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関根日出男氏 追悼  (ズデニェク・シェスターク)

関根日出男先生の1周忌追悼演奏会のプログラムに添えられた追悼文集から転載します。

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関根日出男氏 追悼      
ズデニェク・シェスターク PhDr. Zdeněk Šesták (作曲家・音楽学博士)

私の初めての関根日出男氏への認識は彼のチェコの文化、とりわけ音楽への幅広い知識と賞賛を知った、1985年の事であった。それは、とても珍しい偶然であった。1985年の6月2日、日曜日にプラハの春の音楽祭の一環として、私は午前中のマチネの時間帯に、18世紀のツィトリの音楽学校で学んでいた作曲家たちの作品を取り上げたコンサートの演出に携わっていた。演奏会は聴衆に大きく受け入れられ、このような田舎の文化がこの音楽祭で高いレヴェルで評価されたのはおそらく初めての事であったであろう。この夏に、チェコフィルは日本への演奏旅行を実現した。このオーケストラの団員で私の友人のヴィオラ奏者、ヤロスラフ・クロフトは東京で体調が悪くなり、気管支に問題が出たため、関根日出男氏の診療所を訪ねることを勧められた。クロフトは、私に言った。日本の医者は、英語ができるだろうかと思ったが、なんとか英語で会話をしようと事前に準備をした。けれども診療所に行ったとき、その心配は吹っ飛んだ。看護師の女性によって診療所に通されると、クロフトは英語で少しばかり話してみた。自分はどこの国の出身で、東京で今何をしているか、また自分の鼻を指さし、呼吸がしにくいことも実演して見せた。関根氏は笑って、「普通にチェコ語を話して下さい。私はわかりますから。」とチェコ語で言った。友人のクロフトはものすごく驚いたが、その驚きは、彼に薬を与え、レシートにチェコ語で「一日に3回服用」と書いたときに頂点に達した。チェコ語に関しては、まったく正確で、「毎日」というチェコ語の綴りのnが二つ、Denně、と正しく書かれていた。ほぼすべてのチェコ人は、誰もそれを訂正しなかったであろう!

その後、診察が終わると、関根氏は、クロフトを奥の部屋に招き、何かを探し出し、仕事机に置いた。それは1985年のプラハの春の音楽祭のプログラムだった。そして、関根氏は、その6月2日のコンサートのページを開いて、「このコンサートを聴けたことは今回のプラハ訪問で最も良い体験だった」と語った。それは実際、例の音楽祭のコンサートであったのだ。そして、クロフトは、私の事を友人として話し、私とともに、この音楽の録音をしたことを伝え、その後私は関根氏に当時スプラフォンから出版されたそのビニールのジャケットのレコードの完全版を送った。それは「18世紀のセンシティヴな巨匠たちの音楽」というタイトルだった。それを機に私たちの面白い交流が始まり、私たちは何度かプラハでも会うことができた。

関根氏は私たちの文化についての、日本では文字通り豊かな外交官であった。そのため、彼のチェコの文化に対するまれな功績を評価して、私は彼に「チェコの芸術の友賞」をチェコ政府から授与することを提案し、当時、チェコ政府の文化大臣であった私の友人でもある作曲家ヴァーツラフ・リードルバオフ教授を介して、東京のチェコ大使館での授賞式を行い、賞が贈られることとなった。関根氏はこの重要な賞を受けたことを大変喜んでくれた。そのため、私はこの貴重な人物をよく思い出し、彼のチェコ文化に対する功績を方々で話している。関根氏の思い出は私の思いと心に永遠に残るであろう。 




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[ 2018/02/27 06:33 ] 関根日出男先生追悼 | TB(-) | CM(-)

関根氏とともに、私が自分の国をどのように再発見したか         (ヤン・バルトゥス)

追悼公演

関根日出男先生は、2017年1月18日、肺癌のため逝去されました。享年88歳。2018年2月6日には、関根先生を偲んで1周忌の追悼演奏会が開催されました。そのプログラムには追悼文集が添えられていますが、その中から転載します。


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関根氏とともに、私が自分の国をどのように再発見したか  
ヤン・バルトゥス Jan Baltus (ジャーナリスト)


