracchio potenti perducat ad portum salutis quem mirum infantem Selix Cgristophore pie portasti per fluctus te coelestem periclitantium in undis patronum cives precamur pragenses.

年波に揺らるわれらを、幸いなるクリストフォルスの如、力強き腕もて救いの岸辺に運び給え;そのことを類い稀なる幼子を愛もて波を越え、 波の中の危険に耐うる人々に天なる守神あたな様に、プラハ市民は乞い願う。

【台座左】
Cleri pragensis duces et cultures viribus unitis posuerunt.
プラハの聖職者と崇拝者らが一致協力しこれを建立。

【台座右】
Anno reparatae salutis 1857 die festa s.Christophori.
聖クリストフォルスの聖日、再度救済の1857年に。

【聖者の右足下】
Em.Max invenit et fecit 1857. 
設計建立。

献呈:ヴァーツラフ・ワンカ市長。

記述:以前ここに橋上の治安を監視する衛所があった。しかし1784年2月28日の洪水で、この付近の橋桁2本が氷塊で壊され、衛所が川に落ち5人の兵士のうち4人が落命した。1788年M・フメルにより橋は修復され、ヨ-ゼフ二世がじかにその保全にあたることになった。以上のことは台座の大理石板に記される。のちにこのプレートは旧市街橋塔の壁に移され、今日に至っている。

シュポルク伯爵は1720年頃、衛所の屋根上にカレル四世像を建てるつもりで、皇帝の脇に“真実と正義”の寓意像を置くべく、M・ブラウンに依頼した。さらに空間があったので、戴冠式行列などに備え、ハプスブルクのスローガン“不変と力Costantia et Fortitudo”のシンボルも置くつもりだった。しかし皇帝もプラハ行政当局もあまり関心を示さず、この計画は実現しなかった。

クリストフォルスは3世紀頃カアナン(犬の意)の上流家庭に生まれ、シチリアで回心、テキウスの迫害で殉教。彼は地上最強の者に仕えようと、皇帝~悪魔を経て十字架(キリスト)にたどり着いた、という伝説が12世紀頃からドイツで流布した。ペスト流行時には彼の画を壁や家の外壁に魔よけとして掲げた。東方では犬の頭(地の果てに住む怪人)で表されることがあり、祝日は7月25日。14救難聖人の一人で、車、巡礼、商人、船人、荷運び人などの守護人である。本名レプロープスまたはオフェルス。レプローブスという犬頭人体の人食い人種が、キリストの洗礼を受けてクリストフォルスの名づけられた。エジプトの犬頭の神アヌービスの影響といわれる。

カレル彫像12


13.聖ノルベルト、ヴァーツラフ、ジギスムント

マックス1853年作。

碑銘:
【台座中央】
Honori divi Norberti patriarchae sacri ac canoniciordinis praemonstratensis atque patroni begin bohemiae anno salutis 1853 tertio iam posuit venerandasque ss.regum Venceslai et Sigismundi imagines adiunxit laetis sub ausperendissimi ac magnifici Hieronymi Zeidler Praesulis Sionei canonia strahovensis.

プレモントレ会総主教にして司教座聖堂参事会員、ボヘミアの守護神たる聖ノルベルトを讃え、記念すべき1853年、三度これを建て、さらに聖者ヴァーツラフ、ジギスムント両王の像を加えるは、ストラホフ・プレモントレ会修道院および、シオンの代表者たるJ・ザイドラーである。

【台座左】
S.Venceslausm. duxet patronus bohemiae decus solamenaque patriae.
聖ヴァーツラフ、殉教者、ボヘミア公にしてその守護神、祖国を飾りと慰め。

【台座右】
S.Sigsmundus m.rex burgundiae patronus bohemiae regni Christi propugnator perennis.
ブルゴーニュ王、ボヘミアとキリスト王国の守護神なる殉教者、聖ジギスムント。