私は日本を愛している。日本の文化における精神の強さをとても評価している。京都は私をいつも大きな驚きへと導き、日本の人々の勤勉さを、私は賞賛せずにはいられない。私は妻マリエとともに1980年に初めて東京を訪れ、チェコ語を話し、チェコの文学と歴史を学ぶ中村 猛氏に出会った。私たちにとってそれは大変な驚きであった。日本にチェコ語を話し、ヤロスラフ・サイフェルトの愛読者がいたとは!私たちは、当時の共産党政権の下、ノーベル賞作家、サイフェルトについて語ることは許されなかった。中村氏の家に招待され泊まった時、彼の本棚は優れた本ばかりで溢れており、私は読むことを禁じられていた本を一晩中読み漁った。

帰国すると、私たちは中村氏から手紙をもらった。私たちの町に彼の友人、関根日出男氏が行くので、彼を助けてくれないかと書いてあった。それは私たちの初めての出会いであった。作曲家のヤナーチェクの音楽を、その作曲家自身の故郷で聞きたいとのことで、もちろん大変光栄であった。音楽の幅広い知識があり、礼儀正しい日本人が聴きに来たことはとても意味深く、関根氏はその年、1980年のブルノの秋の音楽祭の公の場では、大変な興味と驚きをもって迎えられた。劇場のバルコニーの最前の席で関根氏はじっくりと鑑賞していた。関根日出男氏は、音楽を聴くだけのために来たのではなく、ボフスラフ・マルティヌーの生まれた町、ポリチカを見たかったという。当時はまだB.マルティヌーの博物館も存在していなく、私たちはマルティヌーの生まれたポリチカの教会の牧師と教会の管理人に頼んで、許可をもらい、その塔の上に上った。関根日出男氏は彼のお気に入りの作曲家が住んでいた部屋を見回して、その日の教会の鐘の音をじっくりと聴いた。
「今、マルティヌーはどう感じていたか分かりましたよ。」
とても感慨深い様子で、関根氏は塔の上で、とても重い鐘の音を聴き、それを深く心に刻んだ。この週は、関根氏の願いで、私たちは多くの古本屋を訪れ、レオシュ・ヤナーチェクがオルガンを奏でていた、聖アンナ教会を訪れたり、案内人である私たちを新しい多くのリクエストによって驚かせてくれた。

そう、私はB.マルティヌーも、L.ヤナーチェクも知っていた。けれども私はそれまでは一度も彼らの生きた場所を訪れたことはなく、一般市民である作曲家たちの生涯についての詳しい様子を遠い存在として知ることはなかった。関根氏は彼らの音楽の遺産を、私にも知るように、手本を見せてくれた。

何年も、関根氏はブルノに通い、その後プラハにも訪れ、いつもしっかりと行動計画を準備していた。当時、例えば共産政権の時代には、グスタフ・マーラーの出身の町はほとんど知られていなかったが、関根氏はフンポレツの近くのカリシュチェにあるマーラーの生まれた家を見たいと言った。私はどこにあるのかを調べて、関根氏のように興味を持って車で一緒にカリシュチェに行った。地方の町長は、関根氏の知識にとても驚いていた。他の多くの町でも同様であった。

そして、関根氏は民族音楽を学び始めた。それはフォークロアである。私にはずっと行きやすい場であったので、私は関根氏をウヘルスケー・フラヂシュチェに案内し、私の知っている「フラヂシュチャン」という楽団や、その他の楽団のコンサートに連れて行った。けれども、関根氏はもっとたくさん聴きたいと言った。私たちは一緒にいくつものモラヴィアやスロヴァキア、そして当時のチェコスロヴァキアの東の方のフォークロアの音楽祭の数々を訪れ、関根氏は後にそれらのスロヴァキアの音楽祭の案内書を書いた。私たちは、貴族のヨハン・エステルハージ家の音楽の家庭教師としてフランツ・シューベルトが雇われていたというジリエゾヴィツェという村も訪れた。そんなこと、誰が知っているだろう?そんなこと私も全く知らなかった。

関根氏は、全てをメモしていて、理想的に準備しており、私はそれを地図で調べて彼をその場所に連れて行くだけだった。私は、まったく理解できなかった。地球の裏側日本でそんなことがわかるなんて!私たちはそのことを恥ずかしく思った。それは、まるで私にとって故郷チェコスロヴァキアについての学校の様であった。とてつもなく大きな愛情を音楽にそそぐ日本人の仲介で、私は祖国を知った。私はしばしば、自分の国よりも日本の事をよく知っているのではないか、と思う時がある。関根日出男氏が私に日本についての百科事典を贈ってくれたおかげであるが。関根氏は我々の文化のために生き、私は日本のために生きたが、我々は互いにそれを互いに満たしていった。

関根氏はとても偉大な人物にふさわしく、多くの友人たちがいた。それらの何人かの知り合い、沢由紀子さんや、徳田真里さんや、彼らの両親、夫、また親戚なども、彼らがチェコに滞在したり、家に訪問に来たりして、知り合うことができた。私たちの日本への知識はそのため、さらに深く、個人的なものとなっていった。妻とともに、私の子供たちに日本のことを伝えることも喜びであった。彼らは関根氏を知り、中村氏を知り、ピアニストの由紀子と真里を知り、彼らを愛していた。私の息子に誰か聞いてみてください。どの国が彼にとって最も興味を注いだかを。迷いなく、彼は日本、と言うだろう。我々は、子供たちと共にアメリカ合衆国やスカンジナヴィアの国々、アフリカも当時訪れた上でのことであるが。

幸運なことに私は後に機械産業の専門誌「テクニック・ウィークリー」の編集長として日本を度々訪れた。それは、私が日本人の礼儀正しさ、勤勉さ、努力する姿勢を関根日出男氏自身から学んだからこそ実現した。この偉大な、偉大な、精神の持ち主は、チェコスロヴァキアの友人であり、私の国の音楽と文学の愛好家であり、私に自分の国と日本を知らしめてくれた。私は永遠に、彼が私にしてくれたことに感謝している。

無題
チェコの高級紙Lidové noviny(2017/1/24)に掲載されたバルトゥス氏による訃報記事。
「日本におけるチェコ文化の友、死す」。ノーベル賞文学者、ヤロスラフ・サイフェルトとの貴重な1枚。


[ 2018/02/24 07:41 ] 関根日出男先生追悼 | TB(-) | CM(-)

ヤナーチェク:女声合唱曲集『Hradčanské písničkyフラッチャニの歌』

第一次世界大戦勃発に伴い、モラヴィア教員合唱団(1903年創設)からも、多くの団員が戦場に向かった。そこで指揮者のヴァッハFerdinand Vach(1860~1939)は、女性団員を分離して、モラヴィア自教員合唱団を創り、彼女らのために矢継ぎ早に、1月25日「狼の足跡」、2月1日この「フラッチャニ三部作」、2月12「カシュパル・ルツキー」を書いた。後のオペラ『ブロウチェク氏の旅,第2部の台本作者:プロハースカF.S.Procházka(1861~1939)の詩によるこの三部作では、古えのプラハ城の栄光と、その周辺を懐古し、苦しい大戦中の人々に相互愛を喚起している。基本的には4部(SSAA)無伴奏だが、第2曲にフルートのトリル、第3曲に短い前奏も含めハープ和音が効果的に使われている。第1曲は1916年、第3曲は1918年に歌われ、全曲初演は19123年プラハ女教員合唱曲団(1904年創設)により行われた。

1)Zlatá ulička 「黄金の小径」*1

Žlutý, modrý, Šedý domek jako hračka dětská,
v zátiší to nezalehne žádná vlna světská.
黄色や青や灰色の家 まるで子供のおもちゃのよう、
この静かなたたずまいに 人波の押し寄せることもない。

Proužek nebe v domků tlumy probleskává šeře,
ve hlubině z dálky šumí ze příkopu keře.
家並みの間からのぞく空の帯は 薄暗く輝き、
遠い鹿の谷*2の深みで 潅木がざわめく。

Nebylo zde nikdy zlata v stínu těch dvou věží,
a jen stopy hořkých smutků v tlusté hradbě lěží.
ここに黄金などなかった この二つの塔*3が影を落とす所には
苦い悲しみの跡だけが 厚い城壁の中に横たわる。