【聖ノルベルトの足下】
Ios.Max inv.et fecit  
J・マックス設計建立。

記述:群像の中央に聖ノルベルト、右手に旗を持った聖ヴァーツラフ、左手に聖ジギスムント。以前ここにJ・ブロコフ1708年作の、使徒ヤコブと善人アドリアンを従えた聖ノルベルト群像があり、献呈者はストラホフ大修道院長V・シュパイプルだった。1764年にこの群像が老朽化したため、かつてのベネディクト教会に移され、新市街の貴族女学院の庭に置かれた。代りにカレル橋上にはI・プラツァー・シニア作の群像が置かれた。
 聖ノルベルト(c1080年ドイツのクサンテニ生~1134年6月6日没)の貴族一家は、ハインリヒ四世の親戚だったから、彼は宮廷の聖職についた。波乱万丈の生活と送った後、1115年雷に打たれ落馬して一身発起、故郷の修道院に入る。1120年ラオン近郊でプレモントレ会を創設、1126年マグデブルク大司教、教会および世俗世界の批判者、戦士、外交家となった。1132年ロータル三世に随行、教皇イノケンティウス二世を支持、帰途、天使らに伴われ昇。遺体は1627年プラハのストラホフ・プレモントレ修道院に安置され現在に至っている。
 ジギスムント(ブルグント王)は、妻=(オストロゴート王の娘)の死後、若くして美人の彼女の侍女プロコピエを娶った。ある日、王妃の衣を試着し、王位継承者たる前妻の息子ジデリヒに咎められた彼女は、義理の息子に復讐すべく甘言、嘘泣きなどあらゆる手段を尽くして、ジギスムントに無実を信じさせる。激怒した王は522年息子を殺させる。しかし息子の遺体を見た王は後悔する。1年後フランク軍がブルゴーニュに侵攻し、王夫妻と二人の息子は殺され、遺体は深い井戸に投げこまれた。3年後、近在の修道院の院長がジギスムントの遺体を見つけ、自分の大修道院に安置した。そこからカレル四世がプラハへ移させた。聖ヴァーツラフについては別項参照。

カレル彫像13


14.聖ボルジア・フランシスコ

ブロコフ1710年作、1937年改修。
1784年の洪水以降1881年まで、この像の前に歩哨一人のための衛所があった。これは群像の壁に組入れられた。

碑銘:
【天使の足下】
Ioannes Brokoff fecit.
ブロコフ作。

献呈:皇帝の城伯にしてウィーン新市街の財政官コレットのフランツ。

記述:左手の天使が持っているのは全聖人賛美の象徴。坐している天使が示しているのは、その賛美の源たる聖母マリア崇拝の盾。
 聖ボルジア(1510~72年9月30日、祝日10月10日)は、スペインのガンディア大公の子。貴族趣味の美男子の彼は1543年父の後を継ぎ、カタルーニャ副王に列せられ、スペイン王カルロス五世と妃イザベラに寵愛され、魅力的なエレオノラ・デ・カストロとの間に8人の子をもうけた。トレドでイザベラ王妃が亡くなり、遺体はグラナダに移送ることになり埋葬され、ボルジアがその監視役となった。宮廷の慣習により埋葬前に監視役は遺体を確認する。王妃は生前遺体をバルサンで脱臭しないよう願っていた。1週間あと棺を開けると、腐敗、異臭に皆たじろぎ、ボルジアの傍には誰もいなくなった。彼は美女の変り果てた姿に愕然とした。翌日盛大な葬儀が行われたが、彼には人生の儚さが身に沁みた。彼は妻の死直後の46年イエズス会に入り、イグナチウスらと親交を結び、65年イエズス会3番目の将軍に選ばれた。

カレル彫像14


15.聖ヤン・ネポムツキー

ウィーンの彫刻家Matyáš Rauchmüllerラウフミュラー(1645~86)1682年設計、ブラウンが1683年(この年トルコ軍がウィーンから撤退し、この聖人の没後300周年にあたる)、スピシ出のヤン・ブルコフの木像を元に、ニュルンベルクのヘロルトWolfgang Jeroným Heroldtが同年鋳造。橋上最古の唯一ブロンズ像。

碑銘:
【台座正面】
Divo Ioanni Nepomuceno anno 1383 ex hoc ponte deiecto erexit Mathias L.B.beWunschwitz anno 1683
この橋より1383年川に投げ入れられし聖ヤン・ネポムツキーを讃え、マチアーシュ・ヴンシュヴィツ男爵建立。

【台座右側】
Brokoff fec.(上記)

【像右足下】
Me fecit Wolff Hieronymus Heroldt in Nurumberg 1683(上記)

献呈:
ロンシュペルクおよびベズヴィロフの領主マチアーシュ・ヴンシュヴィツ男爵。

記述:像は司教座参事会員の服をまとい、頭の周りに5つ星の光輪がついている。台座の下には板が3つあり、中央板には上記献呈者の記述、左側板には王女の告白、右手板にはネポムツキーが橋から投げ込まれる様が刻まれている.