A vše co kdy osiřelo, jak by sem se sběhlo,
a kde palác zvedá čelo, na práh mu to lehlo.
かつて見捨てられたものすべてが、ここに集まってるかのよう、
宮殿がすまして立つ足元に、それらは横たわっている。

Na dva kroky od té bídy nádhery co skvělé,
ale taky zadumané, taky osiřelé.
この貧しさから数歩出れば 目もあやな眺め!
だがこれとても 物思いにふけり 孤独である

Víš-li, chudá uličko ty, že tam tráva pučí,
zlaté jizby, síně širé, že jsou ještě chudší?
知っているのか、哀れな小径よ、そこには雑草が生い茂り、
黄金の部屋も広間も、なおみすぼらしくなっているのを?
注;
1:プラハ城東北端、白塔からダリボルカ塔までの小路、ここに狙撃兵が常駐しており、
その中に金細工師もいたので、これが誤って錬金術師といわれ、この小道の通称となった。
2: プラハ城北側裏手の空壕で、昔は鹿などの動物が飼われていた。
3:入口の白塔と突当りのダリボルカDaloborka塔
黄金の小径


2)Plačící fontána「むせび泣く噴水」*

K sladké písní slavíka, slyšte, jak naříká,
spadlá ke krůpěji krůpěj, jako slz` veliká.
ナイチンゲールの甘い歌に合わせ お聞き、噴水の嘆くを、
大粒の涙のように、一粒づつ落ちる音を。

Nezvoní, jíž nezpívá, fontána plačtivá,
se spěžové misky vzdechem  slza se odlívá.
音も響かせず、もはや歌いもせぬ、むせび泣く噴水は、
ブロンズの水盤から ため息まじりに涙がしたたる。

Slysěti je každý den její vzlyk a její sten!
V zahradě jen přistup blíž, v šerém houští utajen.
いつの日も聞こえる そのすすり泣きとうめき声は!
も少し近づいてごらん、繁みに隠された庭で。

Když kol ticho jako hrob, když zvon dozněl beze stop,
v zahradách cos rozvzlyklo se, a vzlyk ten žhne do útrob.
あたりが墓のように静まり、鐘の音が跡形もなく消えるとき、
庭の中で何かがすすり泣き、その声は、はらわたに沁みわたる。

Žlutým listím postlána  nad čím pláče fontána,
po čem vzdychá usedavě od večera do rána?
黄に色づいた落葉を浴びて 何を泣くのか噴水は、
なぜに痛々しくため息をつく 夕べから夜明けまで?

Pohádka šla zahradou s družinou svou královskou,  
u fontány plesávala, zašla, zhasla s krásnou svou.
物語は庭を通っていってしまった。王様のとりまきといっしょに、
噴水のほとりで踊り歌い、美しさとともに行き過ぎ、消え去った。

Zašla, chtěla nechtěla, touha její dozněla,
pro ni tiché slzy kanou, pohádka ta ulřela!
過ぎ去った、なすすべもなく、その望みも消えうせた、
それ故に静かに涙はしたたり落ちる、物語は息絶えた!

注;
ベルヴェデル離宮前庭にある。水滴が金属盤に当る音から命名。皇帝(1564年死去)の注文
は1562年.デザインはテルツィオFrancesco Terzio(1523ベルガモ~91)が、鋳造はヤロシTomáš Jaroš(1500ブルノ ~71)が、柱の胴体を飾る神話の人物や、頂上にバグパイプ吹き小像(元は二羽の雌鷲)は、弟子のクシチカVavřinec Křička z Bítyšky(☨1570)らが作った。ブロンズ (94%銅, 6% 錫)の総重量は約5000 kgで、完成は1568年、水が引かれたのが1573年だった。なお周囲の庭園には中欧で初めてチューリップが植えられた。
むせび泣く噴水




3)Belveder「ベルヴェデル離宮」*1

Kamenná báseň v květné houšti, zelený smaragd v prstenu!
Lípa kol nízké větve spouští, stříbrných plné pupenů.
花咲く繁みの中の石の詩、指輪の緑のエメラルド!
菩提樹はあたりに低い枝を垂らす、銀の蕾をいっぱいつけて。

Hymnický pozdrav věčné krásy, vypjatým jásá obloukem.
Chrtů pár sivých jak hrá si ve skocích travným paloukem.
永遠の美の賛歌を、ひどくしなったアーチで歌い上げる。
灰色のボルゾイ犬が二三匹 緑の芝生をかけめぐ。

Akordem harfa v sladkém roztoužení, zahradou tisě zazněla,
do strum to sáhla v sladkém snění pravnučka rodu Jagella.
甘い恋歌にあわせ竪琴は 庭園に静かに鳴り響く、
夢見がちに弦をつまびくは ヤギェウォ家*2の孫娘。

Tóny se linou šepotavě, jak by kohos vábily.
A květy rudé pučí žhavě do sněné krásné idyly.
琴の音はささやき流れる、だれかを誘なうかのように
赤い花は燃えるように咲き誇る 夢のように美しい牧歌の中に。

Leč báseň klame. Tak být mělo. Královno, kdes zůstala?
Mrtvé zde leží tvoje tělo, a harfa darmo, darmo čekala.
だが詩は裏切る。致し方ない。王妃よ、どこにいるのか?  
むくろとなってここに横たわり、竪琴はむなしく待つばかり。

A věže tvrdé za příkopem strmě se poblíž zdvíhaj
A okénka v mřížích, děrou stropem buřiči v hlubeň padají.
壕の向こうのがっしりした塔は 迫るように聳え立つ、
そして格子窓、天井穴から 反逆者*3らが落ちたところ。

A jejich kletby, jejich stony v z`hradu drsně zalehnou,   
přehluší, harfo, tvoje tóny. Ach, požáry vůkol vzplanou.    
彼らの呪い、うめき声は 不気味に庭にこだまする、
竪琴よ、お前の音はかき消され、 ああ、あたりに炎が燃え上がる。
Budou se nové děje kouti a bratr bratra s trůnu rve.
V útulku lásky koncem pouti, šílený král lká hořd své.
新たな事件の機が熟し、弟が兄*4の王位を奪う。
愛の隠れ家で放浪の末 狂える王は己が悲運を嘆く。

Oj, přiletí vichry, bouř vše rváti započne kolkol příšerná.
Ty, ty budeš státi, kamenná básni nádherná!
ああ、強風がきて、恐ろしい嵐が*5あたりのすべてを吹き散らす。
だがお前はずっと立っていよう すばらしい石の詩よ!

Stavěla láska tvoji pýchu tesala krásu v kameny,
co jinde drtil českou líchu běs hněvu divě zjitřený.
愛がお前の誇りをうち立て、美しさを石に刻んだ、
さるほどにボヘミアの野を たけり狂う悪霊*6がひきさいた。

Och, kdyby láska jenom žila, jdouc krajem s přízní zraku,
ubohá země, kde bys byla, co by bylo zázraků!
ああ、愛だけが生き、ひたすら国中をめぐっていたら、
あわれな祖国よ、お前のいた国に、多くの奇跡も起きたろうに!

注;
1、聖ヴィート大聖堂裏手、王宮庭園東端に1538~63年間に,ハプスブルクのフェルディナント一世(1503~64)が、2度目の妃ポーランド出のアンナ(1503~47)のために建てさせた。
現在は文化展示場や、宴会場として使われている。 bel(美しい)+vedere(見る)=展望台
2、ポーランドのヤギェウォ家開祖ヴウァディスワフ二世(1456~1516)
3、スメタナのオペラの題材となった中世の騎士ダリボルDalibor z Kozojed(1498年処刑)や、ビーラー・ホラ敗戦主導貴族ら(1621年旧市街広場で公開処刑)。
4、マチアーシ王(1557~1619)は1611年に、狂える兄王ルドルフ二世(1552~1612)を廃位。
5、ビーラー・ホラの戦い。
6、上に続く三十年戦争。
ベルヴェデル離宮
[ 2016/11/08 22:50 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)