ヤン・ネポムツキーはヴァーツラフ四世治世(1378~1419)時代、大司教ヤン・イェンシテインの身近な補佐にして代理司教で、王の二度目の妃ジョフィエの告悔僧だったという。王は若く美しい王妃を大変愛していたが嫉妬深く、ネポムツキーに王妃の告白を漏らすよう迫ったが断られた。やがて彼は王と大司教に憎まれ、拷問の末1393年3月20日の夜、石橋の上からヴルタワ川に投げ込まれたという。これらの伝説は、後世イエズス会が、ヤン・フス崇拝をヤン・ネポムツキー崇拝に向けるためのデッチ上げとも云われている。上記設計者ヘロルトがニュルンベルクでこの像を鋳造する際、まだ聖人にもなっていなかったこの人物を、想像だけで作り上げねばならなかった。プラハでの聖ヤンの祭りは1771年5月16日から始まり、聖像は白樺や花で飾られ、毎日2回その前で宗教儀式が行われ、ボヘミア、モラヴィア、シレジア各地から何万もの巡礼が押しかけた。射撃島からは花火が打ち上げられ、提灯を点した小船がヴルタワ川を行き交った。

カレル彫像15


16.聖ルドミラとヴァーツラフ

ブラウン工房1720年頃作。碑銘なし、献呈不明。

ヴァーツラフ少年に教えを授けている聖ルドミラ像。本来はプラハ城壁アイジーデルの聖母マリア礼拝堂前にあったが、1784年の大洪水でここにあった、聖ヴァーツラフ像が破壊されたため、カレル橋に移された。これはパドゥア起源ザルツブルク出のO・モスト(1659~c.1701)作で、足下のレリーフに聖ヴァーツラフ暗殺場面が描かれてい
る。1791年に聖ヴァーツラフ像は若干の修復後、プラハ城に移され、現在はラピダリウムにある。

ルドミラ(841~921年9月15日)は、ムニェルニーク近在に生まれ、ボジヴォイ公の妃となり、871年メトデウスから洗礼を受け、874年頃キリスト教徒となり、貧者、寡婦、孤児に気を配った。ボジヴォイの後を息子ヴラチスラフが継いだが、若死にして政務を継いだ妻ドラホミーラと対立、チェシーンで殺害された。その息子(ルドミラの孫)がヴァーツラフとボレスラフである。

カレル彫像16


17.パドゥアの聖アントニウス

マイヤーJan Oldřich Mayer(1666~1721)1707年作。

碑銘:
【台座両側】
Deo incarnate et sancto Antonio de Padua erigebat et dicabat
モリツ・V・ヴィタウアーにより建てらる。

【台座中央】
Dei gloriae zelotes hostes Iosephi Caesaris feri Timore.
戦う神の栄光よ、ヨーゼフ皇帝の敵を恐れ慄かせ。

献呈:旧市街市民にしてプラハ城代顧問官K・M・ヴィッタウアー。ホテク伯爵により修復。

パドゥアの聖アントニウス(1195~1231年6月13日):リスボン生、パドゥア近郊没。15歳にして生地のアウグスチノ会に入り、2年後コインブラ修道院入り、1220年当地のフランチェスコ会に入り、アントニウスと改名。布教のためモロッコに送られたが、健康を害しヨーロッパに戻り、アッシジはじめイタリアやフランスで布教、1124年南フランスのアルビ派と戦った。

カレル彫像17


18.燭天使に守られた聖フランチェスコ
マックス1855年作

碑銘:
【台座中央】
Sancto Francisco Seraphico ob Franciscum Iosephum imperatorem Augustum 1853 divinitus servitum D.D.Franciscus Antonius Kolowrat Liebsteinsky eques avrei velleris 1855.    

1855年フランツ・ヨーゼフ皇帝を護った燭天使に守られた聖フランチェスコに、1855年、金毛会騎士コロヴラト・リプシテインスキー伯爵フランリシェク・アントニーン。

【台座右手】
Anjelům svým přikázal o tobě, aby tě ostříhali na všech cestách tvých. Žalm 90.11. 

詩篇90章11節。聖像下Em.Max inv. Et fecit.E・マックス設計、製作。

献呈:コロヴラト・リプシテインスキー伯爵フランリシェク・アントニーン。
元々ここには1708年、マラー・ストラナ在住の彫刻家フランチシェク・プライス作の群像があったが、材質が悪く風雪に晒されたためマラー・ストラナの聖ヨゼフ教会へ移された。これはプラハのカプチン会士たちの依頼で作られたが、費用を負担したのは、トロヤの館を造らせたシュテルンベルクのヴァーツラフ・ヴォイチェフだった。

フランチェスコ(フランス崇拝の父親が命名、1181~1226)は、商人となり放縦な生活ののちペルージャの戦いで捕虜となり、1年間受牢中に病いを得て回心、ある日アッシジ郊外の荒れ果てた聖ダミアヌス教会に足をとめ祈り、神の声を聞いた。そこで彼は急ぎ家に帰り丹物を売り払い、この教会を再建した。父に勘当された彼はその後、托鉢して廻り、フランチェスコ会を創設した。1124年アルヴェルナ山で断食中に、キリストの聖痕を刻印さる。晩年は視力を失う。

カレル彫像18


19.聖タダイのユダ
マイヤー1708年作

碑銘:
【台座上】
Devoto Christi amico
敬虔なるキリストの友へ。

献呈:ネミシュルとイェツシホヴィツェの騎士ミトロフスキーなる、ボヘミア王国代理書記フランチシェク・セジマ。

タダイのユダ(神を賛美しようの意):
他の使徒とは異なり漁夫ではなく農夫で、イエスの近親者(彼の母とマリアは姉妹)だったらしい。イエスとは短期間のみ行動を共にするつもりだったが、師の奇跡を見て後に従った。イエスの教えを遠隔の地でひろめたが、ペルシャ兵に殺された。

カレル彫像19


20.聖ヴィンケンティウス・フェレリウスとプロコプ

ブロコフ1712年作

碑銘:
【標識の上】
s.s.Vincentio ferrserio et Procopio binis patronis D.D.D.
二人の保護聖人聖ヴィンケンティウスと聖プロコプに。

【台座蛇腹に】
Convertiti 100 000peccatores.
十万の罪人を改悛さす。

【左の棺】
Resuscitavit 40.
四十人を蘇生。

【左手女人像柱台座】
8000 Saracenos ad fidem catholicam.
八千のサラセン人をカトリックに改宗さす。

【前面女人像柱】
2500 Iudeos ad Christum.
二千五百のユダヤ人をキリスト教徒に。

【右手女人像柱】
70 daemones domuit.
七十匹の悪魔を改悛さす。

【台座上板】
Timete deum et date ikki honorem quia venit hora iudicii eius.
裁きの時近ければ、神を恐れ敬え。

【台座後】
Opus Ioanis Brokoff.
ヤン・ブロコフ作。

ヴィンケンティウス(1350~1419):
スペインのドミニコ会士。1384年ヴァレンシア聖堂付属新学校教授、審判の天使と呼ばる。祝日4月5日。プロコプ(985~1053)コウジム近在生。1030年サーザヴァ修道院を設立、院長となる。歌唱に優れ、薬草を集めた。

カレル彫像20



ブルンツヴィーク像

上記の外側通称「ローランの柱」という橋桁にブルンツヴィーク像(1506年頃作)のコピー(1884年)がある。ハンガリー王ベーラに勝利したオタカル二世が、民衆の歓呼のうちにカレル橋を渡りながら、感謝に念をこめ剣をヴルタワ川に投げ入れたという。

Venceslaus (Václav)=Wencl,Wencel
Boleslaus(Boleslav)=Buncel
Przetislaus (Břetislav)=Pretzel
Przemysl (Přemysl)=Pruncel,
Prunclík, Brunclík, Bruncvík
Przemysl・Pruncel・Bruncvík は
有名なオタカル二世Přemysl Otakarをさす。

作者:ルドヴィーク・シメク1886年。

献呈:プラハ教区。もとは川に向いていたが、1648年、1848年の砲撃で損傷、1886年に再建された。現物はラピダリウムに保管。本来は剣をひっさげ、平和と友情を示す老人像だった。象牙製の縮小コピーはプラハ市立博物館にある。同様のものは北ボヘミアのリトムニェジツェはじめ、国外ではヴェネツィア、ニュルンベルク、ハンブルク、ブレーメンなどにもある。

カレル彫像ブルンツウィーク



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Author:Dr.Sekine
チェコ文化研究家、関根日出男先生の著作集



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