ヤナーチェク:コンチェルティーノ

木管六重奏曲「青春」についで、青春の思い出として、1925年11月24日プラハ・ヴィノフラディ劇場での公演に備え、ヤン・ヘシュマン(1886~1946)の家で行われた、「消えた男の日記」リハーサルで伴奏をした、彼の演奏に感動して作曲、彼に献呈された。

1925年4月23日カミラ宛の手紙には「ピアノ協奏曲を書いた。これは“春の組曲”ともいえるもので、そこには甲虫や鹿やコウロギや渓流が登場します」と記されており、“利口な女狐”と共通点を持っている。フクワルディで4月29日に書き上げた。
初演は作曲家臨席のもと、1926年2月16日ベセドニー会館におけるモラヴィア作曲家集団のコンサートで、I.クルゾヴァー、Fr.クドラーチェク、J.イェドリチカ、J.トルカン、St.クルチチカ、Fr.ヤンスキー、J.ブジーザにより行われ、4日後にはプラハでも取りあげられた。その後、1926年11月にウィーン、1927年3月7日ドレスデン、6月29日フランクフルトでの第5回現代国際音楽祭で演奏され好評を博した。

楽器編成は:ピアノ、ヴァイオリン2提、ヴィオラ、Es管クラリネット、ホルン、ファゴットで、陽気な雰囲気は次作の「韻踏み歌Říkadla」を先どりしている。

第1楽章:ホルンとピアノの二重奏。モデラート、ト短調、4/4拍子~ピウ・モッソ、ルバート、6/4拍子。最初ピアノで示される主題(g, h, b, cis, d, g, cis-b, d, g )はジプシー旋法によっている。ホルンは3度で上下する8分音符2+4分音符1「・・-」という、森の木霊のような音型の反復。ヴィヴォ~テンポIで終わる。

第2楽章:クラリネットとピアノの二重奏で、ピウ・モッソ、イ短調、6/8~2/4~6/8~2/4拍子、イ短調ピアノ和音進行とクラリネット・トリル4回の交代に次いで、クラリネットにヘ短調主題が出て、さまざまに転調して進行する。中間部のポコ・メノ・モッソ、3/16~6/16~2/4拍子では、クラリネットおよび右手ピアノのトリルと、左手ピアノのアルペッジョ上下動が対比され、テンポIで冒頭部分が回帰し、プレスト~プレスティッシモとなり、.最後の5小節に弦とホルン、ファゴットが入る。

第3楽章:コン・モト、2/2拍子、ピアノが刻む反復4音型(a. gis. f. g.)と、1小節毎に他楽器がアクセントをつける行進曲風のパッセージは、4/4, 1/2拍子が交代するポコ・メノ・モッソで、ピアノとクラリネットのアルペッジョ上下動に移り、郷愁をそそる旋律を奏でる。ヴィヴォのピアノ・カデンツァを経て、ピウ・モッソとなりアタッカで次楽章へ。

第4楽章:アレグロ、2/4拍子、弦の和音とピアノの下降8音による、1小節の休止をはさむパターンで始まり、ヴァイオリンがピチカートになると他楽器が入り、ピアノにイ長調下降主題が提示され、執拗にくり返される。
管に第1楽章のホルン音型が示され、ピアノとの組合せは、さまざまに変化する。プレスト、4/4~5/8拍子はほぼピアノの独壇場で、ピアノ・ソロに始まるヴィヴォでは、高音弦がトリルを長く伸ばし華やかに終止する。
[ 2016/11/08 22:48 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)

ヤナーチェク:ヴァイオリンとピアノのための「ドゥムカ」

ライプツィヒ留学中のヤナーチェクの作品には、ソナタを含むピアノ小品、歌曲に加え、ヴァイオリンとピアノのための小品もあり、数曲の「ロマンス」に次ぐ「ドゥムカ」は1880年の早い時期に作曲され、1885年3月8日ブルノ・オルガン学校で、ソボトカJ. Sobotkaと作曲者により初演された。dumkaはdumaの縮小形で、16~17世紀にコザックの間でバンドゥーラ伴奏で歌われた、ウクライナのバラッド(エレジー)と言われ、ボヘミアへはユングマンJosef Jungmann(1773~1847)により紹介された。
[ 2016/11/08 22:46 ] 音楽解説(チェコ音楽) | TB(-) | CM(-)